それは、太陽が少しだけ西に傾いたある午後の事。  
「リュウ、やっぱり止めようよ〜」  
「そうだよ、それでもっと悪化したら、キーアちゃん、ほんとに泣いちゃうよー」  
 支援課ビル裏口に繋がる階段の手前で、アンリとモモが困った風に眉を下げて騒ぐ。  
「でもよぉ、ツンツン頭の怖そうな兄ちゃんも言ってたじゃねーか。同じ刺激を与えればいいんじゃ  
ないかって」  
 二人の視線にリュウも困った風に顔をしかめつつも、手にしたフライパンは離さなかった。  
「上手くいけば、兄ちゃんの記憶が戻ってキーアも元気になるんだぜ?」  
「本当にそうなら、先生だって試していると思う……」  
 試してみる価値はあるだろと笑うリュウに、アンリが冷静な突っ込み入れる。  
「モモもそう思う〜」  
 うぐ、とリュウが息を詰まらせた所へ、モモからの追撃も入った。  
「……じゃあお前らは勝手にしろよ! 俺は一人でもやるからな!」  
 リュウが声を荒げてフライパンを構え直した時、支援課ビル裏口の扉が開く。  
 扉の開く音を聞きつけた三人が振り向くのに合わせるように、キーアがツァイトと一緒に外に出て  
きた。  
(……あれ?)  
 キーアの表情を見て、三人が同時に首を傾げる。ちょっと前、お昼ご飯の時間だからと解散した時  
はあんなに暗かったのに、今は妙にさっぱりとして晴れ晴れとしている。  
「みんな、どうしたのー?」  
「キーアちゃん……もしかして、あのお兄ちゃんの記憶が戻ったの?」  
 ビル裏口の前で丸まって昼寝の体勢に入ったツァイトを置いて寄ってきたキーアに、モモがおそる  
おそる尋ねた。  
「……ううん、まだだよ」  
 キーアが、元気のない声で首を横に振った後、でもね……と話を続けた。  
 お昼ご飯を食べる為に、キーアがリュウ達と別れた後の出来事を――。  
 
 大聖堂から昼を告げる鐘が鳴る。  
 支援課のビルのいつもの席にいたセルゲイは、読んでた医学書を閉じると、部屋を出た。  
 皆で食事をするテーブルの脇で、キーアが昼寝中のツァイトの背中に抱きついている。普段ならク  
レヨンに落書き帳、図書館から借りた絵本などが散乱しているのだが、今は綺麗なものである。  
「キーア、何が食いたいモンあるか?」  
 手持ちの携帯灰皿でタバコの火を消すと、セルゲイはキーアの顔を覗き込む。と、鉛色の雲が覆わ  
れた空のように暗い表情をしていた。  
「……いらない……」  
「おいおい、その年でダイエットか?」  
「……いらない……」  
 ぽつりと繰り返してツァイトの背中に顔をうずめたキーアに、セルゲイは天井を仰ぎ見る。  
 出かかったため息を腹の奥に押し返すと、キーアの首根っこをぐいっと掴んで持ち上げた。  
「きゃっ!」  
 ツァイトから引き剥がされ、キーアが小さな悲鳴をあげる。  
「いいか、アレは事故だ。アイツ……ロイドが記憶喪失になったのは、お前のせいじゃない。俺だっ  
て派手に頭ブン殴られて気絶した事があったが、記憶は無くさなかったぞ?」  
 ツァイトが寝たまま両耳を鋭く立たせる中、セルゲイはキーアと真正面から向かい合いながら述べ  
た。  
「でも……キーアが鞄を振り回さなかったらロイドがいた脚立が倒れる事は無かった……」  
「そりゃそうかもな」  
 セルゲイは素直に認めた後、だけど、と続ける。  
「それは過去の事だ。過去に起こっちまった事は女神様だって変えられない。でも、今と未来は誰に  
でも変えられる。ならばそれで過去に起こっちまった事を訂正していけばいい」  
 そう言ってセルゲイがニヤリと笑うと、キーアも少しだけ表情を緩めた。  
「……でも、キーアにはロイドの思い出を取り返す方法、解らない」  
「それは当事者であるアイツ自身の仕事だ。今のお前さんがやる事は違う。それはな……」  
 ここで一拍間を置くと、セルゲイはキーアの瞳をしっかり見つめながら告げた。  
「元気を出す練習だ」  
 言われて、キーアがきょとんとした顔をする。  
「何で? と言い足そうな顔だな」  
 少し愉快そうに笑うセルゲイへ、キーアは素直に頷くと、いいか、と、セルゲイが説明してきた。  
「気持ちっつーのは伝播していくもんだ。暗い気持ちのままで居続ければ、周囲にいる人達もやがて  
暗い気持ちで包まれてしまう」  
 この言葉に、キーアは、さっきまで一緒にいたリュウとアンリとモモを思い出す。  
 三人とも、最初は明るく振る舞ってキーアを元気づけようとしてくれて、アンリは教会の施術につ  
いて教えに来てくれたのに。お昼時だからと別れる頃には三人とも表情がキーアと同じように曇って  
いた。  
(かちょーの言う通りだ……キーアの暗い気持ちがうつっちゃったんだ……)  
 三人への申し訳なさにキーアが思わず俯きかけた矢先、セルゲイに頬をむにゅと掴まれて止められ  
た。  
「逆もまたしかり」  
 セルゲイとキーアの視線が再び合わさる。  
「明るい気持ちで居続ければ、周囲にいる人達もやがて明るい気持ちに包まれる」  
 セルゲイは不適に笑うと、キーアの頬から指を離して問いかけた。  
 
「……キーア、お前さんは、周囲にいる人達に、どんな気持ちでいて欲しい?」  
 
「……それで、キーアちゃんは答えたんだね」  
 口角を持ち上げ、笑顔を浮かべているキーアにアンリが微笑むと、キーアも笑顔をたたえたまま大  
きく頷く。  
「キーアは、みんなに笑っていて欲しいから、元気でいて欲しいから、だから、こうする事に決めた  
の」  
 そう言ってキーアは笑みを続ける。いつもの天真爛漫な雰囲気たっぷりな笑顔と比べると少しぎこ  
ちないかもしれないが、それでも三人には充分気持ちは伝わってきた。  
「ならこれは必要ねーな」  
 リュウが笑ってフライパンを地面に置く。  
「だめだよリュウくん。ちゃんとおうちに戻さないと」  
「そうだよ、ばっちいよー」  
 たしなめるモモに、キーアも同調して騒ぐ。  
「でもこれから遊ぶのに持ってくのやだよー」  
「なら一端、皆でリュウのおうちに行ってから遊ぼうよ!」  
 げんなりするリュウに、アンリがぱっと顔を輝かせて提案してきた。  
「さんせーい!」  
 青空の下に、子供達の朗らかな声が響き渡る。  
 そのままはしゃぎながら歩き出した四人へ、ビルの裏口の前で寝ていたツァイトが、今まで閉じて  
いた瞳をそっと開いて、微かに笑いかけていた。  
 
 
 
 

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