「今日の報告は、以上だ」  
「そうか、御苦労」  
毎日、いつものように事務的に繰り返される飛影の業務報告。  
特別事件もなく、変化もない毎日。  
今更そんなことがあっても煩わしいだけなのだが、なければないで退屈だ。そんな、贅沢な  
ことを考えながらも日々は過ぎていく。  
まあ、魔界全体が荒れ果てていた頃に比べれば遥かにましには違いない。魔界トーナメント  
後の躯は一国の王ではなくなったが、現在の境遇には至って満足していた。何よりも、以前  
統治していた者たちが穏やかに暮らしているのを見れば、これでいいと思わざるを得ないだ  
ろう。  
底辺で生きる者たちの幸せなくして、魔界全体が良くなる筈もないのだから。  
 
疲れはしていたが、気分は爽快だった。退屈とは言いながらもこの日々をそれなりには楽し  
んでいるのだ。  
「飛影」  
執務室の隅は暗闇で見えないが、まだ忠実に側に控えているだろう男を呼んだ。  
「どうした、躯」  
「そこの黒い棚から酒とグラスを取ってくれ。グラスは二つだ。一緒に飲まないか」  
「…珍しいことだ」  
「そんな気分の時もあるさ」  
そう、最近は気分がいい。今宵は特にだ。この間まではその原因すら分からなかったが、最  
近ではおぼろげながら掴めてきている。  
やはり、一国の王という身分はひとりの女にとって重かったのだ。  
その枷がなくなっただけでも、こんなに気楽になれる。  
 
棚には何種類かの酒の瓶が並んでいた筈だ。  
どれでもいいからひとまず飲みたかったのだが、飛影が持ってきたものはとびきり甘い果実  
酒だった。いかにも女が好みそうなものだ。しかし、グラス一杯飲めば大の男でも倒れるほど  
に強い。  
さすがに倒れる気はなかったので、それぞれのグラスに半分だけ満たした。  
「さあ、飲もうか」  
「…ああ」  
強い酒だと分かっているのか、飛影は口をつけただけでグラスを置いた。一体何を考えてい  
るのかと伺っているようでもある。特別何の意図もないのだが。  
「疲れているんじゃないのか?」  
「いや、特別それほどは」  
「それなら何でこんなものに逃げる」  
思わぬ方向にこの男の考えは逸れている。それならそれでまあ悪くない。どのみちその酒を  
選んだのは多分に偶然性が強いのだから。なのに飛影は意外なほどの心配性の片鱗を表  
して、躯の内部に踏み込んで来ようとしている。  
それが何となく愉快だった。  
やはり、気分のいい夜だ。このまま今夜は勘違いをさせてやろう。  
あくまでも真相は口にするつもりはない。勝手に心配をすればいいのだ。  
女そのもののずるい考えが今夜は決まった。  
「たまにはこんなものを欲しても、いいだろう」  
「だが」  
「どのみちお前には関わりのないことだ」  
「何…だと?」  
食らいついた。そう読んで、躯は内心でほくそ笑む。  
この若い直情の男と最初に関係を持ってから、まだそれほどは経っていない。腹の中のほ  
どはすぐに分かったが、だからといって女として全てを委ねきる決意にはまだ至っていない  
のだ。  
これまで生きてきた経緯を考えれば、当然のことだろう。  
 
