昼の休憩時間の控え室では、今日も甲高い声が飛び交っていた。  
他人の噂話に花を咲かせるのが好きなのはどうやら女性特有の本質らしい。そこ  
は人間と変わりがないようだ。  
「でね、嫌だって言ったの。そしたらあいつ、何で言ったと思う?」  
どうやら恋愛中らしい仲間の一人が、相手とのことを一段高い声であからさまに話  
している。  
昼食を摂った後、どこかへ行く気にもなれずにぼんやりしているぼたんは、そんな  
話を右から左にただ聞き流していた。自分の恋愛を人前で堂々と言えるのが少し  
羨ましい、とも思った。  
あれから、コエンマとの関係は特に進展もなく続いている。だが、それでいいと思  
っている。あまりにも急速に進んでしまったら、きっと気持ちがついていけなくなる  
に違いないからだ。  
「ぼたん?ねー、ぼたんったら」  
隣の仲間が軽く小突いてくる。  
「え?」  
「ぼたんって、そういえばそういう話をあんまりしないね。何で?」  
無意識に突いてくる核心に、心臓が跳ねた。  
「だ、だって…あたし、恋愛なんかしてる暇ないって」  
「そっかー」  
咄嗟に取り繕った嘘だったが、案外すぐに彼女は引き下がった。やはり自分はそ  
れほど恋愛中には見えないのだろう。それはそれでちょっと傷つくのだから勝手な  
ものだ。  
「そうだよね、ぼたんは仕事命の子だから」  
「うっそー、私は早く辞めたい。好きな人と幸せになりたいの」  
周囲の仲間たちは、口々にそんなことを言う。この仕事が好きなのは本当のことだ  
けど、何より先決な訳ではない。だが、こちらが何も言わなくても誤解をしてくれて  
いるのは有り難い。  
この時間が終わったら、またあの部屋へ行くことになっている。表向きは当然仕事  
関連のことだが、実はそうではないことを分かっているのは当事者であるぼたんだ  
けだ。  
 
「最近コエンマ様からの呼び出しが多くて大変よね。でも期待されてるって証拠だ  
からいいのか」  
「え、ええまあねー。ほらあたし、他に何もないからさ」  
とりあえず今のぼたんにとっては、仲間たちに気付かれないようにすることに注意  
を払うのが精一杯だった。  
 
物音ひとつ一切漏れない重い扉の内側で、二人は上司と部下から只の恋人同士  
になる。正直言ってそういう濃密な空気にはまだ慣れていないのだが、いつもここ  
に来る度に惑わされてしまうのだ。それも全部惚れた弱みというものだろうか。  
いつ見ても翳りなく麗しい男は、誰にも見せない顔で笑う。  
「来たか、ぼたん」  
「来たかじゃありませんよ、もう。勤務時間中の呼び出しは御遠慮下さいと言ってあ  
りましたのに」  
こんなことが下手に周囲にバレたら大変だというのに、何て気楽なのだろう。そんな  
ことを考えながら、拗ねて横を向く。そんな様子に心から楽しそうな笑みを見せて男  
は手招きをした。  
「まあそう固いことを言うな。膝に座れ」  
「えっ?」  
「膝だ。分かったな」  
「…分かりましたよ…」  
一体今日はどんなことをされるやら。まるで予想もつかないまま、近付いていっても  
手の内など見せない笑顔が憎らしい。  
「…失礼します」  
絶対何かされる。  
そう思いながら座った途端に腕が回されてきた。  
「あ、のっ…」  
「待ちかねたぞ、ぼたん」  
「またそんなことを…」  
言うなりだとはいえ、自分から来たのだから今更逃げられない。そう思わせてしまう  
手口にまた翻弄されている。それが好きという感情なのだろうなと、納得がいかな  
いなりに結論をつけている。  
 
