はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…!  
 
 
――夜である。  
頼れるは青白い月明かりのみという、獣も寝静まる夜闇の中、遠く――否、追われる身の上としては、その距離はあまりに近く、  
見詰める先には夥しい数の松明の灯が徐々に――しかし確実に、かの者との距離を縮めていた。  
かの者――どうやら、人にはあらぬ者であるらしい。  
大きな身体に野党のような衣を纏い、額には長い鉢巻を巻いて繋ぎ目から前に垂らし、人の目をひくその硬質な白髪は  
男の足にまで伸びている。左頬には奇妙な刺青が施され、その姿は異様そのものである。  
その妖鬼は、傷を負っている。  
背には折れた矢が突き刺さり、頬には切り傷が左右に広がる。  
妖鬼は、その無数の松明を確認し、舌打ちをしながら踵を返し、森の中へと逃げ込んでいく。  
ただ、ひたすらに走り続けた。  
追っ手を逃れる為に、――己にこの傷を負わせた、陰陽師から逃れる為に。  
(くそ…俺とした事が…!!)  
心中で、妖鬼は己の犯した生涯に於いて最大の失敗を悔やんでいた。  
(まさか、人間如きに…っ…!)  
唇をぎり、と噛み締め、己を詰った。  
無理も無い。  
魔界では『闘神』の異名を持つ己が、よもや自分よりも遥かに戦闘能力も、感応能力も劣る種族である人間  
の小細工に引っ掛かり、このような手傷を負い、ましてこうも必死に逃れようとしているとは。  
油断した……そう思ったときには既に遅かった。  
今宵人間界――それも日の本の国の、京の都に降り立ったのは、一月程前に、それはそれは大層美しい姫君が  
京一の有力な武家へと輿入れするとの吹聴を耳に挟んでいたからである。  
今日はその輿入れの日――それ程に美しい女ならば、一目その姿を拝んでみたい――と。  
そして、妖鬼の本来の目的はその先――その花嫁を、花婿の目の前で食らってやろう――であった。  
妖鬼の中でも、食人鬼の類であるその鬼は、先日不敵にもその武家屋敷にその旨を伝える文を送り、  
武家屋敷の頭領やら家臣やらが慌てふためく様を、さもおかしげに眺めていたのだった。  
 
そしてとうとう今日輿入れの日を迎え、鬼は予告通り、それも敢えて式中には乗り込まず、  
夜を待って足を踏み入れた。  
本来ならば結婚初夜であるはずだが、かような妖鬼に花嫁の命を狙われているとあっては、甘い夜どころではない。  
物々しい数の武士達が、屋敷周りを取り囲み、主とその花嫁を守り固めているはず――鬼はそう思っていた。  
しかし、予想に反して、武家屋敷は何事も無いかのように、しんと静まり返っていた。  
常でさえも、二人ないし三人程の武士が、門番として控えているはずの、その大門にも猫の子一匹居ないのだ。  
鬼はその様子に、無力な人間が、一体何を企んでいるのかと、ほくそ笑んだ。  
考えられるとすれば、何か呪術的なものが仕掛けられている可能性が高い。  
魑魅魍魎どもが縦横無尽に町中をうろつき邪悪を尽くし、百鬼夜行が夜な夜な大橋の上を行き交う時代である。  
祈祷や呪いに優れた陰陽師も多いこの京の都においては、物の怪の類には呪術で応戦すると相場は決まっていた。  
そして、咋に武士たちを配置せずに、門も開け放ち、まるで邪鬼を誘うようなその堂々たる有様に、  
俺は不敵な笑みを湛えながら、近付いていった。  
誘いに、乗ってやろうと思ったのだった。  
陰陽師とて、たかが人間。  
人間風情が、この『闘神』に、どのような罠を仕掛けているのかと、興味をそそられた。  
罠の正体――『結界』であった。  
それも、神の力が宿りし神剣を中心に百八枚の呪符が五芒星を象っている。  
鬼には――その様が、目に映らなかったのである。  
おそらく、陰陽師の力によって、悪しき者の目には映らぬ様にしていたのだ。  
寝殿を取り囲むように貼られたその呪符が目に入っていれば、鬼は油断もしなかっただろう。  
まさか、これ程の結界を張れる者が、人間の中にいようとは。  
一歩足を踏み入れた瞬間、鬼は断末魔の叫びを上げた。  
身体が動かず、金縛りにあうと同時に、己の妖力が体内に封じられていくのがわかる。  
気が付いた時は、既に後の祭り。  
妖力を封じられては、どれ程に強固な肉体も、強大な力も、無力である。  
人間と変わらぬ程になった頃、闇に潜んでいた武士達が一斉に弓矢を鬼に向かって射る。  
その内、一本が鬼の頬を掠め、一本が鬼の背に突き刺さる。  
常ならば、矢の方が折れてしまうところであろうが、その矢には霊力が込められていた。  
 
その矢を射たのが、結界を張った陰陽師であるようだ。  
松明に照らされたその憎憎しい顔を、絶対忘れぬと心に決め、鬼は、  
必死に右手のみに持てる力を集中させ、かろうじて動かすと、  
呪符の一枚を剥ぎ取った。  
途端、結界は崩れ、どうにか呪縛から逃れ、――今に至る。  
人間を見くびりすぎていたらしい事を後悔する。  
少々の結界ではびくともしないこの身を、あれ程に束縛する呪術を使える者がいたか…。  
復讐を誓いながらも、今はどうにか追っ手から逃れようと、ただひたすら走り続けた。  
どうやら毒も仕込まれていたらしく、体力の消耗が激しい。  
この程度で死ぬ事は無いだろうが、今あの陰陽師とやり合うのは御免だった。  
情けないが、今は逃げるしかないのだ。  
言い聞かせながら、鬼は、森を抜けた先の、広い敷地に転がり出る。  
青白い満月の月明かりに照らされた辺鄙な場所に、ただ一軒の、殺風景な屋敷。  
都からは遥かに離れたこのような場所に民家があろうとは。  
鬼は急ぎその屋敷の戸を身体ごと転がり突き破り、炊事場らしきところに  
桶を見つけ、蓋をあけるや顔ごと溜まり水に突っ込み、水を喉奥に流し込んだ。  
体力を失っていたところに、この水の存在は有り難かった。  
だが。  
「何者じゃ!」  
声が響く。女の声――水中から顔を上げ、声の方へと殺気を込めて振り向いた。  
やはり、そこには女の姿――夜であるから、然るべきだが白い寝着を身に纏っている。  
肌は青白く、痩せ型で、長い黒髪は腰まで伸び、年のころは二十代後半といったところか。  
女は、手に持った蝋燭の光で鬼の姿を確認するや、見下すような視線で刺して見据え、嘲るような声でその存在の名を告げた。  
「ふん…物の怪か……何を迷うてここへ来た?」  
通常の女ならば、己の姿を見れば、悲鳴を上げるか卒倒するかのどちらかであろう。  
しかし、目の前の女は驚きもしなければ、怖れもしない――寧ろ、嘲るようなその目や口振りからただの女では無いと瞬時に悟り、  
鬼は桶から離れ身構える。  
威嚇するように呻くが、女は顔色一つ変えなかった。  
顔を水に一度浸した事で、再び流動性を取り戻した頬傷の血がまた滲む。  
女はそれに気付き、鬼を見ても無表情であったはずのその目が微かに見開いた。  
 
