蔵馬が言うところによると、人間界では稀に見る洪水被害が相次いでいるらしい。
それについては根本的な気候がおかしくなっているとか、地球規模でどうとか、何やら難しいことを言
っていたような気もする。もちろん自分が住んでいる世界以外のことは雛には想像も出来ない。
それに、今の気がかりは大事な女主人の躯のことだけだ。
躯は三日前から体調に異変が生じたので、寝間に篭ったきりだ。
もう、いつ生まれてもおかしくないほど腹はせり出ていたのだが、どうやら陣痛が始まったのが今朝
方のことだ。
魔界では珍しいことに、飛影も世話の為に仕事を休んで一緒にいる。お陰で出産経験のない雛があ
れこれと思い煩って手伝う必要などないぐらいなのが、何となく不甲斐ない気分だ。
「敵わないなあ、飛影様には…」
飛影がいるなら、食事の世話ぐらいしか今の雛にはすることがない。寝間からは時折低く唸るような
声が漏れ出てきている。その声音からするに、まだ陣痛も差し迫ったものではないようだ。
元々、魔界の女は誰の手も煩わすことなく自分ひとりだけで子を生むのが普通だ。雛の母親もそうだ
った。だから雛にとっては出産とは神秘というよりもリアルな恐怖に近いものがある。陣痛で苦しむ余
り鬼神のような形相と成り果て悶絶して叫び狂い、股から血と胎盤を垂れ流し、子を引き摺り出す行
為をいつか自分もするのかと思うだけで気が遠くなって倒れそうだ。
もちろん、これまで何人も弟や妹が生まれるのを見てきたから、お湯を沸かしたり新しい肌着を用意す
るなど簡単な手伝いぐらいは出来た。だが、産褥の場にだけはどうしても立ち入れずにいた。
「躯様、大丈夫かなあ」
屋敷にいてもすることは特にない。
何となく気分が晴れないまま、雛は晴れ渡る空の下で薔薇の咲き具合を眺めながらも薄紅色の日傘
をくるくるっと回していた。
薔薇は大好きだし、育てるのも楽しいけれど、今日はやや沈んだ気分なのが申し訳なかった。市場
に買い物に行く以外は、みだりに外出するのは危険らしいし、だとしたら適当に散歩するのはここしか
ないのがもどかしい。
「そろそろのようですね」
そんなタイミングを見透かしたように、背後から声をかけてきたのはもちろん蔵馬だった。ここ数日は
毎日のように訪問してくれる。やはり躯のことが気になるのだろう。
「ええ、そうですね。躯様はきっと苦しんでいられるのに、何もお手伝い出来ないのが悔しいです」
今日の日差しはとても強い。夏の炎天下はきっと人間界でも同じなのだろう。愛らしい日傘を手持ち
不沙汰にくるくる回しながら、言っても仕方のない愚痴をつい吐いてしまう。
「飛影がついているんでしょう?だったら大丈夫ですよ」
「あのお二人のお子様なら、きっと可愛いでしょうね」
「それは俺も楽しみにしているんです。躯は昔、それはそれは可愛いかったですから」
「母子共に無事でいて欲しいですね」
さすがに外にいるのは暑くなってきていた。額には汗が滲み出してきている。そこでようやく我に返っ
た。顔見知りとはいえ主人の客だというのに、ぼんやりと会話を続けていたのがひどく気恥ずかしい。
すっかり慌てて頭を下げる。
「あ、蔵馬様、こんなところで失礼しました。何か冷たいものでもお出ししますから屋敷へどうぞ」
「…俺はただ躯の様子を知りたかっただけです。お気遣いなく」
「いえ、こんなに暑い日に外にいたら倒れちゃいますよ。どうぞ中へ」
この暑さでは、体中のなけなしの水分が一瞬にして蒸発する勢いだ。このまま帰してしまうことなんて
出来な
い。そんな必死な雛の様子に、蔵馬は苦笑しながら後をついてきた。
「そうですか、では少しだけ」
炎天下の下で唯一元気なのは木々と薔薇ぐらいのものだ。
「…飛影」
熱気の篭った暗い寝間の中では、それまで経験のなかった陣痛に悶え苦しむ躯が寝台に転がってい
た。女ならばいずれ通る道とはいえ、憶えのない苦痛にひたすら恐怖と不安だけが際限なく突き上げ
てくる。その手を飛影は黙って握り続けていた。
「う、もう嫌だ、嫌だあっ…うああっ…」
陣痛の間隔が少しずつ短くなってきているのが自分でも分かった。痛みが和らぐ間は何とか理性を保
てていられるのに、一度ぶり返すと獣に戻ったかのように暴れるしか出来ない。これまで築いてきたも
のも、自分そのものも全て跡形もなく砕けてしまいそうで怖かった。
「落ち着け、大丈夫だ」
飛影は騒ぎもしなかった。ただ時々声をかけてくるだけだ。
それだけでも、誰も側にいないよりは遥かに心強い。
「躯」
「ん…な、んだ…」
また痛みが襲いかかろうとしてきていた。逃れようとするように必死で頭を振る躯の耳に、相変わらず
硬いがこの場では一番有難い言葉が流し込まれてくる。一瞬にして、緊張しきっていた気持ちが弛緩
するほどの威力だった。