「躯」  
やや怒りの混じった声が降る。  
「何だ、こんなことで腹を立てては下の者たちに示しがつかないぞ」  
「…そんなことは、分かっている。ただ」  
「言ってみろ」  
「貴様はいつもそうやって全部呑み込む癖がある」  
ふふ、と笑えてきた。やはりそうだ。この男はこと躯の身辺に関して過剰に心配性になる。  
それほどに情をかけられたことがないだけに戸惑うのが本音だが、あたら言いなりになる  
のも癪な気がしていた。一体何を好き好んでこんな瑕疵だらけで危なっかしい爆弾級の女  
に執着するのか。  
「躯、お前はいつでもそうだ」  
「ふふ、そうかもな」  
苛立ったのか、暗闇の一部のように男は音もなく側へと寄ってきた。そして当然の如く掻き  
抱いてくる。それには、わずかながら慌てた。  
男の傲慢をそこに見たからだ。一度物にしてしまえば後はたやすいとばかりの付け込み方  
は、きっと男そのものの本性なのだろう。だからこそ、それだけはこの男の中に見たくなか  
ったのが正直なところだ。  
「…何をする」  
ほんの形ばかりの抵抗をしてみた。それはこの男も勘付いていることだろう。それでなけれ  
ばつまらない。もちろん、充分に察したのだろう。抱く腕に一層の力を込めてきて照れ隠し  
のように言葉を吐かれた。  
「黙れ」  
この男にまだ言っていない過去など、それこそ莫大なものだ。わざわざ口にする必要もな  
いことだと思ってはいる。むしろ、言わない方がいいことばかりだ。女が一人で生きてきた  
とはそういうことだ。決して綺麗事では片付かないことばかりが付き纏う。  
それがもどかしいのだろう。  
分かっているからこそ、わざと躯は苛立たせる。  
女とは、いつもそういうものなのだ。  
全く、ずるいことにかけてはどっちもどっち。  
そんな誰でも通過することを今になって、躯も体験している。  
そうだ、まるで恋に恋する娘の初恋のように。  
 
「飛影」  
「…何だ」  
腕を回したまま黙っている無粋な男に、躯は声をかけてみた。  
「お前、他に女は知らないな」  
「だから、何だ」  
からかうつもりなどなかった。ただこれほどに一途に思いを傾けてくる男がわずかに信じら  
れなかっただけだ。我ながら、あまりにも汚れ過ぎた女だと思ってはいる。だからこそ、こん  
な女に傾倒してくる男に哀れを感じるのだ。  
「光栄、と言ったらどうする」  
「……」  
物も言わずに抱き竦められて、息が詰まる。  
 
全てを許容し合った男と女。  
そのものであるように奥の寝間で唇を交わし合う二人の間には、もう何のわだかまりもない  
ように思えた。むしろ、あってはならない。  
ならば、細かいことにこだわるのも愚かなことだろう。  
「躯」  
「…飛影……」  
気紛れで名乗った仮初めの名前の筈なのに、呼ばれれば熱く胸が疼く。自分は何者でも  
ないと信じてここまで来たというのに。  
「躯」  
「お前には、言っていないことがある」  
迂闊に何もかも吐き出そうとした唇が、男の指先で制止される。もう何もかも包み隠すこと  
のない間柄になっているというのに。  
「それは、お前の一存だ」  
その一言で体に電流が走ったような思いだった。  
 
どうして、些細なことで動揺しているのだろう。  
どうしてこの男でなければならなかったのか。  
その理由は躯にも分からない。  
ただ、あれほどの思いは知らない。ただそれだけのことだ。  
 
 
甘い酒が、まだグラスに残っている。  
どこか重く、グラスの中でゆうらりとけだるく流動する様子は、あたかも思い悩む女の姿に  
似ていた。  
「躯」  
傍らのテーブルからそれを取り上げた飛影は、面白い戯れを思いついたのか剥き出しにな  
った乳房の上にたらりと流した。急に感じた冷たい感触に、思わず身が竦む。  
「うぅっ…」  
「冷たいか」  
「当たり前だ、唐突過ぎるぞ」  
抗議する言葉を封じるように、舌先が乳房を濡らす酒を舐め取っていく。そんな趣向はつい  
ぞ経験がなかっただけに、戸惑いながらも声を殺すしかない。そんな様子が珍しかったの  
だろうか、この若い男は興が乗ったように少しずつ肌の上に酒を垂らしては丹念に舐め進  
んでいく。  
「…やめろ、そんな風に…」  
必死で声を抑えようと半端に脱がされた服で口元を隠しても無駄だった。一度体に与えら  
れた快感は悩ましいばかりに増幅していく。極力声を堪えようとするあまり、神々しいばか  
りに輝く白い柔肌がひくひくと痙攣をしている。  
「嘘をつくな」  
「…嘘など何も…」  
「こんな時ぐらいは偽りの顔など見せるな」  
何ひとつ吐き出せない女の何もかも見抜いているように、どこか苦しげな表情をしながらも  
戯れは続いていた。  
きっと、こんなことでもなければ結果的に今夜はこの男を拒んでいたかも知れない。只の思  
いつきとはいえ、それが今の躯の内面にまで踏み込むきっかけになったのだから偶然とは  
不思議なものだ。  
 
