羽川翼、いや  
 ブラック羽川との3度目の遭遇は、やはり突然のものだった。  
 8月4日金曜日、戦場ヶ原の家に勉強を教えてもらいに行っていた僕が、  
 普段どおり10時に彼女の家を出て帰路につく途中の事。  
 街頭の下、征服姿で一人の、いや一匹の猫が僕を待ち構えていた。  
「またお前か、もう驚きもしねえよ……」  
「まあそう言うにゃ人間。  
 というか、それはこっちの台詞だにゃん」  
 それはそうなのかも知れない。  
 既に2度、ブラック羽川とは対峙している訳だし、  
 今更この怪異がどういう存在なのかは、思い出すまでも無く判っている。  
 品行方正な羽川翼の裏の人格、ブラック羽川。  
 イメチェンして髪を切ってから、多少雰囲気が変わったとはいえ、  
 そんな今の羽川でも決して浮かべる事の無いであろう顔で猫は笑った。  
「全く毎度毎度人のご主人を弄んで、  
 俺達にゃんかよりよっぼどお前の方がたちが悪いにゃ」  
「酷い言い草だな。  
 それで今回も僕が原因だっていうのか、その……羽川のストレスは」  
「当たり前にゃ」  
 当たり前、なのか。  
 羽川が僕の事を想ってくれていたのは知っているし、  
 それは彼女が髪を切った今となっても、まだ過去形では無いのかもしれないけれど。  
 しかしそれについて羽川は、自分なりにけじめをつけたものだとばかり思っていた。  
 ブラック羽川が歩きだしたので、僕もその横に並んで歩く。  
 そのまま会話が続いた。  
 
「もっとも人間、今回の件についても、もちろん元をただせばお前が原因にゃんだが、  
 別にお前のせいという訳では無いにゃ」  
「? どういう意味だ」  
「はっきり言ってしまえば、今回ご主人がこんなにストレスを溜め込んじまってるのは自業自得、  
 ご主人自身のせいにゃん。  
 さっさとお前にゃんかきっぱり諦めて、別の男を好きになればいいのににゃ」  
「いや、人の気持ちはそんな単純な物じゃ――」  
「そうでにゃくとも、さっさとお前の目の前から姿を消せばいいにゃ、  
 普通に考えれば髪なんか切る前に、お前との縁を切る方が先だにゃん」  
「それは」  
 一瞬言葉につまる。  
「それこそ真面目な羽川にそんな事が出来るわけが無いだろ?  
 どうしたって学校には行かなくちゃ行けない訳だし、  
 僕は一応副委員長っていう役職で、羽川は委員長ってう役職な訳だから、  
 自然と顔をよく合わせるさ。  
 お前のご主人は、そうならない為に学校を休むような事が出来るような奴じゃないし、  
 そもそも僕を意図的に避けたりなんかしたら、それこそストレスなんじゃないか?」  
「それはそうかもしれにゃいけどにゃ、でも例えばこの間ご主人がお前の身内達に協力した時とか、  
 ご主人は意図的にお前との接触を増やしているにゃん」  
 そういえば羽川が妹達、ファイヤーシスターズの手伝いを始めたのは、  
 夏休みに入ってから、と本人が言っていた気がする。  
「直接本人ではにゃいとはいえ、お前の身内と関わりを持とうとしたのは、  
 やっぱりお前と関わりを持っていたかったからに他ならないにゃ。  
 それ以外にもお前、ここのところ頻繁にご主人と長い時間一緒にいる日がにゃかったか?」  
 家庭教師ならぬ図書館教師の事か。  
 確かに僕は今、日曜以外の奇数日は羽川に図書館で勉強を教わっている。  
 明日も、その予定だ。  
「それはこう言っちゃにゃんだが、お前の付き合っている女の役目なんじゃにゃいのか?  
 確かお前の女だって、十分に頭は冴えてるはずだったにゃん」  
「だから半分は戦場ヶ原に――」  
 