「怪我をしているのか…」  
そう呟き、まるでただの人間に接するかのように、鬼へと近付いていくのだった。  
鬼のすぐ側にまで近寄り、鬼に手を触れようとした、その時。  
鬼は、一歩下がり、勢いをつけて女の顔に、その鋭く尖った爪を持つ手を振りかざした。  
後少し、鬼が手を伸ばせば女の顔はその刃物のような爪でずたずたになっていたであろう。  
しかしそのような威嚇にも、女は怯まない。顔色一つ変えようとはしない。  
女が脅えるならば、きっと鬼は女をそのまま殺していただろう。  
けれど、畏れを知らぬこの女を、鬼は逆に己の方が畏れていたのかも知れない。  
つい先程、人間の持てる力を見せ付けられたばかりだったからだ。  
その上に、だ。  
「見せてみよ。治してやらぬ事もない。」  
「う…!?」  
『治す』、だと?  
この女、妖鬼であるこの俺の傷を治そうと言うのか?  
呆気に取られたように女を見詰めたが、その女の言葉を信じていいものか迷い、翳していた手を引っ込め、  
一瞬目を逸らした――のが、今日二つめの油断だった。  
「――ぐぁ!?」  
いつの間にやら、女は後ろに回り、早くも背に刺さった矢を抜き、傷口を確認している。  
しまった――そう思いながらも、どうやら女の、治してやると言った言葉は真実であったらしく、  
傷口を計り、どうやら鬼の身体には毒が回っているらしい事がわかると、傷口に唇を当て、  
毒を吸い出している。  
「…っ…!」  
傷口を通して、女の唇の柔らかさが伝わる。  
痛みとも、快感ともつかぬ感覚に、鬼は舌打ちしながら、その刺激に耐える。  
傷口を蝕む毒を吸出し、女は棚から壷に入った薬のようなものを取り出す。  
その薬は赤黒く、鉄臭く、毒々しく――まるで。  
『血』のようだ、と鬼は思った。  
「…何だそりゃ…薬か…?」  
こんな気味の悪い薬など、見た事が無い。  
最も、薬自体付けた事のない自分が、そう言うのもおかしいかも知れないが。  
 
「ふ…我が信じられぬか。まあよい。信じるも信じぬも、お前の勝手。  
後でお前自身の身体に聞くがよい。」  
言いながら、女はどろどろとしたその赤黒い粘液を、傷に塗り始めた。  
鬼は腹をくくり、女の行動を止める事はしなかった。ここまできてじたばたしても仕様が無い。  
女の絶対的な自信に溢れた物言いが、鬼を妙に納得させたのだった。  
治療を受けている間、鬼は最初から嗅ぎ取っていた女を纏う香が一層強くなるのを感じていた。  
嫌な匂いだ…鬼はそう思う。  
(この女…呪術師か…?)  
呪術師特有の香の匂い。  
呪術師や祈祷師、陰陽師といった類の人間は、魔の者からすれば天敵にあたる。  
この香は、魔除けの為に焚いていると言えよう。  
鬼が忌み嫌うのも無理は無い。  
「女。お前、巫女か…?」  
「…我は、食脱医師(くだくすし)…と言えば、わかるか?」  
――食脱医師。  
聞いた事があった。  
病は、『因果』『鬼神』の仕業とされているこの時代、治癒は主に修験者や巫女の仕事であった。  
食脱医師は、密教でも最も過酷な呪術を用いる者。病死した人間の腐肉を食し、体内で免疫を作る。  
そして自らの血肉を薬として同じ病に苦しむものの与える。  
どんな不治難病もたちどころに治すのだと、噂だけは聞いたことがある。  
まさか、本当に存在していたとは。  
「聞いたことがある。そうか…お前が…」  
「この薬は我の血だ。我の血肉そのものが薬となる。生来の呪術師の家系ではないから  
誰の病や傷を治そうとも自由。例えお前のような物の怪であっても…」  
れっきとした食脱医師の家系ならば、こうはいかぬぞ、と女は付け加えた。  
それはそうだろう。  
代々続く優れた食脱医師の血統ならば、大体は将軍や朝廷付きとして召抱えられているはずだ。  
そうであれば、己のような妖鬼がどれ程傷つこうと死に掛けようと、助ける事は相成らぬはず。  
このような辺鄙な場所で暮らし、己のような鬼を助けようとするあたり、  
この女はおそらく貧困や流行病に苦しむ下々の民を助ける事に重きを置いているのだろう。  
面白い女だ、と鬼は薄く笑った。  
こんな女は初めてだった。  
妖鬼である己を見ても畏れる事無く、まして自分を殺すかも知れぬ相手の傷を治癒までして。  
たかが、人間の女が――  
 
鬼の心に、浅ましい欲望がふつふつと湧きあがる。  
このつんと澄ましたお高い女が、己を嘲るように見るこの人間が、嬲られ、陵辱され、食い千切られる痛みに喚き、  
命を乞い、死の恐怖に脅える様は、どれ程に官能的だろうか。  
鬼の唇が、残酷な笑みを象る。  
治療が終わり、包帯を肩からぐるぐると巻かれ、しばらくすると随分と痛みが和らいでくる。  
本当に女の血は薬となるらしい。  
『お前自身の身体に聞け』と言っていた女の科白は伊達ではないと実感する。  
『早くここから立ち去れ』と言った女の言葉を無視し、寝室に戻り、蚊帳越しに布団に入って  
横になる女について、鬼も寝室へと入り、片膝を立ててどっかりと座り込んだ。。  
しばらくの間、己に背を向けて眠っている女を見詰めながら、蚊帳の外で痛みが完全に引くのを待っていた。  
折角ならば、痛みを気にせずに楽しみたいではないか。  
痛みが引くまで、そう時間は掛からなかった。  
本当によく効く血だ……鬼は内心でほくそ笑んだ。  
今がその時、と、鬼は蚊帳を開き、膝立ちでじりじりと、女に近付いていく。  
欲望のままに、この女を自分のものにする為に。  
女のすぐ側まで近付き、再び女に向かって己の大きな掌をかざした、その時。  
 
