悪夢には大抵、決して忘れることの出来ない罵りと嘲りの声がつきまとう。  
実際の年月にすればそれほど長くはないのに、今もまざまざと記憶が蘇るのは、やはりあ  
の男の側にいた日々が忌まわしいにも程があるからに違いない。  
『我が娘よ、お前はもう逃げられん』  
日毎美しく聡明に育つ少女に愚劣な男は欲望を隠しもせず、それが当然だとさえ傲慢に振  
舞った。その挙句が都合のいい体にする為の手術だ。  
思い出せば嘔吐するほどの出来事ばかりだったが、それでも意を決して醜く焼け爛れたせ  
いで逃れることが出来たのは、むしろ幸運な方だったのだろう。あの糞忌々しい男は、子供  
であっても女でさえあれば見境なく犯し、感情のままに暴力で制圧するような卑劣極まりな  
い奴だったのだから。  
 
「躯様」  
呼びかけられる声で、意識が浮かび上がる。  
「ああ、眠っていたようだな」  
「御無理もありません。もう診察は済みましたのでお帰りになられてもよろしいですよ」  
「そう、しようか」  
診察台から起き上がると、ふるりと頭を振る。  
このところ数日、どうも微熱が続いていて体が妙に重く、だるかった。さすがに何か病でも  
あるのかと気にかかっていたところに、飛影が近くの診療施設に話をつけておいてくれた  
のだ。そうでなければ滅多なことでは医者にかかろうはしなかったところだ。  
「それでですね、躯様」  
「何だ」  
「大変申し上げにくいのですが…」  
異形の医者は口篭もる。下手なことをすれば首と胴体が泣き別れるとでもいうように、びく  
びくとしているのがおかしくて、躯は続きを促した。今更特にどんな症状を聞いたとしても、  
特に失うものなどない。そう思っていたつもりだった。  
「それでは、申し上げます…」  
 
穏やかな風が頬をさやさやと撫でた。  
百足の見張り台の上で、躯はぼんやりと風が渡る景色を、そして落ちる人間たちを眺めて  
いる。目に映るものは何もかもが変わりないのに、奇妙なほど気分が撃つ鬱々として重か  
った。  
いっそすべてを相殺する為にここから落ちてしまえたら。  
そんな思いもあった。  
「躯」  
聞き慣れた声が背後でする。  
「ひとりで登るなと、言っただろう。落ちたらどうする」  
「まさか」  
わざとくくっと笑ってみせる。今の今まで逆のことを考えていたというのに。この男にだけは  
女としての弱味を見せる訳にはいかなかったのだ。  
「無理はするな。いるんだろう?」  
耳元で鳴る風が一瞬、止まった。  
「何のことだ」  
「とぼけるな」  
恐らくはあの医者から聞いたに違いない。溜息をついて手摺りを背にすると、どう言ってい  
いのか分からずに俯いた。初心な娘でもあるまいし、こんなことになるとは全く知らなかった  
訳ではない。ただ、こんな業の深い女には有り得ないことのような気がしていたのだ。  
そんな様子を静かに見遣って、飛影は首を傾げながら腹に手を当ててくる。  
「いずれ来る時が、来ただけのことだ。貴様は何も案ずることはない」  
「…そんな戯言などいらない」  
「戯言だと思うか」  
「…」  
これまでの関わりの中で、この男の誠意や情熱が嘘偽りでないことはよく知っているつもり  
だった。だが、それと知っていても戯れるのはただの遊びだと思い込まなければ、心がばら  
ばらになりそうになる。本心など、とても見せられはしないのだ。  
「案ずる必要はない。俺が守ってやろう。貴様と、この子をな」  
頑なに返事を拒む躯に構わず、飛影はそれだけ告げた。  
風はまだ止まったままだ。  
 
こんなことで戸惑うのは、まだ自分が女であることに囚われているせいだろう。飛影の言う  
通りに、いずれ来る時だっただけの話だ。だが、今更母となるのはやはり抵抗があったし、  
今後あの男にもどんな顔をしていいのか分からない。  
薄暗い寝台の中で何度も寝返りを打ちながら、躯は浅い夢を見ていた。  
また、嘲りの声が聞こえる。  
『娘よ、可愛いお前には格別の不幸をくれてやろう』  
ああ、うるさい、うるさい、うるさい。  
どれほどの時が経過しても、忌まわしい男を殺しても、あの声だけは耳から消えることはな  
い。それが呪いででもあるように。  
澱んだ寝間の空気がふっと掻き回された気配がして、目覚めるといつもの気配があった。  
「気分はどうだ」  
「…悪くない」  
「そうか、せいぜい大事を取れよ」  
まだ微熱は続いている。額に手を当てながら、そんな気遣いを見せる飛影には何も翳りも  
企みもない。ある筈もない。あってたまるものか。  
妙に苛立っている。  
「飛影」  
苛立ちがこんなことをさせるのだ、と無理矢理に理由をつけて、躯はただ隣に横になって  
体を休めようとしていた男を突然組み敷いた。  
「何をする」  
「黙れ」  
「…大事を取れ、と言った筈だ」  
「そんなことは知らない」  
望んで出来た子ではない、とは言わないが今は生まれるべきではない子だ。ならばこう  
している間に勝手に流れてしまえばいい。母にあるまじき残酷な考えで、躯は頭がいっぱ  
いになっていた。これまでにも、生きる為のし上がる為にどれだけの命を葬ってきたか知  
れない。それならば、別に罪悪感を持つ必要などないのではないかと。  
「お前はそれでいいのか?」  
飛影が醒めた声を出した。  
構わない。返事をすることなく、躯はそう叫んだ。  
 
いつもは強引な凶器そのものでしかない雄を引き摺り出すと、余計なことを聞かないうち  
に舌先で舐めた。こんな風に仕掛けるのはそうないことで、余計に苛立ちか興奮か分か  
らないものが体中を突き上げていく。  
「お前になど、会わなければ…」  
無意識にそんな言葉が唇を突く。一欠片も、そんなことは思ってはいないというのに。だ  
が、男の意のままには二度とならぬと決めていたのに、結局はこの有様で子を成してい  
る事実に、まだ頭がついていってはいない。  
「…そんなことでは、流れはしない。知っているだろう」  
しばらく様子を見守っていた飛影が、身を起こした。  
「替われ」  
ぞっとするほどに禍々しい目の色をして、男が笑う。  
「そんなにいらないというなら、覚悟をするがいいさ」  
 
結局、明け方までの間にどれだけ乱暴にされただろう。  
それでも、まだ腹の中のものが流れる予兆はない。ほっとしたような、忌々しいような気持  
ちで躯はぐったりと寝台の上でまどろみ始めている。腹立ちをぶつけるような交わりからす  
るに、多分この男は最初から自分を母にするつもりだったのだろう。  
それを拒むも受け入れるも全てはまだ、これからのことだ。  
無表情で躯を見下ろしている男は、どこか苦々しい色を目に湛えている。  
さしあたって、今だけはあの底知れない悪夢も見ないままだ。  
 
 
 
終  
 

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