あまりにも静かな日だった。  
普段は轟々と騒がしく耳を打つほどなのに、今日ばかりは何故か風が凪い  
でいる。不吉な予感にも似ていて胸が騒いだ。  
珍しく百足の見張り台に立った女は、あらぬ方向に目を遣り、わずかに顔を  
歪めて哀しげに笑う。  
「ああ、また人間が…」  
歪から誤って魔界に落ちてくるのが見えたのだろうか。その横顔はいつもの  
怜悧さを感じさせない。まるで子供のような頼りなさだ。  
この美しき女主人の我侭に腕組みをしながら根気良く付き合っていた男は、  
頃合いを見て声をかけた。  
「気が済んだか」  
「まあな」  
手摺りを掴んでいる手が氷のように白い。冷たいのだろうか。周囲には誰も  
いない。自分の手を重ねると紅を引いたように鮮やかな女の唇からふふっ  
と笑みが漏れる。  
昔一度だけ迷い込んだことのある、深い洞窟の奥で見た毒花の妖しい色香  
にもそれは似ていた。  
「ここは、いいな。よく見渡せる」  
「そうか」  
「お前はいつも、こんな光景を見ているのか」  
「ああ、そうだ」  
「羨ましくなる」  
間近で見れば見るほど、実に美しい女だった。元々は側近くに寄りこそして  
も触れられはしない立場ではある。けれど欲した。どことなく似たものを感じ  
取ったからだ。柄にもないと言われようが滅茶苦茶に欲した。そして得るこ  
とが出来た。  
否、恐らくは女の方もそれを望んでいたに違いない。そんな度の過ぎた自  
惚れすら持つことも厭わないほどに、二人して他者には漏らせぬ秘密を共  
有している。  
 
「また悪い夢でも見たら、来ればいい」  
「ああ、そうするさ」  
こんなものがはたして気晴らしになったのかどうかは知れない。ただ、女は  
それまでの気鬱な表情が少しだけ緩んでいる。  
「飛影、後であの人間たちを」  
「そうだな、場所は絞れている。すぐに行けるさ」  
 
風の凪いだ日、躯という名の女主人は筆頭戦士である飛影と共に見張り台  
に立って、パトロールの指揮をしていた。  
業務報告書には、ただ短く無感情にこう書かれることだろう。  
表面上はそれだけの関係だ。  
 
翌日の午後、珍しく訪問者があった。  
それほど知り合いのいない飛影にとっては煩わしいことこの上ない話だが、  
一体どこの酔狂な奴がと興味はあった。  
どこか殺風景な内装の応接室で待っていた人影は、飛影の足音を聞きつけ  
るなり、すらりと立ち上がってにっこりと笑った。  
「やあ。お久し振りですね」  
蔵馬だった。  
人間界に残った為に、今ではそれほど会うこともなくなってはいたが、それ  
でも人間界の様子等を定期的に報告しに来る時は顔を合わせる。あれから  
特別変わったこともないのに、懲りずに月に一度は訪れる。よく飽きないも  
のだと関心するほどだ。  
「何の用だ」  
この男は特別勘が鋭い。わずかな様子から気取られぬようにしなければと  
用心していたというのに、やはり何か察したものがあったらしい。以来、決  
して口外はしないものの、事あるごとにちくりちくりと揶揄をする。  
厄介な奴だ、と腹の中で溜息をついた。  
 
「嫌だなあ、飛影。今日はプレゼントがあってね。君たちに」  
そら来た。  
何の企みもないような美しい顔を崩すことなく、蔵馬は晴れ晴れと核心に  
切り込んできた。上着のポケットから薄い紙包みを取り出すと、傍らのテー  
ブルにぱさりと置く。  
「薔薇の種です。最近趣味で品種改良などに凝っていてね…魔界でも容  
易に根付いて繁殖するものを作ってみたんです。いかがですか?」  
「何のことだ」  
「こんなものでも、躯の気休めになればと思いましてね」  
そう言った瞬間の瞳には、隠しきれない魔が滲んでいた。  
「馬鹿馬鹿しい」  
「まあ、ものは試しです」  
包みをテーブルに残したまま、蔵馬は立ち去って行った。わざわざこんな  
ことをするからには、全く企みなどないとは言えない。けれど、『気休めに  
なれば』という言葉はどこか魅力的な響きがあった。  
 
