雨が窓を叩く音が遠くから聞こえてきた。
雛が丹精している薔薇も雨に濡れていることだろう。
雨の音以外は何の物音もない単調な夜が更けていく。
寝床の上で軽い眠気に襲われながらも、何度となく寝返りを打ちながら躯
は本来ならば隣にいる筈の男を無意識に待っている。
昔なら誰も必要とはしない、それでいいと思っていたのに、いつの間にか
わずかな時間存在を感じられないだけでひどく心寂しい。不安に襲われて
様々なことを考えてしまう。恋愛などにうつつを抜かす女の部下を見る度
に、軽蔑の感情すら持っていたというのに。
「…早く帰って来い、大バカ野郎」
呟く声にはいつもの元気すらなかった。
出来るだけ表立って出歩くことのないよう、見かけよりはかなり心配性の飛
影は執務室内で座ったままこなせる程度の仕事しか躯には与えない。そ
のせいで飛影自身に皺寄せが来ていることなど決して口にもしないのだ。
きっと毎日激務なのだろう。
だから帰りが遅いのは仕方がない。
それが分かっているからこそ、何となく腹が立つ。
心配してくれるのは嬉しいが、過ぎるのは束縛されているようで嫌だ。子供
が生まれるまで屋敷に閉じ込められているのも、決して体にいいとは言え
ない。元々が心身共に活動的に出来ているので、そろそろこういった生活
にも退屈を覚えていたのだ。
「くだらないことを…」
溜息をつく。
躯にも分かっている。きっと、それは本心からではない。
このところ、一人で寝入ることが多くなっているので、悪いことばかりを考え
てしまうだけのことだ。
どれだけの時間が過ぎただろう。
隣で男が横になる気配がした。
「…飛影か」
さすがに睡魔には勝てず、とろりと眠りかけていた躯は慣れた気配で目を
開いた。
「悪いな、起こしたか」
「気にするな。元々それほど寝付きがいい方じゃない」
「だったら、尚更だ。今の貴様は少しでも多く寝る必要がある」
髪を撫でる仕草は何度も繰り返しているだけにさすがに堂に入っている。ま
るで子供をあやしているようだ。
寝入る直前まで、束縛されているだの退屈だの考えていたことなどすっか
り忘れてしまうほどに、こうして側にいるだけで気が休まるのが自分でも現
金だと思った。だが、女とは本来そういうものなのだろう。普通に成長してい
れば何も考えることなく自然に得ることの出来たものを、今こうして肌身で
感じているだけのことだ。
何もかもが、幼い頃には決して願うべくもなかった幸せに向かって形成され
ようとしている。わずかでもこうなればいい、と思ったことがことごとく実現し
ていく不思議を目にしても、すぐには信じられないほどだ。
だが、事実には違いない。
本当に、事実なのだ。
昔なら、とても有り得ないことだった。こうして何もかもを得ているなど。
「眠れないか?」
「…何となく、な」
多少気まずそうな声が降る。寝入りばなを起こしたと思っているのだろう。
特に気にすることなどないのに、と急におかしくなってくすりと笑った。
「お前は、面白いな」
「どこがだ」
「さあな…」
ほんのわずかに機嫌を損ねたような声。暗闇に近く顔が見えない寝間だか
らこそ、互いの感情が声を通して浮き出る。
「雨の匂いがする」
外は相変わらず雨の音が続いていた。飛影の髪はそれほど濡れてはいな
いものの、帰途の途中ではっきりと分かる匂いを纏っている。それが奇妙に
も清々しくて似合っていると思えた。躯と、腹の中の子の為に生きることを決
意している男の匂いでもある。
こうして少しずつ家族というものになっていくのかと思うと、言葉にならない愛
おしさを感じずにはいられなかった。
「あまり、無理はするなよ」
「そんなにやわに出来ていると思うのか」
「…いや。だが」
「侮るな」
躯の心配を軽く流すと、男の手が先程よりは強く髪を撫でてくる。そして頬に
降りてきた。指先の異様な熱さが欲情を物語っている。
「したいのか?」
「…まあな」
「してもいいぞ、どのみち眠れないんだ」
一瞬の躊躇は確かにあった。見かけによらない細心をもって躯を気遣うこの
男らしい迷いだろう。だが、すぐに抱き寄せられる。一日中雨が降り続いてい
たせいで窓を開けてはいなかったから、寝間には熱が篭っていた。外の匂い
がする男の肌や髪の冷たさが心地良くて、目を閉じる。
女でいるということは、これほどに絶対的な幸福感を感じられるのだ。
「…今夜はお前を感じたいんだ…」
気遣われるだけではなく、時には剥き出しの本能もぶつけられたい。そう思う
のはきっと贅沢なことではないだろう。互いの気持ちが合いさえすれば。
「いいんだな、躯」
声が一層の熱を帯びる。肌を撫でる手はもっと熱くて焼けつきそうだ。こんな
に激しく欲情していることが嬉しい、そして待ち遠しい。
「我慢は、しないぞ」
ひとしきり貪り合った唇がほんのわずかに離れた瞬間、声と吐息がこれまで
押し隠していた躯自身の淫欲をざらりと撫でる。
「…構わない、好きにしていい」
既に右の乳房を煽るように揉まれながら、甘い吐息をついて声を漏らす。ごく
薄い夜着はあっさりと滑り落とされて何ひとつ纏うものなどない。跡がつくほど
首筋を吸われ、乱暴に肌を探られながらも次第に体に火がついていく。意識し
