それは予想外なんてものじゃなかった。
誰かが「このAをブラジルにいるZさんが殺したんじゃないなんてことは、言い切れない」
と言っていたのに、僕は全身全霊で反対しよう。いくらそれが0じゃないからって、1%以下の確率を
計算に入れてもいいのは胸に七つの傷を持つ男だけだろう。
しかもここは
「…師匠―――……師匠ー!」
が歴史の必然だったはずだ。オルタナティブの概念はあと数段先の出番待ちのはずで。
「よう、欠陥製品」
あの時と同じで僕は何も応えなかった。突き付けられたナイフは、呼吸を通してさえ僕の皮膚を破りそうだった。
「ぜろざき、ひとし―――」
手が――刃物から離れた。
そして僕が、おお、零崎ってやっぱり有名なんだなぁ、なんて思っていると、刹那にドンっと音がして、玉藻ちゃんが廊下を転がった。不意打ち。圧倒的なまでに致命的なそれは、少女に後悔の暇すら与えなかった。
ずっ、 肉と肉の間を、ナイフが割って入る音。
「随分ユカイな格好してるじゃねぇか、あぁん?」
そしてたった今人殺行為を終えた人間失格は、人間失格にふさわしくにっと笑って、僕に親指を立ててみせた。
「現状は認めてやってもいいが、状況が飲み込めないな零崎、説明してくれ」
「そりゃこっちの台詞だ欠陥。フツーの大学生が来るトコじゃないぜ、ここは。」
零崎はカラカラと笑った。
「ま、お前のことだ。どうせ今回もくだらねー成り行きって奴に流れ流されてきたんだろう」
そのうちふやけちまうぜ、と零崎はまた笑う。
そうだな。僕にとっても零崎にとっても、何故そこにいるか、なんてことはこれっぽっちも問題じゃないのかもしれない。
「逃げろ零崎。僕の用事は哀川さんがらみでね。しばらくエンカウントはないだろうが、ゲームオーバーは避けたいところだろう?」
一瞬、零崎の表情が呆けたようになって、それが元に戻ると、零崎は馬鹿みたいな哄笑をあげた。
「相変わらずの傑作ぶりだな。欠陥!お前の戯言なんざ俺にとっちゃあ内なる声、かちかち山に桃太郎、ジングルベルときたもんだが、
おまけが人類最強となりゃ話は別だ。俺とお前が鏡なら、俺にもおまけが付いてていいんじゃねぇのか、おい」
ひとしきり長口上を終えた零崎は
「ま、そこがお前と俺がお前と俺である所以なんだが」
などとあっさり結んだ。
「くだらないこと言ってないでさっさと逃げろよ人間失格。あの人に限っちゃ、一切の期待も、合切の希望も通用しねーぜ」
「だろうな」
「だったらどうして――」
不意に、唇が塞がれる。同じ温度、同じ質感、同じ形をした嘘のような唇に。ただ、この目に映るのがあの奇妙な刺青であることだけが、僕とそれとを分ける事実だった。
「『しばらくエンカウントはない』んだろ?欠陥製品」
零崎が当たり前のように言った。
「余裕だな人間失格。戯言遣いの言葉だよ?そう簡単に信じるもんじゃないね。
自慢じゃないが僕は喋るという行為にウソをつくというルビが振られるという世にも珍しい人間なんだ」
嬉しい、かもしれないと、一瞬だけ、思ってしまった。
「恨むんなら自分かテメェにするんだな。お嬢ちゃん」
そして零崎は僕にもう一度キスをした。
「どうして……こんなことをしているんだろうな」
数分と経っていない時間が、異常な密度のせいで淀みながら流れていた。頭に靄がかかっているのはいつものこと。今は鈍い熱がそこを覆っている。
「そいつは簡単だ欠陥製品。お前と俺がここにいて、しかもお前がセーラー服なんてもんで俺を誘ったからだ」
「…誰も誘ってなんかいない」
「寝ぼけるのはよせよ。わかんだろ? 今のお前が俺にとって、どんだけ美味そうに見えるかってことがさ」
人は快楽に弱い。なぜ、零崎の接近を許してしまったのか。なぜ、零崎の腕の中に甘んじているのか。
なぜ、僕の体のあちこちを這い回る指を止める言葉が吐けないのか。僕は、期待してしまっている。
出会わなければ待つ意味も忘れてしまいそうだった、快楽の訪れを。
「ふぁ、あ……っ」
零崎の吐息が今、耳に触れた。こんなことは数えればもう数十回はくだらない。それでも、慣れるなんてことは知らないかのように、こうして心臓が跳ねた。
「しっかり感じてるじゃねぇか。欠陥」
「な、……にを」
冷たい廊下の真ん中で、ふたつの影が絡み合っていた。首吊り高校の名に似合わず、そこだけ限りなく無防備ないち状態は、僕を少しだけ高ぶらせるのかもしれなかった。
「ふっ……」
息が漏れる。胸につきたてられた爪の刺激は、あざ笑うようにすっと失せていった。
「…あ」
なんて声を。僕は今なんて声を上げたのだろう。戯言遣いにふさわしい、浅ましく、いやらしい声。決定的に許せないのは、それが戯言遣いにそぐわない偽りない声であることだ。
「イきたいのか?」
零崎の声。鏡のように同じであるその存在を。反吐も出尽くしたくらい身に染みる欠陥を抱える反吐が出る存在を。
それでも求めてしまうのはこの声のせいだ。耳を細かく震わす、男にしてはやや高めのその声は、ほかの何よりも僕の耳に重く響いてくる。
「お前ほどじゃ……ないさ」
戯言。なんにもならない。何の効果もない、本当の意味での戯言。
「そうだな」
え?
