魔界に帰り着き、邪眼を開いた飛影は、探し当てた百足――動く要塞の上に一人立つ女王の姿を見た。
腕を組み、進行方向を睨んでいた彼女は、ふと飛影を振り返った。
(!)
飛影は思わずその顔を凝視した。
彼の視線の先で、女王は、何事もなかったようにゆっくりときびすを返し、百足の中へ消えていく。
(相当な距離があるんだぞ・・・)
一人ごちて飛影は、邪眼を閉じ周囲の気配を探る。
躯の偵察虫は見付からない。
(ならば、有り得ない)
飛影は立ち上がり、百足があるはずの方角を見た。
(躯に、俺が見えたはずがない)
今のポイントから百足までは、飛影の足でも半日以上かかるほどの距離が開いている。
躯が千里眼を持っているなら話は別だが、躯にそういう能力はなかったはずだった。
女が『自分を見た』と感じたのは、きっと気のせいだ。
そう考え直して、飛影は百足へと向かった。
***
ほぼ一週間ぶりの百足は、良くも悪くも普段通りだった。
百足の住人たちは、一様に飛影に目礼してすれちがう。
・・・目礼『だけ』はする、と言ったほうが正しいと飛影は思っている。
百足は要塞であり、あるいは戦場と言った方がより近いかもしれないが、同時に生活の場である。百足の住人は押し並べて実力行使を好むが、さりとて四六時中殺し合っている訳ではないし、また、出来るものでもない。
特に上位者は、質力差が自明である下位者がむやみに襲ってくることはないし、対上位者でも、お互い無駄に致命的な流血をするほど暇ではないからだ。
平穏と殺伐が混じりあう、・・・矛盾するようだが、そうとしか言い表せない空気で、移動要塞の中は満たされている。
そんな中をすり抜けるようにして、自室に入った彼は、ベッドの上に転がる塊を見咎めた。
「なんだ、何か用か?」
「『なんだ』とはご挨拶だな」
『塊』は頭を上げて飛影を視認し、起き上がってそこにあぐらをかく。
飛影はフンと鼻を鳴らした。
「ここは俺の部屋だぞ」
「そう。『オレの』百足の一室の、な。」
上はタンクトップ一枚という、これ以上減らしようのない軽装の躯は前髪を掻き上げてくすりと笑った。
「いいじゃないか。そう邪険にするなよ。そんなにオレが邪魔か?」
「邪魔だ」
飛影は吐き捨てた。
普段、躯が飛影の部屋に来ることはない。――逆ならばある、そのときには何とも思わない躯との距離が、今日はなぜか癪に障る。
「はーぁあ」
飛影の様子に気付く気配もない躯は、のんきな声を出して、そのままぼすんと後ろに倒れ込んだ。
「まったく、お前の自覚の無さにも困ったもんだなぁ。」
のんびりした女の声音に、訳も分からず腹の底が騒ぐ。
飛影は、その訳の分からない何かを隠すために渋面を作り、躯の肩を掴んだ。
「おい、ここで寝るな――」
その瞬間、女はビクンと目を見開いた。
「飛影、お前」
きらりと瞳が光る。
その奇妙な輝きに、飛影の脈が振れた。
何かに怯えるように震える唇。そして、潤んだ瞳。
飛影は、奇妙な既視感を覚えた。
(こんな表情を、自分は一度見ている?)
