近くの家の垣根から、目にも鮮やかな紅梅が咲き誇っているのが見えた。  
ああ、もう春なんだなあと改めて感じている。  
客の途切れた午後の時間帯、仕事もひとまず一段落してぼんやりと屋台に肘を  
つきながら、幽助はうららかな陽気の穏やかさを楽しんでいた。  
少し暇になったので、ついいろいろな思索に耽り始める。  
「さーて、今日は何作るべ」  
まずは今夜の献立のことだ。  
 
今年に入ってから、大学の卒業を控えていることもあって螢子の周囲は一段と慌  
しくなった。順調に必要な単位を取り、教員資格の件も着々とクリアしているから  
こそ、家事や日常の細かい仕事は必然的に割と暇な幽助の担当になっていた。  
まあ、それはいいと思っている。元々が、子供の頃から放任主義もいいところで毎  
日のように遊び回っていた母親に食事の支度などをしていたぐらいだ。男子厨房  
に入らずという古臭い考えは最初からない。  
むしろ、そんな経験があったからこそ今こうして螢子を支えられると思うと、嬉しい  
ぐらいだ。これもまた巡り合わせというものなのかと頬が緩む。  
「…豆腐のあんかけか、豚肉の炒め物か…あいつ意外と食うからなあ」  
上手いこと煽てられているかも知れないが、毎日の食事を美味しいと喜んでくれる  
顔は本当に嬉しそうで、その顔を見たくてもっと頑張りたくなるのは只の惚気では  
ないと思いたかった。  
これまで色々あったが縁あって夫婦になったのだから、互いに努力し合わなけれ  
ばせっかく手に入れたものが色褪せてしまう。  
最初は好きという気持ちだけで良くても、二人で生活を営むとはひどく現実的なも  
のなのだから。  
「今日も疲れて帰って来るだろうからなあ…やっぱ炒め物か。味噌汁は豆腐とワ  
カメにして…」  
ようやく具体的な献立が頭の中で揃いそうになっていた。  
「考え事をしているところで悪いけど、醤油ラーメンひとつ」  
急に、客の声がすぐ側から聞こえた。  
「…はいよ」  
がばっと顔を上げると、そこには面白そうに覗き込んでいる蔵馬の姿があった。外  
回りをしている最中に屋台を見つけて寄ったのだろう。  
 
「そういや、営業だっけ」  
「ええ、そうですが」  
「大変だよなあ、外回りが多くてさ」  
「慣れたらどうってことはないですよ。適当にサボれますし」  
蔵馬の義父の会社は釣具メーカーだと聞いたことがある。彼が高校を卒業してす  
ぐに就職した時は正直何を早まったことをと思ったのだが、あれ以来会社そのも  
のは飛躍的に業績を上げてきていて、今や大企業の仲間入りをしている。先見の  
明があったと言うべきだろう。  
「幽助こそ大変ですね」  
出来上がったラーメンを啜りながら、蔵馬はぼそりと呟く。  
「…そうでもないけどさ」  
「俺には、家庭を持つ大変さにはまだ飛び込めないですから」  
口調は淡々としていたが、どこかに自嘲があった。別に気にする必要などは、どこ  
にもない筈だ。容姿にも頭脳にも仕事の能力にも恵まれているのだから、その時  
が来れば相応しい相手が現れるだろう。蔵馬なら、望めばどんな女でも可能なの  
ではないかと思うほどだ。  
だが、浮いた噂のひとつもなく、ただ何かの苦行のように黙々と毎日働いているだ  
けだ。幽助から見れば、何だか色々なことが勿体無いと思えて仕方がない。  
「蔵馬…」  
「あ、そう言えばこの間、また魔界に行って来ましたよ」  
心の内に踏み込まれるのは嫌なのか、さっと話題を逸らしてきた。ここはひとつ、  
はぐらかされてみるのも友情なのではないかと思った。  
「へえー、あいつらはどうだった?」  
あいつら、とは言うまでもなく飛影とその妻の躯のことだ。もう何年も会っていない  
し飛影も人間界には来なくなっている。たまに幽助自身が魔界に行ってもタイミン  
グが悪いのか会えた例がない。  
「このところ、躯のお腹が大分目立ってきてましてね、何かあっては大変だと飛影  
の気の遣いようったらなかったですね」  
「そっか。飛影もそろそろ親父かあ」  
一緒に戦っていた頃が遠い昔のように思えた。  
 
