「お疲れ様、じゃあお先ー」  
「あ、おつー」  
仲間たちの最後の一人が出て行ってしまうと、広い控え室は急にがらんとする。  
疲れたな、と思いつつも、ぼたんはまだここを離れたくなかった。手にした飲み物の容器の  
中には、中身がまだ半分以上残っていた。出来れば早いところ帰ってしまって、誰にも会わ  
ずに済ませたいのだが、人間界で昔流行ったナンとかの法則に従えば、一番最悪な状況  
下で最も会いたくない相手に出くわすのが普通らしい。  
「全くねえ…あたしの柄じゃないよ、くよくよしてさ」  
誰に言うでもない呟きが、急に冷えてきた空気を震わせる。  
「ぼたん、いるか」  
「えっ」  
突然、今一番聴きたくない声が聞こえてきた。  
ナンとかの法則が通用するのは人間だけではなかったようだった。  
 
他に誰もいないことだし、渋々といった様子でぼたんは突然の訪問者にお茶を出した。当  
然のように湯呑み茶碗に手を伸ばしかけた相手は、穏やかな物腰に人の悪い笑みをにた  
りと浮かべている。  
今はテーブルを挟んでいるからいいが近付かれでもしたらアウトだ、と本能がレッドカード  
をちらちらと見せてくる。決してうろたえてはいけない。  
ぼたんは平静を装って尋ねる。  
「…どうしたんですか、こんなところに来て」  
「うん、まあな」  
「ここは男子禁制なんですよ。誰かが着替えてたりしたら言い訳出来ませんから」  
「そうなのか?」  
「そうなんです」  
「知らなかったぞ」  
「今憶えておいて下さい」  
 
何だか腹の探り合いをしているようだ。大体、最高権力者でもある立場で、それを知らな  
い筈がないではないか。これは明らかに、ここにぼたん一人しかいないことを分かってい  
て入って来たのだろう。  
それなら、あくまでとぼけて煙に巻いてしまえ。  
やぶれかぶれで、ぼたんは腹をくくった。  
下手をすれば貞操の危機でもあるのだから。  
「あんまりふらふらと勝手な行動をなさらないで下さいね。フォローするのが大変ですから」  
「そんなつもりはないぞ」  
「もっと自覚を持って欲しいのです」  
「自覚なら、あるぞ」  
嘘をつけ、と心の中で吐き捨てる。  
今は誰よりも美麗な姿をしているこの上司は、中身の幼稚さをそのままに今まで随分好  
き勝手な行動をして周囲を振り回している。ぼたんもどれだけ翻弄されたか知れない。プ  
ライベートでは絶対関わるまいと思っているのに、こうして相手のほうから来られては全く  
お手上げなのだ。  
「それなら、コエンマ様」  
この際、あえて提言をしようとしたぼたんはその時、信じられないものを見た。  
テーブル越しだからと安心していたのに、間近に見ているとうっとりとしてしまいそうな相  
手が、何の前触れもなくテーブルを乗り越えて抱き寄せてきたのだ。  
「えっ、あ、あの…」  
「お前は本当に厄介だ」  
「何、言ってるんですか」  
ヤバイヤバい、と本気で思った。本能のレッドカードはもう慌てふためいて全開に出されて  
いる。心臓も壊れそうにドキドキしているというのに、ぼたんはそれでも真正面から相手を  
見据えていた。というよりも、目が離せなくなっていた。こうしていると、本当に変な気分に  
なりそうだ。  
「ぼたん、覚悟は出来てるな」  
以前言ったことを決して忘れていない相手は、更にたちの悪い笑いを綺麗な顔に浮かべ  
ていた。  
 
