「だいぶわかってきたわ、思春期真っ盛りな阿良々木くんの、…………そう、性癖が」
夕暮れの教室にふたりっきり。
自他共に認めている、恋人という特殊な関係の高校生が、誰もいないし邪魔しない、静かな教室でふたりっきり。
星空の下でキスはしたけど、それ以上は何もしてない、プラトニックなラブを邁進中のふたりだ。
それでも僕の心臓はこの、絵に描いたようなシチュエーションに、馬鹿みたいにドキドキと早鐘を打っている。
彼女のする一挙手一投足に、僕は息苦しささえ感じていた。
「ふ〜〜ん。もっとマニアックでロリコン趣味なのかと思ってたけど、こういうの好きなんだ、阿良々木くんは?」
床にきちんと正座している僕の前に、バサリと、彼女は熱心に目を通していた僕の秘蔵本を放る。
そこだけをこの本は、重点的に読まれているせいか、いつか狙わなくとも、そのページが開くようになっていた。
『眼鏡の委員長特集』
あの美しい吸血鬼と出会った運命の夜、僕が一生消えるわけもない、素晴らしい記憶を上書きしようと買った本。
思い出は変わらず色褪せてない。
プラトニックに文句があるわけではないが、僕だって健全な思春期真っ盛りな男子である。
生理現象はあるのだ。
一生かかっても返せない恩を受けており、そしてクラスメートでもあり、委員長の中の委員長でもある女子。
重ねるたびに罪悪感がないこともなかったが、夜のプライベートタイムでも頻繁にお世話になっている。
「…………」
ちなみに『ツンデレな彼女特集』というのも持っているのだが、残念ながら言い出す機会が見つけられていない。
一応、
持って来ようとはしたのだ。
たぶんだが、玄関に置き去りにされてると思う。
妹達はもう家に帰っている時間だ。
僕は家に帰りたくない。
今日はひさしぶりに蝸牛な小学生女子、親友の八九寺真宵に逢える気がした。
忘れちゃいけないと思う物は忘れ、持ってきちゃいけない物に限って、往々にして持ってきちゃうのはよくある。
動揺があった。
これがネタですと告白させられるのが、こんなに恥ずかしいとは思わなかったよ!
しかも、自分の彼女にだ。
ちょっとだけ死にたくなってくる…………。
民倉荘での会話。
恒例になった戦場ヶ原家での勉強会のひとコマが、おそらくこの話のプロローグになるのだろう。
「まあ、そうは言っても、やっぱり阿良々木くんだって、そういうこと、毎夜のようにしているのよねぇ…………」
携帯を切っての第一声がこれだった。
「そうは言ってものそうが何なのか、できれば教えてくれませんか、戦場ヶ原ひたぎさん」
「知りたい?」
「……ごめんなさい。やっぱりいいです」
僕の彼女である戦場ヶ原ひたぎが、突然脈絡もなく、そういうことを言うのは、これといってめずらしくもない。
ただ以前は完全な独り言だった呟きも、最近は僕を指定しての、会話のパスだったりしている。
かなりのキラーパスだが、感じるのを苦にしたことは一度もない。
もっともその意味までともなると、まだまだで、努力というものが必要とされてはいるが。
ゴールキックになるにがほとんどだ。ボールを拾いにいくのは僕である。
「相変わらずで勘が鈍いわね。年頃の男子が毎夜のようにしていることなんて、そうそう多くはないでしょ」
「受験勉強とかか? 僕はこの部屋を出た後には、まず教科書を開かないが、受験生だったら当たり前だものな」
「ヒント2 それは神原も毎夜しているわ。あの子は受験生じゃないし、教科書は置き勉しているわよ」
ぴっと立てた二本の長い綺麗な指が、僕の眼球に突き刺さりそうだった。
こいつに光を奪われかけたのは一度や二度ではない。さすがにその部位は再生しないだろうからやめてくれ。
「……う〜〜ん。なんだろうなぁ」
わからないふりはしてみるものの、神原が毎夜しているというのは、ほぼ答えと言ってもいいくらいのヒントだ。
シャーペンをくるくると廻している、戦場ヶ原の無表情で冷たい眼が、白を切る僕の肌を切り刻んでいる。
「わかった。神原が毎夜しているならジョギングとか?」
「ヒント3 それは普通、部屋で行うわ。ふむ。阿良々木くんは外でもするのかもしれないけど、一般的では――」
「僕だって部屋でするよ! そんなとこだけアグレッシブでオープンな人格してないから!」
「見せなさい」
「え?」
だからそういう趣味は、と言おうとはしたが、密かに心が躍ってしまったのも、また事実だった。
「神原みたいに次の日報告しろとは言わない。でも、阿良々木くんはどんな女性に、興味があるのかは知りたいわ」
「どんな女性って」
「ええ。わかっている。阿良々木くんがこの私の劣情を誘う身体に、夢中だっていうことくらいはわかっているわ」
身体に夢中って、お前絶対に触らせないじゃん!