「――どうした?腹が減ったか?」  
「――っ…!」  
 
起きていたのか。  
否、それよりも。  
やはり、その声色には畏れが微塵も含まれてはいない。  
己の考えを見透かしたような、見下すようなその物言いに、再び鬼は怯む。  
力という面では、比較する事さえも馬鹿馬鹿しい程の能力差。  
殺そうと思えば、いつでも殺せる。  
なのに、鬼は怯んでいた。  
今一歩のところで、手がそれ以上伸びないのだ。  
金縛りにでもあったかのように、身動きが取れぬ鬼の姿を知ってか、女は身体を起こし、  
布団の上に立ち上がる。  
そして、そんな鬼の姿を確認するや、女はぞくりとするような笑みを浮かべ、  
先程以上に、見下す目に凄みが走る。  
そして、鬼にこう言うのだ。  
 
「我を食らうと申すか?面白い」  
嘲笑うかのように、身に纏っていた着物をはだけると――鬼の目に止まるは張りのある豊かな二つの膨らみと、  
その下の、――醜く削げ落ちた皮と、えぐられた肉と、幾重にも刻まれた傷痕。  
月明かりに照らされた――古いものから、つい最近に刻まれたのであろう、生々しいその傷痕は、鬼の目を釘付けにした。  
「我が体内は毒の壷じゃ。我を食らわば、お前の腹など、夜明けを待たずにただれ落ちるぞ」  
「――ぁ…!」  
おそらく、その女の言葉が真実であろうということは、はっきりと理解できた。  
この女には手出しできぬ事を、思い知らされた瞬間であった。  
「お前如き野蛮な物の怪に手に負える身体ではないわ。食らえるものなら食ろうてみよ」  
鬼は、食らう事が出来なかった。  
食えば、死ぬ。  
けれど、その時はそれ以上に、女に完全に気圧されていた。  
この女の持つ、異様なまでの迫力と、絶対の自信――鬼は、身動きさえも取れなかった。  
「ふふ…どうした、食らわぬのか?」  
女はそれ見たことかと嘲笑いながら、、月が雲の間に隠れ、室内に暗闇を呼び込む中で  
肌蹴た着物を再び着込みつつ、その場に正座する。  
物の怪と、人間――世間一般として、常に対峙して有るその光景とは、全く逆であった。  
鬼は怯み、人間は尚も饒舌に、鬼を愚弄し続ける。  
「では、殺す事なら出来るだろう。やるがよい。――そしてとっとと立ち去れい!!」  
「――っ!!」  
鬼は、女のその気性に、身体がびくりと強張った。  
「だが、その瞬間お前は食人鬼の誇りも本能も失うのだ。」  
――女の言う事に、違いは無かった。  
『闘神』とまで謳われた己が、まさかこれ程までに、人間の女に圧倒されようとは。  
女を食らう気など、とうに失せた。  
そして、殺す事も、己の誇りにかけて出来ぬ。  
だが、ふつふつと、先程とは全く違う想いが、心から湧き上がってくるのを鬼は感じ取っていた。  
それは、今まで感じた事がない程に甘美で、切なく、――じんわりと染みてくるような、淡くも激しい情念。  
この、想いは…。  
しばらく――と言っても、それ程の時間ではなかっただろう、互いに見つめ合いながら――  
 
女は鬼を蔑むように睨みつけたまま――先に、行動を取ったのは、鬼の方であった。  
「…ふ…」  
強張っていた表情を緩め、鬼は己の心に忠実な行動を取る事に決めた。  
すると、途端に金縛りは解け、鬼はどさ、と腰を畳の上に沈めた。  
「…諦めたか。」  
女は、勝った、とばかりの笑みを浮かべた。  
鬼は、内心で、『ああ、俺の負けだ』と告げる。  
けれど、これだけは、負けるわけにはいかない――鬼は胡坐をかきながら、女を見詰めた。  
「…?」  
女は、鬼の自分を見る目が一変した事に気が付いた。  
先程までの脅えの色は消え、邪悪なる色も失せ――言うならば、まるで、懇願するような、切ない眼差し。  
一体、何だというのだ…?  
「――女、頼みがある。」  
…頼み?この鬼が?  
欲しいものがあれば、奪って逃げていけばいいであろう、そしてそれだけの力を持っているであろうこの物の怪が、  
我に、頼み、だと?  
何をふざけた事を、と言いそうになったが、言えなかった。  
この鬼の雰囲気……ただ事では無い。  
先程とは、打って変わって真剣そのもの。  
しかも、物の怪が、人間である自分に、どのような頼みを持ちかけるのか、少々興味深くもある。  
「…いいだろう。聞けるものならば聞いてやる。申してみよ。」  
言うと、鬼はその大きな、鋭い爪を持つ掌を、そ、と女に近づけてくる。  
けれど、それは先程までの、女を傷つける為の動きとは全く違っていた。  
女は相も変わらずに怯まぬが、鬼は打って変わって、ゆっくりと――女の肌を傷つけぬように、  
指の腹で、女の頬に触れる。  
 
「女……お前――今宵一晩俺の女になれ。俺の、ものになってくれ。」  
 
鬼の申し出――それは、女の想像を遥かに超えたものだった。  
女が、初めての動揺を見せた。――とは言え、目を僅かばかり大きく見開いた程度のものだったが。  
「何、をいう。食う事もならぬ、殺す事もならぬ、故に、身体だけでも陵辱する、という事か…?」  
 
一瞬の動揺の後、すぐさま冷静に、この鬼の心理を考えると、そういう結論に辿り着く。  
その結論に、女は絶対の自信を持っていた。  
けれど。  
「違う。陵辱じゃねぇ……俺と、契りを交わせと言っているんだ。お前を俺のものにする代わりに、  
俺もお前のものになる。…だから、頼む。」  
言いながら、女から手を離すと、鬼は胡坐をかいた膝に手をついて、深々と懇願するように頭を下げる。  
圧倒的に力の勝る物の怪が、人間である自分に必死に乞うその姿は、哀れさえも誘うが…。  
(…油断は、出来ぬ…!)  
女は、鬼をキッと見詰める。  
一体、この鬼は何を考えている?  
食えぬ、殺せぬ、ならば身体が目当てかと聞けば、自分の情も欲しいと言う。  
契りを、交わせと――情を交し合え、と、そう願う。  
何故だ。  
まさか、自分を情に溺れさせ、利用しようとでも?  
否、違う――ような、気がする。  
この鬼は、そのような小賢しい真似をするような気性はおそらく持っていまい。  
出会って、ただの二時間程で、何故それがわかるかと問われれば反論は出来ないが、  
自分は人を見る目、人の本性を見抜く洞察力は、人一倍長けているはずであった。  
では…考えられるとすれば、…まさか、本当にこの鬼は自分に懸想したとでもいうのか?  
何故に?  
今まで、どのような男も、物の怪さえも、自分には近寄ってこようとはしなかった。  
そんな自分に、何故、この鬼は。  
「…、何を勝手な……先程まで、我を食らおうとしておったでは無いか。  
そんな悪鬼を、信用できるわけがあるまい?」  
そう、信用してはならない。  
まだ、確信を得るまでは。  
「…すまなかった。…けど、嘘じゃねぇ。――頼む…!」  
真摯な言葉に、必死に懇願するその姿に、女はぐらり、と心が揺れる。  
何なのだ…この、心のざわめきは…?  
胸が、とくん、とときめいた。  
まさか、とうに捨てた女が、こんな鬼の戯言に呼び覚まされたとでも?  
ばかな、と、思い直し、再び鬼に向き合う。  
 
