十月の始まりは金木犀のイメージがある。  
住宅街ばかりではなく、どこでもあの金色の小花の芳香を感じることが出来るのは特別嬉し  
くて、どこか心が華やぐような感覚がある。  
秋の深まりと共に世の中はこれほどまでに美しく変化していく。  
なのに、自分の周囲は何も変わらないのはどこか苛々としてたまらない。  
それが、蔵馬の現状だった。  
 
秋の晴天はすっきりと澄み渡って心地良い風が吹いている。  
いつものように営業で得意先回りをしていた蔵馬は、空を渡る鳥の群れを眺めて無意識に  
溜息をついた。時刻はもう午後三時過ぎ。今日もとてもいい天気だった。  
たまたま通りかかった河川敷の空き地には人の姿はなく、少しぐらいはサボってもいいかと  
近くの自販機で缶コーヒーを買って柔らかい草むらに腰を降ろした。  
「ああ、本当いい天気だ」  
大きく伸びをしてからきっちりとネクタイを締めた襟元を少し緩めると、ようやく気分も落ち着  
いてくる。  
苛々しているのは正直なところだが、それは人間として生きている今の自分の立場や環境  
のことではない。それでいえば他人よりは充分過ぎるほど満足な結果が出せていると自負  
しているし、誰もが認めるところの筈だった。  
 
今年の春、蔵馬の勤める義父の会社は一部上場を果たした。  
元々は大手釣具メーカーの孫請け会社でしかなかったのだが、数年前から次第に業績が  
上昇して見事独立を果たした。取り扱う品目がやや特殊なだけにこれまでは特定のメーカ  
ーの独占状態にあった市場も、数年の間ですっかりシェアが義父の会社に切り替わり始め  
ている。  
もう少し頑張らないと。  
蔵馬はいつもそう思っていた。  
あと少し頑張って、業績を軌道に乗せてしまったら、後は安心して会社を義弟に託すことが  
出来る。そうしたらもう自分は自由にどこにでも行ける。責任を果たしてしまえば誰にも文  
句を言われる筋合いはない。  
早く、そんな日が来ればいいのにと。  
 
「蔵馬ー」  
鳥のような影が突然目の前をよぎったかと思うと、真っ白な着物姿のぼたんが現れた。その  
姿は以前と変わりなく清々しくて愛らしい。  
「こんなところにいたんだ。頑張ってるねえ」  
からりと笑う顔が子供のようだ。  
「今はサボりですよ。そんなことでもないと気が抜けませんからね」  
「あははー、そうだね。あんたも大変だあ」  
サボりという言葉が気に入ったのか、ぼたんも並んで座る。立場は違ってもお互いに色々な  
ことがある。こんな時ぐらいは息抜きをしてもバチは当たらないだろう。ましてや、ぼたんは昔  
からの知り合いで気心も知れている。少し話でもしていれば気も休まっていいかも知れない。  
「あたし思ったけどさあ」  
ぽつりと、ぼたんは呟く。  
「みんな変わっていくんだね…羨ましい気がするよ」  
「羨ましい?」  
「うん。人間は早く年を取るけどさ、だからこそすごい勢いで成長していく生き物だと思うんだ。  
あたしから見れば取り残されていく感じがあってねえ」  
膝を抱えて溜息をつくぼたんの横顔が、以前見慣れていたものよりは細くなった気がする。  
確かに人間は普通百年も生きていない。その短い間に目まぐるしく悩み、悟り、心得て成長  
を遂げてひとつの生き物としての成熟を迎えるのだ。人間ではないぼたんはそれが羨ましい  
という。  
「多分これからみんなと会う機会も減っていくと思う。それが寂しくて…」  
普段明るく気丈に振舞っているというのに、今こうしてそんな弱気を見せてくれるのが何だか  
嬉しかった。そんな顔は滅多に見せてはくれないのだから。もしかしたら気を許してくれてい  
るのかと期待しそうになっている。  
「ぼたん」  
空になった缶を握り潰す。  
「気兼ねすることはないですよ。みんな仲間じゃないですか」  
「うん、そうなんだけどね」  
無理に笑顔を作った顔が、泣いているように見えた。  
 