と。
思ったが口にしたりはしなかった。
トラウマ。
精神的外傷障害。
乱用され過ぎのきらいがある言葉ではあるが、戦場ヶ原に用いるのなら、それはぬるく軽過ぎる言葉だろう。
いや、世の中には戦場ヶ原の体験や、僕の想像など及ばない、悲惨な過去や現在を持つ人はごまんといるはずだ。
しかし、それでも、
戦場ヶ原ひたぎという少女の、心が傷ついた事実だけは揺らがない。
その傷が癒えることは一生ないだろう。
戦場ヶ原が居て欲しいときに、必ずそばに居てやると、僕は彼女の父親と男と男の約束をしていた。
が。
だからといって、それで戦場ヶ原が心に負った傷が、たとえ僕が大きな愛で包み込んでも、消えるものではない。
愛がすべてを解決するような、そんな優しく甘ったるい世界で、僕らは生きてはいないのだ。
傷物の彼女。
その傷を癒して綺麗にしてやることは僕にはできない。僕にできるのはその傷を労わってやることくらいだ。
戦場ヶ原の傷口に無理やり突っ込んでまで、そういうことがしたいとは思っていない。
ただ彼女がその傷の痛みに、堪える覚悟ができるまで、僕はいつまでも待つし、いつまでだって待てるつもりだ。
十代で童貞を捨てるなんてのは、もう夢物語として諦めている。
吸血鬼としてはすでに童貞じゃないんだしな。そんな意図はなかったが美しい吸血鬼に捧げている。
…………
帰りにはファンデショコラを買ってやろう。
「阿良々木くんだってしているのでしょ? 神原が昨日もしたエロいこと。そしていま神原がしているエロいこと」
「いましている!?」
「さっきの電話は神原からよ。これから私としているところを、阿良々木くんに覗かれてるという設定でするって」
「せめて妄想の参加ぐらいさせろよ!」
可愛い後輩とは今度じっくりと、朝まででも話し合わなきゃいけないな。
と。
神原への教育について真剣に考えていたら、ぴっと、耳元を何かが通り過ぎ、一瞬遅れて頬が裂けたのを悟った。
鋭利な痛みはさらに一瞬遅れて、血と一緒に流れたが、驚愕と感心に支配されている僕にはどうでもいい。
振り返った視線の先には、三角定規が壁に突き刺さっていた。
「はい。部屋を汚されても困るから」
「ありがとう」
彼氏への優しさはどこかに置き去りにして、無表情でティッシュを渡す戦場ヶ原。
昨日、忍に血を与えたばかりなので、吸血鬼の回復力を発揮して、そっと押さえただけでも血は止まる。
「…………」
この世界にキャスティングボードを握っている、何者かがいるのなら、そいつは過去、確実に配役を間違えてた。
学園異能バトル。
怪異の能力に振り回されっぱなしだった僕よりも、戦場ヶ原ひたぎのほうが、間違いなくで適役だったろう。
あの地獄を戦場ヶ原に、肩代わりしてもらいたいとは思わないけど。
「そこでさっきの電話の内容、阿良々木くんの可愛い後輩から、ちょっとした疑問が出たのだけどね」
「ああ、たしかに神原は、僕とお前の可愛い後輩だな」
「男は妄想でしないそうだけど、では、阿良々木先輩はどんなものでしているのか、ジャンルが何か悩んでたわよ」
「……あいつはそれを知ってどうするんだよ」
「女のプライベートを知ろうとするなんて無粋だわ」
「僕のプライベートだ!」
「いいから教えなさい。阿良々木くんの薄味の脳は、恥は掻き捨てって言葉を知らないのかしら?」
「旅のが抜けてるよ! ご近所で恥なんか掻いたら親切に届けられちゃうだろ! お前とは明日も会うだろうが!」
「いいから見せなさい。阿良々木くんの夜毎に使用している、本なりビデオなりを持ってきなさい」
「いや、持ってきなさいって」
見せろってのはそういうことか。ほっとしたような、どこかこう残念なような。
「阿良々木くん、これはお願いじゃなくて命令だからね。絶対に明日、教科書を忘れても、学校に持ってきなさい」
――私のも持って来てあげるから。
その声はいつも通りに平坦で、その表情はいつも通りに無表情だったが、その言葉はものすごい破壊力だった。
「オッケイ! 明日、見せあいっこしようぜ!」
こうして夕暮れの教室で正座をしていると思う。あのときはかなりハイだったのだと。
椅子ではなく僕の机に座っている戦場ヶ原、脚を組み変えるたびに、ちらちらと白いものが覗いている。
床に座る僕の位置からはベストアングルになっていた。
この女がそれを計算に入れてないわけがない。
授業が終わってから、結界のように人気のない教室では、戦場ヶ原主催の、羞恥プレイパーティが開かれていた。
…………
恥ずかしいのは一方的に僕だけだが。
この女は僕にスカートの奥を見られるくらいでは羞恥心を感じない。…………ほんとうに感じないのか?
「戦場ヶ原」
「どうしたの、阿良々木くん? そんな納得いかねぇぜ、みたいな顔をして?」
「なんでこんな顔をしているかって? 納得いかねぇからに決まってんだろ?」
「あらあら、それはどうしてかしら?」
「お前は持ってきてねぇじゃん。……その、毎夜使っているとかいう、あの、……あれとかこれとかさ」
「持ってきてるわよ」
戦場ヶ原はまた脚を組み替えた。
中学時代は陸上部のエースだったという、すらりとした足の白い眩しさは、下着にも負けてない魅惑の色である。
肉付きはどちらかといえば、薄いほうなのだろうが、思春期特有の健康的な色気を発散していた。
「…………」
身体中の血液という血液が、ある一部分に急激に収束してきている。
前屈みになってきているのが見っともなかった。
戦場ヶ原のスカートの奥を、まるで覗こうとしているみたいな体勢になるのが、それに輪を掛けて見っともない。
「阿良々木くん」
「あん? 何だよ?」
それは自分の青さを誤魔化す為なのだが、つい、ぶっきらぼうな物言いになるのは仕方ないだろう。
この年頃は特に同年代の女の子に、無意味であっても見栄を張りたいものだ。
好きな子なら尚更である。
格好の悪いところは見せたくないし見られたくない。
「……私のはね、私の毎夜してるのはね、阿良々木くんよ、阿良々木くんだけ、……阿良々木くんだけよ」
「はい?」