その夜、ぼたんは仕事を終えてから急に思い立って人間界へ向かった。  
とりわけ目的があるわけではなかった。  
なんとなく人間界の空気が恋しくなって櫂の先を下方へと向けただけ。  
審判の門を越え、人間界と霊界を隔てる厚い雲を抜ける。  
雲を引きずり、夜の空へ飛び出したぼたんを大きな満月が照らす。  
「おやまぁ、キレイなお月様だねぇ」  
ゆっくり高度を下げながら、しばし朧に輝く月に見惚れた。  
少し湿っぽい夜風も、これだけ見事な月夜ならば不快ではないと思えた。  
ふと、ぼたんの感覚に一つの妖気が引っかかる。  
――おや?これは  
良く知る友人の気配に視線を少し下へ向ける。  
白いマンションのベランダに立つ、月の光にも似た銀色の、その姿。  
視線がぶつかった。  
「あーー!!」  
あってはならないことだった。  
たとえ人間界と魔界の間に境がなくなり、霊、魔界において紳士協定が結ばれ、彼が執行猶予期間を終えて自由の身になっていたとしても。  
すぐさま、櫂を彼のいるベランダへ飛ばす。  
「こらぁー!!なにやってんのさ!」  
ぼたんの甲高い声とは正反対の静かな低音が答える。  
「月を、見ていた」  
「きれいなお月様だもんねぇ……じゃなくて!なんで妖狐の姿でベランダに突っ立ってるのか聞いてるの!誰かに見られたらどーすんのさ!」  
ふむ、と腕を組み考えるような仕草をとって蔵馬はゆっくりと答える。  
きゃんきゃん吠えるぼたんの主張などまるで聞こえなかったかのように。  
「では、ぼたんを見ていた――と言ったら納得してくれるか?」  
妖しい微笑をたっぷりと添えて吐くあまりにも魅力的な言葉。  
――見てた?あたしを?どうして?いいや、きっと嘘だ。あたしをからかって面白がってる……でもでも  
ぼたんは真っ赤になりながら思考がパンクする前に慌てて口を動かす。  
「な、な、なに言ってんのさ!もう!あたしゃ蔵馬を心配して――」  
狐は楽しげに口角を吊り上げた。  
「冗談だ。本気にするな。まぁ、話すと少し長くなるな。寄って行くか?」  
有無を言わせない笑みで、部屋の中を顎で示す。  
完璧に蔵馬のペースに呑まれてしまったぼたんはがっくりとうなだれて櫂を降りた。  
 
 
* * *  
 
 
 
一般的な人間の部屋に彼が存在しているのは酷く奇妙だった。  
しかも冷蔵庫からアイスティーまで出してくるのだからシュールである。  
ご丁寧にストローまで付いている。  
「立ってないで座ったらどうだ?」  
テーブルにグラスを置き、ソファに腰掛けるとぽんぽんと自分の横を叩いた。  
ぼたんは警戒しながらも大人しく蔵馬の隣に座る。  
――あんな冗談を一瞬でも信じるなんて……しかもちょっと嬉しかったなんて……あぁもうなんなんだよぉ  
俯いて黙り込むぼたんに、相変わらずの不敵な笑みは消さず蔵馬が話しかける。  
「別に獲って食おうというわけじゃない。そんなに警戒するな」  
足を組み、くつろいだ様子で肘掛にもたれる様子はどこか優雅ですらある。  
そんな仕草や、ちょっとした軽口に『いつもの蔵馬』を見出して、ぼたんはほんの少し警戒を解いた。  
「まったく……。あんまり驚かさないどくれよ。大体なんでその姿なんだい?」  
「それがだな――」  
ゆっくりと語りだす。  
「このところ、人間界の空気はやや不安定でな。魔界の気が混ざっている。恐らく結界が解除された事に因る一時的なもの、だとは思うが」  
「それと蔵馬とどう関係があるのさ?」  
アイスティーを口にしながらぼたんが口を挟む。  
蔵馬は横槍も気にせず続ける。  
「そう急くな。俺は最近、この不安定な大気が著しく濃くなる日があることに気が付いた。その日が、今日だ」  
そこまで話すと窓の外を指で示す。  
「……満月?」  
「そうだ。バイオタイド理論、というのを知っているか?」  
ぼたんの頭の上にクエスチョンマークが浮かんだのが見えたのか、答えを聞かずに話しを進める。  
「……まぁいい。不安定になる、と言っても実に小さな変化だ。魔界の人間でなければ――いや魔界の人間でも気付く者は少ないだろうな」  
実際、霊界の住人であるぼたんですら気付かなかった。  
聞いた後でも『言われればそんな気がする』程度にしかわからない。  
けれど、人間界に足が向いたのはそのせいかもしれなかった。  
「よく気付いたねぇ。コエンマ様はそんなこと一言も言ってなかったさね」  
「まあ、人間にも影響はない程度だからな。把握していたとしても口外する必要がないんだろう。  
……話を戻すが、そもそも俺がこの異変に気付くことができたのは、俺の体質のせいでもある」  
「体質ぅ?」  
すっかり調子を取り戻したぼたんは蔵馬の話に合いの手を入れる。  
「ああ。この肉体には妖狐である俺の魂、人間・南野秀一の魂。  
この二つが融合したものが収まっているのはお前も知っているだろう?」  
ふんふん、と頷くぼたんの前に指を一本づつ、広げてみせた。  
「最近、この魂の融合度に変調を来している。奇しくもそのタイミングが月の満ち欠けとほぼ同時に起きる。  
今日のような満月の日にはこの通り妖狐の姿に戻ってしまうことすらある。自分の意思ではどうにも出来ん。  
恐らく魔界の空気に反応してのことだ。これも一時的なものだとは思うが……」  
 
