遠くで時折雷鳴が低く轟いていた。  
とはいっても、まだ雨はすぐに降りそうになく、空は鈍い色の雲が広がるだけなの  
だが、見上げていると奇妙な不安が広がってくる。  
「大雨になるでしょうか」  
今日も薔薇の手入れをしていた雛が如雨露を抱き締めながら傍らにいた男に問  
い掛ける。  
「夜半ぐらいにはかなりの勢いで来そうですね。用心するに越したことはありませ  
ん」  
「ええ、そうですね」  
空気が休息に冷えてきている。雨の気配にふるっと身を震わせながら、雛はかつ  
て躯の養い親だったという美貌の男を見上げた。  
 
辺境の地で生まれ育った彼女にとっては、躯でさえかつて魔界の三竦みと恐れ  
られていた程度の認識しかなかった。たまた家族が多くて働きに出る必要を感じ  
ていた時に、飛影側から躯の世話係を一人雇い上げるという話が近辺に広めら  
れたので応募しただけに過ぎない。最初は何も知らなかったのだ。  
そのせいで両親からは『お前のような気の利かない田舎者が躯様の不興を買う  
ようなことをすれば、すぐさま首を刎ねられるに違いない』と最後まで説得された  
のだが、無理やり押し切ってやって来た。  
それほど働きに出たかったのだ。  
これまでの伝聞からすれば躯という存在は、きっと厳しくて怖いに違いない。  
最初はそう思い込んでいたのに、実際に接してみると拍子抜けするぐらい普通で  
優しい女性だった。言動が多少独特ではあるが気になるほどではなく、むしろ単  
なる使用人である自分にそこまで気を遣うことはないのに、と思うことがよくある  
ぐらいだ。  
 
それについては、少し前にどうしてなのかと飛影に尋ねてみたことがある。  
だが、『もし不愉快でなければ、躯のしたいようにさせてやって欲しい』と言われ  
ただけだった。  
もちろん不愉快である筈がない。雇い主としてはこの上なく理想的と言えるだろ  
う。ただ、優しくされればされるほどに躯の精神的脆さを感じ取ってしまって切な  
くなるのだ。  
妊娠中ということも、拍車をかけているだろう。  
伝聞の端々で伺える信じられないほど壮絶な過去を思い出す度に、気の毒でた  
まらなくなるのだ。  
 
「あの、蔵馬様」  
一足先に屋敷に入ろうとしていた蔵馬を呼び止める。  
「蔵馬様のところにいた時、躯様はどんな女の子でしたか?」  
秀麗な容貌を持つ男は、勘繰りようによっては出過ぎた質問に思えるそんな他  
愛無い言葉にふっと形容し難い笑みを漏らした。  
「…可愛いらしい子でしたよ。とても素直でした。あのまま大人になればいらぬ苦  
労もしなくて済んだでしょうけどね」  
聞いてはいけなかった、と咄嗟に思った。  
しがらみや憎悪などという単純なものではなく、深く思い遣り合うからこその離反  
というものをそこに感じてしまったからだ。誰にも、どんなことにも事情というもの  
はある。  
うっかりそこに踏み込もうとしてしまったことを、雛は恥じるように黙り込んだ。  
それまで辛うじて明るさを保っていた空は、次第に雲行きが怪しくなっている。  
「躯は、どうしていますか?」  
唐突に尋ねられ、口篭りながらも答える。  
「今は寝室でお休みになっていますが」  
「では、顔も見ずに帰った方がいいですね」  
雛が伺い知ることの出来ない躯の過去に関わっている蔵馬は、どこか寂しげな  
表情で笑った。  
 
『娘よ』  
またあの声が聞こえてきた。思い出すだけで反吐が出そうになる。  
『誰よりもお前を可愛がり慈しんだというのに、どうしてこんな目に遭わせる』  
血みどろの姿で呪わしそうに吐き出す声が耳の奥で粘りつく。  
ああ、忌まわしい。  
これは夢の中だとはっきり認識しているというのに、抜け出すことが出来ないもど  
かしさで雁字搦めになる。  
今でもこれほどに自分を縛り上げる下種な男は、実際にはもう存在しない。飛影  
の配慮によって滑稽な玩具同然の姿になっても、あの男はそれ以後も躯をせせ  
ら笑い、罵倒し続けたのだ。  
『愛しい娘よ。お前は結局逃れられないのだ』  
うるさい!  
ある日、どうしても我慢出来なくなって原型を留めないほどに切り刻んで殺してや  
ったというのに、まだこの男の影が離れない。気が済んだという実感がないのだ。  
いや、それどころかこの世に存在しないからこそ、この激情のぶつけ先が分から  
なくなっている。おそらくは精神の変調とやらも、全てはそれが原因となっている  
のだろう。  
殺せば全てが報われると思っていたのに。  
 
