間近に人の気配がある。  
臥せっていた女はわずかに目を開くとその者の姿を視界に認めた。  
「…探してきてくれたか」  
「はい、医師様。お望み通りの女がひとり、近隣の村におりまして、先程話をつ  
けておきました」  
どうやら使いの者らしい。  
「そうか、手間を取らせて済まぬな。このような身では赤子に乳をやることも叶わ  
ぬ」  
女の腹は大きくせり出していてもう臨月を迎えているらしく、いつ生まれてもおか  
しくない状態にある。だが、女そのものはひどく衰弱しきっていて下手をすれば  
赤子と引き換えに命を落としてしまいそうだ。  
 
女はこの国の密教屈指の食脱医師。  
自らの身をもって病める者たちを救う術師である。  
その肉も血潮も全ては腐り朽ちた人間の肉を食らうことで得た免疫。よって、病  
んだ者が口にすれば良薬にもなるが健康体の者はたちまち死病に陥る諸刃の  
剣となる。そんな体だからこそ、こともあろうに血を分けた我が子に乳すら与えら  
れないのだ。もっとも、このように弱り果てては医師でなくとも叶えられはしない。  
ほう、と溜息をついてやっとのことで寝床から身を起こした女は、乱れた黒髪を  
掻き上げると開け放たれた窓から空を見上げた。鏡の如き黒い夜空に半月がぽ  
っかりと浮かんでいる。  
あまりにも白く美しい月の姿に、女の表情が和らいだ。  
「今宵は良い夜だな…」  
使いの者は奥の厨房から粥の膳を運んできた。  
「最近、あまり食がお進みではないようですね。これからお生まれになるお子の  
為にも召し上がって頂きませんと」  
「ふ、そうだな」  
女の頬が更に緩む。  
 
「医師様」  
やや躊躇したように、使いの者は後じさりながら問うてきた。  
「そのお子の父親は一体どこのどなたで」  
途端に、血の気の失せた薄い唇が禍々しい笑みを形作った。孕んだことを知って  
からというもの、常に好奇の視線と陰口がつきまとってきたのだろう。ここまでは  
っきりと尋ねられたことはなかったが。  
「さあな、仔細は知らぬ。だが、まあ面白い男だった」  
くすくすと笑う女の凄まじさに気圧されたように、使いの者は何も言わずに姿を消  
してしまった。  
「ほんに、良い夜だ…あの時と同じだ」  
げっそりと肉の落ちた頬に、わずかに血の気が戻る。  
全ての始まりの夜を思い出しているように。  
 
祭壇の上の蝋燭が、ふっと一本だけ残して掻き消えた。  
座して瞑想を続けていた女は、その気配で瞼を開く。  
「…何者ぞ」  
闇の中に、何者かの気配があった。何がおかしいのか笑ってはいるようだ。それ  
が少々不快になって声を荒げる。  
「何者と聞いておるのだ」  
いまだ返事はない。だが、闇に紛れていた者はいざり出てその姿を現した。  
容貌は怪異にしてぎらぎらした眼差しの色が研ぎ澄ませた刃物を思わせる。これ  
まで目にしたことのない大男ではあるが、明らかに人ではなかった。  
だが、世も末とばかりに魑魅魍魎の跋扈するこの国において、直に目に止めるこ  
とはなくとも異質な存在ぐらいは常に感じられる。  
珍しくもない話だ。  
ふん、と女は軽く笑う。  
「化け物、何の用があって来た。ここはお前のような者が来るところではない。即  
刻立ち去れい」  
化け物は無言のまま更に近寄って来る。  
「…何のつもりかは知らぬが」  
化け物からは人の臭気がした。人肉を好む習性らしい。もしや何も知らずと食ら  
いに来たのかとおかしくなった。  
 