「世迷言を……女なら他にいくらでもおるだろう?女を抱きたいならば他を当たればどうじゃ?  
何も、我のような者を選ばずとも…」  
「――っ…!俺は、お前しかいねぇんだ…!!」  
――それは、確実に。  
他の誰が聞いたとしても、確かな口説き文句に相違なかった。  
他の女ではだめなのだと。  
そう、言われたのだ。  
戯言――そう割り切ろうと思っても、自分の中の、蘇りつつある女の性が、その言葉に絆されつつあった。  
鬼、とは言え、これ程に乞われて、心一つも動かされぬ女がいようか。  
鬼は、頭を上げようとしなかった。  
自分がここでこの頼みを受けねば、一晩中こうしているのではないだろうか、と思わせるほどで。  
(仕方…あるまいな…)  
それは、この鬼の情念に負けて――そして、己が内に目覚め始めた女に負けて。  
双方、どちらが欠けても、成り立たぬ結論だった。  
「…いいだろう」  
女の言葉に、鬼は顔をがば、とあげる。  
「…本当、か…?」  
女の答えを、再確認するように問い返してくる。  
そして、女を、期待を込めた眼差しで見詰めるのである。  
その単純な心の動きが素直に読めて、女は何だかおかしくなった。  
そして、鬼を煽るように、こう告げた。  
「ああ…本当じゃ。全く…つくづく愚かで物好きな物の怪よ。我が欲しいというのなら、そうしてみるがよい。  
出来るものなら、な…」  
女は、不敵な笑みを浮かべ、土下座をしてまで己を口説いた面白い鬼を見詰める。  
ただ、勿論だが、鬼の頼みを了承したところで、今でも油断している訳ではない。  
いつ気心変わるかも知れぬ食人鬼を前にして、完全に信用してはなるまいと、自分自身には言い聞かせている。  
けれど、目の前のこの鬼の言葉は、自分を口説くその姿は、必死そのもの。  
所詮は一時の気の迷いであるのだろうが――その一時でも、この自分に懸想するとは、  
この鬼は鬼の中でも更に変わり者であるらしい。  
そして、変わっているのは、己も一緒…。  
こんなあやかしの言葉に絆されようとは…  
 
「――っ…!?」  
言うが早いか――女の唇は鬼――否、ただの男に成り下がった者のそれによって、塞がれる。  
頬に触れた掌は優しく、女を傷つけぬように、口付けを交わす。  
「ん…!」  
触れるだけの口付けから、徐々に深く、男の舌が、女の口内に忍び込み、舌を絡めてくる。  
くちゅ、くちゅ、と唾液の絡まる淫猥な音が響いていた。  
己の中に蘇えりかけていた女の存在が更に大きくなっていく。  
この胸の動悸が、それを語りかけていた。  
男は執拗に唇を重ねてくる。  
甘く痺れる感覚が女を襲う。  
けれど…  
(そう、…簡単に…堕ちる訳には…)  
つい先程、『出来るものなら』と、男を煽ったばかりであった。  
自分は、あくまで冷静でなくてはならないのだ。  
自分は熱くならずに、この男を熱くさせ、自分は男のものにならずに、男を自分に平伏させなければ。  
情欲に溺れるなど以ての外。  
青白い月が再び雲より出でて、互いを照らし出す。  
濃厚な口付けを終え、唇を離すと、互いを繋ぐ唾液の筋が名残惜しげに、つ、と糸をひく。  
男の、女を見る目は情欲に染まっていながらも、どこか切なく、憂いを湛え、まるで、焦がれているように見えた。  
その目を見ても、女は『まだ』、と己を叱咤する。  
これは、もはやこの男を信じる信じないというよりも、女を捨てた身の上としての、意地のようなものなのかもしれない。  
内に潜む『女』を抑えこみながら、女はわずかばかりに乱れた呼吸を整える。  
官能的な口付けにも、顔色を全く変えぬ女を見て、男はふ、と口端を吊り上げて薄く笑み、  
先程見た女の肌を再び拝まんと、男は女の着物に手を掛けた。  
女は、何の反応も示さない。抵抗する気配も無い。  
ただ、無表情に、冷ややかな目で男の取る行動を見詰めていた。  
しかし、女のその態度は、男の情欲を更に掻き立てた。  
そんなところも、男には好ましかった。  
もともと簡単に堕ちる女だとは思っていなかったし、そう簡単に堕ちてしまっては、時間を掛ける価値がない。  
一晩――まだまだ、時間は残されている。  
愛しい女を、乱れさせてみたい。己の、この手で。  
 