「みんな、それぞれだということですよ」  
食べ終わって丼を返してきた蔵馬が、元通りの柔らかい笑みを向けた。女なら見  
蕩れるほどに綺麗な笑顔だ。きっと働き詰めの毎日でも、それなりの手応えや充  
実感を感じているのだろう。それが少し羨ましかった。  
「けれど、俺たちの関わりは決して消えたりしないことですからね」  
「あ、ああ。そうだよな」  
こんなに話したのは去年のクリスマスの夜以来だ。何だかすっきりした気分にな  
っている。蔵馬もまた、同じなのだろう。代金の硬貨を置く手つきが何となく軽快  
に見える。  
「…じゃあ、俺はこれで。幽助も頑張って」  
「分かってるって。じゃあな」  
一休みしたせいで蔵馬の姿には一段と生気が漲っているようだ。簡単に頭を下  
げて立ち去る後姿を何とはなしに眺めながら、不思議と清々しい気分になってい  
た。それぞれに変わっていくし、立場もその度に変わりはしても、決して仲間たち  
が昔一緒にいたことは心の中から消え失せたりしないのだと。  
だからこそ、飛影も安易に人間界に来たりしないのだろうし、今は何よりも大事  
な女のそばについているのだ。気にしなくても、もしもまた何かがあれば、再び  
顔を合わせることになるだろう。  
仲間とは、そういうものなのだ。  
「そうなんだよな、飛影」  
春の陽気の中、うーんと伸びをしながら、なかなか会う機会のない仲間に声をか  
けてやる。  
もちろん、答えなどはないのだが。  
 
「あー、疲れたあ」  
午後六時半。  
言葉通り、へとへとになって螢子は帰って来た。時間と体力があればそのまま  
幽助を手伝ったりすることもあるのだが、今日はダメそうだ。まあ、まだ課題が残  
っていたり家に帰ってからもやらなければいけないことがあるのは分かっている。  
無理はさせられない。  
 
「幽ちゃん、大事な奥さん労わってやんなよ」  
「そうそう、いい子じゃないか」  
すでに酔っ払っている常連の客たちが、からかうように笑う。柄は良くないかも知  
れないがとにかく人はいい。たまに螢子が手伝っているのを見ると、いつも娘でも  
見るように目を細めている。螢子も食堂の娘だから客たちの人の良さは見抜いて  
いるのだろう、いつもにこにこと応対してくれている。  
「ありがと、おじさん。今日はもう私ダメかも。幽助、水ちょうだい」  
いつもより帰りが遅かっただけあって、疲れきっている螢子は遠慮がない。受け取  
ったコップ一杯の水を一気に飲み干すと、どこかのオヤジのように開放感たっぷり  
の大きな声を出した。  
「あー!!生き返ったあ」  
「おいおい、客の前でみっともねーぞ」  
普段ならこんなことはしないのに、と少しだけ慌てながら宥めようとする。だが、元  
気を取り戻した螢子は無敵だった。  
「何よ、私だって普通のお客さんの前だったらこんなことしないって。今ここにいる  
のがおじさんたちだから、くつろいでるのよ。ね♪」  
抜け目なく常連客たちに目配せをする。  
「そうそう、疲れてんならそれぐらいいいだろ」  
「幽ちゃん、新婚早々亭主関白は嫌われるぜ」  
「…ちぇっ」  
ハイになって勢いづいている螢子には、もう勝てそうもなかった。早くも尻に敷かれ  
ている気がしないでもない。  
 