「半分じゃないにゃ」  
 じりっ、と一歩猫は僕との距離を詰めた。  
「いくら頭が良いといっても、そもそもがご主人の出る幕じゃにゃい。  
 1から10まで、全てその女の仕事だにゃ。  
 半分にゃんて、分ける必要すらにゃい。  
 それとも、一人に負担が集中しないように、にゃんて言い訳するつもりかにゃん?  
 それは一体誰の負担を軽減しているつもりなのかにゃ?」  
「……」  
 本当に、本当に悔しい事だったが、  
 この頭の悪い猫相手に反論どころかぐうの音すら出なかった。  
「片や真面目にご主人はお前に勉強を教えて、  
 片やそうじゃにゃい時、お前はあの女といちゃいちゃにゃんにゃんにゃにゃにゃん」  
「は?」  
「間違えたにゃ、  
 片やお前とあの女はにゃんにゃんにゃにゃん……にゃんにゃにゃ……」  
「さっきまでの割と理知的なお前は何処に行ったんだ!  
 いちゃいちゃで十分意味は通じてたよ!」  
 自分の語尾が原因で噛む奴なんて始めてみた。  
 にゃんにゃんなんて、どんだけ古くてニッチな表現がボキャブラリーに入ってるんだ羽川……。  
 それともこの化け猫自身、今の自分が普段のキャラクターとずれ過ぎてきていたのを修正したのだろうか。  
 八九寺といい、怪異は存在そのものが人々のイメージみたいなものらしいから、  
 色々と苦労しているのかもしれない。  
「てゆうかお前、羽川と完全に記憶を共有している訳じゃあなかったよな。  
 なのに何でそんなに色んなことを知ってるんだ?  
 前回だって、そこまで羽川の周辺事情に詳しいわけじゃあなかっただろ。  
 だっていうのに、僕の妹の事なんてよく知ってたな……」  
「アレ、そういえばそうだにゃ」  
 にゃんでだろー、と宙を見上げて呆けるブラック羽川。  
 分かんねえのかよ、自分の怪異としての特性に関する事なのに。  
 前言撤回、コイツは色々と苦労なんかしていない。  
「お前は何にも知らないな」  
「何にも知らにゃいよ、しらにゃい事だらけにゃん」  
 相変わらず愉快な奴だった。  
 
「まあそれでも適当半分言わせてもらえば、  
 ご主人の存在が俺に近づいてきたってことだろうにゃ、  
 俺とご主人の存在が近くなれば、自ずとこうして俺が出てくる事も多くなるにゃん」  
「え?」  
「今回の事も今まで程ストレスが溜まったわけでは無いにゃ、  
 それでもこうして俺が現れたって事は、そういう事だと思うにゃん」  
 なんだって? 羽川が怪異に?  
 神原の腕なんかとは違って、目に見える形では特に怪異の弊害が残っていなかったから、  
 正直油断、いやそもそもそんな後遺症が出るなんて考えもしていなかった。  
「それは本当に適当なのか? っていうかそれで羽川は大丈夫なのか?」  
「大丈夫なんじゃないかにゃ」  
「それは適当じゃないだろうな」  
「だって、お前らの世界じゃあ俺は二重人格って奴にゃんだろ?  
 その二つに分かれちまった人格が、一つになろうとしてるっていうのは、  
 寧ろお前らにとって歓迎すべき事なんじゃないのかにゃ?」  
「……成る程」  
 確かに、二つある人格が一つになるっていうのは、自然な形に近づいているという事なのかもしれない。  
 そういう事なら、さっきからブラック羽川が以前より賢そうに喋っているのも納得できる。  
 羽川と共有している記憶や、知能の割合が増えているのか。  
「まあ、良くも悪くもご主人が俺という存在に慣れてきてるって事だろうにゃん、  
 前回も言ったとおり、俺たちは人間に慣れられちまうと、今まで通りの形では存在出来なくなるんにゃ」  
 ああ、確かそんな事も言っていたような気がする。  
 怪異とは、怪しくて異なるもの、人間とは違う物。  
 信じられ、怖がられ、疎まれ、奉られ、敬われ、嫌われ、忌まれ、願われる物。  
 それ故怪異であり、そうでなければ存在し得ない物なのだ。  
 という事はつまり、この化け猫は今、怪異としての存在が危うい、  
 消えかかっている状態だというのだろうか。  
 確かにそれは願ってもない事なのだけれど、  
 少し、本当に少しだけ、寂しいと感じてしまう僕がいるのも事実だった。  
 ああでも、こういう風に周りが思えば思うほど、  
 ブラック羽川の怪異性が失われてしまうのかもしれない。  
 