そうは言っても便利な感情であることは否定しない。  
襟元をはだけられて手を差し入れられても、もう驚きもしないのだから。当の恋の相  
手は耳に舌を這わせながら、満足気な声音で囁いてくる。  
「大人しいな、今日は」  
「今更ですってば。こうなっちゃったら」  
頬が熱かった。きっと真っ赤な顔をしているのだろう。こうして体を密着して抱き寄せ  
られながらも、わずかに残っている抵抗が気持ちをガードしている。抱かれるのは  
理屈では収まらないが、まだどこかに躊躇があるのもやはり理屈で片付くものでは  
ないのだ。  
「お前は本当に可愛いな」  
ちょんちょんと唇をつついてくるコエンマの指が不躾に口の中を探った。  
「ァ、何を…」  
「ただの愛情表現というものだ、気にするな。それとも口がいいか?」  
了承を得たとばかり、唇を重ねてきながらもその手は馴れ馴れしく薄紅色に染まっ  
た乳房を揉んでいる。指先が敏感になっている先端を弄びながら、悪戯をするように  
時々爪で引っ掻くのがたまらなくて身を捩って抵抗を試みた。  
「んっ、嫌…」  
「そら、気持ちがいいんだろう?素直になれ」  
吐息のような声が唇にかかる。  
「だからそれは…あたしっ…」  
「全く強情なことだ」  
それほど不快には思っていない様子で、男は柔らかな髪を撫でる。最初の頃の強  
引さが嘘のようだ。それもまた自分と同じ変化なのだろうかとぼたんは思う。それが  
何故か嬉しいのだから奇妙なものだ。  
「ええ、そうです。強情なんです、あたし」  
ようやく、ぎこちなくても思いは繋がったのだ。だとしたらもう迷わなくてもいい。恋に  
身を灼かれるようなじれったい心持ちで、これから底のない歓楽を貪ろうとしている  
貪欲な男に縋りついた。  
 
「お前らしい答えだな」  
笑い続けながら乳房を揉む手が力を強める。そろそろ本気になってきているようだ  
と感じる。もう逃げるつもりのないぼたんは続きを促すように、男の胸に頭を擦りつ  
けて目を閉じた。  
「ですから、あたし一度気持ちが決まったら頑固なんです」  
「ああ、そうだな。分かってたぞ」  
全て分かっている風な口振りをする憎らしい男がもう一度唇を塞ぎながらも、片手  
で着物の裾を割る。  
「う、んんっ…」  
感じる場所を知り尽くしている指が、躊躇なく的確にそこを撫でながら刺激を与え  
てくる。どうされても体が跳ねてしまうほどに女の性感の芯となっているところだ。  
そこを意図的に探られればたやすく燃え上がる、煽られる。  
増して心奪われた相手にされていることだ。あっさりと陥落しても何らおかしくはな  
い。それでもまだ残されている意地が強情を張らせる。  
「…そんな、こと…嫌ですっ…」  
「ほう、どうしてだ」  
「だっ、て…」  
「言ってみろ、ぼたん」  
耳元であくまでも優しく囁く声が妖しさを増す。その声音だけで耳を焼かれてしま  
いそうで、途端に体が熱を帯びた。愛撫を続けられている乳房も性感の芯も、むず  
痒いほどに熱い。底意地の悪い指先が溢れてくる蜜を掬い取っては内部を突いて  
くるのがひどく感じた。  
それを認めたくなくて、激しく首を振る。  
「ん…嫌ですってば…」  
「まあいい。そういうお前を落とすのも愉しみというものだ」  
くすくすと笑う声と共に舌が耳に差し入れられる。もうすっかり蕩けていた体には過  
度な刺激となって、まだ入れられてもいないのに達してしまいそうだった。また目の  
前で醜態を晒すのが嫌で、無意識に体が逃げを取る。  
 
