元旦の午前六時。  
前日までかかりきりでおせち料理を作っていたせいで、やや睡眠不足気味の螢  
子はまだ眠そうに目を擦りながらキッチンにやって来た。  
結婚したばかりとはいえ、こういう季節の節目だけはきちんと忘れずにいたい。  
それは両親の教育の賜物でもある。  
「うーん…我ながら良く出来たかな。後はお重に詰めるだけね。それからお雑煮  
を作ってと…」  
黒々と艶やかに仕上がった黒豆を一粒口に運んでから、にっこりと満足そうに微  
笑む顔は新妻そのものだった。  
 
午前八時。  
あまり早く起こすと文句を言われるので、ぎりぎり譲歩したこの時間に寝室へ向  
かう。そんな螢子の気も知らず、当の幽助はまだ呑気に夢の中だった。どうせろ  
くな夢を見ていないらしく、呆けた顔で何やら聞き取れない声で寝言を言っている  
のが憎らしい。  
ついつい悪戯で鼻をつまんでみた。  
「…っ、ぷはっ!」  
「ははっ、あははは!」  
その歪んだ顔があまりにも面白かったので、笑い出してしまった。それが気に障  
ったのか、目を覚ましてすぐに拗ねたように口を尖らせて文句を言う。  
「てめ、元旦早々殺す気かよ」  
「あんたがいつまでも呑気に寝てるから悪いんでしょ。全部支度は出来たから起  
きて」  
 
早朝から頑張った甲斐あって、キッチンのテーブルにはずらりと御馳走が並んで  
いる。三重に積み重ねられたお重にぎっしりと詰められたおせち料理に黒塗りの  
雑煮の椀、それに屠蘇器のセット。  
元旦の食卓には欠かせないものがそこには全て揃っていた。  
前日まで年越し番組と深夜映画を見ていて大して寝ていなかった幽助は、まだ  
眠そうに渋々トレーナーとジーンズを身につけている。その間に螢子は隣の部屋  
で正月用の淡いピンクの着物を黙々と着ていた。まだ着慣れているとは言えない  
が、外から見ておかしくない程度には着られるようになっている。こんな日ぐらい  
はきちんとしていたかったのだ。  
「幽助、どう?」  
「うわ、すげーな。見違えたじゃん」  
「えへへー、ありがと」  
着物の袖で真っ赤になった顔を隠して照れ笑いをする螢子に、幽助も嬉しそうな  
顔で頭を掻いている。  
「じゃあ…朝食にしようか」  
「そうだな。腹減ったし」  
 
「うわ、すっげー。豪勢じゃん」  
全て準備の整った食卓を一目見て、また幽助は感嘆の声を上げた。それが決し  
て変に大袈裟ではないのが何だか嬉しい。特におせちは品数がたくさんあって  
下ごしらえも大変だったけれど、その一言で報われた気がした。  
「なーにお世辞言ってんの」  
「いやいやマジ。うちのお袋なんか、こういうのダメだったし」  
「うーん、まあ温子さんは仕方ないって」  
くすくすと笑いながら、無理やり椅子に座らせる。確かに幽助の母親、温子はこ  
ういうものに気が回らなそうだ。それでも子供を抱えて女一人で一生懸命だった  
ことは子供の頃から身近に見ていて分かっている。  
女はやはり子供を持つと偉大だ。  
結婚してからも、改めて実感している。  
 
「今年もよろしくね」  
「ああ、頼むぜ」  
食事の前にお屠蘇の杯を飲み欲して、新年の誓いを交わす。こんな時のぴりっと  
張り詰めた感じが好きだった。  
「じゃあ、食べて」  
中身が詰まっていて重いお重を広げながら、螢子はいそいそと勧めた。つられる  
ように箸をつけて煮しめを口に運んだ瞬間、笑みが零れる。  
「うん、うめー」  
「そう?いっぱい食べてよ。蒲鉾とか数の子はそりゃ無理だけど、手作り出来る  
ものは出来るだけ自分で一から下ごしらえしたんだからね」  
自慢げに微笑む螢子は、目の前で美味そうに食べ続ける顔を見ているだけで幸  
せだった。元々が食堂の娘でもある。自分が作ったものを食べて喜んでくれる人  
がいるだけで嬉しい。料理がそれなりに得意で良かった。  
こんな時は本当にそう思う。  
 
