夢を見ていた。
どんな夢だったか――目覚めたとき、躯はまるで覚えていなかった。
けれど、ひどい夢だったことだけは確かで、体中の細胞が熱を持ってざわめくような感覚が躯の神経に障った。
全身に汗が滲む。
「ああ、」
じりじりと焼かれるような熱に、眉を寄せて溜息を漏らす。
(・・・濡れてる・・・)
汗を吸ってまとわりつくシーツの中で、躯は身をよじった。
生殺しだ――と躯は思った。
いっそ殺してくれ、とどめを刺せ――夢の中でいいから。
「今日は君か」
蔵馬は生笑いを浮かべ、飛影は怪訝そうにそれを見た。
「今日は?どういう意味だ」
「この部屋は千客万来でね。いろんな人が、俺を尋ねてくるんですよ。だから、今日は君か、と」
言葉はあくまでも穏やかだが、少しの毒を含んでいる。
毒を隠さないことは、蔵馬の飛影に対する気安さの表れでもあるのだが、年若い妖怪は興味なさそうにフンと鼻を鳴らした。
「最近、躯がおかしい」
「・・・そうですか」
脈絡などお構いなしに自分の用件を言う飛影の話し方には、すでに慣れっこにはなっていたが、蔵馬は、話題が躯であることに厄介ごとの臭いを嗅ぎ取った。
「おかしい・・・というと、具体的には?」
「挙動が」
そう言っただけで、飛影は黙った。
「もう少し話してくれないと、俺にも何も分かりませんよ。どんなことをしたとき、躯が変だと思いました?」
「落ち着いていると思ったら急に笑ったり、沈み込んだり、いらいらして、何かに当たり散らす。それと、話すとき、視線が泳ぐ」
「ふうん?」
「体は一応こっちに向けてるが、人の目を見ない」
では、今までは目を見て話していたわけだ、と蔵馬は思った。
しかも、目をそらしつつ、話はするし体は飛影を向いているのなら・・・
やれやれ本当の痴話喧嘩か。
「それで、何か被害にはあいましたか?」
「いきなりぶん殴られて、放り投げられた」
蔵馬は呆れたように頭を掻いた。
「いきなり、・・・ってことはないでしょう。何かその前にありませんでしたか。何か、躯を怒らせるような。」
飛影はわずかに顔をしかめて、殴られた直前のことを考えた。
「あのとき」
思い浮かべた躯は、あのとき、ほんの一瞬自分を見て、すぐ目をそらした。
「あのときは、目が――」
「目が?」
「赤くて・・・」
潤んでいた。
泣きそうだったのかもしれない。
熱っぽい顔で、その目は自分を見た。
思わず近づいて見た唇は濡れて、浅い息が漏れていて。
「それで、汗が――」
「汗??」
躯の額からは汗が吹き出していて――躯には珍しいことだ。手合せをしたときも、流れるほど汗をかく躯を見たことはなく――汗に濡れた髪を掻き分けたとき、よく分からないがいい匂いがした。
「それで・・・」
掌が汗でじっとりと濡れる。
よく分からないが、思い出した躯の姿を、蔵馬に説明できないと思った。
否、説明はできる。
できるが、『できない』。
いくらでも詳細に思い出せるのに、思い出した躯は、蔵馬には聞かせてはならない気がした。
「熱でもあるのか、と。・・・だから、医者を呼んだほうがよくないかと、言った」
「ふうん。それから?」
「殴られた」
あっけに取られたように、蔵馬はぽかんと口を開けた。
「殴られたぁ?」
「ああ」
「本当に?」
あからさまに疑う蔵馬に、飛影は目付きを険しくした。
「本当のことだ」
「それは違うな。」
きっぱりと否定する様が、飛影にはひどく不愉快だった。
「本当だと言っただろう」
しかし、古狐は朗らかに微笑む。
「起きたことと、順番はあってる、と言いたいんでしょう?俺もそれは疑ってません。
でもね、躯がその程度で殴りかかるとは思えませんよ、聞いた限りではね。
・・・ああ、それと君を殴ってぶっ飛ばせるほど、躯が元気だったことも確かなようだ。
ということは、飛影がまだ喋っていないことの中に原因があるんです。分かりますか?」
その口ぶりは、どこか楽しげにすら聞こえる。
「何が言いたい」
「飛影、何か隠してませんか」
「もし、君が何も隠していなくて、躯との間にあったやりとりをろくに覚えていないために・・・
あるいは、覚えてはいるが、重要と思わずはしょったために、肝心な点を語ることができないなら。
また同じ失敗を、いつか必ずやらかします」
「逆に、ちゃんと覚えていて、なのに何故か俺に話さず隠していることがあるなら」
蔵馬は、ちらりと飛影を覘う。
