屍体愛好者の気持ちなど到底理解出来ないと思っていたのだが。  
まさか自分にその素質があったとは驚きだった。  
 
一つ、どうしても欲しい体があった。  
 
 
 
―― 霊界  
 
 
ふと、顔を上げたコエンマに、ぼたんは「サボらないで下さいよー」と、素早く声を掛けた。  
処理しなければならない書類の数を考えると、一瞬の休憩だって惜しい物だ。  
自分だって手伝っているのだからとぼたんが書類を分類していると、コエンマは盛大に溜息を吐いてぼたんに視線を遣った。  
 
「外に儂の客が来ている。此処まで連れて来たらお前は下がれ」  
「外に・・・ですか?」  
「放っておいたら無断で入ってくるからな。形だけでも案内が居た方がいいだろう」  
 
それから直ぐに書類に目を通し、判を押すコエンマにぼたんは不思議そうに首を傾げた。  
しかし、上司の命令であれば指示道理に動くのが部下の仕事である。  
ぱたぱたと行儀悪く走って外に出ると、大きな霊界の門を見上げる一人の青年の姿を見つけた。  
その横顔には見覚えがあり、ぼたんは「あれ」と、思わず声を上げた。  
 
「蔵馬じゃないか。どうしたのさ、一体」  
 
思いもしなかった珍客に、ぼたんは周囲に目を走らせる。  
妖怪が堂々と霊界に訪れていれば警備の者が集まって来そうなものだったが、今の所影もない。  
ぼたんの視線で気付いた蔵馬は「隠れているように見えるけど、ちゃんと見張られてるよ」と、気にもしない風情で笑う。  
「ちゃんと見張られている」という言葉の使い方は変だよとぼたんは苦笑すると、これ以上こんな目立つ場所に居ては本当に問題だと手招きをする。  
 
「ぼたんはお使いですか?」  
「そうだよ。蔵馬を出迎えるようにってコエンマ様に言われてね。でも本当に久しぶりだね。元気だったかい?」  
「まぁ、それなりに」  
 
相も変わらずの穏やかな微笑みを浮かべて蔵馬は飄々と答える。  
その笑顔の裏で一体何を考えているのか分からないのが彼の恐ろしい所であるのだが、ぼたんは人の心の裏を探るような事は好きではないので額面通り言葉を受け取り「元気が一番だよ」と、軽快に笑った。  
 
そして他愛のない会話が続き、コエンマの執務室の前に到着するとぼたんは「あたしゃ此処までだから」と、踵を返す。  
その後姿を蔵馬は暫く見送っていたのだが、「ぼたん」と、小さく声を掛けた。  
反響し易い廊下では小さな声でもよく響く。  
呼ばれて振り返ったぼたんは「どうしたんだよ?」と、首を傾げると、蔵馬はやはり穏やかに笑った。  
 
「今度、人間界に遊びに来ませんか?美味しいコーヒーが飲める場所を見つけたんですよ」  
「・・・それよりあたしゃ美味しいお酒が飲める場所の方が嬉しいんだけど」  
 
おどけて笑うと蔵馬はそれに応えるように笑みを深くする。  
 
「じゃあ、探しておきますよ」  
 
これ以上誘われると思っていなかったぼたんは呆気に取られて瞬きを繰り返す。  
蔵馬は言葉遣いは丁寧だが、だからといって愛想がいいという訳でもない。  
妖怪である蔵馬と水先案内人であるぼたんとは立ち位置が真逆である為に、会話らしい会話もなく共通の話題は人間界の事ばかりだ。  
そんな自分を誘って楽しいのだろうかとただただ疑問に思っている間に彼は扉を開け、その奥に入っていった。  
 
 
「・・・・・何か、悪い物でも食べたのかねぇ?」  
 
 
 
ぺたん、ぺたん・・・と、判子が押される中、気にした風もなく蔵馬は応接用のソファに腰掛けて、それまでぼたんが分類していた書類の一部に目を通した。  
 
「勝手に見るなよ」  
「あったら見る物でしょう?」  
「で、今度は何を盗もうというのだ?」  
「人聞きの悪い」  
 
さらりと笑う蔵馬の横顔をちらりと見遣ったコエンマは、その軽快さに「狐が」と、小さく舌打ちする。  
綺麗な顔立ちの青年はその綺麗な顔に極上の笑顔を乗せて簡単に嘘を吐く。  
二枚舌という言葉はあるが、蔵馬に限っては10枚位舌があるのではないかとさえ思う。  
盗賊というよりも詐欺師になった方が良かったのでは無いかと、心の中で悪態を付くのは自由だと次々とコエンマは言葉を並べると、蔵馬が改めて口を開いた。  
 
