日に焼けてはいない真っ白な首筋がすっかり隠れてしまうほどに、その髪は伸
びてきている。鬱陶しいと思ってはいたが、以前のように何の思い入れもなくぷ
つりと切る気にはなれなかった。
「大分、伸びたな」
男の指先が、悪戯に細い髪の先を弄んだ。
「そうか」
「伸ばしてみないか」
何事にも無関心を装うこの男のこと。そんな些細な事柄など所詮他人事だと気
にも留めないと思っていたから、その言葉には少し驚いて椅子から立ち上がり
かける。
「何を、いきなり」
「特別何の意図もない。ただ、そういう貴様も見てみたい。そう思っただけだ」
「酔狂な」
「そうかもな」
腹芸などしなくて済む他愛のない遣り取りをしていると、結局は自分も只の女で
しかなかったのだと躯は気付かされる。落胆や失望などではなく、それまで憶
えのなかった他者への期待というものに違いない。
期待。
以前ならば決して誰にも心を許せなかったというのに、何という変化だろう。女
であることを受け入れるだけでこうも心が変化してしまうことに、まだ慣れきれ
てはいないが、悪くはない気分だった。
この男ならば、信じられると確信しているから。
数日後、ひとりの少女が躯の住処を訪れた。
荷物は小さな鞄ひとつだけ。ここまでかなりの長旅をしてきたのか、足元が埃
っぽく汚れていて少し疲れているように見えた。
今後、次第に思うように身動きが取れなくなる躯の為に、飛影が身の回り一切
を取り仕切る世話係を一人雇い入れると以前言っていたのを思い出した。単な
る冗談などではなく、本当に迅速に成し遂げるところが普段は無口なあの男の
美点だろう。
応接室に通された少女は、緊張しながら用意していた言葉を並べ立てる。
「あの、お話は伺っていると思いますが…飛影様からの依頼でやって参りまし
た。雛と申します」
「ああ、聞いている。提示された条件で良ければ今日からでも構わないがどう
だ」
「ええ、それはもう。ただ私はあまり気が利かない方なので躯様のお怒りを買
わないかと心配で」
あまりにも恐縮している雛の様子に、思わず躯は声を上げて笑い出してしまっ
た。この娘を世話係として選んだ飛影の気持ちが分かるような気がした。
いくら何でも、四六時中べったりと側にいることは出来ない。
飛影にも仕事はあるのだし、何よりも女である躯の気持ちを全て理解出来てい
とは言えない。まして、これから体が変化してくるに従って精神的にも不安定
を極めるだろう。そうしたら、女のことは女でなければ分からなくなるからだ。
ただ、それによって雇われたのがまだ男など知らない小娘だというのが、唯一
の不安材料ではあるが、そこまでを望むのは酷というものか。
「とりあえず、今のところは普通に仕事をしてくれればそれでいい。何か追加す
ることがあればその都度指示しよう」
「はい、分かりました。それではよろしくお願いします」
慌ててソファーから立ち上がると、深々とお辞儀をする。そんな態度に躯は好
感を持った。
その日は午後になってから、意外な来訪者があった。
直接ここに来たことなどこれまで一度としてない蔵馬だった。
訪問の折には飛影とは時々話しているようだが、躯は特別用件もないこともあ
ってここ数年というもの顔すら合わせてはいない。
「珍しいことだな」
「そうでしょうね…まあ思うところがありまして」
「思うところか。まあいいだろう」
雛に対して取っていた態度とはまるで違う、気のなさそうな様子で長椅子に横
になりながら眠そうに言葉を返す。
「世話係を雇ったそうですね。いいことです」
「まあな、これからどんどん大儀になることが多いというのでそうなった」
「安心しました。大事にされているようですので」
「お前はいつも杞憂ばかりだ、昔から変わらないんだな」
そう、昔からこのやたらと綺麗な男は人の心配ばかりをしている。以前はこの
姿ではなくまばゆいほど銀色に輝く妖狐であったが、やはりそこだけはわずか
も変わらない。
「俺は結局あなたを守りきれなかったですからね。飛影にはその度量があった
ということでしょう」
「と、いうことになるな。薔薇の種はその罪滅ぼしという訳か」