女の表情は、過去の記憶と一致しそうで一致しない。
(馬鹿な、躯が俺に怯えたことはなかったはずだ)
延髄をざわつかせる瞳をしたまま、躯は、唇だけで笑った。
「お前、女を抱いてきたな」
***
「な・・・!」
飛影は絶句した。
少し目を細め、憐れみを滲ませて、女はふっと吐息を漏らし目を伏せた。
「それで、・・・それでも、手に入れることができなかったか。可哀想に・・・」
「貴様に何が分かる!!」
「――!」
一度の打撃で、飛影の拳は躯の義腕をねじ曲げた。
拳を引くと、傷付いた配線から火花が散る。
「貴様に、何が分かる・・・!」
ねじ曲がった金属の腕を、そして飛影の顔を見た女の睫毛が、ぴくりと揺れた。
「お前が分かってないことをだよ」
躯は、義指をぎこちなく飛影に伸ばそうとした。
「なんだと?」
飛影は思わず女の義腕を掴んで、ベッドに押し付けた。
義腕が歪んで耳障りにギリリと軋む。
が、躯は何の反応もしない。
痛そうなそぶりもなく、飛影を振り払おうともしない。
「お前、女の匂いがしてる――なのに今も、飢えた目をしている」
躯はただ、少し潤んだ、憐れみの滲む瞳で、男を見上げる。
「『何が分かる』だって?ここでいじけてるんじゃねぇよ。不満がる前に『だからどうした』とでも言い返してみせろ。・・・そんな、いかにも『飢えてます』って顔じゃ情けないだけだぜ?」
飛影の首筋を、怒りのようなものが走った。
言葉の内容とあまりにそぐわない、ひどく穏やかな表情。
それは飛影を苛立たせるには十分だった。
「貴様・・・!」
「――っ!?」
ビッ、と躯のタンクトップの胸元が裂ける。
「ああそうだ。俺は女に飢えてる。それの何が悪い」
躯は細い眉を顰めた。
飛影の手の中で、引き千切った布切れが煙となって燃え尽きる。
広げた掌から灰がこぼれ、ベッドに落ちる前に、飛影は女のズボンを引きずり下ろした。
「そういえば貴様も女だったな」
下着の脇へ飛影が指を掛けた瞬間、ジッと小さな火が上がり、それはたやすく焼き切れた。
躯も、今度はあからさまに顔を顰めた。
(まずい)
反射的に躯の頭をベッドに叩き付けて、飛影は頭の片隅で思った。
飛影の手の下で、呆気に取られたような躯の目が見開かれる。
(止めなければならない)
理性は、確かにそう言っている。しかし、
――止められない。
理性が、荒ぶるものを抑えられない。
躯は一度まぶたを閉じ、艶やかな瞳を開いた。
「なんだ」
飛影に組み敷かれた躯はうっすらと笑った。
「どうした小僧。もう終わりか」
ぷつっ、と何かが切れた。
どすっと音がするほどに躯の両脚を割り広げ、膝の下に敷く。
女は何も反応しない。
――なぜ、叫ばない?
飛影は憤っていた。
そうだ。これは怒りだ。自分へ、当然向けるべき非難をしない女に対する。
飛影は興奮した自身を取り出して、躯の腹に押し付けた。
それでも躯は微動だにしない。
代わりに、まるで濡れていない彼女は男を拒んで、先端すら無理矢理にねじ込む感じだ。
躯が眉を寄せる。
彼女は痛みを感じているのかもしれなかった。
だが飛影は構わず、摩擦がひどいそこへ腰を進めた。
「く・・・」
ついに奥に突き当たって、女は小さな声を立てた。
けれども表情に苦痛は見えない。
それとも、本当に痛みがないのだろうか?
ぐっと腰を押し付けて、飛影は女の尻を両手で撫でる。
飛影は歪んだ笑みを浮かべた。
――笑ってしまうほど滑りが悪い。
「んっ・・・、ふ・・・、・・・」
そのまま揺するように前後させると、突き上げに合わせて女の息が漏れる。
それとともに、結合部にぬるつく感触がし始める。
だが、躯は感じているようではない。
肌は白く冷めたまま。
「ふ・・・、ぅ・・・っ、・・・」
息すら乱れていない。
薄く開いた唇から、息が抜けているだけだ。
――まるで暖かい人形だ。
しかし人形などではないことに、飛影は慄いた。
彼を包む女の肉が蠢きだしたのだ。
「あっ・・・?!」
ぐっ、と締め付けてくる躯に、飛影は堪らず吐き出した。
***
呆気に取られた。
「はッ・・・はぁッ・・・」
気持ちとは関係なく、飛影の息が乱れる。
「飛影」
躯は、混乱して見降ろす飛影の頬にそっと手を伸べた。
「落ち着いたか」
「!」
手をはね飛ばす勢いで、飛影は頭を上げた。
「躯、貴様」
「出すだけ出してしまえば、とりあえず落ち着くものだろ?」
「な、に・・・を」
躯のセリフに、飛影の気分は、落ち着くを通り越してどん底に落された。