ゆっくりと、着物を肌蹴さすと、再び先程見た美しく張りのある乳房と、その下の腹の痛々しい傷痕が目の前に現れる。  
月明かりに照らされたその傷痕を見ながら、男は思う。  
この女は、一体どれ程の痛みを堪え、生きてきたのだろう、と。  
身体つきから見ると、非常に女らしく、柔らかそうな肌、華奢な骨格、艶やかな長い黒髪といった、  
『女』以外の何者でも無い。  
生来の呪術師の家系ではないと言ったこの女が、何故にこの過酷な食脱医師としての生を選択したのか、  
それはわからない。  
けれど、この深い損傷は、この女の生き様そのものを現しているように思えた。  
本能で人を食らう己とは違う――自分の意志で人を食らい、更に己の血肉を、病める者に分け与える。  
この女が、自分を蔑む目で見詰める理由がわかる。  
この女に比べると、己という存在が、どれ程貧弱であるものか…。  
男は目を細めて女の裸体を眺め――意を決したように、女を布団の上にゆっくりと横たえた。  
そのまま覆いかぶさると、女がたおやかな両の腕を伸ばしてくる。  
男の硬質な長い髪を掻き分け、男の首筋へ手を絡ませるその仕草は、たまらなく扇情的だった。  
己を煽るその女を見詰めると、女も真っ直ぐに男を見詰め返し、男がす、と息を詰めると、  
女はにこり、と、艶やかに、極めて挑戦的に微笑んだ。  
言葉通り、『出来るものなら、やってみよ』と、そう挑発しているようだ。  
男は、その挑発に乗る事にした。  
己が出来る限り、知る限りの手を尽くして、この身体全体で、この己の言葉で、己の持てる精一杯の優しさと、  
溢れんばかりの恋慕で以って、この女を己のものにしてやろうと、そう思った。  
敬虔な気持ちで、まるで壊れ物を扱うように、男は女の豊かな乳房に手を掛けた。  
爪を立てぬように、指の腹を使い、その柔らかさを確かめるように、じっくり、と。  
「――っ、…!」  
その手の動きに、女は思わず息を詰めた。  
信じられない程に、男の愛撫は繊細だった。  
実際、この鬼に抱かれると決まった瞬間から、とうに痛みは覚悟の上であった。  
その指先から鋭く伸びる尖った爪――他者を切り裂く為に研ぎ澄まされた鋭利なそれを  
この身に受ければ、間違い無く血は流れるだろう。  
しかし、食脱医師として、この身を己が手で切り刻み、血や肉を病人に薬として与え続けた  
この身体、痛みには慣れている。  
少々身体を傷つけられたところで、騒ぐようなものでは無い。  
だから、この情交には快楽などないだろうと――あるとすれば、身を引き裂かれる痛みのみであろうと、  
腹をくくっていた。  
それなのに。  
 
「は…っ、っ…!」  
女の意に反して、唇からは微かに乱れた呼吸が漏れる。  
ゆっくりと乳房を揉みしだき、尖りつつある先端の突起に唇を寄せ、ころころと舌先で転がす。  
その尖りを確かめるように、突起の下からぬるる、と舐めあげる。  
「っん…」  
女から艶めいた声が漏れると、男は更にその行為を激しくさせる。  
淡い突起を口に含み、吸い上げると、女の身体がびく、と強張る。  
「――っ…!!」  
男はその反応を見て、ふ、と笑う。  
おそらく、この女、食脱医師としての道を選んだ瞬間より、女としての生を捨てているだろう事は  
想像に堅くない。  
けれど、どれ程快楽に抗おうと、己を押さえ込もうと、やはり身体は女なのだ。  
触れられれば感じ、感じれば蜜を垂らす。  
男を受け入れられるように、身体は出来ている。  
これに心が伴えば――この上の至福はないであろうに…。  
そんな切な願いが、男の頭を掠めていく。  
一晩でいい、俺のものになって欲しい。身体だけではなく、心も、俺にくれたなら。  
絶頂を望むのならば、何度でも味わわせてやる。  
深き業を背負った身の上ならば、今この刹那だけは、その業を忘れさせてやる。  
だから…俺を…!  
男は、そんな想いを込めて、女の身体を執拗に愛撫していく。  
指の腹を使い、舌を使い、唇を使い――女の身体を、徐々に慣らしていく。  
「ん…は…!」  
焦れた愛撫に、女が微かに身を揺する。  
何という巧みさだろう。  
まるで、抑えこんでいた女の本性を引き擦り出そうとするかのような、男の愛撫に、女は徐々に吐息を乱していく。  
(この、我が…)  
こんな男に――翻弄される日が来ようとは…。  
こんな行きずりの、妖鬼に――  
「は…ぁ…!」  
柔らかな乳房が、男の愛撫に合わせて奇妙に形を変えていく様が、男の目を楽しませた。  
 
女の頬に赤みが差し、感じ始めた快楽に目は潤み、物欲しげに身を捩る。  
そして、男は更に下へと、その興味を注いでいく。  
女の腹の、傷痕。  
通常の男ならば、この痕を見てたじろぎ、触れようとはしないだろうが、残念ながら男もまた普通ではない。  
女の、名誉の負傷とも言えるその傷を――古いものから順に、舌先でなぞっていく。  
「――ひぁ…!や、め…!」  
女は、男の動きに驚き、力が抜けつつあった身体を、男から離そうとする。  
けれど、男は女の手を押さえつけ、傷口への愛撫をやめようとはしない。  
傷痕はこの上無く感じる――それは、先程の治療中に、己自身がその身を以って証明した事だった。  
傷口からは微かに血の匂いがした。  
好ましい、と男は思う。  
「んぅ…くっ…、あ…!」  
傷口から脳に届く、甘く痺れるような官能。  
そして、その官能が更に下半身へと伝達し、じわり、と女の秘所に蜜を滴らせていく。  
はぁ、はぁと、女は篭る熱を吐き出すように、艶めいた息を漏らす。  
また、精一杯に、それを我慢しようとする仕草、が。  
(色っぽい…な…)  
男の情欲を、尚も駆り立てていく。  
この女しか、いないと思った。  
己の全ての欲望を満たしてくれる女――この女を一晩でも俺のものに出来たなら、俺にとってはそれは今生に於いて  
二度と味わう事の無いであろう至福の時。  
男は、ゆるゆると下腹を撫でながら、その唇を、――女の、既に潤いを含んだその秘所へと寄せる。  
「ふぁっ…!」  
甘美な光景だった。  
今から男を受け入れんと、溢れる蜜は月明かりに艶めかしく照らされ、生々しさに男は昂ぶる。  
「…、濡れてる、な…」  
わざと、吐息が其処に吹きかかるように唇を近づけて言う。  
男の吐息が性器に掛かり、女はもどかしい官能に、また身を揺する。  
女を捨てたこの身、先程のように自ら男に裸体を晒す事など何でもなかった。  
それに羞恥の感情など、露にも湧きあがらなかったはずなのに――  
 
自分の秘められた箇所をこうも暴かれては、流石の女も恥じらいに、手の甲で目を覆った。  
男は、そんな女に、一つだけ、聞いてみたい事があった。  
答えはおそらく決まっているだろうが、それでも確認したい。  
そして、これから先の事も。  
「なぁ、女」  
「っ…?」  
男の、真剣な声色に、女は目を覆う手を除けて、自分の性器に顔を寄せている男を見る。  
男は顔を上げていた。  
自分と比べ、男は息一つ乱してはいない。  
僅かに悔しさが込み上げたが、男の言葉に、女は思わず目を丸くした。  
「お前、俺以外の男とこうしたことはあるか…?」  
「っ、な…」  
何を、と女はそう口に出しかけた。  
突然、何を言い出すのだ、この男は。  
こんな最中に、よもや女の経験を聞きだそうとするとは――  
野暮だ、と、そう思うも、男のその態度は真剣そのもの。  
どう答えればよいか迷うものの、ここは正直に話しておいた方がよいのだろう、と女は思った。  
「…ふ……このような人の死肉を食らうような、女に…近寄る男など……  
お前位のものでは、ないのか…?」  
皮肉を込めて――男にそう言ってやる。  
暗に、お前が初めてとの意味を込め。  
「…そうか…」  
男は、蔑むような目を向ける。  
女は、その蔑みの目が自分に向けられていると思い、悔しさが込み上げてくると同時に、  
心がどうしようもなく傷ついたのを感じた。  
やはり、抱かれてなどやるものか、と女が思ったその時。  
「…世の男は、どいつもこいつも、余程女を見る目が無いと見える。愚かな奴らだ。  
――こんないい女を、綺麗なままにしておくなんて、勿体ねぇことこの上ない。」  
男は、そう言って、嬉しそうに笑うのだ。  
女はそれに、心が鷲掴みにされたような感覚に陥った。  
己が、初めての男だと確信した男の、その嬉しげな表情。  
 
