最近、連日のように最高気温が更新されている。  
熱中症で何人も倒れたというニュースが当たり前のように流れる時期だ。暑いだけで体力を消耗す  
るのだから家族の健康を預かる主婦としては気を遣うところだ。  
「んー…今日の夜は時間があるから私が作ろうっと。いつも頼ってちゃ悪いもんね」  
油揚げとネギの味噌汁が出来上がり、そろそろぐっすり寝入っている幽助を起こそうとガスレンジの  
火を止めた螢子は、キッチンの脇に掛けられた鏡を少し眺めてにっこりと笑った。  
今のところ、二人の生活は順調そのものだ。  
ただ、螢子が何かと忙しいのは変わりがない。  
 
今年の春に大学の教職課程を何とか終え、1種普免は取得したもののそれだけでは教師にはなれ  
ない。まだ専修免許を取得する為に大学院で一定以上の単位を修得しなければならないのだ。卒  
業するまではまだまだ憶えなければいけないことが山ほどあって、本当に大変だけれど、それでも  
今は毎日が充実していた。  
それに、螢子には小学校の教員になるという夢がある。  
小学校の教員になるのは、中学や高等学校の教師になるよりもたくさんの単位修得が必要になる  
が、それでも絶対にこの夢だけは譲れなかった。  
ほんの三年ほどだったが、ゆとり教育の悪影響ですっかり子供たちの教育レベルが下がってしまっ  
ている。何が何でも勉強、と締めつける気はないが、ある程度はしっかり学力をつけて自分からどん  
どん学んでいける意欲も必要なことだ。それが結局は政治の面でもメチャクチャになっているこの国  
の為になること。そう螢子は信じていた。  
 
「幽助、もう起きて。私、今日も早いんだからね」  
「あー…んー」  
ここ数日は朝からやたらと蒸し暑い。そんな中でよくだらだらと寝ていられるものだと思うほど、幽助  
は見事なほど寝汚かった。寝汗だってかいているだろう。  
「もう、寝ぼけるのもいい加減にして。今年は特に暑いんだからね、ぼーっとしている間にバテても  
知らないから」  
 
ベッドに乗り上がって布団を引っぺがし、つい拗ねたような口調になると、仕方ないように幽助は目  
を開いた。  
「あー…おはよ」  
「おはよじゃないって、もう。今何時だと思ってんの。七時半よ」  
「んー…そっか」  
「時は金なり。規則正しい生活がうちの基本よ。さ、起きた起きた」  
「けーこぉ…」  
幽助はまだ寝惚けているのか、蛭のようにべったりと纏わりついて離れない。だが、時間を無駄に  
するのは何よりも嫌いな螢子だ。寝惚けたわがままな子供には容赦なくかかと落としを食らわせて  
やった。  
「いって…」  
「はい、おはよう♪」  
技が見事に決まって、今朝も何とか螢子が一勝したようだった。  
 
「んー、美味いなあ。やっぱお前の味噌汁は最高だぜ」  
まだ痛むのか後頭部をさすりながらも、幽助はがつがつと朝食を貪っていた。特別贅沢なものは  
何も用意していない。若くてまだ経済的には余裕のない二人のことだ。せいぜい鮭を焼いて卵焼き  
を作り、キュウリの浅漬けと納豆と味噌汁に白い御飯という、ごく普通のメニューだ。だが褒められ  
て悪い気はしない。  
「そうかな。別に特別なことはしてないけど」  
「いや、結構シンプルなメニューほど作り手の実力って出るんだよな」  
「ふーん…そんなもんかな」  
あからさまに褒められて、何となく頬がむずむずする。けれど幽助がお世辞など言える筈もないこ  
とは螢子が一番良く知っていた。こういう時にやっぱり食堂の娘で良かったと心から思えた。基本的  
な料理の基礎はしっかりと両親から教えて貰ったからだ。何も知らずに成長して、大人になってから  
料理学校へ行くよりもよほど有意義なものをそこからたくさん得たと確信していた。  
「美味かったー、ご馳走様」  
「はい、お粗末様。じゃあ片付けよっか」  
今日もまた一段と暑くなりそうな予感がした。キッチンの窓から差し込む光は真夏そのもののように  
やたらと眩しい。  
とりあえず具合が悪くなったりしないように水分だけは欠かさないようにしないと、と思った。  
 
やはり、今日はとても暑かった。  
黙っているだけでも汗をかきそうなぎらぎらの午後の日差しの中、螢子は今日の授業を終えて少し  
だけ足を伸ばしてみた。この季節は必然的に幽助の屋台は飲み屋のようになっている。常連もいる  
ので何とか回ってはいるようなのが幸いだ。  
近くのコンビニでアイスを二つ買い、ちょっとした陣中見舞いと洒落込みたかったのだ。  
 
