「お兄さん、こんにちは」  
 ん? 僕は背後からの声に、無防備に振り返った。無防備に。  
 あれだけ命のやり取りを――主に僕の方がやってばかりだったけれど――  
化物相手にだったり、人外の人間相手にだったり繰り返したとは言え、僕は  
やはりメンタリティの部分で日常から抜け出す事はできなかったという、  
それはつまりそういう事だった。  
「……あ」  
 視界の中に、僕は彼の姿を捉えていく。男にしては長めの髪の中に、  
かわいらしい笑みを浮かべた童顔が見える。その顔は、妹とセットで一度  
だけ見た事があった。  
「君は、瑞鳥く」  
 言葉は途中で止まった。いや、止めざるをえなかった。  
 瑞鳥君――苗字は知っている。名前は知らない。ほかに知っている事と  
言えば、外見通りの大人しい少年であるという事と、うちの妹、上の妹である  
火燐の彼氏をやっているという事くらいだった。  
 僕にとって、彼の予備知識はその程度だったので、もしも今のこの状況を  
僕のせいだと責める人間がいたとしたら、是非抗弁させてもらいたい。  
 誰が、“妹の彼氏から喉元にナイフを突きつけられる事を想像する”だろうか?  
 日常からはずれ、怪異をいくつも相手にし、異常と呼べる状況をいくつも  
体験してきた僕であっても、相手が怪異ではない普通の人間となれば、それに  
対する想像力も日常の範囲内に収まってしまうのは、責められる所ではないだろう。  
 そんなわけで、僕は何故か妹の彼氏に生殺与奪の権利を握られ、冷や汗を  
垂らしながら彼の次の言葉を待っていた。  
「そうです。いつも火燐ちゃんにお世話になってます。お兄さん」  
 彼は、笑顔だった。可愛らしいと先に言ったけど、まさに紅顔の美少年と  
言った顔を笑みの形に歪め、彼は僕を見つめていた。  
 これで、まっすぐに突き出された右手に刃物が握られていなくて、その握られた  
刃物が僕の首を薄皮一枚食んでいなければ、彼の言葉は単なる彼女の兄への  
挨拶であると、そう受け取れただろう。  
「み、瑞鳥君」  
「なんですか、お兄さん」  
「君ってヤンデレ?」  
「……?」  
 瑞鳥君の笑顔が不意に消える。代わりに浮かんだのは「この人は何を  
言っているんだ?」という、言葉の意味自体が理解できない事を示す、  
当惑の表情だった。  
「知らない、ヤンデレ?」  
「……すいません、お兄さん。僕の知識の中には、その言葉は無いです」  
 心底すまなそうに言う間も、僕の首からナイフは外れる事は無い。  
 一体、彼はどういう人間なのだろうか。まあ、あの火燐の彼氏をやっている  
のだから、あまりまともな人間ではないとは思っていた。思っていたが――  
「は、話し合おう、瑞鳥君! 話せばわかる!」  
 ――いかに不死身……に限りなく近い、吸血鬼のなりそこないである  
僕とはいえ、切られれば痛い。血も出る。首をやられれば、ブシューと出る。  
思わず口から犬養毅の名言が飛び出るのもむべなるかな。  
「ブシュー」  
「……?」  
 白目を剥いて、実際にブシューといった所をシミュレートしてみたが、  
再び当惑の表情を見せるだけの瑞鳥君。それでもナイフは微動だにしない。  
まったく、見上げた根性だ。何とかギャグパートに持って行こうとする僕の  
努力をあざ笑うかのように、彼は真面目なリアクションを返し、そしてナイフを  
首から外したりする事は無い。  
 