「俺ほどじゃあ、ない」
零崎は不意に僕の手をとって力任せに引っ張る。
「わかるな?」
そう言って熱くなった部分に、僕の手を導くのだった。
「ほれ、早くしねーと怖―いオネーサンが来ちまうだろ。欠陥」
まったく。
「この……」
ばか。
華奢な零崎の体に、僕は体重を預ける。零崎の張り詰めたそれを見るのは、不快ではない。零崎の性格に似合わず赤く滾る性は、なんだか可笑しくなってしまいそうに映る。
「舐めろよ」
言われなくても。
ああそうだ。最後の、最低限の僕の矜持として、僕の方から降伏するような、今まで耐えに耐えてきたその誘惑に、敗北を認めてしまうような真似だけは、避けなければならない。
僕が、僕でなくなってしまう。
「舐めろっつっただけなんだがな……」
「そんなに美味いか。俺のは」
うるさい。
早くしなきゃいけないからだ。早くしなきゃお前は哀川さんか姫ちゃんに見つかって、そしたら、殺されるだろう。どうだっていい。お前みたいな人間失格のひとりやふたり、殺されようが晒されようがお構いなしだ。大いに結構。ただ―――
「他所でやってくれ。そういうのは」
なんとなくだけど。
「あん?」
零崎がにやにやと笑う。
「なんでもないよ」
「そうかい」
「お前さー」
なんだよ
「その制服ハマりすぎ。何回も言うけど」
「褒められてる気がしないよ。零崎」
激しくバカにされてる気分だ。
すっかり熱移動の終わった口の中のものは、ひくついて存在感を示し始めた。
零崎は僕の髪の毛をそっと撫でた。そのまま何もなかったかのように。ただ僕だけが、零崎が果てたのを確かに知っている。
「ヤり過ぎに注意しましょう。だな」
あなたの健康を損なう恐れがあります?
「最高だよ。相棒」
それはありがたき幸せ。
「あ?飲んじまったのか、お前」
「出すとこないだろ。ココ」
女子高なんだから。
「あーまーそう…だけどよ」
零崎はバツが悪そうに頭を掻いた。
「腹の中に入っちまえばなんでも同じだよ」
ハンバーグでもトマトでも精液でも。
「ちー。やーらしいヤツ」
どっちがた。
「早く行けよ。哀川さんは理事長室側から来るから、こっちの方から逃げるといい」
そんな常識が通じる人でもなさそうだけど。
「つくづくありがてぇ話だ。至れり尽くせりだね。ホント」
―――「…師匠―――……師匠ー!」
あ、姫ちゃんだ。よかったね。これでキミが生徒を殺す必要はなくなったよ。もうひとつのほうを僕がうまくやれば、だけど。
けどよ。と、零崎は続けた。
「お前のほうは大丈夫なのか?欠陥製品よぉ」
あ?なんなんだ一体?大丈夫も何も僕はこれっぽっちも危なくなんかない。ちょっとばかり、刺したら死ねるものを持った少女に襲われはしたがこれこのとおりピンピンしてる。体も―――あ
「うるさい!さっさと行けこの殺人鬼!」
「ははははは!縁が合ったらまた会おうぜ。欠陥製品」
零崎は言うが早いか闇にまぎれた。それにしても今回は色々やってはいけないことをしすぎた気がする。大丈夫か?まぁ僕の知ったこっちゃないけどね。
おまけ
―――「生臭いですよ師匠は!」
なんですと!?…………えーと、もしかして普通につっこめばいいところなのかな?僕にはわからないよ姫ちゃん……。