「んにゃっ」  
 隣を歩いていたブラック羽川が急に頭を抱えて蹲った。  
「どうした、いきなりしゃがみ込んだりして?」  
「触るにゃっ!」  
 僕が慌てて駆け寄ろうとすると、激しい叱責が帰ってきた。  
「お前、俺の怪異としての特性を忘れたかにゃん?」  
 いや、そういう訳じゃあ無いけれど。  
「大丈夫にゃ、ちょっと眩暈がしただけにゃん。  
 今日はさっきから少し調子が悪いのにゃ」  
 そう目の周りを手で覆ったまま続けるブラック羽川。  
「大丈夫なのか、それならいい」  
「にゃん」  
「ただな化け猫、後学の為に教えといてやるが、そういう時には決まった言い方、  
 定型文って言うものがあるんだ」  
「にゃ、そうにゃのか?」  
「ああ、そういう時はさっきのお前みたいに言うんじゃなく、こう蹲ったまま、  
 が・・・あ・・・離れろ・・・死にたくなかったら早く俺から離れろ!!  
 って叫んだ方がいいな」  
「ふむ、成る程わかったにゃ」  
「じゃあちょっとやってみろ」  
「が……あ……離れるにゃ……死にたくにゃかったら早く俺から離れるにゃ!!」  
 こんな僕の馬鹿なフリに、ノリノリでブラック羽川は応じてくれた。  
 ただまあ自分で面白がってやらせておいてなんだけど、春休みの時の自分を思い出して、ちょっとブルー。  
 あの時は僕と羽川の立場が逆だったなあ。  
 でも、僕の場合も、この化け猫の場合も、割と冗談や妄想では済まされないんだよな。  
 
「ともかく話を戻すにゃ……  
 ええっと何処まで話したか忘れちまったにゃん」  
 確かに脇道にそれすぎたかもしれないな。  
 もう原因はなんとなく想像がついていたけれど、  
 まだはっきりとは、今回黒羽川が現れたストレスの原因を聞いた訳では無い。  
 しかし今回、ブラック羽川が割と馬鹿成分を押さえて喋ってくれているので、  
 大変有難い事に、話は前回より速く進みそうではある。  
 というか僕の方が邪魔しすぎだった。  
「確かご主人がこの間店で水着を選んでいた時、  
 気に入ったやつが胸が大きすぎるせいで買えにゃかった事で、  
 ストレスが溜まった話をしていたんだったかにゃ?」  
「お前はどんな記憶力をしてるんだ、絶対にそんな話では無かったぞ。  
 しかしどんな些細な事が原因になって、またそれが解決の糸口になるとも分からないからな。  
 可能な限り詳しく話せ」  
「いや、違ったにゃん。お前とお前の彼女が、  
 ご主人に仲良く見せ付けてくれちゃってるけど、  
 今回はお前らのせいじゃなくて、ご主人の自業自得だっていう話だったにゃん」  
 ガッテム!  
 誰だコイツの知能が上がって有難いなんて思った奴は!  
 今ものすごく大切な、本来なら手に入る筈だったかけがえの無い物を無くした気さえする。  
 ……なんかこんな事ばっかり考えてると、  
 本当に僕の方がこいつより断然馬鹿なんじゃないかと思えてくる。  
 インテリジェンスドレイン、会話した相手の知能を吸い取る能力だろうか。  
 ――どう考えても僕が一人で馬鹿なだけだった。  
 半年後には大学受験すら控えているというのに。  
 
