その魂を一度舐めたら甘い甘露のような味がした。
桃源郷にある果実の味がわかるとしたらきっとこんな味なのだろうかと思わせるような、瑞々しくて陽の光をたっぷり浴びた果実が外にまでその汁を染み出させたような。
首筋を舐め、ささやかだが形の良い張りのある胸を舐め、綺麗な曲線を描く腰を伝って臍に唇を寄せ、その下に溢れさせた蜜を舐めたらそれもまたどんな味がするだろうかと想像しただけで背筋がぞくぞくとする。
そこに彼女の苦痛に歪む顔と懇願し、哀願する声が聞こえたらどれだけ魅力的だろう。
追い詰めて、弄って、散々焦らした後に溢れ出した蜜を啜る事が出来たなら・・・・。
そこまで考えて暗闇の中蔵馬は深く溜息を吐いた。
幾らなんでもまだその時は遠い。
これから手に入れようとしたその魂はまだ自分の手元には無く、欲しい体の行方さえ掴めていない。
今から時間をかけてゆっくりと彼女を自分に引き寄せ、虜にさせ、自分無しではいられないようにさせてからでなければ日々肥大していく嗜虐心を満足させる事は出来ない。
あの魂に噛り付きたい訳ではない。
ただ、人間のように睦み合い、魂の奥底から徐々に自分の思う通りに染め上げたいと思うのだ。
まるで妖怪らしくない自分の欲望に蔵馬は再び溜息を吐いた。
人間界に居る時間は魔界に居た時間よりも遥かに短い筈であったのだが、自分は一体どれ程までに人間界に染まってしまったのだろうか。
幸せそうな母の姿を見た。
あの時からかもしれない。
自分も同じような幸せを体験してみたいと願い出したのは。
しかし汚れた人間界で蔵馬の心を満たす魂には巡り合う事が出来なかった。
自分には母と同じような幸せを体験する事は出来ないかと諦めすらしたその時。
桃蜜のような匂いを発する体を見つけた。
それが、ぼたんだった。
きっと霊界の宝で作られた体には霊界の果実が元になっているのだろう。
妖怪でも滅多に分からない、微量の桃蜜の匂いが蔵馬の鼻腔を擽った。
これが感知出来たのは蔵馬の妖気が格段に跳ね上がったおかげかだろう。
そしてその体から染み出す瑞々しい魂の匂いは蔵馬の喉を大きく鳴らした。
昔は青臭い、まだ実がなりたての匂いだったが、次第に彼女の霊気も大きくなり熟して来ているのか、昔よりも甘い匂いを発するようになった。
かなり自分の好みに近いその匂いと輝きに蔵馬は自分が求めるなら彼女しか居ないと断言出来るようになっていた。
一瞬で口に入れてしまうには惜しくて。
体から、魂からずっとその甘露を味わっていたいと思える只一つの自分だけの宝。
これが人間がする「恋」と同じものかは蔵馬には分からなかったが、彼女に対して口に入れてしまう以上の欲求を持つ事自体が「恋」に似ているような気がした。
自分の本性が妖狐であればその性は当然獣に近い。
その獣が獲物に対して食欲以上の感情を持てるとしたら・・・・・それは「恋」以外の別の言葉で言い表せられるものなのだろうか。
だから、必ず手に入れる。
今まで集めたどの宝よりも価値のある至宝を。
―― 霊界
「で、どうしてあんたはまた此処に居るんだい?」
「この間来た時に言ったじゃないですか。美味しいお酒のある店を探しておきますって。見つけたら連絡しますとも言いましたよ」
「連絡って・・・・直接来てるじゃないか」
コエンマは目の前で行われている言い争いを耳に栓をして聞かない振りをした。
此処で口を挟めば「邪魔しないで下さい」とばかりに狐に睨まれる事になるだろう。
それにしたって自分の執務室を逢引の場所にしないで欲しい。正直仕事の邪魔だ。
もしかしてこの間の部下に対する想いの告白は、こうなる事を想定しての了承も含まれていたのだろうか。
ぼたんは書類を分類する手を止めて、勝手にお茶まで用意して向かいのソファに座って寛いでいる蔵馬に眉を吊り上げていた。