夜更け過ぎ、いつものように周囲に人目がないことを確認しながら奥の  
間へと足を進める飛影の懐には、あの紙包みがあった。  
どうせ戯言、と言えばそれまでの話だ。だが、本当に女が喜ぶのなら一  
度ぐらいは騙されてやってもいい。  
そんな気がしていたのだ。  
寝台に気配はあるが、奇妙に静かだった。  
近寄ってみると躯はすっかり寝入っている。あれからずっと自分の執務を  
こなしていたのだろう。疲れない筈がない。見張り台で気晴らしのひとつ  
もしたい気持ちは分かる。  
ならばこのまま起こさずにいようか。  
そう思っていた目の前で、花が開くように躯はわずかに目覚める。昼間  
の無機質なまでの硬い雰囲気とは全く違う。今はただの女だ。  
飛影の為に用意されていた、極上の女。  
それが今、無防備な肢体で横たわっている。  
 
「…ああ、来ていたのか」  
「今、な」  
「うたた寝を」  
柔らかな花弁のように言葉を続けようと動く唇を塞ぎ、舌を差し入れる。  
これほどの女を目の前にして、昂ぶらない男などいる筈がない。色香な  
ど感じさせない服装をしていても、媚など一切零さなくても、持って生まれ  
た美質は否応なく周囲の下種な男共を魅きつける。だが、こうして寝台  
を共に出来るのは自分ただひとりだ。  
そんな喜びがただならぬまでに体中を満たして、舌を交わしながらもい  
つになくもどかしい手つきで衣服を剥いで行く。  
指先に感じる滑らかな肌の感触はやはり素晴らしくいい。生娘そのもの  
のように張り詰めていながらも、男の手を悦ぶようにしっとりと吸いつい  
てくる。日の光の下で眺めれば、薄い皮膚の下で静脈が巡る作り物の  
ように完璧な肌だ。  
それなのに、こうして暗闇の中にあるとそれだけで男を惑わせるほどの  
妖艶な艶を放つ。触れても歯を立てても決して痣にも傷にもならない肌  
に、せめてもの跡を残してやりたい。  
そう思わせるほどに見事な肌だった。  
「ん…痛っ…」  
いつになく乱暴な愛撫に、押さえつけられた手首がひくひくと痙攣して  
いる。そんな様子もまた、そそった。  
剥ぎ取られた衣服から、普段は隠されている真っ白な乳房が零れ出  
している。右側は醜く崩れているが、それすらも愛おしいと思えるのは、  
やはりこの女に魅き寄せられているからだろう。  
どれほどに肌を重ねても、足りない。  
体だけでは全く足りない。  
時々気鬱になる心の内までも知りたい。  
そこまで思いつめてさえ、いるのだ。これほどの女の前では、飛影もま  
たただの男に成り下がる。  
 
これまでずっと、この行為は遊びだった。  
それならば、この女も了承していた。  
それでなければ触れることさえ叶わなかった。  
最初から心の内など見せないのが前提の関係でしかなかった。  
だが、もうそれでは満足出来ない。  
これまでの空々しい形ばかりの余裕などかなぐり捨てて、飛影は貪欲  
さを剥き出しにしていた。決して性急に求めることが躯にとっていい訳  
ではない。他に手立てを今この時に考えつかなかったのだ。  
いつにない様子に、女特有の怯えを滲ませて躯は見上げている。  
「お前、変っ…」  
「変にもなるさ。貴様はそうさせる女だ」  
身に纏っていたものはすっかり寝台の下に落とされた。布で覆われて  
いた素晴らしい曲線の体が、何もかも包み隠さず闇の中でなまめかし  
い色を帯びる。  
「こんなにいいものを隠している女だ」  
「あぁっ…」  
豊かな張りを持った乳房をわざと強く揉みながらも、つんと立った先端  
に歯を立てる。案の定、敏感になっていた体は、いっそ哀れなほどに  
びくびくと跳ねた。  
そんな変化をまざまざとその目で眺めながら、自分もまたこれ以上な  
いほどに昂ぶっているのを飛影は感じていた。これほど美しく乱れ悶  
える女の姿をもっと見ていたい。けれど、限界も近そうだ。  
どうにも耐え性のない男というものの本能に舌打ちをしながら、すっか  
りあらわにされて蜜を零している淫らな花に指を伸ばした。今までわず  
かも触れられてもいないのに、そこはもう男を待ち受けて震えている。  
それがどれほどに嬉しいか、いずれ教えてやろう。  
そんなことを考えながら、指を二本差し入れて女の性感をより煽るよう  
に動かし出す。それがひどく感じ過ぎて辛いのか、髪を打ち振って拒  
むように高い声を上げた。  
「うぅっ、そんなのは、嫌だっ…」  
「じゃあ、どうして欲しい?」  
「うっ、うっ…」  
 
