魔界トーナメント終了後、ひとまずの平和が魔界には訪れていた。  
単純な仕組みだったが優勝者が暫定的に納めるという案は全くの平等なもので、  
それほど悪くはない。それによって国王ではなくなった躯もまた、長年の重圧から  
開放されて気楽な毎日を送っていた。  
とはいえ、元々の部下たちは黙っていない。  
躯ほどの優れた能力者にはそれなりの役職をと、目覚しいほどの働きをもって新  
体制の幹部に推挙をしてきた。  
それによって、人間界から何かの偶然で落ちてくる人間たちを救出して無事に送  
り届ける役目が回ってきたという訳だ。  
 
魔界と人間界はある程度似通っているからこそ、どこかに通じている道があるの  
だろう。人間たちが何をもってそこを抜けてここに落ちてくるのかは、一切の個人  
的意思が介在しない以上定かではないのだが、その謎はなかなかに興味深い  
ものがある。  
ある種の共通点を調べてみれば、原因なり傾向が見えてくるのかも知れないが、  
そこまでする気はなかった。  
躯にとっては何事も空虚なものでしかない。  
子供の頃から夢中になれること、のめり込めることなど何ひとつ見出せないまま  
に今まで生き永らえている。  
これからも、きっとそうなのだと思っていた。  
女の形を辛うじて貼り付けただけの、不完全な生き物でしかないのだから。  
 
「今日はどうだった」  
「一人。若い女だった。落下した時に右肩と腕に打撲傷があったので処置をして  
おいた」  
「そうか、それは御苦労だった」  
「仕事だからな」  
 
深夜になってその日の仕事を終えようとしていた躯の側で、ごく短く事務的な遣  
り取りをする男は飛影。国王だった頃から筆頭戦士として常に一番近くにいた男  
だ。現在でもその立場は少しも変わらず、最も信頼出来る存在でもある。  
パトロール用の百足を取り仕切るのにもようやく慣れてきた躯にとって、こういう  
存在が側近くにいるのは有り難い話だ。  
「疲れただろう、もう帰ってもいいぞ」  
「ああ、そうする」  
どこまでも二人の間にあるものは淡々としていて、そんな雰囲気は悪くない。必  
要以上に自分の中に踏み込まれることを良しとしない躯にとっては。  
そろそろ眠ってしまおうか。  
立ち去る気配を感じた途端、疲れを覚えていた体がどっと重くなる。目の奥に重  
い感覚が残っている。執務室の奥にある寝間に引き上げようとしていたその時の  
ことだった。  
入り口に、まだ誰かの気配を感じて首を傾げながらも声をかける。かなり落として  
ある照明のせいで、顔までははっきりと見えなかったことが不覚となった。  
「飛影か?」  
返事はない。  
「明日も早い。こんなところで無駄な時間を費やすな」  
やはり返事はなかった。  
「早く帰」  
言葉が終わらぬうちに、その不埒な者は無言のまま照明の光源をあっさりと壊し  
て獣のように躯に襲いかかってきた。年齢を重ねたというのに、子供の頃以来の  
本能的な恐怖ゆえに身が竦んでしまう。  
「何を、するっ!!」  
慌てて声を上げたが無駄だった。二、三発殴りつけられて床に転がされ、本気で  
恐ろしくなって言葉すらも出なくなる。  
まさか、今になってこんな目に遭うなんて。  
 
蔵馬の庇護の下から出てからは、こんなことの繰り返しだった。  
元々、女が戦いに負ければどうなるかなど決まりきったこと。まだ碌に力のない  
小娘だった頃は捕虜になって慰み者になるか、その場で陵辱されるかの二択し  
かなかった。  
散々に穢れ、屈辱に耐え、泥を掴みながらも死ぬことだけは決して選択しなかっ  
た。それでは、あんな思いをしてまで糞忌々しい男の支配下から逃げた甲斐が  
ないと耐えながら、立ち上がってはまた歩く毎日。そうして自力で何とか這い上  
がってきた。  
もう、あんな目に遭うなど有り得ないと思っていたのに。  
「何者だ、お前は!」  
侵入者は声ひとつ出さず、ただ不遜な笑いをたてるだけだ。  
それがまた空恐ろしく、衣服を破かれながらも躯はただ闇雲に抵抗するだけだ  
った。しっかりと両手首を押さえつけられていては到底かなうものでもなかった  
のだが。  
「…ぐっ!」  
突然、無様な声を残して躯に覆い被さっていた男がぐったりと倒れ込んだまま  
動かなくなる。  
執務室の入り口付近で、ぽうっと小さな蝋燭らしき灯りがともった。  
「無事か?」  
飛影の声だった。  
 
「…良く気付いたな」  
「たまたまだ、物音がしたからな」  
背中を一突きされて絶命した侵入者の死骸を足で蹴り飛ばしながら、飛影は相  
変わらずの波のない声を出す。どうして部外者がこうまで簡単に百足の中へと  
入り込んだのかは分からない。  
「それにしても、無用心なことだ」  
呆れたように呟く男に、わずかばかり腹が立つ。  
望んでこんな奴を引き入れた訳ではない。それなのにどうして非難されなければ  
いけないのか。  
 
