風の噂で、そのあまりの卑しく醜い言動によって魔界の住人に蛇蝎の如  
く忌み嫌われている奴隷商人の邸宅から、飼い殺し同然の目に遭わされ  
ていた奴隷のひとりが逃げ出したという話を聞いた。  
奴隷は齢七歳。  
常備されていた拷問用の酸を持ち出して被り、周囲の者がひるんだ隙を  
見て脱出したという。  
うてなかも知れないと思った。  
まあ、これまでも奴隷商人の噂は漏れ聞いていて、軽蔑し唾棄すべき卑  
劣な輩だとは思っていた。その新しい噂が本当だとしたら、是非にもあの  
少女は庇護しなければならない。そうは思っても、肝心のうてなはそれを  
望んですらいないのは分かっていた。  
 
ここ数日、森がわんわんと騒いで胸騒ぎが激しい。  
何か禍々しい気配を感じずにはいられず、蔵馬は眠れないまま夜を明か  
すことも少なくなかった。  
この黒い森はうてなに共鳴している。  
本能としてそれを感じ取って、身震いするばかりだ。この森に棲みついて  
どれほどになるか。かなりの年月を経過しているにも関わらず、蔵馬自身  
にその感覚は微塵もない。  
なのに、留まってわずか数ヶ月のうてなを森は受け入れたのだ。  
それほどの凄まじい業を、あの華奢な体躯でしかないうてなが背負ってい  
るということなのだろう。  
 
うてなは毎日洞窟から抜け出しては、不自由な体で歩ける距離を徐々に  
伸ばしていた。いずれは森から抜けて自分ひとりの力で生き抜いていくだ  
ろう。最初からそうするつもりだったのだろうし、この森に留まっているのは  
単なる障害としか思っていないかも知れない。  
 
「うてな」  
「何だ」  
歩きにくい、支えにくいとぶつぶつ文句を言いながら、うてなは杖を自分で  
使いやすいように小刀で削っている。腕一本ではさすがに歩きにくかろう。  
夜の洞窟の中は細い蝋燭一本の灯りだけが頼りで、見えにくいことこの  
上ない。  
蔵馬は側の寝床でだらりと寝そべりながら、必死で命綱を削る齢七歳の  
娘を眺めていた。  
「いずれお前には腕と足の代わりを作ってやろう」  
その言葉に、これまで無関心な横顔を見せていたうてなは振り向いた。  
「本当か?」  
「ああ、ただし、傷が完全に癒えてもここにいるなら、だ」  
途端に、眼差しが色を失くす。  
「そんな条件なら、いらない。俺はこれ一本で充分だ」  
何という頑迷な娘だろうか。ある意味意思が強いとも言えるのだが、自分  
の信念だけを頑なに貫こうとする姿はとても子供とは思えなかった。あの  
奴隷商人の元にいたというなら、その頑なさもある程度は理解出来そうで  
はあるが。  
「だが、お前には感謝している…出会わなければ俺は呆気なく死んでいた  
だろうからな」  
呟く横顔は既に大人の表情を纏っていた。  
 
別に蔵馬は己を善行の者とは思ってもいない。ただ、目の前に死にそうな  
子供がいたから助けただけのこと。必要ならば盗みもすれば殺しもする只  
の流れ者の盗賊でしかない。元々自らが不遇の身だ。そんな生業を続け  
ているのもいずれはこの魔界で成り上がる為の手段であり、最も必要なこ  
とと認識していた。  
ならば。  
この娘にとって一番必要なものとは一体何か。  
そこにうてな自身と蔵馬の認識の違いがあった。  
庇護されることを望みもせず、あくまでも自分の力だけで歩いていこうとし  
ている少女が心底不憫だった。  
 
翌朝、うてなの姿は杖と共に消え失せていた。  
別れも言わず、何ひとつ残しもしなかったのはそれなりの意地というもの  
だろうか。  
親らしいことは何ひとつしてやれなかった、そんな寂寞とした思いと共に感  
じたのは、一貫してうてなの意思の強さだった。あくまで生き抜いていきた  
い、そして自分の力でこの魔界でのし上がる。そんな並ならぬ強さが女と  
しては突出していて、それゆえに下手をすれば自滅しかねなかった。  
何と早計で愚かな娘だ、と寝床の中でごろりと寝返りを打ちながら自嘲気  
味に笑った。  
あと少しでもここにいて、静かに過ごしていれば普通の子供の喜びも幸せ  
も知ることが出来ただろうに。それを知らぬが故に何かに突き動かされな  
がら生き急いでいる、哀れな娘が今になって愛しいと思った。  
 
生きていれば、いつかはまた再会することもあるだろう。  
ただ、うてな自身は変わり果てている可能性がある。この魔界でいっぱし  
の名を馳せているか、堕ちきって荒みどんよりとした目を向けてくるかは誰  
にも分からないことだ。  
「…いずれ、お前に会うことを楽しみにしているぞ」  
この数ヶ月、森の中では何も変わったことはない。ただ娘がひとり現れて  
消えた以外は。  
運命というものがあるなら、今ならきっと甘んじて受け入れられる。そんな  
気がしていた。  
 
そして今。  
薔薇は過去のことなど何も知らず、あくまで華麗に咲き誇る。  
咲き始めの姿も麗しいが、満開の時期を過ぎて散る寸前もまた愛らしい。  
「暑くないのか?」  
いつものように剪定の手伝いをしていた蔵馬に、屋敷から出てきた躯が声  
をかける。思わず微笑みが漏れた。  
 
「…暑いですね。でも、薔薇が気になりますから」  
選定用の鋏を片手に、蔵馬はにっこりと笑った。この時期の日差しのよう  
に眩しい笑みだった。  
「後で、雛に冷たいものを用意させよう」  
「有難いです」  
あれから幾星霜。  
どれだけのしがらみと、どれほどの煩わしさを経過してこの関係に落ち着  
いたのだろうか。それもまた悪くないと考えている自分がいることが、蔵馬  
自身不思議な気がしている。  
あの時寄る辺ない身の上だった娘は、見事に才を開花させてこの魔界で  
名を成し、権力者たちにも一目置かれるようになった。ここに至るまでに女  
ひとりでどれだけ大変だったか知れない。  
だが、今こうして目の前で微笑みながら立っている女はそんなものを感じ  
させないほど自然で幸せそうだ。昔与えられなかったものを別の存在によ  
って得ている余裕と充実がそこにはある。  
「躯」  
あえて今の名前で、呼びかけてみた。  
「何だ」  
「あなたは今、幸せですか?」  
今更感傷だろうか。昔は親として叶えてやれなかったことを今こうして言葉  
にしている。その意図をどう解釈しただろうか。躯は綺麗な顔でさらりと笑っ  
て返してきた。  
「言うまでもないことだ」  
 
 
 
終  

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