「は、離して…下さい…」  
途端に逃すまいと強く絡みつく二本の腕。  
「恥ずかしがるな、気にすることはない。ここで今すぐ、いけ」  
ああ、この人からは絶対に逃げられない。恐怖や不安ではなく、むしろそれとは正  
反対の安堵と温みを感じて、極限まで高まっていた体と心が開放されていく。昇天  
に向かって。  
「あ、あんっ…あああっ…!!」  
「そうだ、もっと叫べ。どうせ外に声は漏れないぞ」  
逃れようもなく抱き締められて昇り詰めていく。それが自分だけの特権のように思  
えて、更に興奮が高まっていた。身の内から湧き上がる波が激しく全身を震わせ  
て、全てを波のように浚っていく。  
「ああっ、い、いやあーーー!!」  
跳ね上がる体を自分では押さえられず、ぼたんはこれまでにない声を上げながら  
コエンマの腕の中で果てた。  
首筋から汗が一筋胸元に落ちていくのが分かった。  
 
荒い息をつきながらしばらく黙り込んでいたのだが、少し気持ちが落ち着いてくる  
と、相変わらず抱き締めている腕の力が少しも緩んでいないことが気に障った。  
「…離して、下さい」  
「そのつもりはないぞ」  
「…そんな」  
性感を煽り、昇り詰めさせ、その顛末まで全てを見ていた男が余裕を見せつける  
ように笑う。まだ続きがあると言わんばかりだ。それ自体は今までのことで充分に  
分かっているから別に嫌ではない。けれど、逢瀬の回を重ねる毎に思いが深まる  
のか執拗さが増していく気がするのだ。それが時々怖くなる。  
万が一、今こうしている気持ちが離れてしまったらと思うと、ぼたんは多分もう耐え  
られそうにないのだから。  
そんな不安を読んだように、敏い男は糖蜜のように甘い声を耳に流し込んだ。  
「この手は決して離さん。いいか、分かったな」  
「…コエンマ様」  
 
くどくどと伝えるでもない。  
ただ一番大事な一点だけを言葉にする。  
それが思いの深さをダイレクトに感じさせてくれる。  
厄介で策略を巡らされては手中にされてきたけれど、そんな気持ちだけは純粋な  
のだとこれまでの関わりでぼたんも察している。それだからこそ心魅かれたのだ  
とも。  
優雅な動作を伴って片手が動いたと思うや、後ろで束ねていた髪がはらりと解か  
れた。その瞬間に間近で物凄いほどに真剣な目が見つめてきて、思わず息が止  
まりそうになる。  
「あ、何、を…」  
「わがままだと思われようが、儂はお前が欲しいと思うぞ。嫌か?」  
「…え」  
あまりにも率直に過ぎる言葉が見えない矢のように胸を刺した。確かにずきりと鋭  
い痛みを覚える。  
「嫌なら言え」  
「嫌、じゃありません…でも正直言って戸惑いはあります」  
「何がだ」  
「あたしなんかじゃ、きっといつか不満に思うんじゃないかって」  
「馬鹿者」  
澱のようにずっと胸に溜まっていたものが、たった一言で吐き捨てられた。何だか  
無性に腹が立って、拗ねて見せる。  
「馬鹿とは何ですか」  
「お前があまりにも察しが悪いからだ」  
解かれた髪を撫でてくる手は優しかった。  
「こんなことを、他の誰にすると思ってるのだ」  
「…あっ」  
巧みに膝の上に座らされた体勢を変えられ、向かい合わせにされた。剥き出しの  
真っ白な腿が男の体を挟み込むような体勢に、再び体が燃える。着衣の布越しに  
感じるものは既に硬く屹立しているのだ。きっとこのままされるに違いないけれど、  
ここに入って来た時からそれをずっと待っていた。  
 