「もっと俺を頼れ」
「ひ、影…」
「いいな、躯」
波のような陣痛はすぐに最大値にまで達していた。このまま腹から裂けて命までも奪われそうな、それ
ほどの激しい痛みだった。これまで経験してきたどんなものもいっそ生温いと思える凄まじい激痛は、
すなわち女である自分そのものの存在に直結しているからだろう。女として生まれ、何があっても生き
続けて鉄のような意思を確立した。
そして今は次の世代を生み出すべくこれまでの生で一番の格闘をしている。
女とは、誰しもそんな運命を背負っているのだ。こうして分身ともいえる存在を生み出す為に死に物狂
いになるのだ。
無事に生み出したいと願うのは、本能からの素直な欲求。
そう認識した途端に、ずっと隠していたものが殻をあっさりと破ってしまう。みっともないく、浅ましく、弱
い只の小娘同然な躯がそこにいて、ひたすら泣きじゃくりながら手を握る男に縋りついて震える。
「飛影…側にいてくれ、もっと…怖いんだ…」
「いてやるさ、躯」
「俺は、どうにかなってしまう…」
「そうはさせない」
やわな小娘に戻った躯は、頼れと言われた通りに不安を吐露し、はらはらと泣き続けた。恐怖も不安
も相変わらず続いている。だが、この男が側にいてくれるなら少しは気分が軽くなるような、そんな気
がしていた。
「雛」
寝間の扉を開いた飛影は、居間で待機していた雛を呼んだ。
何事かと一瞬緊張した雛だったが、どうやら悪い知らせではない。蔵馬は今さっき帰ったところで実は
ちょっと寂しかったから、用事があるならどんなことでもやりたかった。
「何でしょうか、飛影様」
「出産がそろそろ近い。湯を出来るだけ沸かして盥に張っておけ。それが終わったら何か消化のいい
ものを少し頼む」
ああ、もう生まれてくるのだ。
待ち続けたものがようやく訪れる喜び、そして満足感が雛の心を満たしていた。
「はい!すぐに御用意を致します」
早速、昨日から何度も井戸で汲み上げて溜めていた水を厨房で沸かし始める。こんな時は手伝いの
経験があることが有難かった。赤子の産湯、そして母親の体を拭き清めて血で汚れた肌着を洗う為に
もお湯はたくさん必要になるのだ。大変だけれど、むしろこれは嬉しい苦労だろう。あの美しく、常に理
知的で優しく、女性としても申し分ない理想の存在である躯がもうすぐ母親になる。
その瞬間に立ち会えるのは、この上なく素晴らしいことに思えた。
「躯様、どうか御無事で」
心配で気が逸る、その反面わくわくする。
大きな盥を奥から引き摺り出してきてお湯が沸き次第注ぎ込みながら、雛は美しい主人とその子のこ
とばかりを考えていた。どうかこれからはずっと幸せに、楽しいことばかりでありますように。そして普
通に母親としての生を満喫出来ますように。
祈るような気持ちが、静かに胸の中を満たしていた。
低く呻くような寝間の声と入れ替わるように赤子のつんざくような泣き声が聞こえてきたのは、それか
らしばらくしてのことだった。
翌日、全てが落ち着いて早くも元の状態に戻りつつあった。
唯一変わったことといえば、雛に新しい主人が増えたことだけ。
まだ躯は寝間から出ては来ないし、雛も赤子の顔を見てはいない。まあ、それは特に焦ることではな
いと思っているから気楽なものだ。それよりもここ数ヶ月の心配の種が取り除かれたことが何よりも大
きい。
「雛、茶を淹れてくれ。躯が欲しがっている」
そしてやはり、産後の躯の世話は飛影が一手に請け負っていた。この頼もしい主人がいるお陰で、雛
が躯の出産という一大事に際してしてきたことといえば、ほんの瑣末なことばかりだ。もしかしたら出
産に関しての雛自身のトラウマを察知していたのかとも思ったのだが、さすがにそこまでは知り得る範
疇ではないだろう。口にしたこともないのだし。
「はい、只今」
いそいそとお茶を淹れながら、今回のことをゆっくりと思い出していた。
出産というリアルな恐怖。それはきっと命を賭けてこの人の子を生みたいと思ったその時に消え失せる
ものなのだろう。女とは、我が身に現実が降り掛かることでようやく他者の経験を実感する生き物なの
だから。
「躯様のお子様、早く見たいなあ。きっとすごく可愛いよね」
呟く雛の表情も、とても嬉しそうだった。
暗い寝間の中でも、新しい生はきらきらと輝いていた。
「…飛影」
ありったけの柔らかな布で包まれた赤子は、すやすやと安らかな眠りの中にいる。これから幸せなこと
ばかりが待っていることを知っているのだろうか。母となって寄り添う躯もまた幸せそうに微笑む。
二人の間に生まれた運命の子は、女だった。
「これは、夢ではないのだな。俺はちゃんとお前の子を生んだのだな…」
「当たり前だ、躯。良く頑張ったな」
ようやく全てが満たされたように、笑う顔は大層美しかった。
終わり