ロイドが洗い物を終えて自室に戻った頃――。
(……私は何を期待しているのかしら……)
夜風が吹き、支援課ビル屋上に立つエリィのパールグレーの髪が軽やかになびく。
自分の進む道を見失いかけて、今のように一人で屋上から街を眺めていたあの時。彼が来てくれた
お陰で、また前へ進む事が出来た。
でも、今は、その彼が来てくれる事はない。自分が傷つけてしまったのだから。
「っ……!」
エリィの膝が崩れ、手すりにしがみつくようにしゃがみ込む。下を向いた瞳からは自然と涙が零れ、
コンクリートの地面にポタリと落ちる。
あの時の彼の顔――迷子になった子供そのものの顔だった。独りになった事を認めたくなくて、恐
怖と悲しみから必死に耐えている顔だった。
(なのに私は……!)
嗚咽するエリィの胸元で、チャラッと金属音が微かに響く。
音に誘われるようにエリィが胸元からエニグマを取り出すと、ストラップにしているペンダントの
蓋を開いた。
幼い頃、まだ家族がバラバラになる前に撮った写真がエリィの目に映る。
(あの時と違って何かが出来るかも……そう思ったのは、私の驕りでしかなかったわね……)
エリィが泣きながらため息をついていると、持ってるエニグマが鳴り響いた。
『すいません、今そちらに伺っても宜しいでしょうか?』
エニグマからティオの声が流れてくる。
「え? あ、ごめんなさい、今部屋にいないの。私がティオちゃんの部屋に行きましょうか?」
『大丈夫です。……私も、屋上に来てますから』
エリィが慌てて涙を拭って立ち上がると、ティオが少し間を置いて返してきた。
「……え……?」
エリィが振り向くタイミングに合わせて屋上の扉が開き、エニグマを手に、書類を脇に抱えたティ
オがやってくる。
「すいません、連絡してからでないとエリィさんを落胆させてしまうかと思って……」
エニグマを仕舞いながら頭を下げてくるティオに、エリィもいいのよと首を横に振ってエニグマを
仕舞った。
「ティオちゃんは、コッペにご飯あげにきたの?」
「……いいえ。エリィさんにお願いがあって来ました」
そう言うと、ティオが書類をエリィに差し出してきた。
「今日の分の報告書です。私の代わりに、ロイドさんへ提出して頂けませんか?」
「え? だ、だって……」
惑うエリィに、ティオがお願いしますと言葉を重ねてきた。
「ロイドさんは、朴念仁の自覚のない朴念仁です」
ティオが呆れた風に息をついて語り出す。
「そして、天然の一級フラグ建築士でありながらフラグクラッシャーでもあります。記憶を無くした
せいで、その傾向が悪い方に強くなっています。どうせ、夕方の時も、エリィさんに酷い事言ったん
でしょう?」
「いいえ、あれは私が悪かったの! ロイドがどんなに追い詰められていたのか気付かないで……」
声を張り上げ否定してから、エリィははっと息を呑む。
「やっぱりそうでしたか」
淡々と相槌をうつティオに、エリィは気まずそうに唇をすぼめて俯いた。
少し冷たい夜風が屋上を吹き抜けていく。
「……もし、エリィさんがロイドさんに会いたくないというのでしたら、お願いはしません」
ライトブルーの髪の毛を夜風になびかせながら、ティオが唇を開いた。。
「報告書は私が出してきます。でも、もし、少しでも会いたいという気持ちがあるのなら……お願い
します。ロイドさんに会って、はっきり教えてやってください。貴方がどれだけロイドさんの事を愛
しているかを、あの朴念仁に叩き込んでやってください」
そう言うと、夜風で乱れる髪を抑える事もせずにエリィへ頭を下げてきた。
「ティオちゃん……」
頭を下げたままのティオを見つめるエリィの瞳から、今まで巣くっていた心細げな光が消えていく。
「……そうね。自分に向けられる好意については恐ろしい程に鈍感な人間だったわよね、ロイドは」
恋人同士になったのだって、私から直に想いを伝えてを何回も何回も繰り返してようやく……だっ
たのに、何で忘れていたのだろう。
エリィはため息をつくと、差し出されていた書類を受け取る。
「ありがとう、ティオちゃん。私、ちゃんと伝えてくる」
ぱっと顔をあげて嬉しそうに口元を緩めたティオに、エリィも目元を優しく綻ばして笑った。
「今回も上手くいかないかもしれないけど……でも、もう諦めたくはないから」
その言葉を残して、エリィがビルの中へ戻っていく。
「……健闘をお祈りしてます」
静かに閉まっていくドアへ向かって言うと、ティオは視線をあげた。
月明かりが夜空にほわっと広がっていて、包み込まれるような安らぎを覚える。
「……私達にとっても、お二人は希望なんです……」
夜風に吹かれるままティオが月を見上げていると、エニグマが鳴った。
『よっ、こちらランディ。お嬢はロイドを攻略したぜー♪』
ティオがエニグマの通信モードを起動すると、ランディの陽気な声が返ってくる。
「上手くいきましたか。それで今はどうなってます?」
『今はイヤホン外したから気配ぐらいしか解らんが……まぁお盛んな事でって事だなこりゃ』
表情を明るくするティオに、ランディは少し言い淀みながら答えてきた。
「解りました。では、私はキーアのフォローへ向かいますので、ランディさんの部屋の壁に設置した
盗聴用導力レコーダーはそのままにしておいてください。録ったブツは後で楽しませて貰います」
『楽しむのかよ!』
「勿論です。恋人同士の愛し合う声が……世界で一番優しい音楽がクリアーに聴ける絶好のチャンス
です」
ランディの突っ込みにティオが堂々と切り返すと、音しか届けない筈のエニグマのスピーカーから、
何とも言えぬ雰囲気が伝わってきた。
『……お互い、馬に蹴られんように気をつけねぇとな』
「何を言っているんですか。私達は、内緒で見守っているだけです」
『ははっ、それもそうか』
「そうですよ」
そう言って軽く笑いあうと、エニグマの通信を切る。
そして、スキップしそうな程軽やかな足取りで、ティオも屋上から立ち去っていった。