胸が騒いでいる。  
きっとこのまま、言葉は悪いが言うなりにされるだろうとは思っていた。  
これまでの長い年月、力なき小娘だった頃からのし上がる為に闇雲に権力者の力を欲し  
た娘時分まで、等しく似たような経緯を辿って陵辱されてきた。その結果ゆえに男などみ  
んな同じだとは正直今でも思っている。  
なのに、どうして飛影にだけはここまで心が動くのだろう。  
どうして自分の最後の砦とも言えるこの寝間に自由に入り込まれても平然としていられる  
のか、躯にはまだ自分の気持ちなどひとつも見えてはいなかった。  
「飛影」  
「何だ」  
「お前には、分かっているのか?俺の」  
「知らん」  
当然のように言ってのけた。  
「それが一体何になる。貴様のことを洗いざらい調べたところで、一番知りたいものは暴け  
ないだろうからな」  
「知りたいって…何を」  
「本質」  
ものすごい勢いで心臓を掴まれた気がした。  
同時に、この男でなければいけない理由もようやく分かった気がした。  
 
グラス中で揺らめく酒が、あたかも媚薬のようにたらりたらりと落とされていく。  
零れ落ちた先から飛影の舌が念入りに辿っては舐め取っているのが、既にひどく感じるようになっ  
ていた。普通に触られるのではなく、間接的な行為の刺激だからこそ溺れ込んでしまいそうで、堪  
え切れない声が喉を震わせる。  
「ん…っ」  
酒の冷たさと舌の熱さ。何もかも男の目の前に晒していることよりも、その行為で乱れ狂う自分が  
恥ずかしい。  
「あぅ…ぅ、んっ…」  
「感じているんなら、もっと声を出せ」  
「ぅっくぅ…それは…」  
弱々しくかぶりを振りながらも、次第に追い上げられていく羞恥以上に快感が増していく。これまで  
の接触で確信していることを一つ挙げるとすれば、この男の前でなら、女になってもいい。今までに  
なかった感情がこれほどはっきりとした形を成していることに、躯自身も驚いている。  
これほどまでに、自分が女であることを自覚せしめる相手が現れるなど。  
強い酒が、皮膚からゆっくりと浸透していくのが分かった。  
巧みに肌の上を滑る舌は緩急をつけながら愛撫を深めていく。時折軽く歯も立てながら舐め尽くす  
技巧など、今まで知らなかったことだった。  
「ん、ふぁあ…!」  
脱ぎ捨てた衣服を噛みながら必死で声を殺す躯に構わず、的確に追い上げていく飛影にはどこか  
余裕があった。一度征服しているという自負からだろうか。だからといってそれで慢心するような男  
なら、最初から引き合ってはいない。  
昼間は昼間。夜は夜と線引きが出来る男だからこそ、闇の中で愉しめるというものなのだ。  
「うぁんっ…」  
ひくりと、肌が跳ねた。  
こんな暗がりの中でも、熟れて紅潮した乳房が快楽で揺れるのが分かる。  
「躯」  
「…ぅん…ん…」  
もう、正気を保っているのが難しくなってきていた。なのに、残酷に快楽を貪る男はグラスを傾け続  
けて酒で滑らかな肌を濡らしている。  
 
