この数日、人事等で煩わしく細かい事務手続きが増えていた。  
普段なら随時上司でもある躯に相談するところだが、今はあまり手を煩わ  
きここせたくはないので独断で手を下すことも多い。正直疲れることもある  
が、自分で決めたことだから何の不満もない。  
これも全ては躯の為なのだから。  
 
今日の天候は上々で、日差しがかなり強くなってきていた。  
百足の見張り台から眺める魔界の景色はいつもと変わりない。微風に吹  
かれていると、ふと常に気にかけている女を思い出した。  
以前なら、そこに妹も含まれたが、もう飛影自身が杞憂する必要はほとん  
どなくなった。関心がなくなった訳ではない。この世でたった一人の身内  
である存在は何にも代え難いのは間違いない。ただ、妹にも飛影と同じ  
ように心通じる相手がいるからこそ、一歩引いているだけのこと。  
まあ大事な妹の相手としてのあの男に不満もない訳ではないが、人格的  
には安心して任せるに足ると判断している。もし、今後わずかでも妹を泣  
かせるようなことがあったら、当然只では済ませはしないが。  
何となく自らのそんな考えがおかしくなって、ふうと溜息をついた。以前の  
殺伐たる環境に身を置いていた自分からは、考えられないことだったから  
だ。  
こうして何者であっても自らに降りかかる変化を甘受していく。それが成  
長ということに相違ない。  
魔界で最も強く、美しい女を妻としたことで受ける妬み嫉みなど最初から  
分かっている。だが、そんなくだらない感情を剥き出しにする輩など意に  
介する必要もない。  
今の飛影に出来ることは、表立って仕事をこなすことの出来ない躯の補  
佐を勤め上げることと、今後生まれてくる二人の間の子の為に少しでも良  
い環境を用意してやることだけだった。  
 
今、躯は恐らく居間の長椅子に横たわってまどろんでいることだろう。もし  
かしたら、雛が今朝咲いた薔薇を切って近くに飾っているかも知れない。  
そういうものを喜ぶとはやはり女だ。ごく普通の女だ。  
最初に出会った時の完全に自らの女というものを否定していた、にも関わ  
らず何らかの繋がりを狂おしいほど求めていた、相反する黒い塊を呑み  
込んだような躯はもうどこにもいない。  
そんな麗しいばかりの変化を遂げた女を愛おしいと思わぬ筈がない。  
 
「飛影」  
そこまで考えていた時、聞き慣れた声が背後にあった。  
「きっと、ここにいると思っていました」  
「仕事だからな」  
「御苦労様です」  
長い銀色の髪が風になびいていた。蔵馬だった。  
神出鬼没を以前は売りにしていたようだが、よく言ったものだ。今は以前  
ほど関わりを持ってはいないというのに、人間界からちょくちょくやって来  
ては特権のように躯や雛と話し込み、薔薇の手入れを口実に屋敷に入り  
浸っている。下手に頭が切れるだけに厄介な奴だが、殊更敵に回す必要  
もない。  
だからといって、こんなところまで来るとは意外だった。  
「意外、という顔ですね」  
腹の中を読んだように、嫌になるほど綺麗な顔が笑った。  
「何しに来た。まさか人間救出のオテツダイという訳でもなかろう」  
「あはは、まあ、そうですね」  
皮肉をさらりと交わして、蔵馬はどこまでも広がる空を見上げた。  
「…躯は幸せなようですね」  
「何が言いたい」  
 
「他意はありません。ただ、以前わずかな期間養っていた身としてはや  
はりずっと気になっていましたので」  
勝手なことを抜かす奴だ、と軽く腹立つ。  
養い親を気取るならば、最初から何があっても手離すべきではなかった  
のだ。それをやすやすと言いなりに逃しておいて、まだ力なき小娘に艱難  
の日々を送らせたことは大罪に等しい。幸い、躯は見違えるほど強く、目  
覚しく能力を開花させて魔界に君臨するほどになったが、同じような目に  
遭った女が全部そうではない。むしろ、屈辱と絶望と諦観のうちに塵芥の  
ように打ち捨てられ、惨めに死ぬだけの女の方が遥かに多いだろう。  
今更どの面下げて親でございと名乗るのか、その神経が飛影には分から  
なかった。  
「後悔はしていました、ずっとね」  
よほど不満と腹立ちが顔に出ていたのか、やはり心を読んだように蔵馬  
は呟いた。  
足元を浚うほどの強い風が轟と鳴った。  
「ただ、うてな…躯はあの時、誰も必要としていなかったんです。自分で  
生きようとしていたんです」  
「言い訳はいい」  
「必要としていなかったから、何があっても傷つくことはなかった。どんなこ  
とも精神の表層を滑り落ちるだけだった。そうして強く空しい殻を纏ってい  
ったのでしょう。君が最初に見た、あの頑なな姿でね」  
胸が悪くなりそうだった。そんな御託を何万と並べるより、もっとするべきこ  
とがあっただろうと腹の中で毒づく。  
「ただ、それでありながら躯は君を望み、必要とした。長年のこだわりなど  
どうでも良くなるぐらい強くね」  
「…ふん」  
思いの発動は理屈ではない。  
それだけは飛影も納得した。  
 
「もしもの話、ですが」  
急に明るい口調になって、蔵馬は妙に芝居めいた動作で乱れた髪を掻き  
上げた。  
「躯があのまま俺の養女であることを受け入れて、盗賊の娘として成長し  
たとしても、やはり君とは出会ったような気がするんです」  
「当たり前だ」  
根拠はないが、それだけは確信がある。  
運命、などという黴臭い言葉などどうでもいいが、飛影自身も躯と出会うま  
では女などただ煩わしいと思っていたのだ。なのに会った途端に胸の中の  
氷の塊が溶けるように引き付けられた。  
これを一体何と言うのだろう。  
意味もなく気持ちが軽くなって、今聞いていた蔵馬の戯言など聞き流して  
やろうか。そんな寛容な心持ちになっていた。  
 
「あ、飛影様!」  
やはり今日は日差しがひどく強かったのだ。  
今朝方開きかけていた薔薇は完全に開花している。何本か切っていた雛  
が、飛影とその後ろにいた蔵馬を見付けて頓狂な声を上げた。  
少し離れたところで日差しを避けるように真っ白な日傘を差した躯が、聖母  
像そのものの汚れない微笑を湛えている。完全にとは言えないが、懊悩  
から開放された表情は思わず見蕩れるほどに美しかった。  
「お珍しいですね、今日はこんなに早いなんて」  
「仕事が途切れたからな」  
子犬のように無邪気な雛に、そんな下手な嘘をつく。本当はすぐにでも妻  
の顔が見たかったからだ、などと言える筈もない。  
 
「蔵馬」  
今日も当然のようにちゃっかりと屋敷までついて来た男に、照れ隠し代わ  
りに何か戯言の一つも言いたくなった。  
「何ですか」  
「躯が貴様の娘だというなら、生まれてくる子は孫だな。違うか?」  
「…それはちょっと」  
明らかに困惑したような声だった。急に愉快な気分になった。  
「おかえり、飛影」  
ゆっくりと歩み寄る日傘の女が艶然と笑った。過酷を極めた生の末にようや  
く安穏を得たことに満足している顔で。心引かれた時から、こんな顔が見た  
かったのだ。それが今こうして叶えられている。全てを忘れそうなほどの法  
悦が飛影の胸に満ちて、しっかりと目を見つめながら返事をした。  
「ああ、ただいま」  
 
 
 
終  
 

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