冬は昔から嫌いだった。  
身を切られるような寒さは下手をすれば命までも奪う。  
まだ何の力もなく、蔵馬の庇護からも離れて獣のように生きていた傲慢な小娘  
の時、何が一番厄介だったかといえば対抗することなど絶対的に不可能なこん  
な季節の寒さ。  
他のことならどうとでも出来たのに、こればかりは自分の無力さを嫌でも感じさ  
せられた事態が何度となくあったからだ。  
 
それが今はどうだ。  
辛かったことなど全部一瞬にして忘れてしまいそうに綺麗な、真っ白い月を眺め  
ている。こんなに穏やかな心持ちで空を見上げる夜など、これまでほとんどなか  
ったというのに。  
奇妙なものだ。ほんのわずかに何かが変わっただけで、他の全ての要素が塗  
り替えられていくなんて。それはただの現実味のない絵空事だと思っていた。  
もし実際にあるとしても、自分には縁がないと決め付けていたのだ。  
「一人で何をしている」  
夜着だけという、驚くほどの薄着でふらりとこんなに冷える屋外に出たことを軽く  
咎めるような声が、背後で聞こえた。わざと振り向きもせずに素っ気ない言葉を  
返してやる。  
「見てみろ。今夜の月は大層綺麗だ…寒いからこそ余計に冴えて見えるから、  
つい時間を過ごしてしまった」  
「体を冷やすなと、医者からも言われているだろう」  
寝間から持ってきたのだろう。ふわりと肩にかかるガウンが、しんしんと冷え始め  
ていた体を少し温めた。今夜の月は真珠のように美しいけれど、さすがに外に長  
居など出来なさそうだ。  
 
声音はぶっきらぼうだが、心から心配をしてくれている男に笑みが漏れる。何も  
かもが好転したように思えるのは、この男がいたからだろう。これまでどれほど  
自己確立の為に足掻き、長い戦いを続けてきたか知れない。そうして一時はの  
し上がってもみたが、それでも得ることの出来なかった心の平穏は、今ただの女  
になって初めて、あっさりと手中にしている。  
不思議なものだが、世の中はこんな風に回っているのだと実感した。どんなに時  
が過ぎたとしても、きっと何度でも幸せになれるのだし、遅過ぎるなどということは  
決してない。こうして心の余裕を持った今、躯はようやくその意味を知る。  
 
さすがに屋敷の中に戻ると、想像以上に体の冷えを自覚して身を縮めた。何か  
熱い飲み物でも欲しいと思ったのだが、いつも子猫のようにくるくるとよく動いて  
立ち働いている少女の姿はどこにもない。  
「雛はどうした?」  
いつもの調子で尋ね、はっと口を噤む。  
生憎と時刻は深夜を回っている。幾ら住み込みだとしてもこんな些細な用事を無  
理強いは出来ない。  
日常、どれほどあの少女に頼っていたのかと思わず苦笑する。  
「座っていろ。支度は俺がする」  
応接間でいつも好んで使っている長椅子に躯を横たえさせると、飛影は手馴れた  
様子で暖炉の埋火を薪に焚きつけてから奥の厨房へと消えた。いつも思うことだ  
が、見かけによらず随分と心配りをする男だと感心してしまう。  
知り合った当初はそれほど情が深そうには見えなかったが、それはきっと自分も  
同じことだった。互いに出会うまでは一体何が欠けているのかなど考えもしなか  
ったのだから。  
そんな風に、足りないものを補い合う為に男と女が出会うのなら、これほどいびつ  
で歪んだ欠片同士もなかっただろう。細かな部分までが驚くべき精度で符合して  
いくことが素直に嬉しい。  
 
