そこは闘技場の一角。ほぼ禁煙者の中、唯一の喫煙仲間の温子は客席で酔い潰れてぼたん達に介抱されているのを横目に、
ちょっと一服してくるとだけ言って出て来た、単にそれだけの事。
目の前にいるのが結構美形な男で、綺麗な髪をしているので煙草に火を点けながら思わず、見惚れてしまった。
思い切り見ていたせいか、その相手が急にこちらへと振り返ったもので、視線を逸らすタイミングをずらしてしまい、
ライターを取り落として慌てて拾って顔を上げた時。さらりと流れた自分の髪を、誰かが持ち上げ、呟いた言葉。
「・・・・ふむ。人間にしては美しい髪だ、女」
髪の端を持たれたまま誰なのかと思って髪の先から視線を流せば、先程見惚れてしまっていた、黒髪の男。でも、そう言えば。
「あんたこそ妖怪の割にいい髪してるじゃないの。美容師の卵にカットモデルさせる気は無い?」
クス、と笑いかけながらその相手の髪を持つ。もう片手には、火の点いた煙草。―確か、記憶が正しいなら、こいつは。
「ウチの弟はちょっと癖ッ毛でつまらないしねぇ、アンタみたいな良い男にだったら挑戦してみたいんだけど」
確か、戸愚呂チームとかって言ってたトコの。
「弟?この会場で、そんな連れがいる人間など聞いた覚えは無いが」
マスクと長い髪であまり判らない表情が微妙に傾いたような気が、した。
「ウチのバカ弟はちょっとここに出てるヤツだよ、えーと。鴉?だっけ、アンタ」
「なるほど。貴様が美容師の卵なら、その弟の仲間の一人。髪の長い奴のトリートメントをしてやってくれ」
長いの?と問い返す間も無く、鴉は静流の指から煙草を抜き取ると軽く顔を背けて、恐らく一服したせいでその角度からは
煙がたなびくのだけが見えても、戻された顔はやはりマスクを着けたままで。
「もう少し軽い煙草にしておけよ女。貴様のような髪の人間は珍しい。人間の髪は・・・痛みやすいからな?」
クク、と小さく嗤いながら鴉は呆然とする静流の指に煙草を戻し、踵を返すと陰から現れた鎧の男と一緒にその場を去って。
「あー、蔵馬君の事かな?ちゃんと名前位言ってけ・・・」
と呟いた所で思わず煙草に視線を落とす。さっき、たなびいた煙は明らかに吸わないと出て来ない類のモノで、要するに、
「これ、吸ったら妖怪と間接キスとかって騒がれそうだね」
ふっと静かに笑うと、静流は煙草を吸い始める。その頭の中は、どうやって蔵馬にカットモデルを頼むか、
それを既に考え始めていたりして。
大会が終わって、しばらく経った頃に蔵馬に静流から呼び出しがかかった。待ち合わせ10分前に行ったのに、
彼女は既にそこにいたりして、思わず弟の差をさり気なく考えてみるのは狐の本性か否か。
「どうも、静流さん。お待たせしました、何の用でしょう?」
にこやかに声をかけても、煙草の箱をじっと眺める彼女は顔を上げない。
「俺、待たせちゃいましたかねー」
しらっと言って、少し自分よりも背の低い彼女の顔を下から覗くように、体を曲げる。
「蔵馬君」
「はい?」
「練習したいんだ」
「俺で良いなら。で、何をでしょう?」
「髪のトリートメント、させて」
「だが断る」
思わず脳裏に首筋を触った変態マスクが浮かんで、反射的に断ってから慌てて静流の顔を覗き込む。女の感情はいかんせん、
狐でも読み辛い物だったりするのがまた大変で、困ったりするのです。
「ん〜・・・いや、断られてもいいか、と思ってたし。とりあえず顔上げなよ」
はい、と返事をしながら煙草の箱と自分を交互に見る彼女を訝しげに、思わず見つめてしまう。
やっぱり、弟と同じ血が繋がってるとは思えない人だね、と脳内で密かに呟いてしまうのも、狐ならではの癖か否か。
「決勝戦のさ、黒い髪の・・鴉って奴。アレに何か言われた?トリートメントって言葉で動揺してた気がするんだk」
「何もありませんよ?」
言葉途中に、きっぱりとにこやかに、普段の蔵馬らしからぬ位の勢いで否定の言葉を紡ぐ。そして、その後に彼女の髪を
一筋手に取り、その手触りを確かめてから今度はいつもの彼らしい笑みを浮かべて。
「俺の方がトリートメントが上手かもしれませんよ?今度、してあげましょうか、静流さん」
そう言って髪の先から手を離すと、手土産に持っていたビニール袋を持ち上げて今度はニヤリ、と。
「ま、とりあえずここから先はお酒でも酌み交わしながらどうですか?」
「蔵馬君、一応まだ高校生でしょうが」
「決勝前夜に美少年とか持ち込んで来た人がまた、何を言いますか」
まぁまぁと笑いながらさり気なく彼女の肩に手を回し、餌をとりあえず手にかける勢いで狐はひっそりと嗤う。
―俺、好みの女性の髪の手入れ位は気にかけるんですけれどね、鴉。