「…何かあって話したい時があれば俺に話して欲しいんです」  
白い頬に手を伸ばしてみる。嫌がったら冗談にするつもりだった。なのにぼたんは硬い表情  
をしたまま反応もしない。それが普段隠している男のずるさを増長させていく。  
真っ白な細い飛行機雲が空を二分割するのが見えた。  
「うん、ありがとね」  
少ししてから、ようやくぼたんは顔を上げて笑みを浮かべる。今までは誰にも話せないことだ  
ったのだろう。口にすれば気が楽になるのは誰にでもあることだ。  
「ごめん、こんなこと話して」  
「いいえ。嬉しかったですよ」  
「つまんないことだってば。忘れておくれよ」  
「いえ、忘れてあげません」  
はっとしたように、ぼたんは凝視してきた。何か言い出さないうちに肩を抱いて無理やり顔  
を向けさせると、驚いたように開かれた唇を奪った。慌てたように離れようと突っぱねてきた  
腕を掴んで動きを封じてしまう。自分でもこんなところで、と思ったのだが幸い誰の姿も近く  
で見ない。  
「…何のつもりだよ、一体」  
唇が離れてすぐ、真っ赤な顔をして睨むぼたんの目から涙がぽろぽろと零れ落ちた。友達  
だと思っていた相手にまさかこんなことをされるなんて思ってもいなかっただろう。けれど、  
付け入る隙を与えたのはぼたんの方なのだ。  
男はいつでもそんな隙を虎視眈々と狙っている。  
「支えてあげたい、そう思ったからです」  
人間として生きていくのはたやすいことではないが、あながち難しい訳でもない。要領を心  
得ている蔵馬ならば尚更上手にこなしている。けれど、それだけではない心を満たすもの  
が欲しかったのだ。幽助も飛影もとうに自分なりの幸せを見つけているのが少し羨ましい  
気がして、そんな焦りも拍車をかけている。  
だが、ぼたんはまた表情をわずかに曇らせただけだった。  
「そんなこと、言わないで欲しいんだ…あたし…」  
「俺じゃあ、駄目なんですか?」  
「有り難いと思ってる。嬉しいんだけど…」  
さっきは細かった飛行機雲がぼんやりと太く滲んでいた。  
 
「誰か、いるんですね。気になる人が」  
「…うん、まあ」  
「俺の知ってる人ですか?」  
「…うん」  
「そうですか…」  
正直言って最近これほどまでに落胆したことはなかった。恋愛に疎い訳ではなく、好意を  
寄せられることも珍しくない、そして女性と付き合った経験も何度かあるというのに、蔵馬  
は今までいつもこれはという時に思いを寄せる相手を逃していたのだ。今回も判で押した  
ように同じ結果になってしまったことに笑いさえ込み上げてくる。  
「あはは、そうですか、はは…」  
「蔵馬?」  
「いいんです。分かってました…気にしないで下さい…はは…」  
「ごめんね、ごめん…本当に」  
さっきまで暗い顔をしていたぼたんは、元の様子に戻っている。きっとこれからも変わらな  
い付き合いが出来るに違いないと勝手に安心していた。つい変な気を起こしてしまったけ  
れど、下手をすれば大事な友人を一人失うところだったのだから。  
ひとしきり笑い終えた後、急に真顔になった蔵馬はぼたんの髪を一房手に取った。改め  
てこうして見ると絹糸のように細くて綺麗だ。この髪も心も全部独占している相手がいる  
のは嫉妬するべきことだが、それがぼたんの幸せに繋がるならばここで見守るべきなの  
だろう。  
魔界に残してきた娘と同じように。  
あっけなく終わった恋の結末にしては奇妙に清々しい気持ちで、蔵馬は淡い色の髪に  
口付けた。  
「応えられなくてごめん」  
ぼたんの細い指が頬に触れた。  
「でもね、あんたはあたしの大事な友達だよ。ずっと」  
「そう言って貰えるだけで充分です」  
ようやく気持ちがほぐれたのか、くすくすと笑う愛らしい顔がこんなに間近にある。それ  
だけでも滅多にない役得に思えて嬉しくなった。  
 
「じゃあね。また何かあったら来るから」  
「ええ、いつでも待っています」  
空の彼方にぼたんが飛び去って消えてしまってからも、蔵馬はまだしばらくその場に  
留まっていた。生きている以上は悩みの尽きることもないが、悩んでも仕方のないこ  
とがこの世には多過ぎる。今までは持ち前の要領と狡猾さで上手くこなしていたと思  
っていたけれど、実のところは普通の人間以上に囚われていたのかも知れない。  
そうさせるものが人間というものの複雑さなのだろう。  
ぼたんが心を奪われているのは誰なのか。それも気になるところだが、とりあえず今  
のところは自分が置かれている立場の中で精一杯生きてみるべきなのだと心を決め  
る。その過程で何か迷いが生ずることがあれば、仲間たちに尋ねればいい。それぐら  
いはしてもいい筈だ。  
「人間は、まだ分からないことばかりだ」  
そろそろ空の端が赤くなり始めている。誰に言うともなく呟くと、また笑えてきた。この  
ままずっと人間を装って生きていくのもまた一興というものだ。  
握り潰して足元に転がした缶を拾い上げると、蔵馬は何事もなかったように立ち上が  
って元の日常に戻っていった。  
でも、絶対に諦めないから。  
一度ぼたんに対して芽生えた執着がまだ心の隅に残っていることに、少しばかりの  
心のざわめきを感じてもいるのだが。  
 
 
 
終  
 

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