良く晴れた日の午後だった。
風邪は少し冷たかったが、日差しは柔らかくて暖かい。
これからの時期でも大丈夫だからと、教えられた通りに雛は今日も庭園の隅
に種を蒔いて育て始めた薔薇の手入れをしていた。それほどの手間もなく、
ただ水を与えるだけでいいと蔵馬は言っていた。その言葉の通り、面白いほ
ど早く芽が出てするすると日毎に成長する薔薇は、眺めているだけでも時を忘
れてしまうほどなのだろう。
さっきから雛は夢中になっている。
「早く花を咲かせるのよ。躯様に喜んで頂けるようにね」
何度も水場まで往復しては如雨露で水を与えることなど何でもないと言わん
ばかりに、言われたとおりの作業を淡々とこなしていた。
そんな献身的な少女の姿を薄暗い室内から眺めながら、躯はこの日ずっと目
を通して是非の判断を下していた書類を一旦片付ける。
「…躯様!?」
突然の人影に振り返った姿が陽炎の中にある。
初冬の時期とはいえ、これほどに日差しが強ければ日に焼ける。雛ぐらいの
年頃であれば過剰なほど気にして、帽子ぐらいは被る筈なのに。そんなことも
忘れて薔薇の水やりをしている少女の姿は微笑ましく映った。
「今日は暑いぐらいの日差しだ。無防備だぞ」
飛影がきつく注意しているせいで、最近はあまり外にも出なくなっているのは
いかにも不健康に過ぎる。周囲を散歩するぐらいならきっといい筈だ。そんな
考えから日傘を差して庭園に出た躯だった。透き通るほどに青白い肌に紫外
線が突き刺さるようだ。
「私、あんまり日に焼けないみたいですから…躯様こそお体に注意して頂きま
せんと」
「まるで病人扱いだな」
「あっ、いえ。そういう意味では…」
慌てて口籠る雛に笑いが漏れた。
「気にするな。今日は幾らか体調がいい。だからこうして少しは体を動かしてい
るんだ」
嘘ではない。
以前ならば考えられなかったこんな穏やかな毎日が、次第に内面をも変えてい
る。それは悪くない変化だった。いや、むしろ嬉しいことだろう。それを素直に受
け入れている自分がいるのは躯自身にとっても驚きなのだが。
「蔵馬様から栽培方法を教えて頂いた薔薇…順調ですよ。きっと早いうちに花
を御覧にいれられると思います」
自慢げに少し胸を張る少女が眩しい。普通に育っていさえすれば、自分もこん
な風に感情をそのまま出せていたのだろうかと羨ましくなるほどだ。だが、今
となってはないものねだりなど意味もない。
「そうだな、期待している。蔵馬が作った薔薇ならばきっと大輪の花をつけるこ
とだろうからな」
「お任せ下さい」
何故だか、この少女には今まで誰にでも感じていた警戒心というものを感じな
くて済んでいる。それもまた喜ばしい変化か。こうして次第になりたくて仕方が
なかった普通の女になっていくのだろうか。時間はかかったけれど遅くはない
に違いない。
「お前はいいな、純粋だ」
「私が…?」
「そうだ、きっといい家族に恵まれたんだろうな」
「ええ、まあ…」
屈託なく微笑む雛の表情に全てが表れていた。やはりこの少女は愛情溢れる
家族の元で普通に育ったのだ。
「あの、躯様」
「何だ」
嫉妬にも似た羨望を憶えたのを悟られただろうか。そんな浅ましいことを考えて
いることを知ったらこの無垢な少女はどう思うだろう。今はそれが少しだけ怖い
と思った。日傘で歪みかけた表情を隠す。ひらりと緩やかなデザインの上着が
風邪に揺れた。
「今までお仕事をされていたのでしょう?お疲れでしたらお茶を淹れましょうか」
「…ああ、そうだな。では頼もうか」
「はい!」
新しい用件を言いつけられたのが嬉しいのか、少女は空になった如雨露を手に
して軽く辞儀をしてから屋敷へと走り去って行く。
雛はこんな所で雇われるには勿体無いほど、本当にいい娘だ。
最初に会った時からそれは変わらない。
その真っ直ぐな心が自分の為に無残にも汚れてしまわないか。それが心配で
ならない。
こんな考えは飛影が知ったら、きっと笑うだろう。
お前が人のことを心配するとはな、と。
「こんなところで何をしている」
タイミング良く聞き慣れた声が背後で響いた。まだ仕事中である筈の白昼だと
いうのにどうしてここにいるかなど、あえて考えないようにした。
「散歩。他に何がある」
「体を労われ、と言った筈だ」
「もちろん、心掛けているさ。お前が言う通りにな」
オフホワイトの日傘をわざとくるくると回して、照れ隠しに顔を見せないようにし
た。それがじれったいのか、子供のような背丈のままの男は後ろから腕を回し
てくる。
「飛影?」
屋外でこんな振る舞いに及ぶなど、予想外だった。
「分かっているか。お前は母になるんだ。他でもない、俺の子のな。だから過剰
に心配したとしても不思議ではないだろう」
「ああ、分かってるさ…だからだ。腹がそれほど目立たない今のうちに、色々な
ものを見せてやりたい。そう思ってもおかしくないだろう」
まだ目立たない腹に手を当ててみても、本当に存在するのか確証が持てないの
が正直なところだ。それでも、現実は少しずつこれまでの日々を容赦なく侵食し
てくる。
「ある程度ならば構わない」
「悪いな」
まだ日は高い。もうすぐ蕾をつけようかという薔薇の群生に囲まれながら躯は晴
れやかに笑って見せた。初冬にしては珍しく暖かい日だからこそ浮かれて出た
戯言。単純にそう受け取って欲しかった。
まだこれから色々なことがあるとは思う。
気持ちも安定しているとは言えない。
それでも、何につけ支えてくれるこの男がいるならば、頑張り通せる気がしてい
るのは確かだった。
「これからも側にいてくれるな、飛影」
「当然だ」
きっとこんなに暖かい日だから。
誰に言うともなく言い訳をして、決して離さない覚悟をした男と唇を重ねる。日差
しはまだ明るく、庭園の緑は眩しいほどみずみずしく。そんな日だからこそ全部
が絵空事に思えるほどにふわふわとした感覚があった。
終