ぼたんの苦難は全然終わっていなかった。  
あれ以来、無視に近い反応に徹して自衛しているというのに、コエンマの方は堪える  
どころかいちいち物言いたげな顔でにやりと笑みを返すだけだ。下手に何か言おうも  
のならこちらの方が薮蛇になる。  
そういう駆け引きめいたことは性格的にとても苦手だというのに、どうしてこうなったの  
だろう。  
そんな自分の運の悪さを心の中で嘆きながら、ぼたんは昼間の休憩時間のお茶をの  
んびりと啜っている。今こうして寛いでいる控え室の隅で、この間あんなことが…。  
何だか他のみんなもいる時にはあまり思い出したくなくて、ついつい油断していると思  
い浮かべてしまう数日前の情景を必死で頭から追い出した。  
「ぼたん、ぼたんったら」  
さすがにどこか様子のおかしいぼたんに、仲間たちは不思議な顔をしてそーっと覗き  
込んでくる。  
「え?あはは。ちょっと最近調子狂っちゃっててさ。木の芽時だからかねえ」  
「それ、春先の言葉だけど」  
「いやいやいや、今のあたしはそれぐらい変ってことで。あははは」  
本当に、どこかおかしくなっている、とは思っている。そんなわざとらしい誤魔化し方し  
か出来ないのがいい証拠だ。  
「ぼたん、いるー?」  
仲間の一人が入り口で声を上げる。  
「コエンマ様がお呼びよ」  
「あー…あたし、また何かやらかしたかもね」  
突然、災難が来た。  
 
「お呼びでしょうか、コエンマ様」  
重々しい扉を開くと、奥で今一番会いたくない上司が頬杖をついてにやにやとこちら  
を見ていた。こんな時でも白々しくなるほど綺麗な姿に、つい見蕩れそうになる。  
「まあ入れ。気兼ねすることはない」  
「…ええ、分かりました」  
扉が閉まる前に、誰かが入ってきてくれないかと少しは期待したのだが、生憎その  
気配もない。哀れにも、ぼたんは密室状態の中に置かれてしまったのだった。  
「ぼたん」  
「な、んでしょうか」  
反射的に身が竦んでしまう。  
「何だ、その警戒は」  
「そりゃあ、そうでしょう」  
「愚か者、儂は最近のお前の仕事振りに渇を入れようと思っただけだ」  
「渇、ですか」  
多少苛々とした様子で、コエンマは机を指で叩く。そのヒステリックな音が耳障りに  
響いた。  
「最近、日報の書き落としが多過ぎるぞ。昨日は人数と時間を間違えていたな。お  
前らしくもない」  
「誰のせいですか」  
「ん?」  
「誰のせいですかって、言っているんです」  
ぼたんは思わず大きな声を上げていた。この間のことがあってから、何もかも狂いっ  
ぱなしだ。誰にでもある何でもない出来事だと思い込もうとする分、色々と無理が生  
じてきていて、それが余計に歪みを生み出していたのだ。  
「おまえ自身の弛みのせいだ。それぐらいは分かれ」  
だが、コエンマはにべもない。それが更に不機嫌を募らせる。  
 
「ええ、それは自覚しています。けど」  
「けど?」  
「あんまりひどいじゃないですか、あんなことしておいて」  
自分のプライドにかけて、それだけは言わないようにしたかったのに、この流れがあ  
まりにもハマり過ぎていて言わずにはいられない雰囲気になっていた。誘導された、  
と気がついたのはその直後のことだ。  
あくまでも冷静さを崩さずに唇の端を上げて笑う小憎らしい上司に、ぼたんは一瞬殺  
意を覚えてしまう。それほどに見事な誘導の仕方だった。  
「ほう、ではお前はあの出来事の始末を要求するのか?」  
「いえ、別にそこまでは」  
「いいだろう。要求を呑んでやる。さあ、来い」  
椅子から立ち上がり、あまりにも魅惑的に片手を差し出してくる姿が一瞬にしてぼた  
んを捕らえてしまった。子供のように無邪気でいて、天才的な策略家のこの麗しい上  
司を、どうしても憎む気にはなれない。それどころか、望むままに誘導されたことを嬉  
しいと思えてしまうのだ。  
「あたしには、分かりません…何故、あたしなんですか」  
「分からんか。愚か者」  
正直を言えばわずかにまだ迷いもある。それを一蹴するように強い言葉が決心を促  
していた。流されても、いいのかも知れない。  
ぼたんは迷いながらもふらふらと差し出された手を取った。  
 
 
 
終  
 

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