「まあそういう訳で、今回の事について俺はお前を責める気は無いんだにゃ」  
 そう言ってまた一歩分、ブラック羽川は僕との間合いを詰めた。  
「それじゃあ一体、何の用だって言うんだよ。  
 あそこに立っていたのは明らかに僕を待っていたんだろう?」  
「協力、して欲しいにゃ」  
「協力だって? 前回もそうだったと思うけれど、  
 ストレッサーの僕自身が羽川の為に出来る事なんて何も無いと思うぞ。  
 それとも、また前回みたいに死んでくれ、とか言わないだろうな」  
「言わないにゃ。今回はお前だけが出来る、お前にしか出来ない仕事があるんにゃん。  
 だから協力して欲しいにゃ」  
「だから、何に協力しろって言うんだ。  
 話が中々進まない理由の一端は、今回は僕にも少しはあるんだろうけど  
 それにしたってさっきからお前はもったいぶり過ぎだぞ。  
 もうズバッとここらで確信に迫ってくれ ――!!」  
 ブラック羽川はそんな僕の言葉を無視するように、突然自らスカートの裾を持ち上げた。  
「な、な、なっ」  
 しかも羽川の体は、その下に何も身に付けてはいなかった。  
 何にも遮られる事無く、むき出しの下腹部があらわになる。  
「何をしているんだお前はっ! 早く隠せ!」  
「まあ聞け人間。  
 ご主人はにゃ、この間生まれて初めて自慰をしたにゃ」  
「は?」  
「最近お前と、お前の女の惚気っぷりに当てられて、嫉妬心もそうにゃが、性欲の方が我慢の限界だったにゃ」  
「僕は断じて羽川の前でそこまで惚気てなんかいない」  
 いくら僕でも、それくらいの事は心得ている。  
 ていうか、性欲を煽る惚気ってどんなレベルのものなんだよ。  
「にゃ、確かにお前やあの女が意図して惚気ていたわけでは無いかもしれないにゃ、  
 でも察しの良い、いや良すぎるご主人は、  
 ただそばに居るだけでお前ら二人が前日、何をしていたかにゃんて判ってしまうにゃ」  
「そんな」  
「今日だって、ただ勉強をしていたわけじゃあにゃいだろう人間?  
 そう俺が自信を持っていえる位、お前からあの女の匂いがするにゃん」  
 
 ――図星、だった。  
 朝10時に戦場ヶ原の家に着いたあと、確かに最初は勉強をしていた。  
 が、最近ではほぼ毎回振舞ってくれるようになった夕食を7時ごろに食べ、  
 食休みをしている時にちょっと魔が差して……。  
   
「だからそんにゃ顔をするにゃ人間、俺はお前を、お前らを責めるつもりはにゃいと、  
 さっきから言ってるにゃ。  
 今回の事はご主人が悪い、それは他ならぬご主人が一番よくわかってるにゃん。  
 ただにゃ、それでもお前に少しでもご主人に対して申し訳ない気持ちがあるなら、  
 協力してくれにゃいかにゃ?」  
 そう言ってブラック羽川は思わせぶりに、  
 まるでこちらに何かを期待しているかのような媚びた素振りを見せた。  
「だから、一体何を……」  
「ご主人はにゃあ、お前を思って自慰をしているにゃ」  
 言いながら猫は、自らの秘裂を人差し指で浅くなぞって見せた。  
 羽川の中から出てきた指先は僅かに糸を引き、そのまま僕に向けられる。  
 結果僕の目の前に、羽川の少し濡れた人差し指の指先が突きつけられる形になった。  
「でもその後に、ご主人は凄く後悔するにゃん。  
 罪悪感、と言ってもいいかもしれないにゃ」  
 いや、しかしさっきからこの色ボケ猫はエロ過ぎるだろう。  
 こちらに指を向ける際に、スカートの裾は元の位置に戻ってはいたが、  
 僕の網膜には、先ほどまで無防備にさらされていた羽川の下半身の映像が、  
 ソコに這わされた羽川自身の指の情景が、完全に焼きついたまま離れない。  
 大変申し訳ないんだけれど、今僕は会話どころではなかった。  
「今回のストレスはその罪悪感によるものでもあるにゃ、  
 ご主人はついさっき、3日連続でお前を使って自分を慰めた罪悪感に襲われて。  
 それでもその行為を止める事が出来ないくらいの、強い性欲にも悩まされていたにゃ。  
 まあ後者は俺と同化しかけているせいと、いえにゃくも無いんにゃけど」  
「どういう事だ?」  
「発情期にゃん。  
 お前等が俺のことをさんざん色ボケ猫と呼んでくれていたけど、俺自身、それは否定しないにゃ。  
 確かに猫である俺に、そういう特性が無いとは言えないにゃん」  
「発情期」  
 羽川の発情期。羽川さんが発情期。今、羽川さんは発情期!!  
「発情期は辛いんにゃ、体が常にうずうずして。  
 たまらなくなったご主人は、勉強中にも関わらず自分の勉強机の角にココを押し付けて体を……、  
 どうしたにゃ? いきなりしゃがみ込んだりして」  
「いや、大丈夫。  
 今日は少し頭の調子が悪いんだ。気にしないで続けてくれ」  
 