「…何のことですか。あたし知りませんから」  
こんな、誰もいない場所で抱き締められていると何だか変な気分になってきそうで、ぼた  
んは必死で腕を伸ばして突っぱねようとするのだが、相手の力は少しも緩まない。こんな  
危機はもちろん初めてのことで、どうしていいのか分からない。  
「あの、コエンマ様…」  
「どうして、逃げようとする」  
「…?」  
何故なのか、ここまで大胆な振る舞いをしているというのに、コエンマは妙に苦々しい顔  
をして見下ろしている。  
「お前という奴は、本当に苛立たしいぞ」  
「…言っている意味が分かりません」  
「そんなに儂が嫌いか?」  
「ですからそういう問題ではないと…」  
「うるさい!」  
何が気に障ったのか、突然声を荒げたコエンマは畳敷きの床にぼたんを押し倒した。身  
動き出来ないようにがっちりと両手首を押さえられて、ぼたんはただ目を丸くして見ている  
だけだった。  
「あ、あの…?」  
「お前の心の中を今ここで見せろ、ぼたん」  
コエンマは怖いほど真剣な目をしながら、頬を乱暴に撫でてくる。あまりのことに逃げよう  
という気もなくしてしまい、ぼたんは訳が分からなくなって混乱していた。別に焦らすような  
素振りをした憶えもないし、そもそも立場が違い過ぎてそれは有り得ない。  
ほんのわずかな恋心は芽生えているが、それが故にただの片思いで終わる筈だと思っ  
ている。  
それなのに、コエンマが何もかも掻き乱すような言動をしてくるのだ。せっかく互いの立場  
や事情を考えて思いを隠しているというのに、これでは何にもならない。  
 
「嫌です、あたし」  
「何故だ」  
「どうしても、あたしを失業させたいんですか?コエンマ様…」  
一世一代の演技力を駆使して、切ない表情を繕いながらぽろりと涙を零して見せた。  
普段そんなことをしたことがないだけに、自分でもよく出来たと思う。下手に煽られてうっか  
り本心を出してしまうより、適当にズレたことを言った方がいいこともあるのだ。今がきっと  
その時なのだと思うから。  
予想通り、見せたことのない涙に相手はうろたえたようだ。頬に当てていた手で涙を軽く  
拭った。  
「何を泣いている」  
「コエンマ様が悪いんです…」  
その時、うまくいったと思っていたぼたんにとっては運の悪いことに、室内の照明がぱっ  
と消えて途端に薄暗くなった。どうやら消灯の時間が来たのだろう。何もこんな時に、と  
悔しくなる。  
「この間も言ったであろう?失業などはせんぞ」  
「それじゃ、あたしが納得出来ないんですってば」  
薄暗い室内でも、ぼたんの白い着物がぼうっと淡く発光するように見えた。まるで今にも  
展翅されようとしている蝶のようだった。  
「あたし、この仕事は大好きですから。デマだとしても決まりごとであればちゃんと従いた  
いんです」  
「お前も、大概愚かだな」  
「ええそうです、あたし…」  
薄い着物の襟元がぐいっと開かれて、直接乳房に触れられる。  
「もう黙れ」  
言葉を続けようとした喉が突然ひくりと痙攣した。強引に唇が重ねられて、何も言えなく  
なってしまう。本当は色々とこの際言いたかったこともあったのに。  
 