額に手が当てられて、ようやく堂々巡りな夢から覚めた。目を開けば飛影が間近  
で覗き込んでいる。  
「…また悪い夢でも見ていたのか」  
どこか心配そうな声音だった。  
「気にすることはない、いつものことだ」  
「だから余計に事態は悪くなる。どうして辛いなら助けを求めないんだ」  
熱でもあるように、体が妙に重かった。額にはじっとりと汗が滲んでいて気持ち  
が悪い。  
「それほどお前が心配するほどのことでも、ないからだ」  
「バカな」  
一言で片付けた声には苛立ちが含まれていた。  
 
「どうして貴様はそこまで何でも抱え込む。そんなに誰もが信じられないか」  
「…そんな訳じゃない」  
「貴様は以前の弱くて孤独な子供から桁違いに成長した。なのに精神だけはこ  
れっぽっちも変わってはいないんだな」  
汗でべたついた髪を撫でる手が頬へと滑り落ちる。掌があまりにも熱く感じて、  
思わず息を呑んだ。  
「もっと周囲に頼れ。心を許せ。それがなければこれからも頑迷な子供のまま変  
われないだろう」  
「何故だ」  
苛立ちがわずかに伝わってきて、躯までが荒い声を上げてしまう。これまで頑な  
に線引きをしていた領域にまで入って来られるのは、何よりも恐怖に感じてしま  
うのだ。  
「何故、踏み込んで来ようとするんだ」  
「愚問だ」  
頬に当てられていた手が唐突に華奢な喉首を締める。力は然程込められてはい  
なかったが、この男が相当に怒っているのは分かった。  
「貴様は妻だ。ならば包み隠さずにいて欲しいと思うのは当然だろう」  
押し殺したような声が闇夜に響く。  
怒りが本気だと察して気まずく黙り込んだままの躯は、次の瞬間に信じられない  
ものを見たように目を見開いた。これまでしばらくの間一切の手出しもしなかった  
男がいきなり着衣を捲り上げてきたからだった。熱が篭もっている体が抵抗ひと  
つ出来ずにあっさりと晒されていく。  
「…何を、する…っ!」  
「黙れ」  
「飛影、嫌だ…」  
「黙れと言っているんだ!」  
こうなったきっかけは自分の頑なさだと知っている。だからといって強引に屈服  
させられるのだけは我慢ならない。それではあの忌々しい男と同じではないか、  
そんな八つ当たりに近い感情で必死で撥ね付けようと足掻いていると、急に男  
の動きが止まった。  
「…飛影?」  
 
「…悪かった、気にするな。正気を忘れただけだ」  
さっきまでとは打って変わったように、顔も見ずに寝台から降りようとする男を無  
意識に引き止めた。  
「行くな」  
反応がない。  
「悪いのは俺だ」  
「今はまだ貴様を理解し切れずに、些細なことで逆上したらひどいことをしかねな  
い。しばらくはここを離れていよう、その方がいい」  
「嫌だ」  
背中を向けた男に縋りついて子供のように駄々をこねる。ならばどうして先程は  
あんなに拒んだのかと自分でも滑稽に思うほどだ。姦計など巡らせることのない  
真っ直ぐな気性がこんなところでも感じられて、胸が一杯になる。  
「…済まない、どうしてこうなったのか俺にも分からない。ただ、これだけは信じて  
欲しい。お前が望んでくれるなら妻でいたいし、周囲の好意も有難いと思ってい  
る。決して猜疑心がある訳ではないんだ…」  
「そんなことは、知っている」  
男の返事はやはりあっさりとしたものだった。  
「まだ時間が必要だとは、思っている。貴様には俺が知らない事情が幾らでもあ  
るんだから。だからこそ側にいたい、それは分かるな」  
その声には、もう怒りは微塵もなかった。余計なことなど何も言わない男ではあ  
るが、許されたのだと思った。  
「ああ、分かるさ、飛影」  
再び頬を撫でてきた手は言葉のない分、ひどく優しい。この男だけは何があって  
も離してはいけないと感じて涙が零れる。すかさず、全てを心得たような指先が  
拭ってきた。  
引き止めてしまったのだから、きっと今夜は抱かれるだろう。確信がある。それも  
覚悟の上だった。  
 
子供の頃は神などいないと思っていた。  
いたとしても、ただ見守るだけなら誰でも出来ることだと。  
今はこれほどの巡り合わせを用意してくれたことに心から感謝するしかない。  
鳥であれ蝶であれ、飛ぶ力を持つものであれば自分で飛ぼうとするのだし、絶え  
ずそう心掛けていなければ地に落ちるだけなのだから。  
 
 
 
終  
 

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