風に乗って聞こえたかすかな悲鳴に、飛影の足は止まった。
何となく興味を引かれ、第三の眼で気配を探る。
何が起こっているのかは、ほどなく分かった。
品性も理性もない下等妖怪と、切羽詰ったような女の表情。知った顔だ。
そう遠くはない。
しかし、助ける義理などなかった。
飛影は眼を閉じると、また闇の中に消えた。
うめき声を上げて、あたしは派手に転んだ。
先ほどひねってしまった右足では、思うように走れない。
仕事後の日課になっていた、散歩の途中だった。このでかいだけがとりえの醜悪な妖怪に出会ってしまったのは。
すばやく周りを見渡すと、化け物の向こうに折れた櫂が目に入った。
「俺は女の血と肉と悲鳴が大好きなんだよ」
耳をふさぎたくなるような下品な声で笑いながら、あたしに向かって太い腕を伸ばしてくる。
なんてへましちゃったんだろ。泣きたくなる気持ちで、あたしは唇をかんだ。
化け物は、着物の衿を掴んであたしの身体を持ち上げ、顔を近づけた。
生臭い嫌なにおい。全身に鳥肌が立つ。
怖い。気持ち悪い。
「しかし、簡単に喰っちまうのはもったいないか。少し楽しんでから頂くことにしよう」
あたしは、固く目を瞑って観念した。
次の瞬間、あたしの身体は下へ下へと落ちていった。
直感的に痛みを覚悟する。けれど、あたしが地面に叩きつけられる事はなかった。
化け物の悲鳴。
闇の中、白い閃光が走ったように見えた。
そして・・・・静寂。
全てが一瞬の事で、何が起こったのか分からない。
雲間から、また月が覗き始めた。
あたしを抱きかかえていた男の横顔を見て、息をのむ。
「・・・飛影?」
飛影?本当に?どうしてここに?
あたしはこいつが、それほど悪党でないことを知っている。
けれど、助けてくれるなんて思わなかった。
「・・・あ、ありがと・・・・」
地面に下ろされてやっと我に返る。
飛影は、あたしをちらりと横目で見た。そして目をそらす。
行ってしまう。
気付くとあたしは、飛影の服をつかんでいた。
「ま、待って。待って!」
ああ、何やってんだいあたしは。
なんだか顔が上げられない。
「ちょっと、待ってくれよ。あたし・・・・・」
どうして引き止めるんだろ。そして、あんたはどうして行ってしまわないんだよ。
飛影は、あたしの目の前に肩膝をついた。
ほっとしたのもつかの間、おもむろに着物の裾をめくりあげられる。
「や、やだちょっとっ何すんだいっ」
抗議の声を上げるあたしを無視して、飛影はそのまま足首に触れた。
「いや、ちょっ・・・・」
「鈍い奴だ」
「へ」
「しばらく痛むだろう」
あ・・・なんだ。
触れているのは、少し色の変わった右の足首。
・・・一人で慌てちゃってさ。あたし馬鹿みたい。
オレには関係ないがな、そう呟いて飛影はあたしを見た。何故だろう、胸がざわつく。
「な、な、何っ?」
らしくもなくあたふたするあたしを見て、飛影は唇だけで笑った。
「何を期待した?」
「え・・・?」
目を見張る。意味が分からなかったのだ。
直後、全身に震えが走った。
触れていた指が、足首より上に滑っていく。
「え、えっ?」
裾が乱れて、徐々に足が晒されていく。
「や、やだっ何これちょっと・・・」
焦点が合わなくなるくらい飛影の顔が近づいて、あたしはもう何も言えなくなった。
何これ何これ何これっ!
指が膝の裏あたりを撫でて、あたしは声にならない悲鳴を上げる。
思わず開いた唇の中に、なにかぬるりとした物が入り込んできてあたしはパニックになった。
あたしは、こんな風に触れられたことはない。
こうして、他人に肌を晒した事も。
気を抜くと倒されそうで、あたしは必死にやつの胸を押し返す。
すごくドキドキしているのに、奇妙な・・・気分だ。
怯えから、奥に縮こまったあたしの舌を飛影は無理やり引き出した。裏を舐めあげられる。
身体が大きく震えた。
次の瞬間、あたしは、思い切り飛影の身体を押し返していた。
やっと自由になり、肺が空気を求めて、浅く速い呼吸を繰り返す。
「・・・な、何で・・・・?」
飛影は黙っている。あたしの顔も見ない。
「何でなんだよ・・・・・」
もう一度聞き返すと、事も無げに言う。
「さあな」
「さあなって・・・・」
「ただの気まぐれだ」
飛影が、目を見開いてあたしを見た。
あたしだってびっくりしている。
泣いてるなんて。
女は、飛影の目の前で静かに涙をこぼしていた。
恨み言も言わず、乱れた服を直そうともしない。
わけもわからず苛立つ。
軽く舌打ちし、投げるようにして自分の服を女にかけてやった。
「泣くな」
本当に腹が立つ。
泣かせた自分に。