飛影は俯き加減に目をそらし、蔵馬はそれに苦笑した。
「そんなんじゃ、俺にも助言のしようがない、とは思いませんか。」
黙って聞いていた飛影は、むっつりと唇を引き結んで蔵馬を見上げるようにした。
「・・・それで?」
蔵馬はにっこりと笑って見せた。
「つまり君は、自力でなんとかするほかない、ということです。ああ、躯からまた殴られるくらいのことは覚悟しておくといいですよ」
「貴様・・・!」
立ち上がった飛影は眉の辺りをひくつかせたが、結局、ふいと横を向いた。
「・・・帰る」
「それはいい考えだ。殴られに行くんですね?」
ちょっと振り向いてぎろりとした視線を寄越し、きびすを返してがらっと窓を開け、出て行った。
「まったく、飛影は」
蔵馬は溜息をついて立ち上がった。
開け放たれた窓からは夜風が吹き込む。
「躯は、窓を閉めて行きましたよ・・・」
見やった窓の外にはただ、いつもの景色だけがある。
「やれやれ・・・犬も食わない喧嘩を、狐が食うわけないだろうが。」
そして蔵馬はパシンと窓を閉めた。
「今、躯は?」
百足に戻った飛影は、真っ先に躯の居場所を聞いた。
とは言え百足の中で躯のいるところなど大体決まっている。
「躯様はお部屋です」
元筆頭は、下級戦士(コイツにも『元』を付けて呼ぶべきかもしれない)の返答を半分に聞いて、躯の自室に向かった。
「躯!」
部屋に入るなり叫んだ声に、“玉座”の上に寝そべっていた女は大儀そうに頭を上げる。
「・・・何だ」
ごく低く、ゆっくりとした声がそう答える。
飛影は、背筋に震えが走った。
聞こうと思っていた言葉が吹っ飛び、半端に開いた口から、何でもいい、何か搾り出そうとし――
「手合せを!!」
その瞬間、飛影は自分が口走った言葉に後悔した。
(俺は何を言っているんだ?!)
こんなことを言うつもりで、躯の前に来たのではない。
躯を問い詰めてやろうと、思って・・・。
ところが女は、一人勝手に混乱している飛影の気持ちはお構いなしで、――知っていたのなら、意地の悪いことに――「いいだろう」と答えた。
「・・・、え?」
目を見開いた少年を見て、女王は不審そうに眉を歪めた。
「手合せだろう?いいぞ、相手してやると言ったんだ」
「あ、いや・・・珍しいな」
「嫌なら・・・」
躯の目が、ぎらりとした光を放ち、飛影の背中をぞくっとした感覚が、また、走った。
「やる!」
くく、と喉の奥で笑って、女はクッションの上にくたりと頭を下ろした。
「・・・出て行け、欝陶しい」
「やると言っただろう?!」
「そうか」
ゆっくりと手を突いて上半身を起こした躯の動きに、スプリングが軋む。
「今、オレは機嫌がよくない。・・・それでもやるか?」
飛影は、躯を正面から見返した。
「やると言っただろう?」
飛影は気が付いた。
『機嫌がよくない』と躯は言っているが、それでも陰に入り込んでいるときほどではない。
「むしろ大歓迎だ・・・」
気の立っている躯と手合せが出来る。
ぞくぞくする感覚は、滅多にない機会に対する。
躯は、ふふんと鼻で笑ってソファから降りた。
「先に行って待ってろ」
闘技場へ入ってきた躯は、一言も発せず飛びかかってきた。
拳の雨を飛影はかろうじて防ぐが、攻撃は間断ない。
(く・・・、剣を抜く間も・・・!)
抜いて待ち構えていればいいものを、剣を抜かずにいた自分を自嘲する。
その瞬間、躯の右足が飛影の剣を蹴り飛ばした。
(読まれてるのか?)
飛影はバランスを崩して膝から落ち、躯は体をひねりながら向き直るように着地した。
振り向きざま、躯が回し蹴りをかけた。
(かわし切れない!)
身を捩った瞬間、耳を踵が掠めた。
躯が弾き飛ばした剣が、やっと鈍い音を立てて落ちる。
「どうした飛影」
飛影が見上げた躯は、不機嫌そうな様子をあらわにして立っていた。
「お前から望んだ手合せだろう?」
「・・・ああ!そうだとも」
彼の耳の端は切れ、血がしたたっていた。
拳を防いでいた腕にも血が滲んでいる。
対して、飛影を打った躯の拳は皮膚表面を妖力で覆っただけ。
その程度の防御でも優位に立てるのだと誇示するように、うっすら笑みを浮かべて躯は拳を構えた。
(悪趣味な野郎め・・・)
飛影は、躯を真正面から睨み付ける。
「お前を」
「?!」
耳元に女の声。
飛影は耳を疑った。
だが聞き間違いではなかった。
(いつの間に・・・!)
