世界で一番悲しいことは横で寝る男と心が通わない事かもしれない。
寝乱れた髪をかき上げて、煙草に火をつけて、静流はそんなことを考えた。
同じシーツの中には抱かれたくて仕方なかった男がいるというのに。
初めて「元の彼」を見たのは森の中だった。
幻海が最後の挨拶にきた翌日。
螢子や温子とはなんだか一緒にいられず散歩していた時の事だ。
彼が立っている場所だけ違う世界のように感じられた。
無駄な色も、無駄な肉も、なにもなかった。
それが全てで、それで完成されていた。
だから、静流は惹かれた。
本当のことを言えば、それが彼だとはわからなかった。
普段の彼とは力も姿も話し方も声も違っていた。
「・・・静流」
少し驚いたように彼が名前を呼んだ。
低くて透き通るような声に、自分が腑抜けた顔をしているのを気づかされた。
「え・・・?あ・・・蔵馬君?」
そう答えた自分の声は酷く間抜けに聞こえた。
普段の彼「南野秀一」は人当たりが良く、温和で、賢そうな笑顔を浮かべながらブラックジョークを言うような男。
対して元の彼「妖狐蔵馬」は人を寄せ付けない雰囲気を持ち、冷徹で、人を弄んだかと思えば無邪気に笑う。
その存在自体が狡い、と思った。
今夜は月が出ている。
ぽっかりと夜が口をあけたようなまんまるな月が。
きっと彼はもう一度求めてくる。
自分は多分それに応じるだろう。
そしてさっきの考えなど無かった様に声を上げて乱れるのだろう。
吸い終わった煙草を灰皿に押し付け銀色の髪を撫でた。
今の自分は間違っている。
「秀一」としても「蔵馬」としても。
なぜ今、横に静流がいるのか。
なぜ自分は妖狐の姿なのか。
彼女の口から吐き出される煙を見つめながらそんなことを思った。
始まりは武術会の決勝戦前だった。
鈴木から貰った「前世の実」を試している時だ。
その時は何もなかった。
静流は「蔵馬」の姿に酷く驚いてはいたが
「ただの人じゃないとは思ってたけどねぇ・・・」
と苦笑していた。
危ないから、と彼女をホテルに帰して終わった。
一応「秘密ですよ」と付け足して。
一人身のほうが自由が利くから、と皿屋敷市内にマンションを借りてからだろうか。
静流は和真や幽助としばしばこのマンションを訪れるようになった。
ある日、彼女は一人でやってきた。
ワインの瓶を片手で掲げて
「飲もうよ」
と笑いながら。
それが最初。
武術会以来バイオリズムは狂ったままだった。
しかし、平穏すぎる日常の中では感情が高ぶることも無く「秀一」として過ごす事が出来た。
そのまま過ぎてくれればよかったのに。
グラスを傾けながら言った。
「ねぇ」
蛍光灯の明かりがワインを抜けて彼女の手に赤い輪を作った。
「もう一度見たいな」
グラスの中で葡萄色がゆるゆると回っている。
「昔の蔵馬君」
静流が悪戯っぽく微笑んだ。
「もう一度」
それが何度続いただろうか。
いつも彼女は巧妙に腕の中に滑り込む。
そう間違っている。
事後のけだるさを引きずりながら間抜けな月を見た。
それでも俺はもう一度、彼女を求めた。