「儂が欲しいのも必要なのもお前だけだぞ、いいな」  
「…は、い…」  
「いい答えだ」  
翳りのない満悦の笑みが心を蕩かす。  
そのまま抱き上げられて、晒されたものの上に腰を落とされた。じれったく内部を  
満たすものを待ち続けていた体が、妖しく煮え滾る熱を受け入れた途端に淫らに  
うねる。  
「あっ、ん…!」  
体が歓喜していた。  
もう内部を切り開くものに対して何の抵抗もない。ただ甘い疼きだけが繋がった部  
分から激しい電流のように四肢を駆け巡っている。髪を振り乱しながらもっと快感  
を搾り取ろうと、無意識に腰を振って喘ぎ続ける。細い腕が男の首に絡みついて  
いた。  
「いい、ようだな。ぼたん」  
腰を 使って激しく突き上げてきながら、満足気に呟く男の声が聞こえた。それだけ  
でも、ひどく感じてしまう。  
「はあぁん…そんな、こと…仰らないで、下さい…」  
「そんな風に、もっと乱れろ。もっと儂を欲しがれ。それが今のお前だ」  
「あたし、あたしっ…」  
もう何も考えられなくなりそうだった。  
目の前がちかちかと発光し始めている。  
あと少しで、というところで大きな両手が敏感になっている乳房を強く捏ね上げてき  
て、わずかに残っていた正気が飛んだ。  
「あんっ、コエンマ様あっ…!」  
「いけ、今すぐに」  
限界を感じてびくびくと体が跳ねる。もう誰にも止められない衝動が激流のように駆  
け巡って、その快感のあまりの凄まじさにぼたんはふっと意識を飛ばしてしまった。  
 
次に目覚めた時、以前のようにすっかり後始末をされて身支度も済んでいた。髪も  
きちんと束ねられている。  
何ひとつ情事の残り香もない。  
それが少し残念に思うのは、やはりこんな束の間の逢瀬に慣れてきているからな  
のだろう。唯一の救いはそれを単なる一時の戯れにはしないコエンマの思いと態  
度だけだ。  
「目が覚めたか」  
しばらく気を失っている間、途中だった仕事を続けていたらしい男が近付いてきて  
屈み込む。案じているような表情が少し嬉しい。  
「何か飲むか?あれだけ叫べば喉が渇くだろう」  
「…いえ、あたしは後で」  
「欲しければ、遠慮しないで言うんだぞ」  
頬を撫でられ、唇を啄ばまれる。  
言葉は少なくても、それがお互いに思いを通じ合っているように思えて、感動すら  
覚えていた。最初から身分が違うというのに、その優しさに甘えて自惚れてもいい  
のだろうか。いいのかも知れない。  
そう感じて胸に温かいものが満ちてくる。  
「…コエンマ様」  
「何だ」  
「あたし、一生信じていいんですね。コエンマ様を信じてもいいんですね」  
「当たり前だ」  
何でもないことのように返された言葉が、ぼたんの中で白く美しく力強い翼を形作  
った。今ならば、このまま望んだ夢に向かって飛んで行けるかも知れない。もちろん  
望んでいたものとは、愛そのものの世界だった。  
けれど、全て寄りかかるのは決して本意ではないと、まだ意地を張らせる。  
「それなら」  
「ん?」  
「もっと大事にしてくれないと、嫌ですからね」  
まさかそんなことを言うとは自分でも思っていなかったので、真っ赤な顔をしてぷい  
と横を向いた。  
 
側で笑い声が聞こえる。  
「分かった分かった、嘘偽りなどこの儂が言うものか。それでだな」  
ふわっと体が浮いたように思った。コエンマが抱き上げたのだ。これはまさか有名  
なお姫様抱っこというものでは、と一瞬停止していた思考が動き出してから考えて  
いきなり慌て出す。  
「コ、コエンマ様っ…」  
「お前も嘘偽りはなしだぞ。儂にだけは真実を常に見せろ」  
「分かりました、からっ…」  
これからお互いにどうなるのか、はっきり言って未来の明るい展望が見えた訳では  
ない。困難なんて幾らでもある筈だし、その度に煩わしくて苛々してしまうのかも知  
れない。  
それでも、何とか越えていけるような気がした。  
この人となら、大丈夫な気がしたのだ。  
曖昧ながらも、そんな自信は消えない光のようにぼたんの中で輝いている。今はわ  
ずかな光でも、少しずつ強く不変の輝きになるようにしていきたかった。  
その為にも、決して離さない。  
所有欲全開で嬉しそうに抱き上げている男に、ぼたんは思いきり良く腕を回して花  
のように笑った。  
 
 
 
終  
 

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