その日、気まぐれで玖渚の部屋を訪れてみようと思ったのは、今にして思えばぼくの失敗だった。  
 とはいえ、ぼくの人生で失敗でなかったことなどほとんど無いに等しいのだから、それも数あるルーチンの一つに過ぎないのかもしれないけれど。  
 化物マンションの三十二階にあるいつもの部屋に入ると、まるでぼくの訪問を待ち構えていたかのように玖渚が飛びついてきた。  
「いーちゃん、グッドタイミングなんだよ。僕様ちゃん、盛ってたんだよね。さあ、今すぐせっくすしよーよ」  
 小柄な玖渚の体でも勢いをつければ、ぼんやり生きているぼくを押し倒すには十分だ。ぼくはその場で腰を打った。  
 今日の玖渚の髪は、いつもより遥かに色濃い青をしていた。何日洗っていないんだろう。身にまとっているのは、ふわふわしたワンピースのような、ネグリジェのような服だった。玖渚の愛くるしい顔立ちが引き立つ。  
 事態を把握しきれないまま、黙って見上げるぼくに向かって、玖渚は首を傾げた。  
「あれ? いーちゃんには聞こえなかったのかな。僕様ちゃんがしたいって言ってるんだよ。それとも聞こえていても理解できなかったのかな。まあ、どっちだっていいんだけどね。することは一緒なんだからさ」  
 玖渚の手元には、既に脱いだショーツがくるくる弄ばれている。そして彼女は、ぼくににっこり笑って見せた。堕落を誘う笑顔だ。逆らえない笑顔だ。元よりぼくが玖渚に逆らえるはずもないのだけれど。  
 
「んふふー」  
 楽しそうに玖渚はぼくのズボンのジッパーを下ろした。柔らかい小さな手で、ぺたりとぼくのペニスに触れる。暖かくて気持ちいい。気持ちはいいけど、触られたくらいですぐに勃つような代物でもない。なのに玖渚は困ったような声を出す。  
「だめだよ、いーちゃん。協力的じゃないねー。これじゃ僕様ちゃんの中に入れられないじゃないか。ちゃんと準備してくれなきゃ」  
「・・・・・・無茶いわないでくれよ、友」  
 ぼくはやっと声を出した。  
「あ、ちゃんと喋れるんだね。よかったよ。いーちゃん、失語症になっちゃったのかと心配したんだよ」  
 そんな風に言う間にも玖渚は、ずっとぼくのペニスをぺたふに触り続けている。  
「心配している人間の所行じゃないだろ、これは」  
「心配してたよー。喋れないいーちゃんなんて、いーちゃんじゃないもんね。饒舌なてる子ちゃんと同じくらい在り得ないよね」  
 下半身をいじり倒しながら、にこにこ無邪気に笑う玖渚に、ぼくは小さく溜息を吐く。  
「一応確認するけど、友はぼくとセックスしたいんだな」  
「うに」  
 こくんとうなずく。ぼくはもう一度溜息を吐いた。  
「わかった、しよう。でも、ここでは嫌だな。どうせ友は上に乗りたいんだろう? その体勢じゃ、床の上だと、ぼくの腰が辛い。この先さほど長くはないかもしれないけれど、もしかしたらまだまだ長く続いてしまうかもしれない人生を、腰痛持ちで生きるのはごめんだな」  
 
「若さがないねー、いーちゃん。若者ならチャレンジ精神旺盛に生きなきゃ。痛くなるかならないかなんて、やってみなくちゃわかんないよ。今すぐしたいんだから、ここでしよう」  
 不満そうに唇を尖らせたが、ぼくは黙って彼女の顔を凝視するだけだ。今度は玖渚が溜息を吐いた。  
「うん、わかったよ。いーちゃんは変な部分が頑固だからね。普段はノンポリなのに、こういう時だけ譲らないんだよね。でも、僕様ちゃんは、そんないーちゃんが好きなんだから仕方ないよ。わかったよ、ベッドに行こうね。そして一杯えっちいことしよう」  
 玖渚はぴょこんと立ち上がると、踊るような足取りで先に立って歩き出した。ぼくは半端に立たされたペニスを露出したままという情けない格好で、今日何度目かの溜息を吐いた。  
 形ばかりは縁を切られているとはいえ、一族の愛娘であることに変わりはない玖渚友が、ぼくみたいな男とぐちょぐちょぬるぬるした行為を頻繁に行っていると知ったら、玖渚機関はどう思うんだろう。  
 その気になれば、ぼくなんて存在すら<なかったこと>にしてしまえるだけの力を、あの組織は持っているのだ。  
 それとも或いは、愛玩動物さながらに飼い殺されるのだろうか。持て余した玖渚友の怖さをも、あの組織は知り尽くしている筈だから。それくらいなら、適当な暇潰しをあてがって置く方が、余程世の為人の為になると、判断するかもしれない。  
 そして――それはぼくにとって、どちらも同じことかもしれない。肉体の死と精神の死。死という大きなカテゴリィの中では、大差のない話じゃないか。  
「・・・・・・戯言だけどね」  
 ぼくは呟くと緩慢に立ち上がる。したたか打ちつけた腰はまだ痛い。明日には間違い無く青アザになっていることだろう。青は玖渚の色。ぼくを従属できる唯一の色。  
 じわじわ襲う痛みを押し殺し、青より蒼い存在の待つベッドへと向かって、ぼくはゆっくり歩き出した。  
 

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