「まずは、要件から聞こうか」  
 ギャグパートへの転換は諦め、僕はシリアスな空気のまま話を聞く事にした。  
 脳裏には何故か八九寺の顔が浮かぶ。ああ、あいつとだったら、シリアスに  
しようと思っても、何故かギャグになっているというのに……。  
「……変な人ですね、お兄さんは」  
「君にお兄さんと呼ばれる筋合いは無い!」  
「そうですか。では呼び方を変えましょう……アンちゃん」  
「心にダムとか無いから!」  
「兄いとか兄様とかでは?」  
「妹十二人もいないから!」  
「兄者」  
「兄弟合体技とか使えないから!」  
「兄上様、お元気ですかー」  
「何故一休さんなのか!」  
 何故だ。八九寺の顔を思い浮かべた途端、話がギャグ方面にシフトし始めた  
ような気がするぞ! 恐るべき八九寺パワー! でも笑みを浮かべたまま、  
棒読みで一休さんの主題歌調の替え歌を歌うのはやめてほしい。ちょっと怖い。  
「……やっぱり変な人だ」  
「変態ではないけどね!」  
「やっぱり変態な人だ」  
「言い直したっ!?」  
 むぅ……やはり、ナイフは微動だにしない。やっぱり瑞鳥君も何らかの格闘技か  
なんかをやって、身体を鍛えたりしてるんだろうなぁ。ギャグの空気にも、そこだけは  
シリアスなのは変わらず、僕は結局彼に話を聞く事にした。まあ、だいたいの  
用件は想像がついたりするんだけども。  
「用件ですけども……お兄さんのお考えの通りですよ」  
 やっぱりそうか。妹の彼氏である、という程度にしか接点が無い彼が、  
どうして僕にナイフを突きつける事になるのか。考えれば答えは一つしかない。  
「火燐を惑わす貴方には、死んでもらいます」  
「ふっ……僕が一体いつ火燐ちゃんを惑わしたというんだい瑞鳥君!  
 その証拠となるものは、一体どこに存在しているのかな!」  
「火燐が報告してくれました。そりゃもう嬉しそうに」  
「げふぅ!」  
 あいつ全部包み隠さず話しちゃったのか! そりゃ仲もこじれるよっ!  
慮りとか慎みとか、そういうの無いのかっ!?  
「つい最近は……その、自慰行為を強要したりもした、とか」  
 その言葉を口にする時だけ、瑞鳥君の頬に軽く朱が指した。  
 そういえば、彼氏とはプラトニックな関係を築いてる、とうちの妹たちは  
二人とも言ってたっけ。瑞鳥君も、外見相応に純情な男の子なんだろう。  
「そんな羨ましい事してたなんて、許せるわけないじゃないですか」  
 あれー? 何かおかしいよー?  
「火燐にそういうの教え込むのは、全部僕の役割なんですから……お兄さんが  
それを横取りしちゃうのは、僕としては許せません。絶対に許せません」  
 ……顔を真っ赤にしながら、なんだか変態チックな事を口走る瑞鳥君。  
その姿は歳相応で、僕にもしその気があればちょっと惚れてた可能性も  
あるくらいだったけれど、口にしている言葉は歳相応でも、常識相応でもなかった。  
「あれだけの無垢で、素質のある素材……もう二度と会えないです……  
 なのに、お兄さんは何も考えずに火燐にあれこれ教え込んで……『兄ちゃんに  
 歯磨きしてもらったら、すげー気持ち良かったんだぜ!』と満面の笑みで  
 報告された僕の気持ちが、貴方にわかりますか? 汚されてしまった……  
 これから順調に関係を発展させていって、その過程で僕の手で僕の色に  
 染め上げるつもりだった火燐は、貴方に汚されてしまったんです……」  
 ……なるほど、合点がいった。あの弩級のドMである火燐の彼氏は、  
弩級のドSだったというわけか。真っ赤な顔は、別に恥ずかしがっている  
わけではなく、ただ単に興奮しているだけという事だったようだ。  
 悲しげな言葉を口にしながらも、彼の顔からは笑みが途絶えない。はっきり  
言って、ちょっと怖い。身の危険というか、もっと本能的な部分での恐怖感が、  
僕の背筋を駆け上がっていく。  
 
