数日前から空の色が怪しく濁っていて、寒々しかった。  
おぼろげに、何かの凶兆のように感じていたのは決して気のせいではなか  
ったらしい。  
わずかなことだけれど、確かなもの。  
 
「雛」  
ある日の日没間際、夕食後の片付けをしていた雛は居間にいた躯に突然  
呼ばれた。滅多にないことだけに、何事かと気になってすぐに走って行く。  
「はい、何でしょうか」  
気に入りの長椅子に横たわったまま、食後酒のグラスを傾けていた美しき  
主人、躯は完璧に整った唇を歪めて笑った。その表情には苦悶の陰りがわ  
ずかに見える。  
「お前、しばらく実家に戻っていろ」  
「…は?」  
一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。もしかして知らない間に躯の  
機嫌を損ねる不手際でもあったのではないか。そんな不安が胸の中に大  
きく広がる。  
「そんな顔をするな。お前の為だ」  
昨夜はあまり眠っていないのか、やや腫れぼったい目をしている主人の心  
中はまだ少女の雛には全く分からない。これから何を言われるのだろうと  
自然と身構えてしまうのも道理だ。  
 
帰れと言った躯の説明はこうだ。  
もう一人の主人、飛影が最近独自に得た情報によると、かつて魔界に君  
臨した者たちに対して少数勢力が一斉蜂起を狙っているらしいということ  
だった。とりあえずは平和的に均衡の保たれているこの魔界で。  
今更何をたわけたことを、愚かな話だ。と人一倍用心深い飛影ですら最初  
は歯牙にもかけなかった屑情報だった筈なのに、日毎にそれが確実性を  
増してきているという。  
 
かつて魔界に君臨していた者、といえばわずか数名だ。その中には躯も  
含まれてはいるが、今はそれなりの要職に就いているだけの宮仕えの身  
でしかない。一介のか弱い女になったと見くびって今ぞ好機と卑劣にも狙  
ってきたとして、その輩共に一体何の得があるのか分からない。  
そこまではさすがに飛影も躯も読みきれてはいないのだろうが、もしも屋  
敷に踏み込まれたとして、何の能力も武術の心得もない雛の身に何かあ  
ってはいけないと判断したのだろう。  
それは本当に有難いし、嬉しい。  
けれどこんなに思い遣りのある大好きな二人の主人の命令でも、従う気  
にはどうしてもなれなかった。  
「私、ここにいては御迷惑なんでしょうか」  
「雛」  
「私は家に帰ればそりゃあ無事に済みますけれど、躯様はその間お一人  
になってしまいます。飛影様もお仕事でお側にいない時間の方が多いです  
し、何かあったらと思うと私はとても…」  
ふ、と長椅子の上で世にも美しい存在が微笑しながら少しだけ身を起こし  
た。ゆったりとした意匠のクリーム色の衣服がさらりと耳に心地良い音をた  
てる。すっと伸ばされた細い指が前髪に触れた。  
「お前、案じてくれるのか」  
「当たり前です!私は躯様のお世話係です。最低でも、お子様が無事に  
お生まれになるまでは決して離れられません」  
ずっとここまで世話をしてきた、という自負がある。今更途中で投げ出して  
自分だけ安全なところに逃げる訳にはいかなかった。この美しき主人なら  
ば、何者が襲いかかってこようと一人で簡単に倒せるだろうと思ってはい  
ても。  
「…仕方のない奴だ」  
その笑みは、どこか安堵の色があった。  
帰れとは言ってみたものの、内心は去らないで欲しかったのかと嬉しく思  
った。  
 