急に歯切れが悪くなる。  
感覚を確かめるように掌を握ったり開いたりしている。  
――どうしたんだろう?  
小首を傾げるぼたんに気付いた蔵馬は、先程と違うやさしい微笑をおくる。  
それは――どこか寂しげで。  
こんな表情も出来るのかと、ぼたんの心がざわめく。  
なんだか妙に胸が高鳴って真っ直ぐに見ていられなくなり、思わず視線を外した。  
覗き見るようにこっそり視線を戻すと、やはり微笑を湛えたまま少しだけぼたんから目線を落とした狐の表情。  
 
「魔界に帰ろうかと思っている」  
 
独り言のように言った。  
――今、なんて  
聞き返せなかった。  
「妖力も前以上にまで回復している。志保利にも秀一以外の家族が出来た。  
何より、この体質は此方で暮らすには少々厄介だ」  
呆然としているぼたんなどお構いなしに蔵馬は話し続ける。  
――帰っちゃう……蔵馬が?会えなくなっちゃうの?  
ぼたんの耳には届かない。  
「そもそも、俺が人間界に来たのは魔界の代わりに此方を手に入れようとしていたからだ」  
ふん、と自嘲気味に蔵馬が哂う。  
「400年ほど前まで人間界は妖怪にとって無法地帯同然だった。当時では予想も出来なかったな。  
ここまで人間界が霊的に整備され、しかも魔界と霊界が協定を組むなど……」  
そこまで語って、ようやく蔵馬はぼたんを見た。  
固まって、言葉を失くしてしまったぼたんを。  
「そんな顔をするな」  
困ったような顔で微笑って、ぼたんのくせ毛にやさしく手を置いて立ち上がる。  
「すこし、喋りすぎたか」  
氷が解けきったアイスティーのグラスを手にキッチンへ入る。  
静かになった部屋で、ステンレスのシンクにグラスを置く音がやけに響いた。  
新しいグラスを出そうとしたところで、蔵馬は背後から裾を掴まれる。  
 
「獲って食われたくなったか?」  
顔だけで振り返って薄く笑う。  
からかいの言葉を流してぼたんが口を開く。  
「……いつ、帰っちゃうんだい?」  
彼女らしからぬ、今にも泣き出しそうな声が発せられた。  
目が潤んでいる。  
「まだ、決めていないが……それは引き止めているのか?」  
ぼたんは慌てて掴んでいた白布を離す。  
「ち、違っ……!だって、あんまり急じゃないか!」  
手をバタつかせながら否定する。  
しかし語気を強めたせいか、感情が溢れて涙になった。  
「っ……違うんだよ!?もうっ、なんでだか自分でもわかんないんだよぉ」  
――なんでこんなにびっくりして……こんなに胸が痛いんだろう。これじゃまるで……  
蔵馬は体ごとぼたんへむけて、泣き顔を覗き込む。  
子供を慰めるように、やさしく頭を撫でて。  
「お前は、飛影が二度と人間界に来ないと言っても泣くか?」  
質問の意味を測りかねて、ぼたんはきょとんと蔵馬を見つめ返す。  
いつもの蔵馬が見せるような、やわらかい表情。  
「幽助が人間界を離れると言ったら、今のように引き止めるか?」  
つい、とぼたんの顎を持ち上げる。  
空いた方の手で少し湿った掌を掴む。  
「この涙の意味は?何故、裾を掴んだ?」  
追い詰めるように問われる。  
もう、ぼたんの逃げ場はなかった。  
金色の瞳に突き刺されて、身動きもとれない。  
「あ、あたし……蔵馬のこと好き、なの?」  
口にした途端、体温が上がる。  
「俺に訊くな。お前の感情だろう」  
苦笑しながら、蔵馬はぼたんの頬を指で拭う。  
「しかし――そうだな。例えば、先ほどの冗談、本当だと言ったら困るか?」  
遠まわしで、意地の悪い言い方で、けれどその目は真剣で。  
「ずっとぼたんを見ていたと言ったら?」  
真っ直ぐにぼたんを見据えている。  
 