食事の後片付けを終えた後、いよいよ初詣に出かけることにした。  
さすがに元旦はどこの神社も混んでいるとは思うのだが、これも習慣のようになっ  
てしまって午前中のうちに出かけずにはいられない。  
「ほら、これ早く着てったら。お天気はいいけど結構寒いんだし」  
いつものように、食後だらだらとゲームを始めようとする幽助を追いたててダウンジ  
ャケットを着せようとする。  
何かにつけて尻を叩いていないと、幽助はなかなか腰を上げようとしない。その為  
にいちいち文句を言われるのだが、腹を立てていても始まらない。  
両親がいつも言っている。時は金なりと。  
それに倣って、この一年の始まりの日となる今日の時間は少しも無駄にはしたく  
なかったのだ。  
居間の床に寝転んでいる幽助はぶーぶー言っている。  
「何だよ、神社は逃げないって」  
「早めに行かないとすぐに午後になるわよ。日が暮れるのは早いんだからね」  
「うるせーなあ」  
「…いいから立つ。そしてこれ着て玄関。はい、すぐに実行!」  
こんな風に常に気を つけて仕切っていないと、本当に今日はすぐに終わってしま  
いそうだ。  
 
午前中の青空は綺麗に澄んでいる。  
真冬だから寒くはあるのだが、気のせいか空気もいつもより澄み切っているよう  
な気がした。  
「いいお天気ね」  
「そうだな」  
さすがに普段より街中に人はいないが、螢子のように着飾っている若い女性たち  
はみんな初詣に行くか、もしくはどこかへ訪問しに行くのだろう。華やかな雰囲気  
が溢れていて何だか嬉しくなってくる。だが、好事魔多しとは良く言ったものだ。  
「よそ見をしない!」  
すぐ側を通りかかった華やかな振袖姿の女性の方につい目が向いてしまった幽  
助の腕を思いっきりつねる。  
「いてーな!」  
「あんたが悪いんでしょ」  
そんな遣り取りをしながら二人が着いたのは、近所では一番大きな神社だった。  
大きいとはいってもこの時期のテレビではよくニュースとして映っているような、参  
拝客の多い神社というほどではない。だから少しは窮屈な思いをすることなくお  
参りが出来ると思ってここにしたのだ。  
境内に入ると、やはり人は多いが心配していたほどではない。この分ではすぐに  
先頭まで辿り着けるとほっとしながら、バッグに入れていた携帯カイロを隣の幽  
助に差し出す。  
「もう少しみたいね。寒いからこれ使って」  
手袋も忘れていたので指先が冷たそうだった幽助は、嬉しそうに飛びついた。  
「お、悪いな」  
毎日特別変わったことをしている訳ではない。けれどこんな何気ないことの積み  
重ねを繰り返すことで、夫婦としての日々がだんだん充実したものになっていく  
ような気がした。  
 
無事にお参りを済ませ、破魔矢と家内安全のお守りを買う螢子の側で、幽助は  
別のお守りを持って、これも欲しいとしきりに茶々を入れる。  
「何?あんたはどんな願いがあるの」  
「へへー、こんなの」  
よくよく見れば手に握られているのは『安産祈願』のお守りだ。  
「…何考えてんの。そんな状況じゃないでしょ」  
「もし出来ても、俺がおぶって育てるしさ。子供は嫌いじゃないんだよなー」  
「お腹にいる間、私が色々困るじゃない」  
頭が痛くなった。  
教師を目指して毎日山のような課題やレポート作成に追われているというのに、  
そんな余裕はない。子供が欲しくない訳ではないのだが、来るべき時期は今で  
はないのだ。それをこれまで何度も話していたというのに、全然分かってくれてい  
なかったことが螢子を少し憂鬱にした。  
男というものは、大体こんな風に現実があまり良く見えていないものなのだろう。  
こんな日に苛々していても始まらない。これはまた後で旦那教育を徹底しないと  
いけないと決意を新たにする。  
 
「あ、あいつら…」  
ひとまず安産のお守りだけは却下して境内を出ようとしていた時、幽助が大きな  
声を上げた。指した指の先には桑原と雪菜の姿。  
「ちょっと、やめなさいよ。邪魔しちゃ悪いって」  
「いいからいいから」  
仲睦まじく顔を見合わせて笑っている二人の側に、幽助はちゃっかり走って行っ  
た。  
「よう、お前らも来てたんだな」  
「まあな。初詣ぐらいはしねーとな」  
クリスマスの時と同じく、お揃いの白いマフラーをしている二人の間に割って入っ  
た図々しい男の後ろから、消え入りそうな様子で螢子は溜息をつきながらぼとぼ  
と歩いて行く。  
だが、幸いなことに二人はそれほど気にはしていないようだ。  
 