「我を只の人間と同じと思うな。愚か者よ」  
「ほう」  
化け物男が初めて口を開いた。  
「ならば、どう違うのか言ってみよ。生意気な人間の女め」  
げらげらと笑う口からは生臭い人肉の臭い。  
「わざわざお前に示すのも面倒だが」  
女は白い法衣の襟元をぐっと掴んでくつろげた。そのままはらりと体から落として  
しまう。蝋燭一本の灯りで照らされる女の腹は酷いまでの傷跡で覆われていて  
完全に削げ落ちている部分もあった。もちろん、自らの血肉を病人に与え続けた  
結果の尊い創痍である。微塵も悔いることはない。  
「見よ、我は医師。呪術をもって病める者に奉仕する為のこの身。血も肉も病苦の  
者たちの薬となり、お前のような下賎の輩が食せばこの毒がたちまちにして肉を  
蝕むであろうぞ。お前などに扱いきれる代物ではない。それでも食らうと申すか」  
醜く傷ついた裸身と女の気迫に、化け物男はわずかに怯んだようだった。これで  
去ってくれるかと内心安堵したものの、油断は出来なかった。  
「さて、どうしてくれよう」  
舌舐めずりをしながらも、長い爪を持った化け物男の手が頬を掴んだ。わざわざ  
忠告したというのに、まだ食い気だけは残っているのかと睨みつける。  
「人間など、他に幾らでもいよう。我に構うだけ無駄というものだぞ、化け物」  
まさに対峙となっていた。  
最初は人間対化け物だった筈が、いつしか女と男になっていることにも気付いて  
はいない。  
「食らえねば、腹いせに殺せば良かろう。しかし、お前にも化け物としての誇りは  
ある筈だ。我の命を奪いし瞬間、お前もまた唯一の誇りを失い、只の獣として堕  
ちる羽目になろうぞ」  
くす、と薄い唇が笑う。  
これで、完全に勝ったと思った。  
これで得体の知れない化け物男も諦めて立ち去ると。  
だが、甘かった。  
何を思ったか、男はその場にどっかりと胡坐をかいて動く気配もない。  
 
「何をしている」  
一体どういうつもりだ、この化け物は。とっとと立ち去らぬかと女は出方を伺って  
いた。殊更命乞いをしたい訳でもないが、医師としてのこの身が失せれば近隣  
の病める者たちが困るだろう。それでは意味がないのだ。元より術師の家系に  
生まれた訳ではない。たまたま近親者たちが病に苦しんでいたからと目指した  
医師の道。どんな困難も人を救済する為と思えば血反吐を吐いてでも耐えられ  
た。  
蛆の湧いた病人の腐肉を食らうことなど、何でもなかった。  
そこまでしてようやく医師となり救済の年月を重ねていたというのに、こんな化け  
物一匹の対処に苦慮している。  
あってはならないことだった。  
だが、それ以上に苦慮しているのは化け物男の方に見えた。  
「…何をしていると」  
「女」  
ずっと俯いていた男が、何事かを決意したように床に這いつくばった。そのまま  
一間の隅へと下がって、頭を擦りつけるばかりの体勢になった。ごりごりと床に  
額が擦れる音が響く。  
「この一夜で良い。俺の女となれ」  
「何を言う」  
「…頼む」  
くだらない冗談だと思った。  
出て行かぬ、しまいには拝み倒して口説く。腹の中が読めずに悪い夢だとでも  
思うしかなかった。女として生きてきたことなど、只の一日とてない。どうしてこ  
んな下賎な男に身を任せられよう。  
「馬鹿なことを」  
「そう、思うか」  
「いかにも、な。お前のような化け物など信用出来ぬわ」  
「それでも良い」  
呆れて相手などしなくなっても、化け物男は同じ格好でいる。溜息をついて寝間  
へと下がる。  
どうせ単なる気紛れ。そうとしか思えはしなかった。  
 
 
 
一刻ほど過ぎただろうか。  
夜着に着替え、床に就いてからもなかなか寝付けなかった。  
何処ともなく現れたあの化け物は、もう痺れを切らして姿を消したに違いない。そ  
う踏んだものの、気にはなっているのだ。  
寝間の戸を開いた女が見たものは、先程とわずかも変わらずに床に張り付いて  
いる大男の化け物の姿だった。  
「何のつもりだ」  
「然りと言うまでは、ここを動かん」  
「愚かなことを」  
あまりの愚直な姿に、思わず口元が緩んだ。  
何と言われようと長年冷たく凝り固まった心が解きほぐされることはない。言葉な  
ど存外いい加減なもので、何とでも綺麗に取り繕える。そして女というものは知っ  
てか知らずかそれに騙される。  
その果てに、ずるずると堕ちていく女たちをこれまで腐るほど見てきた。こればか  
りは医師ですらも治せない不治の病とも言えるのだろう。  
「女、然りと言え」  
「言わぬ」  
「言いやがれっ…」  
不自然に体を縮こめて、律儀なまでに頭を床に擦りつけている化け物男のいっそ  
滑稽なまでの様子を眺めていると、これが自分の機会なのではとも思い至る。  
どのみち普通の男は気味悪がって寄り付くことのない女。病身ならば頼む拝むと  
下にも置かぬ扱いで手を合わしもされるが、壮健さを取り戻せばもう一切見向き  
もされなくなる因果の女。  
ならば、この化け物でも良いではないか。  
どこぞの者とも知れぬ男と忌まわしい運命を負った女。それもまあ、似つかわしい  
と言えなくもないだろう。  
何よりも、これほど乞うているのなら、まさに女冥利。  
祭壇の蝋燭は、燃え尽きようとしていた。  
「化け物」  
板張りの床に足を踏み入れると、異様な緊迫感を感じ取れた。  
 