今まで、誰も気味悪がって、病気でもせねば近付いてこず、妖魔でさえも、自分を避けて通るというに。  
「それを聞いて安心した。ならば…今生…俺以外に、お前に触れる男もまた、いるまいな…」  
言いながら、男は顔を落とし、蜜滴る女の秘裂に――舌を這わせる。  
「――ひぁぁっ…!」  
びくん、と女は顎を仰け反らせる。  
唐突に訪れた、男を知らぬ女にとっては強すぎる刺激。  
舌先でなぞられ、舌を差し入れられ、男を受け入れる為の器を徐々に解していく。  
女はただ、その甘い快楽に脅え、よがる己を叱咤しながらも、どうしようも無く乱れ狂わされていくのを  
ただ享受するしか出来なかったのだ。  
本当に、変わった男だ…。  
鬼でありながら、自分のような人間の女をそれ程に欲するか。  
男の独占欲を垣間見、女は己の心がこの上無く、満たされていくのを感じていた。  
女として、一人の男を縛り付ける快感と優越感。  
これ程に乞われ、これに堕ちぬ女などいようか。  
女の中で芽生えた『何か』が、女をついに陥落させる。  
――いいだろう。鬼よ、我はお前を信じよう。例え、一夜限りの気の迷いであったとしても、  
今宵一晩だけは、お前の心が真実であるのだと、我を錯覚させ続けよ。  
その言葉、その心、その身体、全てを以って甘い毒とし、我をお前のものとせよ――  
それきり、女は、己の全てを放棄した。  
意地も捨て、誇りも捨て、ただ男の求めるがままの、ただの女に成り果てる。  
「っ、あ、ああ、あ…!」  
男が女の未だ不可侵である秘裂を割って、膣奥まで舌を差し込んでいく。  
きつく、狭い女の胎内は、濡れてはいても、男を受け入れるのは容易ではないだろう。  
男は、少しでも自身を受け入れる女の身体に負担が掛からぬように、と、しつこいまでの  
愛撫を繰り返した。  
膣壁を舌で押し広げ、女が特別に感じる場所を特定し、そこを舌先で押さえつけると、女は  
艶めいた嬌声を上げる。  
伴うように、熱い蜜が奥から奥から溢れてきて、男の顔を汚していく。  
くちゅ、くちゅ、と卑猥な音が、静かな夜風に紛れて男と女の耳に届く。  
女の羞恥の高まりと共に、それ以上の愉悦が女を襲う。  
 
男は、舌を引き抜き、秘裂よりも少し上で、ひっそりとその情欲を訴える熟れた肉芽を、唇に挟み、ちゅ、と吸い上げると。  
「ひぁぁぁっ!あっ、う、や、ぁ…!」  
びくびくっと女は震え、苦しげに眉根を寄せながら、息も絶え絶えによがる女の姿を見て、男は満足げな笑みを浮かべる。  
――不思議な感覚だった。  
今まで、相手が人間であっても、妖怪であっても、ただ欲望のままに、本能のままに  
女を犯し、このように女を気遣う事など、皆無であった己が。寧ろ、泣き喚く女の姿に、官能を見い出していたこの俺が。  
これ程に、己の欲を抑え付けながらも、女の身を案じるとは。――ざまぁない、な…。  
(…潮時…か…)  
それは、女に対する愛撫に対するものであるのか、それとも、好き勝手にやってきた己の行動そのものに対するものであるのか――  
男は、顔をあげ、再び女の身体に覆いかぶさる。  
女を見下ろすと、女の顔は既に情欲に蕩け、目は潤み、吐息は艶めかしく乱れ、頬は朱に染まり、  
しっとりと汗ばんだ乳房は呼吸に合わせてもどかしく揺れ、更なる快楽を求める身体は、遣る瀬無さそうに震えていた。  
女の扇情的なその姿は、男の理性を焼き切るには十分だった。  
女は物欲しげに男を見詰め、――更なる快楽を求めているようだった。  
(これに、抗える男がいるか――)  
男は、忙しなく腰紐を緩め、既に痛いほどに張り詰めた怒張を取り出す。  
赤黒く、ひくり、と戦慄く醜い肉棒が、女の目に入る。  
女は、それにす、と息を詰めると、ふい、と横に顔を背け目を瞑り、手の甲を額に寄せる。  
怖いのか、と男は思った。  
この女にも、畏れるものがあったのだと言う事に、男は女の意外な一面を垣間見たようで、嬉しくなった。  
「怖いか…?」  
男は、女に問うた。  
例え、そうであっても今更止める気は無かったが、女の覚悟も知りたかった。  
女は、目を開け、再び男を見上げた。  
怖いか、と聞かれ、女は惑う。  
確かに、怖くないと言えば嘘になった。  
男の欲そのものが怖いのではない。  
それを受け入れたとき、女は自分が自分自身でいられるのかどうか、何かが変わってはしまわないかと、  
それが怖くなった。  
畏れるものなど、なにも無いと思っていたこの我が――女はそう思った。  
けれど、もう後戻りはすまい。  
女は、覚悟を決めたのだ。  
 