「へえ、躯がね」  
時々ここを訪れては花の時期の過ぎた薔薇の剪定を手伝ってくれる蔵馬  
が、昨日のそんな遣り取りの顛末を聞いて面白そうに笑った。もう季節は  
すっかり春だ。冬に咲く薔薇の時期を過ぎて次は春の薔薇の盛りを迎え  
ようとしている。  
二人の主人のことも正直気にかかるし、膨大な数に株が増えた薔薇の手  
入れもしなければならない。そうあっさりとここを離れられる筈がないと雛  
は溜息をつく。  
日中の日差しは最近一段と強くなってきていて、早くも剥き出しになった  
二の腕がうっすらと日焼けをしていた。  
「…そうなんです。そう簡単には帰れませんよね」  
「まあ、そうですね」  
使いやすく手入れされた剪定鋏を手にして、今日も目を見張るほどに美し  
い蔵馬は軽く何かを考え込むように顔を俯けた。  
「その一斉蜂起の噂は実は俺も掴んでいました。まあ、案ずるほどのこと  
はないと思いますが、無視は出来ない情況にまで来ている。そんなところ  
です。ただ、あなたがそこまで覚悟を決めたのなら自衛することも必要か  
も知れないですよ、雛」  
「自衛、ですか?」  
「そうです。躯は何といっても今でも魔界の実力者であることは変わりが  
ありません。耳の痛いことを言いますが、あなたが躯のことを心配してい  
る場合ではないんです」  
ざわり、と周囲の空気が揺らいだ。  
そうだ、忘れていることもよくあるが、この男は躯の養い親でもあった。関  
わりがあったのは火傷から来る重度の感染症で苦しんでいたほんのわ  
ずかな時期のみでしかなかったらしいが、あの躯の少女時代の最も弱か  
った時を知っているだけに発言には重みがある。  
「…そう、ですよね」  
 
下手をしたらここに居続けることによって躯にとっては邪魔で厄介な存在  
になるかも知れないが、それだったらさっさと帰った方がましだったのだろ  
うか。そんな思いに囚われてしまう。  
頬を撫でる風が強さを増した気がした。  
蔵馬はまた元通りの優しい笑顔に戻る。  
「ああ、脅してしまいましたね」  
「いえ、そんな」  
「自衛、とは難しいことではありませんよ。ほんの少し意識を変えるだけ  
でいいんです。例えば、人間のようにね」  
「…?」  
突然飛び出してきた言葉に、頭がついていかなかった。  
人間。  
それは時々耳にする言葉だ。  
この魔界と接している人間界というところには、魔界の住人とほとんど変  
わらない姿形をした者たちがたくさん住んでいるという。ただ、その思考形  
態は魔界とは比べ物にならないほど複雑怪奇そのもので、個々が属する  
社会の仕組みも様々に細かく階級分けされているとか、とにかく煩雑でス  
トレスが増大するばかりの世界だとか、本当か嘘か噂だけは何度も聞い  
ている。  
「人間って…そうなんですか?どんな状況にも対応出来るんですか?」  
「概ね、そうですね」  
我が意を得たり、とばかりに美しい顔がさあっと輝いた。  
「忘れていないでしょうね、俺のこの体も元は人間のものなんですよ」  
「あ」  
「もちろん脳もね…だから、生きていくにあたっては随分と助かってきまし  
たよ。魔界的思考と人間界的思考を明確に区別しつつ、必要な時には  
引き出せることにね」  
剪定鋏を取り落としそうになりながら、雛は目の前の男から目を反らすこ  
とが出来ずにいた。  
そんな難しいことなど、自分には出来る筈がない。  
 