「幽助」  
競馬予想で常連客と盛り上がっている幽助は、螢子に気がつかなかった。ぽんと肩を叩いてやると  
弾かれたように振り返って、次に子供のような笑みを見せる。  
「お、何だ。今日は早いんだな」  
「うん…たまにはね。これ食べて、暑いでしょ」  
手に提げていたビニール袋の中のアイスを差し出すと、更に子供のようになった。全くいつまでも無  
邪気なものだと何だか嬉しくなる。  
「螢子ちゃん、俺らのはないのかい?」  
まだ中学生同士のような微笑ましい二人に、常連客たちはまるで父親のように軽くからかいの言葉  
をかけた。  
「ざーんねん、おじさんたちはもっといいもの持ってるじゃない。ね、幽助♪」  
「ああ、そうだな。じゃあ俺らだけアイスってのも何だから、特別に一杯ずつ奢っちゃおうかな」  
「お、いいのかい。さすがは幽ちゃんだねえ。嫁さん貰ってから気前が良くなってさあ」  
そんな、常連客たちとの気取らない遣り取りを眺めているのも結構楽しいと思った。時々ならここに  
手伝いに来てもいいかも知れない。そうしたら普段なかなか側にいられない幽助とその時だけは一  
緒にいられるのだから。  
まさか、もう突然いなくなることはないと思うけれど、不安に思っているのは間違いないのだ。新婚  
の大義名分がある今のうちに、もっと側にいて色々と話をしたい。不安に思っていることを綺麗に一  
掃しておきたかった。  
「うめ、やっぱ夏はアイスだよなー」  
ただ、今のところは無邪気に冷たいアイスを頬張って喜んでいる幽助を見ているだけでいい。螢子  
の望んでいるものは他の女性に比べれば遥かにささやかで堅実なものだった。  
 
夏だからといって、冷たいものやさっぱりしたものばかり食べていたら体が参ってしまう。それも食  
堂の娘だからこそ実体験していることだった。夏真っ盛りになればなるほど客の要求はスタミナの  
つく焼肉定食やニラレバ定食のようなものに移っていた。その点からすれば、土用の丑の日にしっ  
かりとうなぎを食べるのも意味があることなのだろう。  
「そうだよね。夏だからって素麺ばかり食べてたら簡単に夏バテしちゃいそう」  
帰宅して簡単にシャワーを浴びて汗を流してから、早速今夜の夕食を作る為にキッチンに立った。  
買い置きの野菜はたくさん冷蔵庫に入っているので、傷まないうちに使いきってしまおう。それには  
カレーよりもミネストローネの方がいいかも知れない。ベーコンもまだ残っていたことだし。  
あまり行儀の良いことではないかも知れないけれど、余ったらカレーのように御飯にかけて食べる  
ことも出来る。  
よし、決まりだ。  
他に何品か副菜を作れば、一日暑い中で過ごしていた幽助も満足出来るメニューになる筈だ。それ  
を考えながらも早速螢子の手は冷蔵庫の扉を開けていた。  
 
幽助が帰宅したのは午後九時過ぎだった。本当なら飲み屋である以上、もっと時間は延長出来る  
のだろうが、やはり普段から一緒にいる時が少ないのを幽助も気にしているようだ。何だか気を遣  
わせているようで、ちょっとだけ心が痛い。  
だが、元気な声がそんな気分を吹き飛ばしてしまう。  
「あー、暑かったなー、ただいまっ」  
「あ、幽助、お帰りなさい!」  
ミネストローネはもう出来上がっている。サラダ代わりのホタテとアスパラのパスタも、鶏肉のスパイ  
ス炒め煮も、デザートのバジルココナツも今出来たところだった。ずかずかとキッチンに入ってきた幽  
助は、ずらりと並んだ御馳走に今にも涎を垂らして食らいつきそうだった。  
「お、美味そー、もう腹減ってさー」  
「じゃあ早速食べようか。あ、手はちゃんと洗ってね」  
「へいへい、奥様」  
「もう、幽助ったら…」  
心尽くしの夕食が並ぶキッチンで、螢子は何故か一人で顔を赤くしていた。  
 
「美味かった、やっぱ螢子の作ったモンが一番だよな」  
「そんなことないよ、幽助だってすごいってば」  
夕食をすっかり食べ尽くして、シャワーも浴びて人心地ついた幽助は満足しきったようににこにこしな  
がらソファーを独占していた。そんなに喜んでくれたのなら作った甲斐がある。  
改めてしっかりとシャワーを浴び直して髪も洗った螢子は、ソファーの隣にちょんと座って横顔を眺め  
ていた。それだけで安心出来たのに。  
「何かさ、幸せってこういうのを言うんだろうな」  
突然、臆面もないことを口に出してきた。  
「えっ」  
「やっぱ螢子で良かったと思う」  
「バカ、何言うの…いきなり」  
「本当のことだしさ」  
その言葉に何となく違和感を感じたのは大当たりだったらしい。にたーっと笑いながら近付いてくる幽  
助は既にスケベオヤジ化している。がっちり抱き締められて、慌てて振りほどこうとしても既に遅かっ  
たようだ。  
「ちょっと…待って、私まだやることが…」  
「後でいいじゃん。せっかくいい気分でいるんだし、もっと仲良くなろっ」  
「あ、もう…幽助ったら…」  
しかも、仕方なくながらも応じようとした螢子に対してこんなことを言ってくる。  
「ねー、螢子ちゃん。アレ穿いてくれないかなあ」  
「あ、アレ…?あんなの嫌だったら」  
「えー、せっかく買ったのにぃ」  
子供のように口を尖らせてぶーぶーと文句を言う幽助を持て余して、結局螢子は言うことを聞くしか  
なくなっていた。  
アレ、というのは以前幽助が勝手にネット通販で買った女性用のタンガのことだった。いつもはごく  
普通の下着を身につけている螢子にとって、かなり大胆なデザインの黒いタンガは許容範囲を軽く  
超えている。だが、渋々寝室でそれまで穿いていたショーツと穿き替えることになってしまった。上  
も全部脱いでと言われたので、死ぬような思いで何とかその通りにして居間へと戻った。  
「…穿いたけど…」  
「おっ、いいねー」  
散々無茶な要求をする、スケベオヤジは絶好調だった。  
 