たらり、とまだ触れられてもいない股間に酒が垂れ落ちていった。  
冷たさと不思議な熱さに蕩けかけていた意識が一時的に覚醒する。  
「あぁ…やめ、やめろぉ…」  
「我慢しろ、良くなる為だ」  
もう力の入らなくなっている膝が開かれて、すっかり濡れているのが自分でも分かる陰部があらわ  
にされていく。更に酒を垂らされては、もう堪らない。  
「…ダメだ…」  
これ以上卑猥な声を出せない。そう思って声を噛み殺そうとしても、湧き上がる快感がそれを邪魔  
する。敏感になっている部分が酒を追って這いずってきた舌に舐め上げられて、一層零れる声が甘  
くなった。  
「うぁあ…」  
「そうだ、もっと、もっと声を出せ。乱れろ。女はそういうものだろう」  
「…飛影」  
「昼間の殻など、今は不要だ」  
「……ぅ…ぅあ…」  
胸の奥でずっと滞っていた塊が、不意に溶けた気がした。これまでずっと女そのものを望まれ、求  
められたことはあっても、それは躯そのものではなかった。言葉を変えれば、躯でなくとも女であれ  
ば誰でもいい程度の安っぽい欲望だった。  
なのに、この男は執拗に躯そのものを望み、追いかけてくる。  
ならば、覚悟は出来ていた。  
 
酒のせいなのか、体がひどく熱い。  
蕩けて柔らかくなっているだろう部分も、どうしようもなく熱い。もどかしく乳房を揉みながらも、躯は  
浅ましい声を上げて快感に浸っていた。  
「…そろそろいくぞ」  
やはり淫欲に支配されているのか、飛影の声音もどこか卑猥だった。それもまた感じてしまい、気  
も狂わんばかりに声を上げた。  
「うぅっ…早く、早く来い…!」  
汗と唾液でくしゃくしゃになった衣服をぎりっと噛みながら、精一杯誘うことだけしかもう出来なくなっ  
ていた。理屈などもういい。今はただこの男だけが欲しい。  
 
「躯」  
「…飛影」  
濡れきったそこに、限界まで怒張しているだろう肉棒の感触があった。触れているだけで疼いて止  
まらない。  
「…はやく」  
もう、それが浅ましいとは思えなくなっていた。本能から望むことなら、それはきっと躯にとって本当  
に必要なことなのだろう。  
ずぶ、と肉の擦れ合う鈍い音と共に堅く張り詰めた肉が内部を犯してきた。その凄まじい刺激に、  
今度こそ堪えていた声は枷を解き放つ。  
「…ぅあぁああっ…!」  
一気に女が目覚めた。それまでのどこか冷めた目をした女はもうどこにもいない。今ここにいるのは  
ごく当たり前に快感に浸りきる満たされた一人の女だけだった。  
「…飛影、もっと、好きにしていい…」  
「するさ、貴様になら幾らでもくれてやろう」  
「ん…」  
真摯さを表すように強く抱き締められるなり、更に激しく奥まで突き上げられた。つられて意識が弾  
け飛ぶ。  
「ああうっ!いい、もっと、もっと突いてくれっ…」  
「…そうだ、そんな風に乱れろ。それが貴様の本質に他ならない。ずっと隠していた貴様自身を解き  
放てばいい。貴様も、そうなりたかっただろう」  
「ん、うん、ぅんっ…飛影っ…」  
もう、何もかも分からなくなりそうだった。それなのに不思議と心は満たされていた。それまでになか  
ったことばかりで、躯自身も戸惑いながら極限の果てまで追い詰められていく。  
快感の果てに、突然ぷつりと全てが途切れた。  
 
夜が明けようとしていた。  
情事が終わって男が消えているのは珍しいことではない。  
だが飛影は当たり前のように隣で寝こけていた。  
何故か笑えてくる。この男は一度きり、これきりで終わらせる気などないのだ。  
「たとえ遅かろうが、お前と出会えて良かった」  
ようやく辿り着いた幸せに頬を染めながら、微笑む躯の表情はひどく穏やかだった。まるで慈母のよ  
うに。  
 
 
 
終  
 

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