「……あの、瑞鳥君?」  
「なんですか、お兄さん?」  
「話せばわかる」  
「僕はそうは思いません」  
「実は僕もそう思う」  
「奇遇ですね」  
「奇遇だな」  
「じゃあ死んでください」  
「そう言われてはい死にますって言うと思う?」  
「思いませんね」  
「思わないだろ?」  
「はい」  
 そこまで言って、僕等は互いに声を上げて笑った。  
『はっはっはっは』  
 それを合図にして僕は“全力で後ろに倒れた”。  
「……っ」  
 同時に瑞鳥君が振るったナイフは、狙いを違える事なく、僕の首の皮を  
持っていく。だが、それは首の皮だけだ。わずかに血が滲む程度にしか、  
僕の身体に傷は無い。この程度ならすぐに再生するし、再生しなくても  
問題なく自然治癒するレベルだ。僕は受身を取ってアスファルトの地面に  
身体を自らたたきつけるようになったダメージを減らすと共に、その勢いを  
利して後転し、そのまま立ち上がる。  
 が、すぐに瑞鳥君はその距離を詰めて来て、今度は突き入れるように  
ナイフを繰り出してくる。狙いは正確に肋骨の隙間につけられている。  
 格闘技をしてるとか、そういうレベルじゃない、それはまるで玄人かと  
見紛う程に洗練された、迷いのない動きだった。でも、洗練されている  
動きだからこそ、予想はできる。予想ができるなら、ある程度の回避は  
可能――僕の怪異との経験が、それを可能にする!  
「っぁ!」  
 わき腹が僅かに抉られる痛み。だが、その程度の痛みはたいした事は無い。  
あの、何度死んでも死ねない痛みと比べれば、ナイフで突かれる程度、  
痛みの内にすら入らない。  
 僕は彼の繰り出すナイフを、肉を切らせながらかわし、骨を断つ為に  
脇に彼の腕をキャッチした。刺突武器、ないしは貫き手で攻撃してくる  
相手の対処法として、火燐が頼みもしていないのに僕に教えてくれた  
動きがそれだった。  
 こんな所で役に立つとは。  
「ちっ……」  
 彼の笑顔が歪む。苦痛のゆがみだ。当然、僕は脇に挟んだ彼の右手を、  
文字通り骨を断たんばかりの勢いで締め上げている。  
「……冷静になって欲しい。話せばわかると思うから」  
 そんな保証はなかったけれど、僕はそう言って彼を宥めようとした。  
 あくまで瑞鳥君は普通の人間だ。ナイフ捌きは玄人並だったけれど、それを  
可能にするレベルの身体能力は持っていたけれど、僕の経験上何とか  
できない相手では、決してなかった。だから、こうして痛みを与え、こちらが  
優位である事を教えれば、諦めるだろうと……そう思っていた。  
「ぬぐぁぁああああ!!!」  
 突然、瑞鳥君が吼えた。それは咆哮と言うに相応しい叫びで、そんな声を  
挙げる事になった理由は――  
「えっ!?」  
 捕らえていたはずの右手から大きな音が響いた事に、そして締めていた  
手ごたえがなくなった事に驚いた隙を狙うかのようにして、彼は右腕を抜き  
取っていた。彼は、自ら関節を外す事で、僕の関節技を外したのだと気づいた  
のは、数瞬たってからの事だった。  
「……痛いですね、関節外すのって」  
 
 脱力し、関節が抜けた右手をプラプラさせながら、瑞鳥君はそれでも  
やはり笑っていた。コエエ……マジでコエエよっ!?  
「さて、これで仕切り直しです。次は先のようなへまはしませんよ」  
「そんなこと言っても、君はもう利き手が」  
「ああ、ご心配なく――両利きですから」  
 彼は、地面に落としていたナイフを、左手で難なく拾うと、やはり難なくくるくると  
ジャグリングをして見せた。  
 ……これは、ちょっとヤバイかもしれない。彼の目の色が、変わった。  
「さて、続きと行きましょうか。終わりは……貴方が死ぬ時ですよ、お兄さん!」  
 彼がそう叫び、僕との距離を詰めようとした瞬間だった。  
「やめて!」  
 甲高い、聞きなれた声が、その場に響いたのは。  
「兄ちゃんも瑞鳥君も……あたしの為に争わないでっ!」  
 阿良々木火燐。僕の妹で、僕が今現在命を狙われている瑞鳥君の彼氏。  
 今回の件の、元凶。  
「ふぅ、一度言ってみたかったんだよね、この台詞さ」  
 結局、事態がどういう方向へ進もうとしてるのか、僕にも、そして初めて  
驚いたような顔を見せている瑞鳥君にも、わかりそうになかった。  
 
続く?  
 

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