「…ごめんね、雪菜ちゃん。せっかく一緒 なのにお邪魔しちゃって」  
「いえ、そんなことないです…」  
意気投合して笑いながら話し込んでいる男二人を横目に、螢子は取り残された  
形の雪菜の側へと寄る。まだ少女のような可憐さを残している雪菜は控えめな  
正確そのままに溶けるように淡い笑みを浮かべて頬を染めた。  
「さっき、お参りした後でおみくじ引いたんです」  
「わあ、何だった?」  
「大吉って出ました…なのでそこの木の枝に結びつけようとしていたら、和真さ  
んが『いい結果が出たおみくじはこれから一年間のお守りに出来る』って言って  
下さって…」  
そう言って、もう一度更に赤く頬を染めてはにかみながら笑った。その笑顔はも  
うじき境内で咲き誇る紅梅のようだった。  
「雪菜ちゃん、今すごく幸せなのね」  
あまりにも嬉しそうな笑顔に、引き込まれそうな錯覚を覚えながら尋ねてみた。  
途端に、もうこれ以上は無理なほど真っ赤な顔をして見ている方が胸が痛くな  
りそうなほど満面の笑みを見せてくれた。  
「…はい、とても」  
 
雪菜が羨ましくなって、後でひいてみたおみくじは中吉だった。  
まあ平凡なのが何よりといったところか。それが自分には一番似合っているよ  
うだ。  
ところで昼食はまだおせちの残りがあるからいいとして、夕食はどうしよう。  
まだ正午少し前。  
神社の境内を出て家路を行く途中、そんな考え事が頭を占めている。今から螢  
子の気がかりは夕食の支度のことだった。おせち料理とは家庭の主婦が三が  
日の間炊事をしなくていいように作るものだ。だが、幽助が美味い美味いと大  
喜びで、もう半分近く平らげている。昼食でも同じペースだったら夜にはすっか  
りなくなっているだろう。  
 
だが、せっかく作ったものがいつまでも残ってしまうよりは遥かにましだ。あんな  
に喜んで食べてくれるのなら、また来年も作ってあげたい。女はそんな風にごく  
シンプルに出来ている。  
「幽助」  
まだ隣で安産のお守りがどうとか、ぶつぶつ言っている幽助に声をかけた。  
「何だよ」  
「夕食、何がいい?」  
昨日までのおせち作りのエネルギーは、もう残っていない。全く別のものを作る  
としてもそれほど凝ったものは無理だけれど、とりあえずリクエストは聞いてお  
くつもりだった。  
 
案の定、昼食の時点でおせちは幽助が完食した。  
家に帰ってからも出し忘れた年賀状書きや掃除の残りなど色々と細かい用事  
があったので、何だか慌しい元旦になってしまった。  
そうこうしているうちにあっと言う間に日が暮れてしまって、もう何も夕食の支度  
をする気などなくなってしまっている。  
仕方なくキッチンの戸棚にいつもストックしてあるレトルトのカレーと、レンジで  
温める御飯で済ませることにした。さすがに元旦に料理を作るのは勘弁して欲  
しかったのだ。  
「ごめん、こんなものしかないの」  
「あーいいよ。今日は御馳走づくめだったからさ」  
反応は意外にあっさりしたものだ。普段食べ慣れていないものをたくさん食べた  
という満足感があるのだろう。  
 
「あー、今日は大変だった」  
何とか家の中の掃除の残りを終え、夕食も入浴も済ませてしまってから、よう  
やく人心地ついたように居間のソファーで横になったパジャマ姿の螢子は、今  
日初めて安堵の溜息をついた。  
「お疲れー」  
幽助が冷蔵庫から取り出した缶ビールを渡してくる。  
「サンキュ」  
一日の用事が全部終わったことで疲れがどっと出てきて、ここですぐにでも眠  
ってしまいそうだ。でも、時間はまだ宵の口。出来ればもう少し遅くまで起きて  
いたかった。おせち作りで年末は潰れてしまったのだから。  
プルタブを開けると、軽快な音が弾ける。  
そのままごくごくと飲み干して、乾いた喉を潤す。大人になってからこの味を覚  
えたのだが、やはりビールは美味しい。  
「…もう一本くれる?」  
「いいぜ、待ってな」  
すぐに新しい缶を持ってきた幽助は、何の前触れもなく唇にキスをしてきた。  
「…何、してるの」  
「そろそろしたくなったなー、と思って」  
「冗談。私、疲れてるの」  
こんな状態なのに求めてくるなんて、本当に冗談じゃない。そう思っているの  
にさほど抵抗しなかったせいで了承と取ったようだ。幽助の手はパジャマのボ  
タンを一つ一つ外していく。  
慌てて制止しようと腕を突っぱねた。  
「ちょっと、待って」  
「ダーメ♪」  
まるで駄々っ子のようだ。一度その気になったら絶対に引かない。けれど螢子  
もここで思うままになりたくはなかった。あと一時間で前から見たかったドラマ  
が始まるのだから。今疲れてはいられない。  
「お願い、やめてったら…」  
 