「ふ……人を食らう程の物の怪が、我の身を案じると申すか…?  
我が欲しいのだろう?ならば、とっととそうするがよい……出来るものなら、な…」  
女は、艶やかに笑みながら――苦しい息の下、不敵にそう囁くのだ。  
相変わらず、男を見下すような目で見据えながら。  
男は、この後に及んで尚、気高さを失わぬ女に、この上無い愛しさが込み上げてくる。  
男もまた、に、と不敵に微笑んで、女の脚をゆっくりと開き、濡れた割れ目に自身をあてがう。  
「――っ…!」  
舌とはまた違う、確かな質量と硬さを持ったその感覚に、女は息を詰めた。  
――今から、これが我の身体に入るのか……その刹那、我はこの男のものになれるのだろうか…  
女は、静かに目を閉じ――それを合図に、男は自らの肉欲を、女の中にそろりと挿し入れる。  
「――うっ…!!」  
痛みには、慣れているはずだった。  
けれど、それでも女は声を上げた。  
表面の皮を切り刻む痛みとはまた違う、身体の芯を、貫かれるような痛みに襲われ、  
焼け付く様な男の熱はまるで身体の中に火を点けられたような感覚を女に与える。  
そのあまりの太さと硬さから、女は身を揺すって逃れようとする。  
「っ、逃げるな……まだ、これから、だ…、力を抜いてろ…」  
「あ、っ…!」  
ぐ、と更に深く腰を押し込まれ、女は息を詰めた。  
胎内を圧迫してくる異物感に対する怖れと痛みに、涙が出そうになるのを、必死に堪えた。  
これぐらいで泣いてなるものか、と、女は必死に自分に言い聞かせていた。  
男の肉棒が半分程入り、男はふぅ、と息を吐いた。  
目の前で、愛しい女が必死に痛みを堪え、己を受け入れようとしているのだ。  
嬉しくないわけがない。  
本能のままに、女を犯したい衝動に駆られるが、それはまた後でいい。  
今はまだ、女を慣らさなければ。  
己が、この女しかいないと感じたように、女にも、この男しかいない、と、そう思わせてみたかった。  
だから、男は待った。女が落ち着くまで。  
裂かれるような痛みが治まるまで、と。  
 
「っ、は……ん…!」  
男は、女の喘ぐ唇を自らのそれでそっと塞いだ。  
宥めるように、自分の想いを、精一杯に伝えるような、そんな口付けを繰り返す。  
長い時間をかけたその甘い口付けに、女は絆されたように身体の力を抜いた。  
男はそれを、胎内に在る己自身で感じ取り、――また、腰を深く突き入れた。  
「あぅっ…!」  
それでも、女は声を上げる。  
慣れてくれば慣れてくるで、また先に進むと、新たな痛みが沸くのは至極当然だった。  
一旦、そこまでで男は侵入を諦め、今度はじわじわとそれを引き抜いていく。  
女はそれに一瞬安堵するも、完全に引き抜かれる寸前、また男は勢いをつけて女の奥を貫いた。  
「ひぁぁ!!」  
胎内を犯す熱い質量――女は、身を捩って、その感覚を受け止める。  
苦しくて、熱くて、痛くて――しかし、裏腹に身体の奥から込み上げる悦びが、女の中を満たしていく。  
「ん、あ…!」  
更に深く、男は女の中を抉じ開けていく。  
その狭さに、男も息を詰める。  
もう少し、…!  
「ア…っ…も…入、らぬ…!これ、以上、は…!」  
女が、とうとう許しを請う。  
男の先端は、既に子宮にまで到達している。なのに、尚も執拗に奥へと突き入れようとする男の真意が掴めない。  
「まだ…入るさ…」  
男は、ゆるゆると愛しげに女の下腹を撫ぜながら、そう囁く。  
そう、まだ、限界には早い。  
女の身体は、そう作られている。  
男の堕落を、誘うように。  
「あ…あああっ…あ…!」  
「く……!」  
根元までを女の膣内に深く深く収め、男もその快感に低く呻いた。  
愛しい女の胎内は、男を絡め取るような動きこそまだ無いが、それでも初めての女特有の、その狭さときつさが、  
男の理性を食らおうとする。  
根元までずっぷりと咥え込まれ、男はその淫靡な光景と愉悦に、この上ない至福を感じた。  
 
「は…ぁ…!」  
痛みと圧迫を堪え、女は震える手をやり場無く空に彷徨わせる。  
男は自らも手を空に差し出し、女の手を誘うような動きを見せ、――互いに手を絡めあう。  
同時に、女の身体も、男を受け入れ、快楽を得ようと、――女の性が、目覚め始めていた。  
「ん、はぁっ…あ…!」  
「は…っ…!」  
男は、女の中を犯し始める。最初はゆっくりと、男の大きさを、太さを、熱を、その卑猥な感触を刻み込むように  
にゅるる、といやらしくねじ込み、また引き抜いていく。  
女は、その男の動きが堪らなかった。  
痛みや苦しさが、快楽にとって代わられていくのに、女は気付き始めていた。  
そして、女は観念したのだ。  
(気持ち…いい…)  
膣内を擦られる度、その先端が、子宮の奥の奥までぶつかる度、意識が飛びそうになるのを  
女はどうにか堪えていた。  
(こんな、こんなに、も…!)  
痛みばかりの生を生きてきて、このような快楽の存在も知る事無く――女としての性を、押さえ込んできた  
自分が、まさかこの鬼によって、その存在を教えられようとは。  
「あっ…ああ、んん…!」  
きゅう、と切なく絡みつく肉襞が、男の快楽をも助長させていく。  
その膣襞の動きで、男は女が快楽を得た事を知る。  
ならば、それで己の役目は終わる。  
後は、本能のままに、目の前で快楽に溺れる女を見詰めながら、互いに絶頂へと這い上がっていくだけ。  
男の目に壮絶な色が宿る。  
男は、女の中を犯す速度を上げ、べっとりとまとわりつく女の膣の動きを楽しみながら、  
幾度も幾度も抜き差しを繰り返した。  
「あ、あ、あ!はぁ、く、ぅ…!」  
女にすれば、それはあまりに激しい快楽だった。  
じゅぷ、じゅぷと、互いの粘膜が擦れる卑猥な水音が耳を犯す。  
気持ちよすぎて、でも苦しくて、壊れてしまいそうだった。  
自分が自分でなくなってしまいそうな恐怖にも襲われ、思わず涙が一筋零れた。  
男はそれに気付き、女の涙を舐め取る。  
 