よほど顔に表れていたのだろう。
少し驚いたように瞠目した躯は、ふっと息をつく。
「オレの体は、刺激に慣れきった年寄り向けに改造されてる。だから、それは気にしなくていい」
ふざけた調子でそこまでを言った躯は表情を改め、飛影をなだめるように穏やかな目をした。
「それと、いいことを教えてやろう。お前は、力が急に強くなった。特に、筋力が」
「なんの・・・話だ?」
「これ」
躯は右肩を浮かせ、そのまま何度か揺すって、ぱたりと力を抜いた。
飛影は思わず、怪訝に眉をひそめた。
「躯、何をしている」
「何をしていると思う?」
「・・・分からない」
飛影には本気で分からなかった。躯は軽くうなずいた。
「だろうな」
ふ、と躯は薄く笑い、左腕だけで体を起こす。
「なぜ手を上げないのか、と思ってるんだろう?」
その拍子に飛影のものがずるりと抜けて、彼に躯を見てはいけない気にさせた。
「動かないんだ。お前の一撃で壊れた」
ぎょっとして、飛影は躯の腕を見る。
「そんなはず」
「まず、ソレしまっとけ」
かあっとなった彼がごそごそやっている間、くすくす笑って躯は顔をそむける。
「オレの腕が、お前の攻撃ごときで壊れるほどヤワなはずがない、と言いたいのかもしれないけどな?・・・お前の感覚以上に、お前の出力は大きくなりすぎているんだ。随分いい位置に打ち込んできたせいもあるが」
何しろ配線が切れちゃな、と躯は苦笑いする。
「それだけじゃない。気付いてなかっただろうが、腕っ節だけならオレよりも強くなってる。お前は、早急に自分の出力を覚え直せ。そして」
「待て!俺の力が、貴様より強いだと?」
「ああ、腕力だけならな。・・・元々オレは腕っ節の強い方じゃねぇが、本当に敵わなくなってきたようだ」
「冗談・・・」
「お前は気付いてない、と言っただろう?」
躯はひたと視線を男の瞳にあてた。
「どの程度の出力になってるか、オレには分かってたが、お前は分かってなかった。だからお前には出力をコントロールできなかった。分からないものは、コントロールのしようがない」
圧倒する、女の穏やかな視線。
「俺が貴様より強いとして・・・!」
その視線を跳ね返そうと、飛影は声を荒げた。
「筋力だけな」
「筋力だけなら、なおさらだ!なぜ抵抗しなかった?それはまだ、総合的には貴様の方が強いということじゃないのか?!」
「それは否定しない。だが、オレが抵抗していたらお前は、オレを抑え込もうと力を使ったはずだ」
ぐっと喉が詰まる。
――反論できない。
躯の言葉に、飛影もまた、自分は多分そうしただろうと確信してしまった。
だが・・・
「そうなれば、力の強くなったお前から逃げるには、オレは半殺しにするつもりで抵抗しなければならなかっただろう。オレは、お前を殺す気はない。無駄な労力を使う気もない」
「説明になってねぇ・・・」
頬に血が上るのが分かる。
「殺す気がない、というのは抵抗しない理由じゃない。それに、そもそもなんで俺の部屋にいたんだ」
――そう、部屋に躯がいなければ。
部屋に躯がいさえしなければ、こんなことにはならなかった。
「なぜ貴様が――」
「・・・お前が帰ってきた、と報告があってな」
躯は、どこか飛影をはぐらかすように小首を傾げる。
「その1。百足のNo.2のくせに、どこへ行くかも告げずに連絡不能になったお前に、小言のひとつも言ってやろうと待ち構えていた」
「その1?」
なんだそれは、と言いかけた飛影を、躯は無視した。
「その2。仕事をすっぽかしたお前に罰を、と百足の連中からうるさく言われていて、オレとしては別にいいじゃないかと思ったものの、知らない振りもまずかろうと、とりあえず顔を見にきた」
ありそうな話だ、と飛影は口をヘの字に結ぶ。
「その3。お前が帰ってきたとの報告のついでに、女の匂いをさせていると耳打ちされたので、からかってやろうと・・・」
「何だって?!」
「お前が、女の匂いをさせて帰った、って。ここには鼻のきくヤツがいるってことはお前も知ってる通りだし」
「本当なのか!」
一瞬で顔を真っ赤にした飛影に、躯はいたずらっぽく微笑んだ。
「本当に本当だよ。さて、オレはどの理由でここに来ていたでしょう?」
破れかぶれ、というのは多分こんな気分を言うのだろう。
「全部なんだろう・・・!違うか?!」
焼けっぱちに言い放った飛影を掌で転がすように、女王は優しげに笑う。
「お前は、冷静なら頭いいよなぁ」
「・・・つまり?」
「正解だよ」