「言えば何でもしてやろう」  
ぺろりと耳を舐め上げると、それもまた感じるのか肌がわなないた。目  
尻に涙を滲ませながら、躯はきっと睨む。だが、既に快感に潤んでいる  
せいかいつもの迫力はない。  
「お前は、一体何を望んでるんだ」  
「別に。ただいつもの遊びだろう」  
「…お前は嘘をついている」  
一粒の涙を落としながら、それでもすんなりとした腕を伸ばして飛影の  
首に絡めてくる女は、もう埒を明け渡していた。  
「いいから、早く来い…」  
「そうだな」  
体の奥から疼きが突き上げているのか、断続的に指を締め上げていた  
そこに飛影は自分自身を押し当てて、先端で蕩けている花を焦らすよう  
に捏ね回した。  
「あぅ…そんなことは、いいからっ…」  
回していた腕の力がわずかに強くなる。お互いに、もう我慢出来ないと  
ころまで来ている。頃合いは丁度いい。しばし弄ぶだけだったそこを、  
思い切って一気に奥まで突いた。  
「あああああっ!!」  
耐えきれない声が熱の篭もった室内に響く。  
熟れきった内部は待ち受けたものを千切らんばかりに締め上げ、激し  
い律動の快感を更に増幅させていく。お互いに愉しむ為に無意識に築  
き上げてきた感覚だった。  
こうしている時の至福を何に例えればいいのか、分からない。  
それほどにかけがえのない女となっているのだ。だが、この女はどうだ  
ろう。まだその深遠までは図れないでいる。  
それでも、それなりの絆というものを感じて、飛影はもう何も考えること  
なく一心に限界の果てまで女を突き上げ続けた。  
もう焦点の合わない目をして縋りついている躯は、さほどの声すら上げ  
る余裕もなくして、ただはあはあと息を荒げるだけだった。  
 
夜が明けようとしている。  
闇の中でしか交わり合えない二人の時間がもうすぐ終わる。  
魔界で一番の女は、もう指先ひとつ動かせないほど疲れきって子供の  
ように寝入ってしまっていた。  
こうしている間にも薄明かりが寝間にも差し込もうとしている。  
そろそろここを出なければいけない。  
歓楽に浸っていた時を惜しんでいる暇はなかった。  
飛影は脱ぎ捨てた衣服を纏いながら、しばらく起きる様子もない女の  
頬に口付けた。せめて悪い夢など見なければいいのだが、と案じるの  
だが、杞憂だろうか。  
ふと、寝台の下にいつの間にか滑り落ちていた紙包みを見つけて拾  
い上げる。中には薔薇の種が入っていると蔵馬は言っていた。魔界で  
も根付いて繁殖する品種だと。  
くだらないことだが、育ててみようか。  
そんなことを考えた。  
それでこの女が少しでも哀しい顔をせずに済むのなら、と。  
 
寝間を出る頃、飛影は一度だけ振り返って眠りの中にいる女を見た。  
今見ているのはどんな夢だろう。自分と出会ったことが幸せだと思う  
のならばいいのだが。  
柄にもないことを考えて、溜息をつく。  
そもそも最初にこの女に魅かれた理由を、昨日のことのようにまだは  
っきりと憶えている。  
自分ではどうにもならない業火の中で、焼かれ苦しみ悶えながらも羽  
ばたきを続けようとする蝶のように見えたから、だったのだ。  
 
 
 
終  
 

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