女の両の腕を首筋に絡みつかせ、男は女を抱き締めながら、その交わりを更に深く、激しくしていく。  
性器のみの交わりでは無く、肌と肌を一部の隙間無く密着させ、すっかり火照り汗ばむ体を摩擦させ、  
身体全体を使い悦楽を貪る。  
男は、この時とばかりに、女の身体の全てを味わう。  
そのたわわな胸の柔らかさを、やせた鎖骨を、艶かしい長い髪を、汗ばんだ肌を、  
筋の通った背骨から柔らかな尻にかけて、その下で、男の肉欲の全てを咥え込んだ穴の中まで――全て。  
――お前の全てを…俺のものに…!  
男は、唇を噛み締めて、女の中を貫き続ける。  
容赦なく、女が呼吸する間さえも与えず、快楽の絶頂へと、互いを高めていく。  
「あ…っ…――っ!!!」  
女が達し、男も同時に息を詰めた。  
女の中が急激に男を締め付けてくる。その全てを、搾り取ろうとするかのように。  
男は躊躇する事無く――短く息を詰めると、肉棒が一瞬大きくなり、女の膣を目一杯に押し広げ、  
女の中に自らの熱をどくん、と注ぎ込んだ。  
「は、ぁ…!」  
女は自らの胎内に注ぎ込まれる子種の存在を確かに感じ取り、遣る瀬無さに身を戦慄かせていた。  
熱い白濁が、胎内を逆流していく感覚に、女は妙な虚しさを覚えていた。  
(これで…もう…)  
「――っ…ぅ…!」  
射精し尽し、その想いを遂げた男は、女を布団に横たえた。  
女は、男の熱が離れていくと、冷ややかな夜風が身体に沁みていくのを感じた。  
まるで、身体が泣いているようだった。  
絶頂の波が通り過ぎ、互いの荒い呼吸が静かな室内に響いていた。  
――これで…終わったのか…。  
あまりにも、刹那的な快楽……終わってみれば、男と交じり合っていた時間など、さして  
長くもなかったのであろうことを、偶然目に映った月の移動距離にて女は知る。  
…このような切ない事を…世の女達はいつもしているのか…。  
切ないからこそ――恋焦がれるものなのかもしれない。  
女は、そう思った。  
けれど、女はふと、ある事に気が付いた。  
 
行為が終わって、もう三分とはいかぬが、それに近い時間は立つはず。  
しかし、男は自分の中から引き抜く様子が無い。  
それどころか、男の目は未だ情欲の色を失ってはおらず、女が正体を取り戻すのを待っていたようだった。  
女は、それに対し、胸の動悸が再び激しくなっていく。  
不安と――期待に、身体が熱くなる。  
「お、ぬし……何をしている?もう、これで終わったのであろう?さっさと…っ…」  
男は、にやり、と薄く笑い、女に告げる。  
「――まだ、だ」  
「――っ…!?」  
その時、女の中に収まっていたままの、男の欲が、再びその硬度と大きさを取り戻していくのを、  
女は胎内で感じ取る。  
「あ、…な、にを…ばかな…!」  
「一晩、と言った筈だ。まだ、夜明けまで時間はかかる。その間は…  
俺のものになってくれるのだろう?」  
男は、また、女の膣壁をゆるゆると擦り始める。  
先程男が放った白濁が、女の蜜と混ざり合い、結合部からじわじわと流れていく。  
「ア…っ…ああ…っ…!」  
痛みも無く、そこにあるのは快楽のみの女の身体は、女の意思と無関係に、男に更なる快楽を与える。  
ねっとりと、男の肉棒を絡み取り、いやらしく締め上げ、もっと奥へと誘い込むように、蜜は止まる事無く溢れ出す。  
気持ちよさに、どうにかなってしまいそうで、女はそのまま男に己の全てを差し出した。  
幾度もの絶頂を夜中与えられ、幾度も男の子種を注ぎ込まれ、最早身体には力なく、下半身に痺れが走り、  
感覚が麻痺する程に――男は、女を恋い続けた。  
今宵限りの契りがようやく終わり、女が解放されたのは、月がとうに窓の外から消え、  
空が徐々に白んでくる夜明け前の事だった。  
 
布団の上で、男は膝を立てて座り込み、女は力を失い、一糸纏わぬ姿のままくたりと横たわっていた。  
(夜明け、か…)  
女は、力の入らぬ身をどうにか起こし、寝着を腰に絡め、男の精液でべたつく股を覆い隠した。  
「っ、…人の身体と思うて……よくもここまで好き放題してくれたものよ…」  
膣からどろどろと溢れる白いぬめりが、激しい情交の始終を物語っている。  
身体中が重く気だるく、今日は使い物にならないかもしれない。  
今日は近隣の村の病人達を診なければいけないというのに。  
女は布団の横に置いてあった鏡台を引き寄せ、男に背を向け、すっかり乱れた髪を丁寧に梳いていく。  
そして、女はこう言うのだ。  
「――さっさと、己の帰るべき場所へ戻るがいい。下賤な物の怪よ。」  
男は、相も変わらずに悪態をつく女に苦笑し、愛しげに、切なげに見詰めた後、――意を決したように、  
立ち上がる。  
そして、ゆっくりと、縁側へと向かう。  
男は、決めていた。  
次に、この女に会うまで、決して人間は食らわぬ、と――しかと、心に誓っていた。  
再会の約束をしようかと、心には過ぎった。  
けれど、言葉として口からでる事は無かった。  
もし、この時、再会の約束を交わしていれば――女は、男と会うまでは生きていたかもしれなかった。  
――生きるための、糧として。  
何も言わず、見送りも無く、ただ、櫛で髪を梳き続ける女――それが、男が女を見た最後だった。  
 
男は、名残惜しむ気持ちを押さえ、女の屋敷から立ち去った。姿は、すぐに見えなくなった。  
 
女は、その立ち去る姿を、一目だけ目に焼き付けていた。  
暗闇でしか見なかった男の顔を、夜明けの薄明かりで見ると、その目は信じられない程に穏やかだった。  
顔つきが、全く違って見えたのだ。  
突如この屋敷に飛び込んできた邪悪な物の怪とは、まるで別人…。  
(ふふ……我も相当に重症らしい…)  
女をとうに捨てたと言った所で、男の手によって、自分がどれ程に『女』であるのかが思い知らされてしまった。  
女としての性を、女としての幸せを、人間でさえも無い、名も知らぬ行きずりの物の怪の手で、与えられたのだ。  
あの鬼も相当に変わっているが、それに応え、一晩中許し続けた自分も相当に変わっている。  
笑いが、込み上げる。――同時に、胸が苦しくなるほどの――恋慕も。  
男は、また一匹の妖鬼に戻り、行きずりの食脱医師の女の事など、すぐにでも忘れてしまうのだろう。  
女と違い、男とはそういうものであると相場が決まっている。  
けれど、それでいい…。それでも、よかったのだ…。  
女は笑い――そして、泣いた。  
日の光が、夜明けを告げる。  
これで、本当の終わり――女はそう確信していた。  
 
 
女は、知らなかった。  
胎に宿りし、自らの命と引換えに産み落とす事になる赤子の存在を。  
そして、一夜限りの儚い逢瀬に、七百年恋い続け、誓いを守り続けた男と、  
その男の遺伝と、女自身の血を色濃く引き継いだ者が新たに紡ぐ、物語の存在を――  
 
 
これで終わりではなかったのだ――と。  
 
 
男が死せち後、あの世と呼ばれる場所で、女と再び巡り会う事が出来たのかどうかは、定かではない。  
 
 
――終――  
 
 
 

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