「螢子」  
声を上げた途端に、急に幽助は真顔になった。  
はだけられた場邪魔をぐいっと開くと、あらわになった乳房に頬を寄せて囁くよ  
うな小声になる。  
「今日さ、すっげー嬉しかった。朝起きたら見たこともないような御馳走が並んで  
て、お前は綺麗な着物着て勧めてくれて、そんなの経験なかったんで信じられ  
なかった」  
「幽助…」  
「結婚って、こういうものなのかなって思ったら、もっともっとお前を大事にしたく  
なった」  
居間ではバラエティーを放送しているテレビの音だけがやけに響いていた。  
「私も、そういう気持ち。だから手間をかけておせち作ったの」  
「ありがとう」  
「…いいって、そんなこと…」  
何も考えていないようでも、いつも気遣ってくれる気持ちを秘めている。昔からそ  
れは分かっているつもりだったのに、毎日の忙しさに紛れて忘れてしまったのは  
自分の方だった。それに気付いて、柔らかな髪を撫でる。  
「私は、幽助がいればそれでいいの」  
「螢子」  
「あんたが言ったんだからね。私を大事にして。私もいっぱいあんたを大事にす  
るから」  
冷たいままだった唇が熱を分け合うように重ねられた。  
 
「…ン」  
疲れていた体は、ほんのわずかな刺激であっと言う間に燃え上がった。触られ  
るだけで、舐められるだけで敏感に反応して快感を蓄積していく体が自分でも  
信じられないほどだ。  
このままどんどん追い詰められていったら、どうなるのだろう。  
「なあ、入れていいかな」  
「…ダメ、あれ使って。じゃなきゃ嫌」  
 
幽助が二人の間の子供を欲しがっているのは痛いほど分かっている。けれど今  
だけは無理だ。どんなに頼まれても。  
ものには時期というものがある。その場の衝動で全てを忘れる訳にはいかない  
のだ。  
「仕方ないな」  
ズボンのポケットに忍ばせていたものを取り出してパッケージを開く。本当はこ  
んなもの、螢子も好きではない。しかし事情が無理やりそれを正当化する。  
ゴム特有の無粋な臭いが漂った。  
「じゃあ、いくぜ」  
「…うん」  
幽助の願いを無碍にするゴムが装着され、それでも焼け付くほどに熱いものが  
ゆっくりと螢子の中を抉った。何度知っても内部が擦れ合うこの一瞬だけはまだ  
慣れることが出来ない。  
「い、やっ…」  
「螢子っ、いいか…」  
「わか、んないっ」  
粘膜が馴染んでいくごとに中から激しく煽られる。早く全てを忘れろと。まだ理  
性を捨て切れていない螢子は戸惑いながらもただ必死で手放しそうな意識を繋  
ぐだけだった。  
もうじき、全部呑み込まれる時が来る。  
 
ドラマは結局最初の三十分だけ見られなかった。  
すっかり疲れ果てていたものの、それだけは見たいと思っていた螢子は眠気を  
堪えて見続けている。  
「螢子」  
「んー、何?」  
隣でぼんやりと所在なげに、やはりドラマを見ていた幽助が唐突に話しかけて  
きた。  
「無理強いしてごめんな…飛影に子供が出来たって聞いてから無性に羨ましく  
なっててさ」  
「そんなことだと思ってた」  
 
そう、螢子には原因が分かっていた。  
なかなか会えずにいる親友に子供が出来たという知らせを聞いて以来、幽助が  
少しだけ変わったことを。いつでも授かる環境にあるのに、それが叶わないもど  
かしさを感じていることも。  
「今は無理だけど、いつか近いうちにきっと私は幽助の子供を生むから」  
「…本当だな」  
「うん、約束する。だってあんたは家族が欲しいんだものね」  
家族。  
何という甘美な響きだろう。出来れば今すぐにでも与えてあげたいと思う。だが、  
その前にしなければならないことを遂行することが一番の近道だと螢子は思っ  
ていた。  
義務も権利も同時に果たして、初めて二人は新しい家族を迎え入れることにな  
るのだから。  
何だか慌しい新年最初の日だったけれど、新しい目標も出来たのでまた一年  
頑張れそうだった。  
 
 
 
終  
 

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