ぺたり。ぺたり。  
裸足で歩を進める女は、これまで閉じられていた窓につっかい棒を立てて外気を  
入れた。すっかり失念していたが、今宵は良き半月の夜。折しも隣家の庭で咲き  
誇る白梅らしき花弁がひらりと舞い込んでくる。澄んだ青い光が見渡す限りの世  
界を満たしていて、実に美しい。  
「ほう、妙なることよ」  
化け物は、まだ見動きひとつしない。  
「お前、それほどに我を乞うか」  
「当然だ」  
「なにゆえに」  
「小難しい理屈などいらんだろう」  
ふ。  
薄い唇が心からの笑みで彩られる。  
それもまた然り、と言うべきか。確かに情などというものは小賢しい言葉など無用  
の次元にある。  
ひらりひらりと散りかけの白梅の花弁が途切れることなく舞い込んでくる。何と良  
き夜よ。まさに今宵が定められた夜なのかも知れなかった。  
「…いいだろう。お前の戯言に付き合ってもやろう」  
未だに這いつくばったままの化け物の前で膝をつく。それが本当のこととは思わな  
かったのか、しばらくの間は頑なに同じ姿勢を崩さぬままだった。  
「我もお前を乞うぞ」  
「…本当か」  
ようやく、化け物はがばっと顔を上げた。長い間、床に擦りつけていた額に薄く痣  
が浮いている。それが何故かおかしい。  
「理屈ではない、と言ったのはお前だ」  
そこで、化け物の中の何かがぷつりと切れたのだろう。そのまま冷えきった床に  
転がされた。刹那、鳥肌が浮く。  
 
はらりと花弁が舞うのが見える。  
月明かりが室内にまで忍び込んでいた。  
相手を傷つけようと思うなら、幾らでもこの化け物ならば可能だろう。そう思わせる  
長い爪の生えた指が顔にかかる乱れた髪を払い、頬を撫でた。容貌怪異といえど  
も根は人間とそう変わりがないらしい。命あればどんな種族であろうともどこかで  
似通うものなのだろうか。考えれば当然のことだ。  
「ふ、ふ…」  
見た目よりはよほど細心に肌を撫でている手が、奇妙なほど熱い。  
「何だ、いきなり」  
「我に通う男など皆無と思っていた。まさかお前のような化け物が懸想するとは思  
わなんだ」  
くすくすと笑う声に気を悪くしたように、化け物男は思いきり女の青白く浮き上がっ  
た乳房を握る。まるきり初めてだというのに痛いだけではない妖しの感覚に、女の  
喉が無意識に反った。  
「あ、うぅっ…」  
大男の化け物が覆い被さってしまうと、痩せこけた女の体は隠れて見えなくなる  
ほどだ。  
「くっ…」  
存外に巧みな舌先が円い形を愉しむように乳房をなぞり、先端を弄んでいる。誰も  
がこうするのだと思うと笑えてきた。人とは何と原始的なものなのだろうと。だから  
こそこのように化け物も引き寄せられる夜があるのか。  
次第にはだけられていた夜着が遂に肌から滑り落ちた。  
「女、もっと見せろ。お前そのものを見せろ」  
とうに興奮しきっている声が、女の体にも火をつける。ただ一夜のこととはいえ、安  
い戯れとも決して思えなかった。  
足の間に体を割り込ませてくる無礼さを、咎めることなどしない。男とは人間でなく  
ともこういうものなのだと頭では分かっている。頭だけだから実際にこのような場面  
に立ち会えば本能的に怯む。しかし、気付かせたくはなかった。それが女としての  
矜持だった。  
 
床を引っ掻く爪に痛みが走る。  
血が滲んだかも知れない。  
限界まで広げられた足の間で、化け物男がぎらぎらと目を輝かせながら更に身を  
割り込ませようと躍起になっていた。例の細心をもって充分に受け入れるべき場所  
を慣らしたつもりなのだろう。だが、未通女がどれだけ頑ななままか知らずにいる  
のだ。特別怖くも不安もないが、ただ無心に痛む。  
まるで殺そうとでもするように、硬く反り返った凶器が女の内部を勝手気侭に突き  
上げ、掻き回して翻弄していく。熱い、痛い。  
頭に浮かぶのはそれだけだった。  
「あ、ぁうっ…う」  
「まだ、ここは硬いな」  
「仕方なかろう、無理を言うな」  
苦しみ悶え、額に脂汗をかきながらも女はひたと眼差しを男に据えたままだった。  
女と生まれた者に与えられるものがこれほどの苦痛しかないのであれば、一体  
誰が男などに狂うだろう。  
この行為がもたらすものの本質は、目に見えるものでも感覚に触れるものでもな  
く、精神に深く関わってくるからこそ古来より女は燃え狂うのだ。  
例外なく、我もなのか。  
全身の骨が折れそうなほどに強く抱き締められ、獣そのものに立ち返ったように  
盛る男に成す術もなく、女はただ声を上げながら身悶えるばかりだった。  
 