簡単に認められてしまうと、それはそれでむかっ腹が立つ。
飛影は頭を掻きむしった。
***
「小言でも何でも言って帰れ」
ベッドの上で不貞腐れた少年の頭を、躯は小突く。
「馬鹿者。小言より先にすることがある。シャワーを貸してくれ」
「え?」
躯は、飛影の答えを待たずベッドの端にいざり寄った。
「部屋には帰るとも。だが、体くらい洗っていってもバチは当たるまい」
左手を軸に体をよじって、背を向けたまま躯は床に足を下ろす。
「タオルも貸せ」
「あ、ああ・・・」
飛影は何と答えるべきか、分からなかった。
こだわりない態度がひどく不自然だった。
下手にふるまえば、今にも女が爆発するような気がしてならない。
「体が拭ければタオルじゃなくて、もっ、ぅわ?!」
立ち上がったはずの躯は、よろめいて右に崩れた。
「何やってるんだ?!」
ベッドの脇にペタンと座り込んでいた躯は、呆然と振り向いた。
「・・・褒めてやろう」
「は?」
「足までやられてたとは気付かなかった」
思考がうまく繋がらない飛影の前で、躯は義足の膝を撫でた。
「微妙に歪んでる。いつもと同じつもりで立って、よろけた。歪み以外に破損はないし、歪んでいたことに気付いさえていたら、転ぶことはなかっただろうが。・・・飛影、オレの体を洗え」
「!」
「左腕を外すのを手伝ってくれ。動かない左腕は外して、バスルームまで運べ。それから、シャワー」
躯は、動く左手で頭のバンダナをほどき、『左耳』と左腕をつなぐコードを外していく。
「バスルームでこの足じゃあ心許無いからな。オレの足がこうなったのはお前のせいなんだから、その責任は取ってもらおう」
***
「ああ、やりにくいなぁ・・・湯船があれば座ってられるのに。ここはなんで湯船がないんだ」
「女王陛下が、部下の部屋には用意してくださらなかったからさ」
「それならそれで、しっかり支えてくれよ」
服を着たままの飛影は、シャワーの中で素っ裸の躯を支えていた。
躯は体を洗えと命じたのだけれども、経験のない少年は、やり方に迷った挙句立ちすくんでしまったのだ。
それで結局は、自分で体を洗う躯を飛影が支えるということになっている。
――今は後ろから抱えられて腹側を洗っている。次は背中側をと言うのだろうか。
想像して、飛影はいたたまれなくなる。
「おい飛影。どこを見てる」
「・・・どこも見てない」
「馬鹿者、だからオレの体が安定しないんだ。膝を見ろよ。ぐらぐらしてるだろう」
本当に、いたたまれない。激しく目のやり場に困る。
躯の年齢は飛影よりかなり上・・・どころではないはずなのに、躯の体は、年齢不詳に若々しいのだ。
めったに陽の光を浴びない、白くきめの細やかな肌。その下には、しなやかで強力な筋肉がある。
それでいて、筋張った自分の手で触れるたびに感じる柔らかな手触りは、躯が女なのだと主張してやまない。
「もうちょっと密着しろよ。安定しないって言ってるだろ?ああ、腕はもう少し下で。しっかり力を入れろ」
「ああ・・・」
飛影は心ひそかに舌打ちした。
『見ろ』と言うなら見てやろうと飛影の目の前で、躯はぎこちなく、ゆっくり脚を開いた。
「!」
そして指を脚と脚の間に伸ばす。
「なんかウマクないなぁ」
少し屈んだ女の、肩の上でシャワーの雫がはじける。
女の肩が視界を遮って、躯の指がしていることは、飛影の目に直接は見えていない。
「おい、バランス崩すだろうが。しっかり抱えてろって」
――こいつ、ワザとか?
「何やってんだ躯・・・」
指を抜いて、躯は体を起こす。
「ん?中を洗ってる」
躯はキョトンとして指先をシャワーにさらし、絡みついた白いものを湯に流した。
「洗わないと後で流れてくるだろ。って、知らなかったのか?」
・・・いたたまれない。逃げ出していいなら、今すぐ逃げ出す。
呆れ顔をした躯が肩をすくめる。
「ばぁか」
ハハハ、と力の抜けた笑いをもらして、躯はぽんぽんと飛影の腕に触れた。
「やりにくい理由がわかったぞ。お前の腕があるからだ」
「抱えてるんだから当たり前だろう」
「だがなぁ」
躯は、腹に回された男の腕を外すと、くるりと向き直った。
「足を持て」
「・・・足?」
「足。太ももだ」
左手で彼の肩に掴まった躯は片足立ちし、右足の膝頭で飛影の腰骨あたりをぽんと触れて見せた。
「ほら、持て」
おずおずと太ももの裏へ手をやった飛影に、躯の唇が悪戯っぽく笑う。
「そうか。続きはお前がやればいいんだ。・・・そう思わないか?」