「…もう、いいでしょ。私、恥ずかしいんだからね…」  
真っ赤な顔をしながら何とか絡みついてくる手から逃れようとするも、やはり無駄なようだった。タン  
ガ一枚だけしか身につけていない姿は予想外にそそるものだったらしい。  
「すっげいい!!」  
もう欲情しているのか、充血しきった目をしてがばっと抱きつき、ソファーに押し倒してくる幽助をもう  
振り払うことは出来なくなっていた。タンガのせいだろうか、そんなに満足して、喜んでいるのなら構  
わないかも。そんな気分になっていたのだ。  
 
「あ、んっ…」  
恥ずかしさか興奮か、ほんのりと染まった乳房を両手で捏ね回しながらも幽助の頭はタンガに包ま  
れた股間に埋まっていた。薄い布一枚越しに濡れそぼるほど感じている部分を執拗に舌先で舐め  
上げながら、苦しくなるほど性感を高めてくる。  
「ダメ、そんなこと、ダメだったらっ…」  
揉まれている乳房が手の中で弾力を持って揺れていた。いつもなら、こんなに直接的なことはいき  
なりしないのに、どうして。と思い至ってようやくタンガの効果なのだと気付いた。全く、こんなもの  
一枚のせいで今夜はお互いにどこかおかしくなっている。  
「もう嫌、ダメぇぇっ…」  
ひくっと肌が震えた。いつも以上に早く絶頂が来そうになっている。  
「ね、ねえぇ…幽助ぇ…」  
とうに声は上擦って、呂律が回らなくなっている。切ない螢子の要求を嬉しそうに聞いていた幽助  
は、ふっと顔を上げると強引にタンガを脱がしてしまった。突然のことで、頭がついていかずに体が  
動かなくなってしまう。  
「あっ…」  
「そろそろやろっか」  
「やだっ…」  
拒むのも言葉だけ、そう解釈したのか幽助は着ていたパジャマをずり下げて限界まで硬く張り詰め  
ているものを取り出した。そして力を失った螢子の足を大きく開いてやわらかく蕩けきった部分にあ  
てがう。  
「…いや、アレつけて…お願いだからぁ…」  
「ダーメ」  
 
いつもならきっちり約束を守らせているのに、今夜はひどく強引に幽助が何もつけないまま内部へ  
と入り込んできた。すっかり濡れているのに乗じて、一気に奥までを犯していく。堪らずにあられも  
ない声が上がった。  
「あ、あ、あぁんっ…幽助のバカぁっ…」  
「いい、すっげーいい、最高!」  
後はもう、意味を成さない声だけがただ居間に満ちるばかりだった。獣に立ち返った二人はこのま  
ま頂点までも昇りつめるしかなかった。  
 
「…もう、バカぁ」  
床に座り込んで、恨みがましく螢子は情けない声を漏らした。  
結局、あれから中に出されるのだけは必死で阻止した。  
そんなことをされて、もしも望まない時期に子供が出来たりしたら最悪だ。これからまだ色々と大変  
なことが続くのだから、正直言ってそれどころではないのだ。基本的には子供好きの螢子も、あと  
数年は自分の子供を持つつもりはなかった。  
それで幽助が寂しい思いをしたとしても。  
「ごめんってば」  
「もう、いいって…今度何もつけないでしたら離婚だからね」  
「うん、分かったって…」  
事が終わった後、幽助は随分としおらしい。ずっとゴム着用をうるさいほど言ってきたのに、あっさり  
約束を破ったことに対して少しは気が咎めているのだろう。だが、もう過ぎたことをいつまで言っても  
仕方がない。  
「…明日」  
「ん?」  
「お味噌汁の具、何がいい?」  
これから眠って、起きたらまた新しい一日が始まる。その時にまでもやもやした気分を引き摺っては  
いたくなかったのだ。  
「そうだなあ…じゃあ」  
ジャガイモがいい、いやワカメがとごちゃごちゃ言う幽助の横顔はいつもの子供のように無邪気な表  
情に戻っていた。これでいい。自分たちにはこれで全て解決したことなのだ。  
何となくほっとして、螢子はようやく心からの笑みを浮かべた。  
 
 
 
終わり  
 

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