「私には、きっと無理です」  
「躯と飛影の側近くにいるのなら、大丈夫ですよ。それに嫌でもその能力  
は備えなければならないんです」  
「えっ…」  
「お分かりですよね?いずれはあなたも狙われる、ということです」  
「そんな…」  
思ってもみないことだったが、当然だろう。  
躯も飛影も魔界では決して無視の出来ない重要人物で、媚を売って近  
付こうとする浮かれ者も二人を討って名を上げようという不心得者も後を  
絶たない。  
今回の一件もその中のひとつでしかない。つまりは、いつでも二人の周  
囲には危険が潜んでいるということなのだ。と、いうことは側近くにいて  
仕えている雛もまた、秘密を知り得る者として狙われたとしてもおかしく  
はない。これまで何もなくて何一つ雛が知らなかったのは、ひとえに二  
人が上手く守ってくれていたからに他ならないのだろう。  
「そんな、私なんて何も出来ないのに…」  
指から鋏が落ちそうになっているのを、蔵馬が取り上げてくれた。  
「我が案とやらに浮かれて頭に血が上っている輩にとっては、躯もあな  
たも同じということですよ…いいですね、躯の障害になってはいけませ  
ん。あなたはあなたの特性で躯を守ってやればいいのです」  
「私が、躯様をなんて…そんな大それたこと…」  
「いずれ、分かりますよ。自分の持ち得る最高の力をね。それが躯を守  
護して癒すことになります」  
やけに自信有りげに、蔵馬は得心したように頷きながら微笑む。雛には  
何の自覚も覚悟もない。これまでずっと二人に守られてきたことに対する  
感謝以外には。  
けれど、本当にいずれはそうなれるのであれば、どんなことでもしてみた  
い。心からそう思った。  
 
結局、例の少数勢力の輩共は行動に移す直前に飛影が指揮する一団  
によって全員取り押さえられ、騒ぎは一応の収束を迎えたという。当然  
ながら、雛の周囲には何事もなかった。  
躯も飛影もいつもと変わりなく対応してくるので、あれは悪い夢だった  
のではと時々思うほどだ。  
以前の雛だったらきっと、脅かすようなことを言って人の気持ちを試すな  
んて、と二人に、特に躯に対して腹を立てたに違いない。だが、蔵馬の  
言葉でわずかに成長を遂げたように感じている。  
躯、飛影、蔵馬。  
雛を取り巻く大人たちは様々な策を弄して少しでも早く、確実にまだほ  
んの少女でしかない雛に成長を遂げさせようとしているのだと、ようやく  
分かったのだ。  
そこまでするべき理由はたったひとつしかない。  
 
「躯様、どうぞ」  
その日も食後はいつものように、雛は銀の盆に乗せたグラスを美しき  
主人へと運んでいく。  
ルビーのように鮮やかに赤い液体が、繊細なカットを施したグラスの八  
分ほどを満たしていて、細く白い指がそれを取り上げる様はいつ眺め  
てもうっとりするほど美しい。  
近くの葡萄園で採れた最高の葡萄から作られる希少な酒。ことに素晴  
らしく滋養があるというので、最近好んで躯が毎食後は必ずと言ってい  
いほど口にしている逸品だ。  
「ありがとう、雛」  
「いえ、どう致しまして」  
長椅子の上でくつろいでいる女主人は、本当に美しい。魔界でも実力  
者として知られるこの人を守れる日など来るのだろうかと、あれ以来  
いつも考えている。  
 
☆  
 
「躯様」  
厨房へと立ち去り際に、くるりと振り返った雛は何か決意をしたように  
からりと笑った。  
「私、きっとお二人に役立てるようになります。もしここを出て行くことが  
あれば、不手際を仕出かした時だけですからね」  
一瞬、呆気に取られていた女主人は、それでもすぐに言葉の意味を理  
解したのか整った顔に笑みを浮かべた。わずかの間だったが、心を蕩  
かすほどに綺麗だった。  
「そうだな、期待しているぞ」  
「出来るだけすぐに、一生懸命頑張りますから」  
頬を染めてそれだけ一気に言ってしまうと、盆を抱き締めて雛は厨房へ  
と走って行く。期待されていると思っただけで、こんなにも嬉しい。そし  
て誇らしい。  
そう、二人の主人は雛を家族として迎えようとしているのだ。単なる主  
人と世話係ではなく、対等な者として。それならば、出来るだけ近付け  
るように頑張らなければいけないし、その甲斐はある。  
そうして努力を続けていけば、いつか雛もまた拙いながらに二人の力  
になることが出来る。そんな日が一日でも早く来るようにしたかった。  
 
力ある者に守られるだけだった幼くか弱い雛鳥は、ようやく自分の力  
で羽ばたこうとしていた。それはまさに意識改革とでも言うべき雛自身  
の開花でもある。  
 
 
 
終  
 

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