ずるい、本当にずるい人だ。  
千切れるほど強く舌を吸われながら、ぼたんは薄く目を開く。  
こんなことをされながら、驚くほど気持ちは醒めているのが不思議だった。  
きっと、この天真爛漫な上司はぼたんの恋心に気付いているのだろう。だからこれほどま  
でに素早く無体なことが出来るのだ。今こうしている状況は、そうでもないと成立しない。  
けれど、もっとずるいのはなし崩しでもいいと思っている自分の方だとぼたんも分かってい  
る。そうやって全部の責任を押し付けようとしているのだ。被害者を装って。  
「…ぼたん、どうして見せない」  
唇が離れても、苛立ちが更に激しくなったような声が降る。暗さにようやく目は慣れてき  
ていたが、まだぎらぎらとした目の光しか識別出来ない。  
「嫌だって、言ったじゃないですか」  
「そんなに嫌か」  
「嫌、です」  
それで諦めてくれると思っていたのに、しゅっと音がして、帯が器用に解かれた。暗がり  
の中で、着物よりも白いぼたんの華奢な体が晒されていく。曖昧に映し出される曲線が  
男の嗜虐心を煽るのだろうか、急に声すら漏らさなくなる。  
「やっ…」  
今、明るくなくて良かったと心から思った。静かな室内の空気がぴりっと緊張しているの  
が分かる。ごく間近で低く笑う声がするだけの、一触即発の様相に今あるのだ。  
「…ほう、なるほど…目に見えるものはやっと分かった。さて」  
「な、んですか…」  
「見えないものも見せて貰おうか」  
凄まじくぎらつく目がにやっと笑む。  
「だから…」  
ああ、もう何も抵抗出来ない。  
そう思えるほどに、ぼたんはぎりぎりまで追い込まれていた。恋心なんか持ったばかり  
にこんな目に遭うのなら、最初から何も知らなければ良かった。それでいながら、恋を  
したが為に今その相手と抱き合っている事実そのものは嬉しいのだ。  
そんな相反する思いが胸の中を激しく駆け巡っている。  
 
「うっ、うぅっ…」  
袖も抜かれて、着物はすっかりただの敷き布にされていた。柔らかな膨らみの片方は  
大きな手で揉まれ、もう片方は時折歯を立てられながら舐められている。もう逃れる気  
もなくなって、されるがままになりながら、ぼたんは極力声を殺していた。消灯したとは  
いえ、いきなり誰がが入ってくるかも知れない。そうなったら言い訳すら出来ないのだ  
から。  
「もっと、声を出せ」  
暗くて良く分からないのだが、乳房にはきっとまた痣のように鮮やかな跡が増えてい  
ることだろう。そういう悪趣味な戯れが好きなのだとは知らなかった。  
「嫌、ですから…」  
「ほう、そうか」  
全ては自分の手の中のことだと尊大になっているコエンマが、また笑う。抵抗さえしな  
くなった白い蝶をこれからどうやって蹂躙しようかと、舌舐めずりしている様子なのが腹  
立たしい。けれどわずかな期待もある。  
そんな思いがある時点で、既に共犯なのだ。  
おそらくは、同じぐらいずるいこの男も自覚しているだろう。特別口にしないだけで、そ  
んな暗い意識を共有しているのが不思議だった。  
闇の中で成就しようとしている恋は、闇に似合う思いしか生まないのだ。別にそれでも  
いい、とぼたんは諦める。  
そうでもしないとこの時を迎えることなど出来なかったのだから。  
「ぼたん」  
熱い声が耳元で響く。  
いやらしく腿を撫でていた手がいきなり膝裏を掴んで大きく開かせてくる。一番隠してお  
きたい部分があらわにされて、さすがにぼたんもうろたえた声を出す。もっと明るい場所  
だったら、きっと真っ赤な顔をしていることだろう。  
「何、するんですっ…!」  
「…面白いな」  
「離してっ、下さい…」  
「だから、黙れ」  
苛立ちがまた頭をもたげたのか、鋭い声を発してコエンマは制するように薔薇のような  
薄い襞で構成されている部分を舐め始めた。きっとこれまでのことで濡れているのを悟  
られている。そう思っただけで、体が一気に燃え上がる。  
「あっ、嫌っ…」  
 
