北の地方では毎日のように雪が降り続けていて、豪雪による被害が出てきてい
るという。もちろん都会でもそれと無縁でいられる筈もなく、今日は朝からくもり後
雨、または雪という予報が出ていた。最近は本当に寒いせいで、街を行く誰も彼
もが寒そうにコートを着込んで暗い目をして黙々と歩いている。
何となく、ごめんなさいと雪菜は誰にも見つからないようにこっそりと頭を下げた。
当然のことながら、この寒さも雪も雪菜の仕業ではないけれど。
買い物帰りにふと立ち寄った雑貨屋で、凝ったデザインのフレームで飾られたス
タンド式の鏡を見つけた。あまり衝動買いなどはしないけれど、今日はどうしても
欲しくなったし、値段もそれほど高くはなかったので雪菜は思い切って買うことに
した。
決め手となったのは、いつも大切にして首から下げているペンダントがその鏡に
とても綺麗に映ったからだった。
『雪菜さん、これを受け取って下さい』
みんなで集まった日に揃って出かけたショップで、金色のリボンをかけた純白の
箱を差し出して真っ赤な顔をしていた和真の真剣な顔が忘れられない。確かに
クリスマス前までテレビで盛んに宣伝をしていた綺麗な雪の結晶型のペンダン
トが欲しい、とは密かに思っていたけれど、決して口には出さなかった。
それなのに心を察したようにプレゼントをしてくれた気持ちがとても嬉しい。自分
はこれといって特別なことをしてやれてはいないのに、どうしてそんなに優しくし
てくれるのだろう。
いつもそんな気持ちで申し訳なく思っていた。
「和真さん、今日は何が食べたいのかなあ…今日は寒いから、ポトフかシチュー
にしようかな」
早くも夕食のことを考えながら買ったばかりの鏡を抱き締めて、一人きりの雪菜
は空を見上げた。薄い灰色の空は今にも雪が舞い降りてきそうな雰囲気で張り
詰めている。
和真のことが好きか嫌いか。
単純に決め付けるなら、絶対的に好きには違いない。
そして和真が心から思ってくれていることも充分に分かっているつもりだ。これで
何の迷いがあるというのだろう。
そこまで何もかもが整っているのに踏み込めないのは、やはり種族の違いによる
ものがあるからだ。
まだまだ百年に一度の分裂期には間があるのだから、情を交わすだけならそれ
は可能だ。だが、それはとてもいい加減なことに思えた。お互いに真剣になれば
なるほど、何ひとつ形を成さない行為がどれほど無情なことか雪菜はずっと悩ん
でいる。心優しく、誰にでも大らかに接している和真なら、自分の子供を望んで
当然なのだから。けれどそれを与えてやることだけは自分には決して出来ない。
もしも分裂期が今この時に訪れていたならば、何の躊躇もなく思いを遂げていた
だろう。
母親の氷菜の気持ちが今なら良く分かる。心に思う男の子を成したいと願うのは
女であれば当然の本能なのだから。
「そういや、あんたたち明後日戻るんだっけね」
「え、ええ。そうですけど」
ポトフを作る為にキッチンで食材の準備をしていると、後ろから静流が話しかけて
きた。危うく冷蔵庫から取り出したブロッコリーを取り落としそうになる。
「だったら、ここはあたしがやるから。あんたも支度とか色々で忙しいだろ?」
「いえ、大丈夫です。もう必要な荷物は全部詰めましたし」
「雪菜ちゃん」
急に静流は真顔で向き直った。元々端正な顔が引き締まると、尋常ではない凄
みが出て心の中を覗かれてしまうような錯覚を覚えた。茶髪の下で切れ長の瞳
がすうっと細められる。
「は、い…何ですか」
「あんたたちも長いからさ、野暮は言いたくないけど」
「…はい」
「ここらではっきりさせてやんないと、アイツが可哀想でさ」
「…」
とうとう来てしまった、と感じた。
やはり、周囲はそう感じていたのだ。和真の優しさに甘えてばかりで心を曖昧に
したまま今まできたけれど、もう次の段階に移る時に来ている。それを直に肌で
感じて、雪菜は目を閉じた。
どうして、こんなに大切なことを今まで放っておいたのだろう。心臓がどきどきして
思わず深呼吸をした。
「…私、和真さんのこと、とても大好きです。だから一緒に行くんです。これからも
ずっと…一緒に…」
「よし、分かった」
さっきまでの異様な凄みは静流から消えていた。いつもの笑顔で見下ろしている
だけだ。呆気に取られてしまって目を丸くしていると、ばんばんと肩を叩かれる。
「だったら、それを直接アイツに言ってやりなよ。ね?」
「…はい」
時刻は午後四時半。
まだ日は短い。そろそろ空は暗くなってくるだろう。いつの間にかすっかり冷え切
った空気が空から白いものを降らせている。
「わあ、雪…」
真冬のプレゼントは真っ白で夢のような粉雪。もしもの為にと持ってきたビニール
傘の上で、さらりさらりと微かな音楽のように優しく響いていた。和真は午前中か
ら近所の図書館に行っている筈で、もうそろそろ帰ってくるだろう。迎えに行こうか。
それとも近くで待っていようか。どのみち自分はそれほど寒さを感じないのだから
気楽なものだ。
「…雪菜さん?」
図書館が見える大通りの角に立って、よし、ここで待とうと決めてすぐに待ち人は
現れた。
「どうしたんですか、こんなところで」
分厚いコートにこの前プレゼントした白いマフラーを巻いて、完全防備の和真が心
底驚いたように目の前に立っていた。
「和真さんをお待ちしていました」
「…こんなところでですか、寒かったでしょう」
雪菜の正体を知っているにも関わらず、そんなことを言う和真にくすくすと笑いが
漏れる。本当に、何て優しい人なんだろうと。
「いえ、少しも」
「風邪をひくじゃないですか。早く帰りましょう」
「…はい、和真さん。傘はこれひとつしかないですけれど」
それだけのことで顔を赤くする和真をこっそりと確認して、何だか胸の中が暖かく
なる。粉雪はしきりに降り続いていた。心なしか街の騒音も静かに思えて傘の柄
を持つ和真の腕に縋りついた。これまで、どんな時でも雪菜を第一に考えてくれ
て、守り続けてくれたのなら、思いは返さなければいけない。そう決意して。
「…雪菜さん!?」
「私たち、周りからどう見えるんでしょう」
「どどどど、どうって…?」
すっかり動揺したような声が上から降る。
「恋人同士、だったら嬉しいのですけれど…」
「そっそんなっ…ははは冗談はやめて下さいよ…」
「いいえ、嘘でも冗談でもありません。私…和真さんのことが…」
その時、突然歩道近くの道路を物凄い勢いでトラックが通り過ぎていった。続きを
遮られて思わず口を噤んだけれど、動揺しきっている和真は気付いていないよう
だ。
いつもはここでおしまいだけれど、今夜はきっと。
二人が新しい段階へ進む為にも、これは必要なことだからと雪菜は可憐な表情に
強い決意の色を湛えて微笑んだ。
続く