魔界にも、春が来た。  
手に触れる水が温くなったことが心から嬉しくて、雛はここ数日厨房の仕事に一層  
力が入っている。冬の間はどうしても億劫で仕方がなかった床の拭き掃除も壁掃除  
も時間をかけて丁寧にこなし、隅々まで清めていく。  
そうして綺麗になった厨房の中で、二人の主の為に料理をするのが何よりの楽しみ  
になっていたのだ。  
 
「雛、水をくれないか」  
眠りから覚めたのだろう。昼近くになってから主の一人である躯が声をかけてきた。  
「はい、只今」  
気に入りの居間の長椅子に、今日も気だるそうに躯は美しい体を横たえていた。寝  
覚めは誰でもぼうっとしてしまうものだから気持ちは良く分かる。雛はグラスを片手  
に薄暗い厨房奥の水瓶から冷たい水を汲み出すと、秘密の一滴を落とした。そして  
銀の盆に載せていそいそと運んでいく。  
「はい、躯様。お待たせ致しました」  
長い指で額を軽く押さえていた躯は、薄い瞼をひらして少しだけ笑って見せた。ゆっ  
たりとした服装だが、それでも大分腹の辺りが目立ってきていた。  
「…悪いな、お前も忙しいだろう」  
「いえ、全然」  
雛が怖がることを危惧しているのだろうか。躯はいつも雛には焼け爛れた顔と体の  
左側を極力見せない。そんなことを気にしなくてもいいのに、といつも思う。ただ普  
通に美しい女性より、この女主人は何倍も綺麗で魅力的だ。それはこれまで辿って  
きた複雑怪奇な人生が培ったとも言えるし、今最愛の相手を得て幸せに過ごしてい  
るからとも言える。その意味では全てにおいて、躯は雛にとって理想であり、憧れの  
女性でもあったのだ。  
淡いブルーのグラスに口をつけて、一口水を飲んだ躯は、わずかに首を傾げた。  
「…甘い、な」  
 
思わず笑みが漏れた。大切な秘密を明かすように、悪戯っぽく肩を竦める。  
「ウスベニカズラの花を煮詰めた汁を入れてみました。甘いから口当たりもいいし滋  
養もあります。それにすっきりと目が覚めますよ」  
「そうか、ありがとう」  
「いいえ、実家は元々医者と言うほどでもありませんが草花の効能に詳しい家系  
でしたので、これぐらいなら私も知っているんです」  
自分の知っていることは大したことではないけれど、それで大事な主人が少しでも  
元気になってくれればいい。  
無垢な少女、雛の願いはそれだけだった。  
「後ほど、庭園の薔薇を少し切ってこちらと執務室の方にお持ちしますが、他に欲し  
いものはございませんでしょうか」  
「…いや、特別ないが」  
「…が、と言いますと?」  
躯はわずかに眼差しを翳らせた。  
「お前は働き過ぎる。昼間の間は俺だけしかここにはいないのだから、適度に手を  
抜いていればいいだろう。その働き振りに対して、何もしてやれないのが心苦しい  
のだ」  
雛は心底驚いてしまった。この夫婦二人の主人が大好きだからこそ少しでも心地  
良く過ごして欲しいから何もかも頑張っているだけなのに、それが負担だというの  
だろうか。それならば、こちらこそ悪いことをしていると思った。  
この美しい主人はこれから出産という大事を控えているのだから、余計な気を使わ  
せたくないのに。  
「躯様」  
この思いが通じるだろうか。雛は言葉を選ぶように一度唾を飲み込んでから口を  
開いた。  
「私、私…躯様と飛影様にお仕えして以来、本当に夢みたいに幸せなんです。お  
二人の為ならどんなことでも喜んで頑張れるぐらいです。躯様がお気に病むことは  
何もありません。私が望んで、そうしたいと思ってやっていることですから」  
通じているだろうか。  
雛はただ二人が仲良く幸せであればそれでいいのだ。  
 
「…雛」  
ふっと表情を緩めた躯は、とても綺麗な笑顔を見せてくれた。今ここに飛影がいな  
いのが勿体無いほどだ。  
「済まんな。そこまで気遣ってくれるのは本当に嬉しく思っているぞ。だが」  
途端に、それまで見たことがないぐらい悪戯っぽい顔になった。  
「命令だ、この屋敷の中ではもっと自由にしてもいい」  
急に、主人と使用人という境界を越えて、普通に女同士の友達のような間柄にな  
った気がした。こんな風に接してくれるというのは何と幸せなことだろう。  
胸の中に綺麗な風が吹いたような気がした。  
「…はい、躯様。それでは咲きたての一番綺麗な薔薇をお持ちしますね」  
「こら、言った先から」  
「私はお二人が大好きですので」  
満面の笑みで言い放った雛に、躯も言葉が続かないようだった。  
自由にしていいと言ったのは躯なのだ。それなら、思う存分自由に振舞って二人  
が何の不自由もないように取り計らっていこう。心からそう思っていた。  
二人の喜びは雛の喜び。  
二人の幸せはそのまま雛の幸せなのだから。  
 
空がすっかり暗くなった頃、もう一人の主人である飛影が帰って来た。二人の間  
では交わす言葉もそれほど多くない。見交わす視線も素っ気無いほどだ。だが、  
それだからこそ実に多くの感情が入り混じっていることも雛は承知していた。大  
人の男女とは何と複雑で難しいことか。それ故に面白いと思えた。いつか、こん  
な真摯な恋愛を自分も出来るだろうか。  
二人に対する思慕も込めて、雛は密かに願う。  
この幸せな二人のように、いつか運命の人に出会えたらいいのにと。  
 
普段は澱みがちな寝間の空気が、今日は豊穣この上なく香っている。  
入ってすぐに敏感にもそれを察した飛影は、すぐに根源を探り当てた。奥の衣装  
箪笥の上の花瓶に生けられた薔薇のせいだと。瑞々しい花弁を指先で弾くと、  
決して悪くもない表情で言い放った。  
「雛の仕業か」  
「そうだ、いい匂いだろう。あの娘はここには決して入らなかったぞ」  
「そんな野放図では困る」  
ふふっと軽く笑った躯は、寝台の上で夫となった男を待った。こうすることに何の  
ためらいもなくなったのはいつの頃からだろう。もうはっきりとは分からなくなって  
いた。だが、それが幸せということなのだと思ってもいる。  
以前、ずっと一人きりで生きてきたと思っていた。  
だが、他者と関わり合う以上は常に気遣い、気遣われているのだろう。そんな何  
でもないことを自覚したのも、ごく最近のことだ。本当に躯の芯は生まれたての  
赤ん坊のように何も知らない部分がとても多くて、時折自分でもその物知らずさ  
に戸惑うほどだ。  
寝台に、ぎしりと心地良い重みが加わる。  
「貴様も少しは自重しろ。いつまでも無自覚なら早いうちに医者たちにつきっきり  
にさせるぞ」  
「…それもつまらないな」  
「貴様の体の為だ」  
一体いつどこでそんなことを憶えたのかと思うほど、飛影の与えてくる仕草は優  
しい。普段の無表情からは微塵も伺えないほどだ。だからこそ思いの深さも知れ  
て、躯は暗がりの中で薔薇の香よりも豊穣で妖しい笑みを漏らす。  
この男の為に子を生むのだと思えば、何でも耐えられそうだ。  
抱き寄せてくる腕の力強さに酔い痴れながらも、陶酔一歩手前のあえかな声が  
寝間に零れる。  
「お前で…良かった」  
 
 
 
終  
 

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