長い舌が奥まで入り込んできては悪戯をする。指先がそこを開いて溢れているものを  
掬い取り、慣らすように愛撫を続けている。未知の感覚とはいえ、女と生まれた以上は  
与えられるものに対する反応など誰でもそう変わることがない。ぼたんは脱がされた着  
物を引き寄せて、声を殺す為にぎりっと噛んだ。  
「ン…」  
「強情っ張りめ」  
そうは言いながらも、望む通りの反応があったことが嬉しいのだろう。わずかに上機嫌  
な響きの声が戻っている。一番感じてしまうことを執拗に繰り返されて、意識はとうに  
限界に来ていた。心臓は激しく高鳴って今にも壊れそうで、乳房が呼吸に合わせて上  
下しているのが自分でも分かる。  
「あたし…もう…」  
きっと、今なら何でも口走ってしまいそうだった。けれど、それより先にコエンマの方が  
己の欲情に従って硬く隆起しているものを押し当ててくる。濡れきっている部分は先端  
を容易に呑み込んで、更に奥へと促すように蠢いているのが分かって、また体が熱を  
帯びた。  
「ひっ、嫌、ですっ…」  
「可愛いぞ、ぼたん」  
欲情に呑まれた声がじわりと耳を焼く。その響きが快くて、ほぼ無意識のままぼたん  
はしっかりと腕を回してしがみついた。そのすぐ後に、硬くて熱いものが体の奥を傲慢  
なまでに切り開くのを感じた。瞬間に、ものすごい衝撃で息が止まりそうになる。  
「くっ…」  
「キツいな」  
「あぁ…ふっ、ひどい…」  
まだ入れられただけなのに、奥がじんじんと熱く痛んでいる。薄目を開けて睨んで見  
せても、支配した気になっている男は平気な顔をして頬を撫でてくる。  
「もう諦めろ。その代わり愉しめ」  
男の傲慢さを剥き出しにして、コエンマは腰を使い始めた。ぴっちりと繋がれた部分  
が、濡れきっているにも関わらず引き攣れたような激しい痛みを伴っている。それが  
たまらなくて声を殺すのも忘れかける。激しく身を捩って抵抗するように喘ぎ始める。  
「はっ、うあっ…嫌、いや…」  
たった今、ぼたんは純潔を失ったばかりなのだ。  
 
「…だから嫌だって言ったじゃないですか」  
ようやく呼吸が落ち着いて、まともに口が聞けるようになってから恨みがましい目を向  
けても、欲しいものを手に入れて気が済んだらしい相手は平然としている。  
「嫌だと?どの口が」  
「もちろん、この口です」  
いつもの口調で応戦しながらも、きちんと着直した着物の下から肌に無数についた跡  
が透けているに違いないと暗い気分になる。明日からどうすればいいのだろう。そん  
な現実的なことをもう考えて頭を悩ませている。  
「ぼたん」  
急に馴れ馴れしくなったコエンマが、二人きりなのをいいことに肩を抱く。  
「あまり真面目に考え過ぎるな。お前は以前のまま仕事を続けていればいい。もし支  
障があれば計らってやろう」  
「そういう特別扱いは嫌いなんですってば!」  
ぷいっと拗ねて横を向くのは、もちろんそういう振りをしているだけだ。それをコエンマ  
も分かっているのか頭を撫でる。  
今夜は流されてしまったけれど、しばらくはこのままでいた方がいい。あまりにも互い  
の立場が違い過ぎるからこそ成就しても素直に喜べない恋だった。そんな風に健気  
なことをぼたんは考えているというのに、目の前の男は至って能天気だ。  
「まあ、もし失業の憂き目に遭ったとしても、儂のところに来ればいいことだ」  
「お断りします。面倒そうだし」  
「面倒か」  
「色々と背後関係や周囲の思惑がありそうじゃないですか」  
「はは、そうかもな」  
ぼたんは溜息をついた。全くこのお坊っちゃんには困る。自分の周囲のことが全然見  
えていないのだ。うかうかと恋に煽られて言いなりになったら大変なことになりそうで、  
それがこの先のことに足止めをかけているのだ。  
けれど、今はきっとそれでいいのだろう。まだ何もかも始まったばかりなのだ。  
まずは有り得ないことだと思っていた恋が叶った事実が、ぼたんを少しだけ浮かれさ  
せている。  
 
 
 
終  
 

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