暖炉の火は心地良くとろとろと燃えている。  
柔らかな赤い火を眺めていると、自然と睡魔が襲ってきて長椅子の上でゆったりと  
舟を漕ぎ始めた。剥き出しの真っ白な爪先も、もう冷たさを感じなくなっている。  
それほど長い時間のことではなかったのか、頬に当てられた手の感触で不意に  
目が覚める。  
「…ああ、済まない」  
「寝るのなら、これを飲んでからの方がいい。体が温まる」  
放っておかれたことを咎めるでもなく、まだ冷たさが残っている指先に持っていた  
硝子のカップを押し付ける。  
取っ手付きのカップに入っていたのは、暖めた果実酒だった。ことのほか滋養の  
ある果物から作られたということで、こんな時期の飲酒などとんでもないと禁止し  
ている飛影も、これだけは薦めてくる。立ち昇るふくよかで甘い香りが鼻をくすぐっ  
た。  
香りにつられて一口飲む。  
口当たりの良い甘さの割に度数は結構強いと聞いている。お陰で体の芯までが  
一気にかあっと熱くなった。あっと言う間に中身は空になる。男は、そんな様子を  
嬉しそうに眺めていた。  
「美味いか?」  
「ああ、ありがとう。また俺のわがままのせいで手間をかけさせてしまったな」  
「気にするな。貴様は自分の体のことだけを気遣っていればいい」  
優しい男だ。  
髪を撫でられて、また睡魔が襲いかかりそうになるのを必死で意識の底で押し  
退けながら微笑んで見せる。  
「俺は…お前に甘えてもいいんだな」  
何を今更、と言いたげに男は首を傾げた。  
「妻が夫を頼り、甘えるのは当然のことだと思うぞ。まだそれほどの力はないかも  
知れんがな」  
「そんなことはない!」  
 
髪を撫でる手を取り、宝物のように胸に押し当てた。  
「…お前は、これ以上望むべくもない夫だ。俺には勿体無い程にな。だから躊躇  
する気持ちはある。嬉しいのと同じほど不安にもなる」  
「バカげたことだ」  
ごく普通に育って妻となっていたなら、こんなくだらないことで思い悩んだり不安  
になったりはしないだろう。ほんの数年のこととはいえ、この命の始まりの大事  
な数年を悲惨に過ごしたことで、その後長い時を生きてきてもまだ恐怖の芯は  
残っている。  
そんな躯を何も言わずに根気良く見守っている男だ。  
一笑したくなるのも道理に違いない。  
「もう、どこも冷たくはないな」  
「ああ、大丈夫だ」  
暖炉の火は相変わらず適度な量の炎をちらちらと上げながら、静かに燃え続け  
ている。男はごく近くで寄り添いながら頬杖をついた。  
「お前は、もう一度生き直せるんだ。子供と一緒にな。これほど面白いことがあ  
るか?」  
「面白い…?」  
「いまだにお前を呪って離れないあの糞野郎には何よりの復讐になる」  
それだけ言ってのけると、人が悪い笑みを浮かべて唇を触れ合わせてきた。  
そんなことは、考えもしなかった。  
「そう、なるのか?」  
「その為にもお前はもっと幸せになればいい。俺がそうさせてやろう」  
「幸せに…なれるんだな、俺は」  
暖まった室内は徐々に心までを溶かしていく。夜着を少しずつはだけられ、遂に  
は長椅子から滑り落とされても抵抗する気はもうなかった。  
「寒かったり、冷たいなら言えばいい。それと同じことだ。寂しかったり怖い時は  
いつでもこうして側にいよう、躯」  
 
あの男から精神的肉体的に逃れる為に半身を焼いた体だ。  
自分では狂気からの独立の証として誇りにもしているが、この男の目にはどうだ  
ろう。以前はそれを気にしてもいたが、今更隠しても詮無いことだ。  
「あぁ…」  
宥めるように乳房を撫でられて、思わず声が上がる。  
母になりかけている体はようやく安定期に入ったところで、こんな行為もある程  
度なら出来るようになっているとはいえ、まだ未知のことばかりで正直言えば戸  
惑っている。  
だからこそ余計に燃え上がるのは女の本能だろうか。  
「いいな、躯」  
そんな躯に欲情を掻き立てられたのか、珍しく声の上擦りを隠せずに男が重な  
ってきた。体をさらさらと撫でる手は優しいのに、伝わってくる鼓動はひどく熱く  
て激しい。煽られるように更なる熱が湧き上がる。  
「…悪いな、今夜は我慢が出来そうにない」  
「飛影、構わない…お前の好きにしていい、からっ…」  
求められていることが嬉しくて、今夜はもう何も考えずにしっかりと腕を回して夫  
たる男を抱き締めた。  
しんと静まり返った夜。  
月だけが物言わず魔界を照らしている。  
何もかも満たされ合う為に抱き合う二人の許には、冷たい月の光など微塵も届  
きはしなかった。  
 
「えーと…どうしよう」  
たまたま喉が渇いて起きてきた雛が、偶然そんな二人の姿を見てしまっていた。  
水が飲みたいのに、厨房には応接間を通らないといけない。  
「お邪魔する訳にはいかないし…うーん…」  
恋に恋する年齢の雛には、長椅子の上の二人が何をしているのか良く分かって  
はいなかった。  
 
 
 
終  
 

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