た途端に身の内から淫らなるぬめりが溢れてきた。
「お前が、欲しいんだ…」
もうすぐ、我を忘れる時間が近付いている。女なら誰もが通る道を通り直して
いるだけ。だから何ひとつ焦ったり迷う必要などないのだ。
雨の音は相変わらず続いている。
昔は雨など大嫌いだった。
力なき、か弱い小娘だった頃は雨に打たれることが何よりも危険だったから
だ。濡れれば体温が奪われる。身動きが鈍くなって目の前に危機が迫ってい
ても素早く逃れることが出来ない。直接生命を脅かされることがままあったか
ら、長い間禁忌のように感じていた。
雨の音を気に留めなくなったのは、本当にごく最近のことだ。
「まずは順調なようだな」
「お陰様で、と言ったところか」
もうかなり膨らみが目立ってきた腹を撫でる手があった。他に何の意図もな
く、ただ労りだけを感じられるその手は、何度も飽きずに撫で続ける。
躯は生みの親の顔を知らず、自らの出自がどのようであったかを全く知らず
にいるが、それはまだ救いかも知れない。なまじ知りでもしたら積年の恨み
つらみが一気に噴き上がる。そこからすれば、飛影は哀れな男だ。親が誰
かも、妹の存在も知っているにも関わらず、今更だと名乗ることもしない。一
人きりでいることを自ら選択するまでにどれほどの葛藤があったか知れない
のだ。
そんな、一人と一人で出会った男と女に新しい家族が出来る。
この先訪れる雨続きの季節が終わる頃には、互いの孤独もまた完全に終焉
を迎える。
「…飛影」
しばらく放り出されていた疼く部分に指先の感触を感じて、熱の篭った声が
漏れた。一度体この快感を体感してしまえば、限界までも貪欲に感じたいと
一気に燃え盛るのが女というもの。
思いが通じ合っているならば当然のことだ。
もう、どこを触られても感じる。
雨の匂いで肌を撫でられている感覚か更に性感を煽っていた。まだ触れら
れてもいない女としての敏感なる部分が軽く疼いている。
「飛影」
「何だ、躯」
淫欲を含んだ声音が甘く低く耳元で響く。
「…早くして欲しい。前置きなんていらない、もう」
昔、忌み嫌っていた雨の音が今は癒しになっている。心を繋いだ男もまた
雨の匂い。
「いいんだな」
「お前だから、こんなことが言えるんだ…」
「そうだな、嬉しいぞ」
顔すら見えない暗闇の中、声と感触だけが今の二人の全てだった。それで
いい、余計なものなどかえって肝心なものを見えなくする。不安のあまり邪
推が入る。
「躯、」
熱の篭った声と共に寂しさで乾いた唇が潤されていった。輪郭をなぞるよう
に舌先が唇を舐めてきたと思うや、口腔内までも深く絡みついてくる。心ご
と持っていかれそうな強引さが嬉しく、不思議な安堵感さえ感じる。とろん
と甘く蕩けていきそうな思考が引き戻されたのは、まだ冷たい指先が肌を
撫でたからだった。
「…っ!」
唇が繋がれたまま肌を探られるのは、本当に感じてしまった。これまでに
はない感覚に、躯自身が内心うろたえる。
だが、もうつまらない意地は張る必要がないのだ。
「早く来い。お前だけを、待っていた」
待ち侘びていたそこに硬い感触を感じて、反射的に身が竦んだ。だが、次
の刹那に一気に奥までを突かれて女が覚醒していく。擦れ合った部分か
らもたらされる熱で燃え尽きてしまいそうなほど熱い。腕を回して夫と呼ぶ
男を抱き締める。
もう何も不安はない、怖くもない、ただこうして側にいることを強く感じていた
い。ただそれだけの単純でいながら何よりも尊い思いだけが胸を満たして
いた。
「…ぅあっ…」
「辛いなら言え。いいな」
「っ…大丈夫、だ」
圧迫感で浅い息をつくが、決して苦しくはなかった。
質量ともに意外なほど圧倒的なものが中を傲慢に擦る。孤独感を感じて
待ち続けていたそこが開花していくのを肌で感じて、悦びで正気さえ飛ん
でしまいそうだった。
「躯」
「ぅあ…飛影っ…」
何もかも確定のない時期の交わりなどでは決して味わえない、この充足
感は何にも代えられない。嬉しくて、幸せで何もかもが弾け飛んでしまい
そうだった。
あくまでも理性的に腰を使い、妻となった女を労る素振りを崩さない男に
もそれは同じと見えて、もうじきその危ういとばりが崩れそうだった。
「…飛影」
「何だ」
「お前も、我慢しなくていい…」
こんな時ぐらいはもっと傲慢であっていい。むしろ、その方がこの男らしく
ていい。言葉を受けるように徐々に激しさを増す動きに身を委ねながら、
ようやく全てを開放しきったように躯は笑みを漏らした。
朝が近いようだ。
随分戯れたような気もするが、少しは眠れたらしい。
窓からわずかに差し込む光によって、隣で眠る男の寝顔を珍しく眺める
ことが出来た。普段ならまず有り得ないことだと嬉しくなる。わずかな隙
ですら見せないこの男が、こうして子供のように無邪気な笑顔を見せて
くれるなど今までなかったことだ。
寝床の中で頬杖をついて、躯はしばらくの間我が身と心を預けた男の
寝顔を飽きずに眺めていた。この選択に間違いがないことは確信して
いる。だからこそ新しい命を請け負う決心もついたのだ。
「俺を只の女にしたんだぞ、お前は」
まだ当分は反応を返さない飛影の、意外に柔らかい髪を普段のお返し
とばかり撫でてやった。
終