先日自分の大事なファーストキスを奪われた事もあって、警戒心が強くなっているようだ。
コエンマはそれに対しても「手は動かせ」と思うのだが、当然、これも言えず。
「通信手段が無いじゃないですか」
「あたしが人間界にお迎えに行った時とかがあるだろう!?」
「その時はお仕事中なので声は掛けられませんよ。こちらの方が確実だ」
「〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!」
反論の言葉を無くしたぼたんは蔵馬を睨み付けたまま声にならない唸り声を上げている。
舌戦で蔵馬に勝てる筈は無いのはぼたんにだって分かっている。
しかし負けたままでいるのもまた悔しいので何とか逃げ道は無いかと、その瞳はまだ諦めてはいない。
何とか言葉紡ぎ出そうと何かを声に出そうとしたぼたんは、直ぐに追い駆けるように口を開いた蔵馬によって発言を遮られた。
「あぁ。それでは霊界と人間界でも通じる通信機、今度作って渡します。携帯電話を改良すれば出来るでしょう」
それならいつでも連絡が取れる。
無事解決したと笑う蔵馬は相も変わらずにこにことした笑顔でぼたんの怒りの表情など気にもしていない。
救いを求めるようにぼたんはコエンマを見たが、コエンマはこれを完全に無視した。
邪魔する訳にはいかないのだ。
一度はその魂も体も手に入れてみろと言った手前、それを阻止するような事は出来ない。
「まぁ、頑張れ。そして仕事しろ」と、思いながらコエンマはなるべく静かに判を押していた。
「では俺も忙しいんで帰ります。じゃあ今度の土曜日、待ってますから」
「行かないよ!」
「驕りますよ?本当に美味しいお酒ですよ?飲み放題ですよ?」
その後のケアもばっちり請け負います。
とは言わないで。
伺うようにちらりとぼたんに視線を遣るとぼたんは相当揺れ動いていた。
もう少しかな?と、蔵馬は一度瞬きをすると「そのお店、料理も美味しいんですよ。肉や魚が駄目でも野菜だけでの料理でも全然お酒が美味しく飲めます」と、付け加えた。
「行く」
「良かった。それでは土曜日の18時。新しい俺の家で待ってます」
即答されて安堵の表情の後、心底嬉しそうに微笑んだ。
それが年とは不相応の無邪気な笑顔だったのでぼたんも少し頬を染める。
「それではこれ以上お邪魔しては悪いので帰ります」と、もうたっぷり1時間以上は居座っていながらまるで5分だけ居たかのように笑うとソファを立った。
そこで蔵馬は中空を見つめ、眉を顰めてから「あれ?」と、呟く。
反応したぼたんが蔵馬が見ている物を探そうと視線を彷徨わせ「なんだい?」と、返す。
その一瞬の隙を突いて蔵馬がぼたんに口付けるとたっぷりと唇を舐める。
逃げようとする体に腕を回して固定すると逃げようとする唇の間に舌を割り込ませて舐る。
「ん・・・ふぁ・・・」
くちゅくちゅと鳴る音にコエンマは眉間に皺を寄せながらこれまた聞かない、見ない振りをした。
ちょっとは気遣え。
そして自重しろ。
「ちょっ・・・・!蔵馬ぁ!?」
たっぷり5分は味わった後、抱き寄せた腕に縋るようにしてぼたんは涙の流れる瞳で蔵馬を睨み付けた。
「前にも言いましたが手ぶらで帰るのは嫌なんですよ。俺のプライドに掛けても」
頬を伝う涙を。
唇から流れる唾液を。
その全てを舌で舐めとって「美味しかったです」と、鮮やかに笑うと蔵馬は逃げるように退室した。
「もう一体なんなんだよぉ!」
力を無くしてぱったりとソファに倒れ込んだぼたんに、コエンマは「そりゃ儂の台詞だ」と、こっそり思った。
勝手に蔵馬が行動するというのならそれには目を瞑ろうかと思っていたのだが・・・・・。
幾らなんでも上司の居る職場で好き勝手するのは止めて欲しいと、あんまり容易く色々許すもんじゃなかったなと、今更になって思うのだった。
<終>