「お前には関係ないだろう」  
この男のお陰で助かったというのに、ついそんなことを口走る。普段から不機嫌  
な顔をしている飛影の表情が、わずかに引きつったように見えた。怒らせてしま  
ったのだ。  
「…そうか」  
「助けて貰ったのは、感謝している」  
慌てて言葉を継ぐも、もう遅かった。表情を一層険悪なものにして、飛影は黙っ  
たまま執務室を出て行った。  
「飛影!」  
追いかけようとした躯だったが、何故か足は動かない。こんな時はどう対処して  
いいのか分からなかったのだ。これまでの生のうち、女として生きたことなど皆  
無だったことがこんな時になってネックになっている。  
「俺に何を望んでるというんだ、一体…」  
蝋燭の灯りが残されたままの室内で、躯はただ立ち竦むだけだった。  
 
翌日、いつものように部下として躯の前に現れた飛影は、何ひとつ変わらずに  
淡々と任務を遂行していた。昨夜のわだかまりなどすっかり忘れてしまったのか  
とわずかに安堵するも、どこかに拭い去れない冷たさが凝っている。  
こんなに執念深いとは思わなかった。  
元はといえば自分が原因を作ったことも忘れ、腹立たしい思いが湧き上がるの  
を今更ながらに感じてしまう。  
ただの部下のひとりとしてなら扱い慣れているのに、この男だけはどうしても手  
に負えない部分がある。その思いがどこから来るものなのか躯自身も分からな  
いままに、ただ表現しようもない腹立ちを隠している他なかった。  
これまで経験したことのない胸の悪さが次第に広がっていく。  
 
「今日はどうなった」  
「三人、男の子供が一人に夫婦が一組。妻の方はとうに死んでいた」  
「…そうか」  
いつもの如き報告の遣り取りだった。  
壊された照明は元通りに直されている。昨夜の侵入者の遺骸はもうない。血の  
匂いも綺麗に拭われていて、あの凶行があったことなど誰も知らなかった。全て  
は初めから何もなかったこととして躯の中で片付けられていた。  
「躯」  
それなのに、飛影だけは忘れてくれない。  
声音を変え、身を乗り出して机の上に投げ出された躯の手にささくれた指先を  
重ねてきた。  
「何をする」  
それほど危機感もなく、顔を上げた躯のごく近くでぞっとするように冷たい瞳が  
覗き込んでくる。何か深い思惑がどろりと絡み合っているような、そんな色をし  
ていて、うっかり見つめ返せば巧みに絡め取られてしまいそうだ。  
「躯」  
「何だ、突然」  
「貴様には自覚がないのか」  
珍しく、苛立ちを抑えているような声。  
「何の、だ」  
途端に強く手を握られた。  
「無論、女であることの」  
「くだらないことだ」  
「…くだらない、だと?」  
明らかに不愉快そうな声音になった。失態を犯してしまったと思ったが、躯とし  
てもここで引く訳にはいかなかった。  
「そうだ、俺は既に女ではない。あえて言うなら女の形をしているだけのもの…  
だから、別にもうどうってことはない」  
 
「そう、なのか」  
「だから」  
ごくりと唾を呑み込んだ。何かこの男を納得させることさえ言えればと思ってい  
たのに、何故か口から出てきたのは頭の隅にもなかったことだった。  
「昨夜は、わざわざ来なくても良かった」  
ざわり。  
急に、室内の空気が冷えた。  
おぼろげな感覚などではなく直に肌寒さを感じて、咄嗟に目の前の男を見上げ  
た躯の体が強く抱き締められた。どんな表情をしているのかは、もう分からない。  
「貴様の口は、嘘ばかりを言う」  
「何だ、いきなり戯言を…」  
「本音を言え」  
飛影は恐らく本気で怒っている。それでいながら躯の嘘を見抜いて感情を抑え  
ているのだ。もし、このまま嘘を通せば殺されかねない。いや、こんな穢れた女  
でしかない自分だ。別にそれでも構わないが、この男に嘘をつき通すことなど  
もう不可能なのだと本能が訴えている。  
それがどういう感情なのかは、まだ分からなかったが。  
「言ってもいいのか、飛影」  
「構わない、貴様が言うなら許容してやろう」  
言葉の表層だけなら何と傲慢なことを言う男だと思っただろう。しかし、躯には  
不思議と理解出来た。  
許容。  
その単語を聞いた途端に、この男は躯のことを何もかも分かろうとしているのだ  
と感じ取れたのだ。現在も、過去も、口にし難い出来事のひとつひとつまでを。  
信じられるか否かは、これまでのことで察することが容易だ。  
「…では、言おう。お前が来てくれるのを期待していた」  
その言葉と共にぱきん、とこれまで何重にも分厚く塗り重ねていた嘘と意地の  
殻が弾ける。  
閉じ込めていた女が、姿を現した。  
 
 
 
終  
 

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