「萩原子荻と言います。一応策師の様な真似をしています」  
 そう言ったのは何処の誰だったか。…まあ、名乗っているのだからその名には違い無いのだろう。事実かどうかは別として。  
 ぼくは目の前で微笑みを、否、冷笑を浮かべる少女を見やった。  
「思うんだけど」とぼくは試しに言ってみた。「自己紹介ってのは普通は五体満足な相手に向かってするものだよね。子荻ちゃん」  
「貴方にとって唯一誤算だったのは、この私の存在でした」  
 聞いてくれなかった。  
「貴方も知っているとは思いますが赤き征裁は身内に甘いのです」  
「…………」  
「問題はそこでした。貴方に一姫の奪還…この学園の状態を考えれば、奪還と言うに値するでしょう。それを命じたのは他ならぬ潤さんでした。だから貴方は、潤さんが一姫の味方であり、そして『私が敵だ』と思いこんでしまった」  
「…………」  
「しかしここで」子荻ちゃんはついっ、とタクトを振るように指を動かした。「こんな仮説は如何でしょう? 『赤き征裁が私にとっても身内だとしたら』」  
「…今ここで起こっていることは、家族の中での喧嘩みたいなものだ。故に哀川さんは関与しようとしない」  
 
「正解です」と子荻ちゃんはにこりと笑った。  
 まったく…ぼくはなんて図抜けた大馬鹿野郎だったのだろうか。追う者と追われる者が等しく共犯関係だったのならば。  
 その可能性を微塵も疑わなかったぼく。いつからぼくはあの人を、赤い人類最強を信頼してしまっていたのだろう? 信じるなんて、もう何年も前に捨てたはずだったのに。  
「とは言え、忠告はされました。貴方はすでにある方の所有物であると」  
 …それなりにフォローはしてくれている訳だ。あのずぼら姉さまも。  
「ですから、バレないようにやれと」  
 前言撤回。  
「忠告代わりに言っておくと、アイツにバレないなんて不可能だと思うけど」  
「私には貴方の言う『アイツ』が誰なのかは分かりません。どれ程の調査能力があるのかも分かりません。しかし…」  
 子荻ちゃんはそこで言うのを躊躇ったようだった。って言うかこの状況は何やら嫌な予感がする。やばい。そしてぼくの嫌な予感は外れた試しがない。  
「所有物の所有物になるのでしたら、問題は無いのではないでしょうか」  
「…持ち主を鎖で縛る持ち物なんて聞いたことがないけどね」  
 ぼくは乾いた喉を無理に動かして言葉を紡ぐ。  
 
「そうしなければ所有してくださらないでしょう?」  
「言っておくけどね、子荻ちゃん。ぼくは腕を鎖に繋がれ、足を床に固定された所でそう簡単に屈従したりしないんだよ。ましてや、『突然考えを改める』なんて事はあり得ないんだ」  
「でしたら、これから起こる事は単なる生理現象です。精神や、心などというものとはまったく関係がありません。…もちろん――所有や被所有などという事も――」  
 …詰まされた事に気づいた。成程。初めからこれが狙いか。どうやら子荻ちゃん、策師の名は伊達じゃないらしい。  
 だが、ぼくも黙って刃に穿たれる訳にはいかない。  
「ま、待ってよ子荻ちゃん。実はここだけの話、ぼくは先天性の凶悪な感染症のキャリアなんだ。ぼく自身がそれで死ぬのは構わないけど、他人までも巻き込むのはいささか心苦しい」  
「お得意の戯言ですか? それとも、本当の本当に事実なのかもしれませんね。けれど――」  
 子荻ちゃんの手が、ぼくの肩に手をかけた所で止まる。  
 そして。  
 
「――死ぬ程度の事、覚悟していないとお思いですか?」  
 
 ぼくは動けなかった。  
 そのまま子荻ちゃんは、唇を重ねた。粘液質な、それでいて控えめな子荻ちゃんらしいキスだった。  
 
 何分くらいそうしていただろうか。しばらくして、子荻ちゃんはぼくから一歩離れた。  
「…世の中の普通の女子高生は皆、こういった事をしているのでしょうか」  
「ぼくは知らないけど、している人もいるし、してない人もいるんじゃないかな。…どうして?」  
「…不思議な経験です」  
 子荻ちゃんはそう言って、年相応に微笑んだ。  
 …まあ、薄暗い教室の一つで、鎖に繋がれ、しかも女装した男とキスを交わすなんて、そんじょそこらのコメディ小説にだって存在しないような不思議な体験だろう。  
「分からない、という顔をしていますね」と子荻ちゃんは言った。「ですが私にとっては初めての経験なのです。貴方は、『持ち主』の方といつもしているのでしょうが」  
 …ぼくは一度もそんな事はした事が無かったのだが、否定するのも馬鹿らしかったのでやめておいた。  
「…もう一度口づけしてもよろしいですか?」  
「…好きにすればいいさ。獲物を自由にできるのがハンターの特権なんだから」  
「即物的なのですね…」  
 
 『それ』はこっちの台詞だろう? とは言えなかった。言う前に口を塞がれたから。  
 子荻ちゃんは、手をぼくの頬を包み込むように触れさせ、再度唇を合わせた。  
 二度目のキスは幾分粘度が増したようだった。  
 

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