「・・・お前の体を切り刻んだら」
躯は、男の喉に手刀を当て、柔らかい唇を耳たぶに吸い付きそうにささやく。
「少しは、気が晴れるだろうか・・・?」
喉元に触れる爪の先、皮膚の内側ぎりぎりのところで渦巻く妖気は、獲物に飛び掛かる時を待っている。
飛影の首筋を汗の玉が落ちた。
躯は、そうしたいと思った瞬間、自分をミンチにできる。躯の歯が喉笛を食い千切り、血が噴き出す様を思い浮かべる。
「やりたいなら、やれ」
「・・・なんだと?」
飛影を突き飛ばし、躯は叫んだ。
「勝負を挑んでおいて、なぜかかって来ない?!力でねじ伏せようとしろ!あらがってみせろよ!」
立ち上がる隙も与えず蹴り転がし、
「できないのなら命乞いをしてみせたらどうだ!オレが、とどめを刺さないと高をくくってるのか?」
仰向けに転がった飛影の腹を踏み付けた。
「そんなんじゃない・・・」
飛影は血の滲む唇で呟く。
「じゃあなんだ!」
頭を蹴り跳ばし馬乗りになり、胸を掴んで床に叩きつけた。
「言ってみろ飛影」
目を向けた先で、わずかに歪んだ赤い唇から舌が覗く。
女の唇が自分の喉を離れたとき、躯は恍惚としてほとばしる血にまみれるのだろう。
それはひどく淫媚な姿に思え――見てみたい、と思った。
飛影は薄く笑った。
「俺は、貴様から逃げられないようだからな」
「!」
躯の顔がさっと紅潮した。
弾かれるように立ち上がって、躯は顔をそむけた。
「もういい・・・!」
そのまま走り去ろうとする躯に、飛影は呆然とした。
訳が分からない。
躯は何かを拒絶しようとしている、しかし何を。
納得できないのに行かせるものか・・・飛影は必死に体を起こした。
振り向いた躯の手を見て、飛影は血が凍った。
右手の上に膨れ上がっていく妖気。
それは揺らめく球体に可視化して、飛影に襲い掛かった。
とっさに張った障壁は霧散し、頭から球体に突っ込む。
「まずい、防御が!」
ところが。
「な・・・んだ・・・?」
飛影は、あっけに取られ、立ち尽くした。
「なんだ、この子供騙しは・・・!」
躯の妖気は、飛影をまるで傷付けることなく、障壁を破るだけで力を失ってしまったのだ。
気付くと、躯の姿は跡形もなくなっていた。
呼吸を抑えていた躯は、閉めたドアの内側で、荒い息をついていた。
必死に堪えていたものが、また湧き上がってくる。
(・・・おかしい、おかしい、おかしい・・・!)
ごくりと唾を飲み下すと、躯は着ていたものを脱ぎ捨てながら浴室に向かった。
(激しく動いたときには、たまにあるんだ、そうなることは・・・濡れてくる、ことは)
浴室の前で、最後の一枚に指をかけた躯はきつく目をつぶって、ゆっくりとそれを下ろした。
目をつぶったのは、見たくなかったからだだが、見るまでもなかった。
布一枚に堰止められていた液が、内腿をつっと伝い落ちてゆく感触に、眩暈がする。
躯は、いつもより重い下着を、見ることなく放り投げた。
(オレは、どうしてしまったんだ・・・?)
何もかも、洗い流してしまいたかった。
バスタブに立ってコックをひねり、ほとばしる熱いシャワーを浴びる。
シャワーの中で、欲情の証拠を洗い流そうと少し開いた脚の間へ指を滑らせる。
「ぁ・・・ん!」
思わず漏れた声を噛み殺し、ぬるぬるの襞を拭う。
「んっ・・・、んっ・・・っ!ん・・・っふ、・・・」
ぷっくりとふくれた粒を指がかすめるたび、脚が震えて力が抜ける。
「は・・・、はぁ、ぁふ・・・、んぁ・・・」
ぬぐってもぬぐっても、体液は溢れて止まらない。
「だ、だめ・・・ぁんんっ、・・・ふ・・・うぅっ、も・・・もう、」
脚が震え、躯はよろめいて膝を着いた。
もう、立っていられなかった。
茂みを越え襞の奥に指を突っ込んだ。
「んあぁ・・・!」
甘い痺れが、腹を抜け背中を駈け登る。
始めから、指一本では足りなかった。
二本の指で蜜壺をかき回すと茂みが掌とすれあって、ぐしゅ、ぐしゅ、と音を立てる。
「あぁ・・・、・・・んぁ、・・・あん・・・あ・・・はぁあ・・・!」
動くうち、指は腹側をすりあげて、ぬめるようだった感触がしだいにぴちゃぴちゃとしてきていた。
(違う、違う、ぅ・・・あ・・・!)
かくん、と脱力して腰を落とした躯は、崩れるようにバスタブの縁にもたれた。
「イケない・・・」
ぐったりと呟いたその理由を、躯は分かっていた。
疼いているのが、もっと奥だから。
指では足りないし、届かない。
もっと奥を、かき回されたい。突き上げられたい。
膣はまだ、刺激を欲してひくひくと蠢いていたけれども、蕩けて力の入らなくなった体は、身動きするのもままならない。
止まることなく降り注ぐシャワーを浴びながら、躯は、もう少ししたら立ち上がろう、と思っていた。
もう少しして、体の熱も疼きも引いたら・・・
しかし、肌に当たるシャワーがひどく心地よくて、すぐには立ち上がれそうにない気がした。
だから、あと少ししたら。
体が冷めたら・・・立ち上がって服を着て、何事もなかった顔をして、元に戻ればいい。
躯は、そうしなければならない、と思った。