「ええ、まあそんなところです」
ぬけぬけとよくもそんなことを、と思うほどあっさりと蔵馬は肯定しながらゆっく
りと近付いてくる。応接室の扉の外で、茶器の盆を持った雛が入っていいもの
かどうか迷っている気配がした。
長い指をした美しい手がまどろんでいる躯の栗色の髪を撫でる。
「もしも、飛影があなたをないがしろにすることがあれば、俺はいつでも牙を剥
くでしょう。それほどに今でもあなたをむ」
「躯様!」
突然思い切ったように、扉が開かれた。
銀の盆を側のテーブルに乱暴に置くと、雛はぽろぽろと泣き出す。
「あんまりです、躯様…あれほどまでに飛影様が大事にして下さっているのに
こんなところで」
「何を 勘違いしている?」
長椅子から身を起こすと、半身の瑕疵など何の影響ももたらさないほどに美し
い女が、長らく忘れていた愉快そうな笑い声を立てる。
「そうか、お前はまだ知らないのだったな。それではこの際教えておこう。この
男は以前俺の養い親だったことがあるのだ」
「え?」
「そう、ずっと昔にね。今は姿が変わっていてそうは見えないでしょうが事実で
す」
髪を撫でる手を止めることなく、愛おしそうな視線を向けながら蔵馬は優しく微
笑した。
「…失礼しましたっ!私、とんでもないことをっ…」
「気にするな。こんな状況であれば誰でも間違えるだろう」
「本当に、申し訳ありませんでした!」
気が動転しているのだろう。雛はテーブルの上の盆を忘れたまま扉を閉めて
走り去ってしまった。これは後で慰めのひとつも言わなければ辞めかねない
と思いながらも、また睡魔が襲ってきそうになっていた。
「昔からすれば、本当にあなたは成長した…見事です」
「そうあらねばすぐに死んでいただろうからな」
「結局、俺はあなたの人生の局面には立ち合えなかったということです」
「だが、お前があの時助けてくれなければ、今の俺もなかった。それは感謝
している」
「光栄です、躯。いえ、うてな」
遠い昔、そう呼ばれていたことをふと思い出す。
「懐かしいな」
久し振りに温かい心持ちになった。
あの極悪非道な男から逃れてすぐ、半身のひどい火傷から感染症を起こして
死にかけていた躯を気紛れに拾い、傷が癒えるまで庇護してくれたことは今
でも鮮明に憶えている。
そのことは以前飛影にも告げていたので勘繰られることもない。
「あなたは今、幸せですか」
柔らかい指先が唇を撫でた。
「そうだな。多分…」
「それで充分です。あなたが幸せであれば俺は何も望まない」
髪を撫でる手が気持ち良くて、そのまま眠りに入ってしまう。これまで失われ
ていた欲しかったものが一気に戻ってくる感覚だった。出来ればこの手が別
の、今不在の男ならもっといいのにと考えてもいたが。
「蔵馬が来たそうだな」
寝台の上で、まだ子供のような容貌の男が長く執拗な口付けの後でぼそり
と言葉を残す。声音がどこか妬いているように思えてくすりと笑った。それが
気に障ったのだろう。
「何がおかしい」
いつにない怒ったような声が寝室の空気を乱した。
「お前が気にするとはな」
「当たり前だろう、貴様は既に」
「既に?」
「…妻も同然だからな」
そのまま、物も言わずに行為を開始した。やはり不在の間にそのような出来
事があったことに不機嫌になってはいるようだ。だが、それもまた嬉しく思っ
てしまうのは女の性というものなのだろうか。
「何もかも知っている癖に」
「それでも、貴様が他の男といるのは我慢ならない」
やはりこの男は嫉妬をしているのだ。わざとこうして煽ってまで引きつけよう
とする自分の卑劣なまでの女心。いっそ滑稽なほどに必死だと思う反面、
そんな醜態が我ながら愛しいのだから笑える。
「飛影」
次第に追い上げられて意識が混沌とする直前、正気を引き上げながら目の
前の男の頬を撫でて出来るだけ笑って見せた。
これだけは言っておきたいと決意を込めて。
「俺を、妻と思ってくれるんだな」
「当たり前だろう」
その言葉だけで何もかもが一瞬にして溶けて、完全に満たされていくようだ
った。
女としての始まりなのだろう。
終