 
「欲しい物はあるんですがね」  
 
 
やっぱり。  
 
「だから、何が欲しいんだ?」  
「女の体を一つ」  
 
 
清流の如き髪を持つ、暁の瞳に熟したての果実のような唇の・・・ぼたんの体を、一つ。  
 
 
まさか此処で出てくるとは思っていなかった部下の名前に完全にコエンマの動きが止まった。  
 
もう書類の内容を理解出来るような状況じゃない。  
判など押していられるか。  
 
 
「お前・・・・」  
「大丈夫ですよ。振袖が着られなくなるような事はしませんから。人間界の何処にあるのかと探してはみたのですがどうしても見つからないので、直談判に来ました。あるんでしょう?ぼたんの人間界での器が、何処かに」  
「あれは結界の中だ。お前にも気付かれないように厳重に幾重にも重ねた所にな。それより!」  
 
ぼたんの体をどうするつもりだとコエンマが眉を吊り上げると蔵馬は表情を変える事無く綺麗に笑う。  
その微笑みだけを見ていると本当に悪意は無さそうなのだが、そんな表面を信じていられるのは馬鹿な部下位のものだ。  
コエンマまで蔵馬の微笑みを信じたりはしない。  
 
「欲しいんです、どうしても。妖怪を恐れない霊界の魂なんて、世界中を探しても一つしか無いでしょうから」  
 
宝は手元に置いておきたいんです。  
たった一つしかない輝きは、至玉のようだ。  
 
くすくすと笑う蔵馬の様子にコエンマは此処で漸く違和感を感じた。  
何かがおかしい。  
その正体を掴もうと考えを巡らせ、しかし至ったのはたった一つの簡単な答えに意地悪な笑みを見せた。  
自分から墓穴を掘った事に、果たしてこの妖狐は気付いているのか。  
 
「盗賊であるお前がそんな中途半端な物を欲しがるとは思えんな。あれは本当に器で、中身はない。魂をというのならぼたんそのものが必要ではないのか?」  
「まずは器を確保して、逃げられないようにしたいんですよ。何かを盗むには下準備は必要でしょう?」  
 
何処までも狐だった蔵馬にコエンマはつくづく厄介な男と縁を持ってしまったと深く溜息を吐く。  
これでも部下への想いを上司に告白しに来る程度には蔵馬は蔵馬なりに道理を通そうとしているように見えるので頭ごなしに怒鳴る事も出来ず。  
しかしぼたんの人間界での器は勝手に触れていい物ではない。  
一介の水先案内人に人間界での器が与えられる事自体がそもそもの例外で、特別処置だ。  
霊界の宝すら使って作り出したそれは確かにその体自体も十分に宝と言っていいのだ。  
 
絶対に譲る事の出来ない体なのだが。  
 
人の恋路を邪魔するのも野暮というものだ。  
それに、ぼたん本人の気持ちまではコエンマとて預かり知らぬ所だ。  
味方に付けるには十分に頼もしい相手なのだが、敵に回すには厄介過ぎる。  
腹いせなどは考えないだろうが、それでも代わりの物を要求されても困る。  
手荒な真似などしないだろうし、ぼたん専用の体であるのだから悪用の仕方も無い。  
仕方なくと、もう一度深く溜息を吐くと、人差し指を一本立てた。  
 
「あれも宝でな。おまけにあれの体のある場所はどうしても明かす事は出来ん。欲しければぼたんを口説き落として自分の手元で離脱させるんだな」  
「そうすれば霊界は目を瞑ってくれると?」  
「心も魂も盗まれてしまえば邪魔する馬鹿は出て来ん」  
 
但し、持ち出した体は丁重に扱えよ。  
 
条件を言い渡すとコエンマは書類に再び目を落とした。  
悪くない条件に蔵馬は満足そうに微笑むと「では必ず頂きますよ」と、余裕を見せた微笑み一つで退室した。  
その扉が閉まる音を聞きながら、もう一度コエンマはトドメとばかりに溜息を吐いた。  
一体ぼたんのどこに惹かれたのか分からないが、もうちょっと穏便な会話にならないものかと思う。  
そして、蔵馬が本当に宝を手に入れられるのかを考えようとして・・・不吉だから止めようと考え直した。  
 
 
 