半月は、随分と高く昇ったようだ。  
何が何だか分からぬままの行為が終わっても、化け物はまだ居残っていた。べ  
たつく股の始末と身支度を終えて女が湯場から戻っても、まだ呑気に横になった  
ままでいる。亭主でもあるまいに、と女はおかしくなった。  
「とっとと帰らぬか、化け物よ」  
「まあ、そう言うな。見るがいい、今宵はやけに良い月だ」  
「…ああ、そうだな」  
 
こんな風に夜を過ごしたことなど、あっただろうか。  
化け物風情に膝を貸す羽目に陥るとは。  
そうは思っても、どこか安堵する気持ちがあるのは自分でも不思議だった。  
「なあ」  
「何だ」  
「名前ぐらいは教えろ」  
月を眺めながら甘えたように男は乞う。  
「そんなものは、とうに捨てた。それに意味のないことだ」  
娘時分までなら、まだ名乗る名もあった。しかし、そんな普通の女のすることを  
全部放棄してまで得た医師の生き様の中で、何もかもを忘れてしまっていたよ  
うな気がする。こんな化け物との逢瀬でそれを甘く苦く思い出すなんて信じられ  
なかった。  
「我、一国の食脱医師。他に一切の名を持たぬ身。それで良かろう」  
「…ふん」  
はぐらかされたと思ったのか、男は膝の感触を確かめるように身を摺り寄せてき  
た。後は他に何の言葉も交わさず、ただこの夜の刻を楽しんでいる。奇妙なほど  
に静かで充実した夜だった。  
 
夜明け間近になる頃、ようやく化け物は立ち去って言った。  
何か言いたそうにも見えたが、あえて問わないことにしてそのまま送り出した。  
恐らくはもう二度と会えない男だ。躊躇して何になろうか。  
白梅の花弁はあたかも偶然から始まった情そのもののように、室内に白く降り  
積もっている。  
白梅の咲く頃のとある一夜は、女にとっても後々忘れられぬものとなった。  
男の種が腹に宿ったからだった。  
 
女の体は芯の芯まで毒性が染みていた。  
よって、腹の子が壮健に育っていくのとは逆に、女自身の健康をも蝕んでいくよ  
うになっていた。考えれば当たり前の話だ。毒と無毒は決して相容れない。そし  
て、女は子を無事に生み落とすことだけを考えるようになった。きっと我が子の  
成長は見られないと確信していたからだ。  
 
衰弱を増しながらも、女は難産の末に男の子供を生み落とした。傍目に見ても、  
もう幾ばくも余命を感じられない焦燥振りだ。これで良く出産が出来たものだと気  
の毒になるほどだが、それが母の執念というものなのだろう。  
「医師様、立派な男児でございます」  
「…そうか」  
手伝いに来ていた者が産湯を使わせた子を枕元に置く。小さくて貧弱で、まるで  
人間とは思えないほどだ。その小さな手が差し出す女の指をぎゅっと握る。  
不意に涙が零れた。  
「は、はは。お前は生きたいのだな。これから自分の生が待っているのだな」  
行く末を見守ってやれないことが心残りでならないが、以前使いの者に探させた  
乳母に預ければきっと立派に育ててくれるだろう。何にせよ、自分はもう終わりな  
のだ。  
ふと、一夜だけ関わった化け物男を思い出す。  
名前ぐらいは、教えても良かったかも知れぬと思った。そうすればあの男は再び  
自分の許を訪れただろうかと。こんな思いもしない未練があったことに、女は色を  
失った唇に薄く笑みを浮かべた。  
「…医師様?」  
それで、終わり。  
女の指は赤子に握られたまま、二度と動くことはなかった。  
 
時は流れる。  
女の生んだ子は乳母に育てられて何不自由なく育ち、自分の出自を知らないまま  
成長して結婚し、老いて死んだ。その子も、その子も。  
あの一夜の出来事が明かされるのは、人ではないだけに長い時を生きた男とそ  
の息子が魔界で出会う時を待つことになる。  
男もまた女を忘れられずにいたと知ったら、女は一体どんな顔をしただろうか。  
 

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