「お腹空いたねー」  
常連客たちが帰った後、二人で早めの店仕舞いの支度をしているとぐうぐう鳴る腹  
を抱えて螢子が情けない声を出した。  
「…そうだな。今夜は何食べたい?」  
「んー…明日も今日と同じタイトなスケジュールだから、しっかりスタミナつけときた  
い。お肉がいいな」  
幽助の頭の中で作り上げていた献立が、数時間振りに浮かび上がってくる。  
「よし、任せときな。帰ったらうんと美味いの作ってやるからさ」  
 
「うわあ、嬉しい。幽助の御飯ってすごく美味しいよね。私なんて料理の才能ない  
のかなあ。子供の頃からお父さんに仕込まれていたのにさ」  
暗がりに紛れて、抱き着きながら漏らす声が夜風に震えている。  
そんなことを言っていても、螢子の料理だってかなりのものだ。それは時々食堂で  
食べていた幽助が一番分かっている。出来れば世の中の亭主のようにデンと座っ  
て上げ膳据え膳といきたいところだが、夫婦の形は複雑な現代の中にあれば人そ  
れぞれ。亭主が女房の世話をするのだって構いやしない。  
何よりも、一番大事な女が喜び満足しているのならそれでいい。  
男ってのは因果だよなあ。  
決して今の暮らしが不満な訳ではないが、溜息が漏れた。  
そうだよなあ、親父。  
今はもういない魔界の父親に向かって、心の中でこっそりと問い掛ける。  
『男ってのは惚れた女をモノにする為なら、どんなに滑稽で情けないことでもしてみ  
せるもんだ』  
一度だけ、そんなことを言っていた。  
その結果として、今の自分があるとなれば決して無視は出来ない。あの父親が何  
百年も忘れられないほどの女がどれほどのものだったのかは、想像するしかない  
が、多分容姿を含めて気概や生き様が良かったのだろう。  
『あれは、白梅のような女だった。本当にいい女だったぞ』  
長い年月を経ても、そうやって懐かしく思い出すような真摯な恋は少し羨ましい。だ  
が、形は違ったとしても幽助にも今こうして大事な女がいるのだ。  
「螢子」  
「ん、何」  
幽助は屋台を引きながら、隣を歩く恋女房に話し掛けた。  
「手、繋いでいいかな」  
途端に、暗がりでも螢子の頬がぱあっと染まったように見えた。信じられないものを  
見たように、目が滑稽なまでに見開かれている。  
「な、何よいきなり」  
「そんな気分になっただけだ」  
「…あんたっていつも突然よね」  
 
顔を背けながらも、仕方なくだというように手がそうっと触れてきた。了承と解釈して  
ぎゅっと握ってやる。  
「サンキュ。飛びきり美味い飯作ってやるからな」  
「…当たり前よ、バカ」  
何だか幼稚園の頃に戻ったようだった。あの頃はいつも手を繋いで日暮れの道を歌  
いながら帰ったものだ。もしかしたら、あの頃からこうなることが決まっていたのかも  
知れないなどとセンチメンタルなことを考える。  
白梅の女ではないけれど、無理やり例えるなら螢子は桜だ。  
春になったらどこでも見られるし、どれも綺麗で迫力があるけれど、一輪一輪にして  
みればひどく儚げで薄い花弁で出来ている。その癖、包み込むような優しさを絶や  
さないのだ。  
傷つけたり、壊したりは絶対に出来ない女に違いはない。  
つくづく男は因果だ。  
どんなに女が強くなったとはいっても、やっぱりそんな繊細なところが放ってはおけ  
ないのだから。  
「味噌汁の具は何がいい?」  
「え、うーんとね、ジャガイモとワカメ」  
繋いだ手を振りながら、子供に返ったように二人は暗くなった道を歩いていく。どこ  
にでもあるような平凡な日常だけど、それが何よりも大事なものだと知っているから  
些細な遣り取りでさえも心が躍るのだろう。  
 
そんな二人を見下ろすように、空には三日月がぽっかりと浮かんでいた。もう少しす  
れば満月に至る上弦の月となる。  
 
 
 
終  
 

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