執務室を出た所にぼたんが立っていたので蔵馬は足を止める。  
どうやら蔵馬の用事が終わるのを待っていたらしい。  
 
「どうしたんですか?」  
「いやぁ。よく考えたら案内は最後までしなくちゃやばいよねぇと思って引き返して来たんだよ。それにあたしが今詰めてるの此処だし」  
「そうだったんですか。お勤め大変ですね」  
「蔵馬はもういいのかい?」  
「えぇ。用事は済みました」  
 
二人並んで歩きながら心配そうに蔵馬を見上げるぼたんが困ったように眉間に皺を寄せている。  
何か疑われているのだろうかと蔵馬はにこにこと笑いながら考えていると、「変な事企んじゃいないだろうね?」と、重ねて尋ねて来た。  
 
「企んでますよ。用事が無ければ霊界なんて危険な場所には来ません」  
「あのねぇ!」  
 
にこにこと怖い事をさらりと言った蔵馬に慌ててぼたんは周囲を覗うように視線を走らせて暗がりに蔵馬を引っ張り込む。  
そして背伸びをして蔵馬の口を手で塞ぐと今度は眉を吊り上げる。  
 
「誰が聞いてるかも分からない所でとんでもない事言うんじゃないよぉ!聞かれて困るのはアンタだろ?」  
 
中々大胆だと思っている所で重ねて来た言葉。  
その言葉が蔵馬を気遣っている物だと知ってくすくすと笑う。  
 
今貴女が味方しているのは誰ですか?  
 
そう聞いたらきっと心底困ってくれるだろうと蔵馬は意地悪く思うとぼたんの手を取りそのままくるりと体を反転させてぼたんの体を壁に押し付けた。  
「何?」  
そう尋ねられた時にはもう体は動いていた。  
体を引き寄せて腰を抱くと上向いて僅かに開いた口に口付ける。  
上質の魂の放つ匂いに喉を鳴らしながら味わうように舌で唇を舐めると歯が噛み合う前にぼたんの口腔に舌を潜らせる。  
怯え、逃げる彼女の舌を追い駆ける為に一層引き上げて、抱き寄せて更に唇を深く重ねる。  
僅かに唇の離れた瞬間漏れた苦しげで、しかし蕩けるような吐息が嗜虐心を強く揺さぶる。  
 
もっと、もっととぼたんを追い詰めたくなる。  
 
しかし、そこで強い霊気を感じて弾けるように唇を離した。  
流石に閻魔大王のおわす聖殿でする行為ではないので威嚇されたかと蔵馬は目を細めたが、下から聞こえる抗議の声に応える時にはいつもの柔和な笑顔を見せた。  
 
「もう!一体何考えてるんだよぉ!あたしゃアンタを心配してだねぇ!」  
「折角のお心遣いですが、そんなに大声だされたらそれも無駄になりますよ」  
 
抱き寄せた手を離すとずるすると体が落ちていく。  
それを面白いおもちゃのように見下ろした蔵馬は追い駆けてその場にしゃがみ込む。  
ぼたんに視線を合わせると息苦しかったのか、大きく肩を上下して顎にまで伝った唾液を襟足に隠していた袱紗で拭っている。  
頬を伝った涙は蔵馬が両手で拭うとにっこり笑って拭った涙を舐める。  
 
「俺も盗賊なんで。此処まで来て何一つ盗まなかったとなると笑い者にされてしまうんですよ」  
 
 
だから、貴女の唇を盗んだ事にしようかと。  
 
 
「あのねぇ!」  
「ファーストキスのお詫びは今度しますよ。美味しいコーヒーのお店とお酒のお店で」  
「だっ!誰がファーストキスだってぇ!?」  
 
再び流れた涙は今度こそ自分で拭うと暗がりでも分かる程に頬を染めて大きな声を上げる。  
 
「違うんですか?」  
「そうだけど!」  
 
つられて叫んだ事に更にぼたんは頬を染めた。  
時々自分の正直さが恨めしくなると、ぼたんは眉を吊り上げた。  
 
「お見送りは此処で結構です。またお店が見つかったら連絡しますよ」  
 
そうして蔵馬は最後にもう一度と軽く口付けると何事も無かったように霊界を後にした。  
一人取り残されたぼたんはその場にしゃがみこんだまま悔しそうに蔵馬の背中を見送った。  
 
 
人間界に戻る途中、もう一度唇を舐めた。  
 
 
いい味だった。  
想定していたよりも格段に上質のその味に、暫く女の魂の味など忘れていた喉が鳴った。  
理性が、本性が、全てがぼたんを求めて動き始めた。  
いい宝捜しが出来そうだと、蔵馬は唇の端を吊り上げた。  
 
 
 
<終>  
 

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