最近、眠りが浅くなったことを自覚している。  
そのせいで疲れが取れにくくなっているのが躯の悩みとなっていた。  
原因は言うまでもなく、あの男だ。  
躯を眺めている時のあの物言いたげな昏いおぞましい瞳が、いずれ自分の何  
もかもを暴きたててしまう気がして、それが少なからず怖いと思った。  
別に何を望んでいる訳でもない。ただこのまま踏み込んで来さえしなければ、  
まだ自分は平静でいられる筈なのだ。  
だが、遠からずあの男は一番恐れていることを仕出かすに違いないことも分か  
っている。そんな風に付け入る隙を与えたのは紛れもなく自分自身なのだ、と  
いうことも。  
ああ、面倒なことだ。  
溜息をついて、眠れない苛立ちに任せてごろりと寝台の上で寝返りを打つ。  
これまで女として過ごしてきた経験がないせいで、こういったある種の情が絡  
んだものはどう対処していいのか分からない。かと言ってこのまま言うなりに  
なるのも癪だ。  
「…もっと簡単な女を相手にすればいいものを。お前も愚かだ、飛影」  
薄暗い寝間にやるせない溜息だけが積もっていく。  
 
早急に目を通さなければいけない業務報告書が、机の上にこれでもかと積み  
上げられている。  
数日前に直接管轄する部下に対して大幅な人事異動を試みてみたのだが、  
まだ表立った結果は出ていない。ある程度満足する成果を得るまでは各人そ  
れぞれの慣れぬ環境から様々なトラブルが発生することだろう。それまで個々  
が頑張りを見せてくれると嬉しいのだが、と躯は考えている。  
昼間はあくまでもこれまで通り、女の面など見せるべきではないと自戒してい  
た。あの男、飛影にもそれが通用するかどうかは知れないのだが。  
 
「疲れているのか」  
ようやく報告書を全て処理し終えた頃には日が落ちかけていた。  
影のように執務室に現れた飛影は、二つのカップを持っている。そのひとつを  
机の上に置いた。  
「飲め」  
「…ああ、済まないな」  
さすがに目が疲れきっている。目頭を押さえながらカップを手にした躯は、立ち  
昇る異様な香気に首を傾げた。  
「薬湯か」  
「似たようなものだ。最近激務が続いているだろう」  
「別に大したことじゃないさ」  
何かの薬草を煎じたものなのだろう。ひどく強い香気があるが一口飲んでみれ  
ばそれほどは苦くない。不思議と気分が落ち着いてたまっている疲れも取れる  
ようだ。他者のことなど一切の無関心を装うこの男が一体どこからそんな知識  
を、と急におかしくなった。  
「躯」  
そんな心の隙にするりと入り込むように、男の無骨な手がカップを持つ躯の指  
に触れた。ひどくその指先が熱く感じて動悸が跳ねた。  
「何を、する」  
「一人で無闇に気を張るのは、もうやめろ」  
「訳の分からないことを…」  
そのまま両手首を強く捕まれた。まだ半分ほど中身が残っていたカップは無残  
にも床に転がり落ちて派手な音を立てた。割れてなければいいがとこんな状況  
に陥りながらもつい考えてしまう。  
「…離せ」  
「納得する答えを出せばいつでも離してやる」  
「お前が納得する答え、だと?」  
 
「そうだ。お前は元のお前になれ。何も身の丈に合わないものに必死でなる必  
要はないだろう」  
「…知った風な、ことをっ…」  
薬湯の苦味が口の中に残っている。それ以上に、やたらと馴れ馴れしい飛影  
の物言いには引っ掛かるものがあった。一体、この男はどこまで愚弄すれば  
気が済むのだろうと苛立ちながら椅子を蹴って立ち上がる。まだ捕まれたまま  
だった腕がぎりっと更に強く力を込められる。  
「ならば、どうして貴様はあの時俺に思わせ振りなことを言ったんだ」  
「それは」  
忘れる筈がない。  
過去に魔界整体師である時雨と対峙してこれを倒した時、飛影もまた瀕死の  
重傷を負った。その並ならぬ気概、その潔さを快く感じて情けを施してやったこ  
とがある。もしかしたらこの男が何かを変えてくれるかも知れない、と思ったの  
は事実だからこそ命を繋げてもみたのだ。  
『お前になら全てを見せられる』  
そう言った言葉も嘘ではない。  
だが、それが女としての言葉かどうかは自分でも曖昧だった。飛影は完全に  
女としてだと認識しているようだが。  
「…お前にわざわざ言う必要など」  
苦し紛れに吐いた言葉は続かなかった。唇が塞がれたからだ。驚きで見開か  
れた目がひどく静かに覗き込んでいる目とぶつかる。  
「……何てことを」  
ようやく開放された後、あまりにも突然のことに頭の中がぐるぐると混乱しきっ  
ていて上手く物が言えなくなっていた。こんなことなど、以前は当たり前のよう  
に繰り返されていた。自分の意思など全く関係なく男たちの望むように。だか  
ら、別に何でもないのだ。そう思ってもどうした訳か飛影にだけは動揺するの  
を隠せない。  
「あ、あ…」  
「躯」  
「…さわ、るな…触るなっ…」  
焦点の合わない目で、躯はうわ言のように繰り返すばかりだった。  
 
唐突に短い時間のうちに色々なことがあり過ぎて、錯乱していたのだろう。  
気がつくと執務室ではなく、寝間の寝台の上にいた。完全に回りきってはい  
ない頭でどうしてここまで辿り着いたのか、と考えても答えは出せなかった。  
隣で不躾にも寝そべっている男を見るまでは。  
「…飛影か、俺はどうしてここに」  
「日が暮れた。執務室からここは近い。貴様は倒れて動かないから運んでや  
っただけだ」  
不機嫌な声には同じだけの不機嫌な声。どうしてまだここにいるのか、と聞  
こうにもそれを許さない雰囲気がある。やすやすと寝台まで侵入されてしま  
ったことも驚愕だが、当然のように居座る飛影の心情も全く理解出来ない。  
「お前、さっさと立ち去れ」  
「どうしてだ」  
「ここは俺の寝間だ。勝手は許さない」  
「そうか」  
軽く威嚇したつもりなのに、全く通じてはいないようだ。何とふてぶてしい男  
なのだろう。思うようにならない事態に内心苛々しながらも、奇妙な安堵はあ  
った。  
こんな遣り取りはそれほど悪くない。  
そう思った途端に、強烈な眠気が襲ってきた。  
こんな状況では知らない間に襲われそうでとても眠れはしない。わずかに湧  
き上がった不安も、髪を撫でてくる手が跡形もなく溶かしてしまってひどく気  
持ちがいい。  
「このところ、眠れなかっただろう。見ているからゆっくりと眠れ」  
「何、を…」  
何か反論をしなければ。そんなささやかな足掻きもすうっと真っ暗な意識の  
中に紛れ込んでしまった。これまでの自分であれば考えられもしなかった。  
誰かの目の前で眠りに落ちるなど。  
だが、そんな強がりも綺麗に溶け崩れていく。  
 
 
 
終  
 

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