視線から逃げることも出来ずに、ぼたんは薄紅を帯びて潤んだ瞳を返す。  
息が詰まりそうだった。  
「俺はずっとお前を想っていたと言ったら、困るか?」  
双眸がぼたんを捕らえて離さない。  
――応えなきゃ……嘘や冗談は微塵もない。この眼は信じていい。その気持ちはきっと本物だ。  
深く息を吸って蔵馬を見つめ返す。  
「困らないさ。さっき、蔵馬に見てたって言われて……うれし、かった」  
ぼたんは涙を潰して必死で笑顔を作る。  
たどたどしく、消え入りそうな声で、目だけは反らさずに告げる。  
「あたし……は、蔵馬が……好き」  
迷いのない、はっきりとした言葉で。  
「好き、だよ」  
一際、大きな水滴が頬を流れる。  
――だから行かないで。お願いだよ  
ぼたんは顔をくしゃくしゃにして、子供のように泣いていた。  
それに対して、蔵馬は真面目な顔を崩して、嬉しそうに笑う。  
瞬間、ぼたんの体がふわりと宙に浮く。  
「ひゃ!な、何!?」  
蔵馬に持ち上げられたのだ。  
一見すると細身のこの男は、存外に力強い。  
腕に座らせるように抱き上げる。  
「愛いな、お前は」  
恥ずかしげもなく、満足そうに笑ってぼたんを見上げて吐いた。  
「なっ、な!は、ははな、はな」  
ぼたんは耳まで赤く染め、まともに言葉すら紡げなくなって蔵馬の肩をペタペタと叩く。  
勢いがついて止まらなくなってしまった涙が銀髪を湿らせている。  
下に見る狐はそれすらいとおしげに見つめ、腕に力を込めた。  
離す気は微塵も見せない。  
弱々しい攻撃など気にも留めず、蔵馬はベッドまでぼたんを運んで座らせた。  
 
俯くぼたんの顔を覗き込み、慰めるようにその髪を撫でる。  
「もう泣くな」  
「だって、だってさ」  
薄桃の着物に水滴が落ちて、染みを作る。  
涙は止まらない。  
「やっとわかったのに」  
――いつも目が合うと嬉しくて、そばにいるとなんだかくすぐったくて、そんな自分が、少し不思議で。  
その感情の名前がやっとわかったというのに、その相手は自分の前から姿を消してしまう。  
いっそ気が付かなければ、こんな思いはしなかったかもしれないのに。  
「ずるい。ずるいよ、蔵馬」  
「うん?」  
感触が気に入ったのか、長いくせ毛を弄びながら首をかしげる。  
「なんで帰るなんて言うのさ……なんで気付かせるの……なんで」  
――ずっと一緒に、いてくれないの?  
「なんで……そんな平気な顔するの?あたしは」  
言葉を遮るように、ふわふわとした前髪の上から額へと唇を落とす。  
ほのかに紅い花が香る。  
「平気でもないし余裕もない。だからお前に気付いて欲しかった」  
大きな両の手がぼたんの頬を包む。  
あたたかかった。  
「だから、俺も伝えた」  
諭すようにゆっくりと、言葉を慎重に選びながら話す。  
「今日だけでもそばにいられたらいいと、そう思った」  
頬を包んでいた手が顔を上げさせて、親指で涙を拭う。  
伏し目がちに見つめる瞳がやさしい。  
「それじゃ、だめか?」  
視線が交わった。  
「だめじゃ、ない……」  
――本当にずるい。そんなこと言われたら……何も言えっこないよ。  
縋るように白装束を握る。  
「いい子だ」  
やわらかく、わらった。  
視線を辿るように、自然に唇がかさなる。  
 
互いのその場所に、ふわりとした感触だけが残った。  
 
 
 
 
 
 
 

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