蒸し暑さを感じる夜だった。  
普段は起きない時刻に目覚めた躯は珍しく喉の渇きを覚えていた。枕元の水  
差しに手を伸ばしても、もう中身は残っていなかった。  
まさか水如きで隣に寝ている飛影を起こす訳にもいかない。いつもそれほど  
寝付きが良くない男なのだから。  
仕方ない、と躯自らが寝間を出て厨房に向かうことにした。  
その宵はたまたま新月だったのだろう。空はひどく黒い。  
 
居間に入ると、どことなく空気が澱んでいるのを感じた。蒸し暑さとはまた  
別の気味悪さに本能的な違和感がある。早々に用事を済ませて戻ろうと厨房  
に行きかけたその時。  
『娘よ』  
忘れたくとも忘れられない、けれどようやく幸せを掴んで振り切れる気がし  
ていた下種男の汚らわしい姿がそこに幻のように浮かんでいた。  
「…!」  
驚きに、思わず息が止まりかける。  
『可愛い娘よ、父親を捨てて自分だけ幸せになるつもりか』  
「…あ、ぁ…」  
信じられなかった。  
やっと忘れられたと思ったのに。  
忌まわしい昔を全部塗り替えられたと思ったのに。  
『お前のことを忘れたことなど一日としてないぞ。誰よりも愛らしかったか  
らな。それ故に可愛がってやった親心を分からぬ愚か者め』  
「…なんで今になって…今更…」  
 
一気に混乱の極みに陥った躯は、余りのことに床にへたり込んでしまった。そ  
れが現実なのか、夢なのかさえ判別もつかない。ただ、憎過ぎる、腹立たし過  
ぎる男の姿に無力にも手も足も出ない。  
この男の元から逃げてから、今まで何にも揺るがされない強い存在になろうと  
血反吐を吐いてでも、陵辱さえ何でもないことと受け流して歩いてきたのに。  
そしてようやく女としての普通の幸せを得ようとしていたのに。  
この男は死して尚もおぞましい執着と思念を残留させている。躯をただ苦しめ  
ようとするように。  
『さあ、昔に帰ろう。可愛い娘よ』  
にたりと薄気味悪く笑いながら、男は腕を伸ばしてきた。  
「来るな、来るな…嫌だあっ…」  
歯の根が合わずにがちがちと鳴る。  
こんなに自分が弱いなど、有り得ないことだった。たかが幻に怯えているなど  
と。だが、こればかりは記憶の根底から邪悪なものに感染している。折に触れ  
思い出す度に子供の頃の恐怖と憎悪がそのまま蘇ってくるのだ。  
「来るな、俺はもうお前など…」  
『遠慮などいらん、娘よ』  
勝ったと見たか、ますます笑いを深くした男の幻影がずいと迫ってくる。もう  
逃げられない。  
恐怖の極みに陥って気力を失った躯の背後で鋭い一閃があった。  
『娘…』  
稲妻のような閃光は幻をあっさりと断った。苦しげな、名残り惜しげな苦悶の  
表情を残しながら幻の男は消え去っていく。  
全てが夢のようだ。  
「いないと思ったら、こんなところで何を怯えている」  
相変わらず、声には一切の感情が入ってはいない。だが、的確に躯の危機を悟  
ってやって来る機知は見事なものだった。  
 
「…起こしたのか?」  
「気にするな。貴様が窮している時に目覚めぬ筈はないだろう」  
当たり前のように返す声が、今夜はやけに優しい。  
躯を救った一閃は、飛影の気迫だったに違いない。  
疲れきって寝入っていたというのに、何という鋭い男だろう。それほどまでに  
思われていることに、今夜ばかりは喜びよりもむしろ申し訳なさの方が先に立  
った。  
「お、俺は…」  
「胸糞の悪い奴がまた出てきたようだな」  
「…ああ」  
くだらないことに睡眠を妨害されたというのに気にする素振りもない。それど  
ころか気遣ってくれるのが更に心に痛い。遥かに長く生きている女として、迷  
惑などかけたくはなかったのに。  
 
月のない夜。  
居間の長椅子で横になる躯の傍らには誂えたように飛影がいた。気に入りのグ  
ラスにいつも飲んでいる酒を満たして差し出す仕草は自然そのものだ。何とか  
一口だけ飲むと、熱い手が髪を撫でてきた。  
「今夜はここで眠れ。もうあの糞男は出て来られないさ、二度とな。俺がそう  
してやろう」  
「…そんなこと…」  
「奴を捕まえたのは、俺だ。この世にまだ思念があるとしても、俺がこれから  
は防いでやろう」  
言わんとしていることは、痛々しいほどに良く分かる。  
もしも、あの男の意思がどこかに残っているとして、飛影にされたことはきっ  
と憶えている。常に睨みを効かせていれば悪しき執着は少なくとも躯に及んで  
は来ない。  
 
だが、やはりそれでいいのかという気持ちはある。  
自分に降りかかった火の粉ぐらい払えるようにはなった筈だ。まして、夫とは  
いえ飛影は躯の生きた時間からすればわずかに何分の一かの若い男でしかない。  
このまま責を負わせる訳にはいけないと、思わず頑なな気持ちになりかける。  
「気を張るなと言っただろう」  
知らぬうちにわずかに傾けていたグラスから、酒がたらりと零れて胸元に落ち  
た。それを当たり前のように舐め取る夫。柔らかな舌先の感触に肌が震えた。  
心までがどうしようもないほどに震えた。  
口から出る言葉は随分素直なものだった。  
「これは俺の弱さの問題なのに、お前に負わせてもいいのか?」  
「愚問だ」  
一切の文句を封じるように重ねられた唇が、ひどく熱かった。  
 
迷いがないとは言えない。  
忌まわしい過去を全て忘れきったなどと甘いことも言わない。  
ただ、飛影さえ側にいれば、本当に二度とあの糞忌々しい男の幻など見ないで  
過ごせる気がした。  
それぐらいの夢は、見てもいいだろう。  
 
 
 
終  
 

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