 さっき戦場ヶ原とそういう事をしてきた直後だというのに、  
 羽川の体やエピソードに興奮してしまって、僕も少し罪悪感みたいな物を感じてはいた。  
 が、しかしこれはそういったレベルの問題ではない。  
 だってあの羽川が!  
 最近多少軟化したとはいえ、未だ委員長の鏡と言って過言ではない羽川さんが!!  
「そうにゃのか……?  
 まあ、それら心身の欲求の板ばさみにあって、結果今俺がここにいるにゃ。  
 しかも今もまだ、生まれて初めてした自慰の感覚が強烈過ぎて、全然収まらにゃい。  
 覚えたてだからかにゃ、でもそれを抑えるのもまたストレスにゃん、  
 そこで、お前を使ったという明確な記憶を持たないまま、  
 お前の身体で性欲を解消させて欲しいにゃ」  
「いや、それは ――」  
「もちろん、最後までセックスしろだなんて言わないにゃ、  
 お前には彼女がいるのはもう判っているし、人の気持ちは変わらない、それはもう判ったにゃん。  
 それにご主人も、知らないうちに純潔を散らしたくはにゃいだろうしにゃ」  
「それで、その羽川のストレスは本当に収まるのか?  
 その……僕はよく猫の発情期ってのは判らないんだけど、  
 一時的に性欲を解消しても、それはやっぱり一時的な対処法、  
 その場しのぎに過ぎないんじゃないか?」  
「それでいいんにゃ、俺達の発情期なんてほっといても一週間くらいで収まるものなのにゃん。  
 ただご主人は俺ら猫と違って、真面目過ぎるが故にストレスを貯めちまってるだけで、  
 一度きちんと解消してしまえば収まるはずだにゃ。  
 だから人間、お願いにゃん」  
「いや、でも……」  
 やっぱりそれは、色んな人を裏切る事に変わりは無いから。  
 最後までするとかしないとか、そういう事じゃない。  
 少しくらいなら、一回くらいなら、なんてフレーズを。  
 僕は羽川に許してはいけないんだ。  
 
「すまないにゃ人間」  
「え?」  
「もう、俺が我慢の限界なんだにゃ」  
 そう言うとブラック羽川は、もう既に極僅かになっていた距離を詰めるように。  
 僕に覆いかぶさってきた。  
「っ!!」  
 咄嗟に飛びのく。  
 ブラック羽川は何かに躓いたかのようにたたらを踏んで、再びこちらに顔を向けた。  
「欲しいんにゃ」  
 ぼそり、と彼女は呟いた。  
「お前が欲しいにゃ、人間。  
 欲しくて欲しくて堪らないにゃ。  
 お前の事を、舐めて、吸って、しゃぶって、齧って、啜って、飲んで、食んで、  
 俺をお前で満たしてしまいたいにゃ」  
 彼女は鬼気迫るものを感じさせながら、どこか弱弱しくそう続けると。  
 にゃあああああああぁぁぁぁぁん。  
 と、一つ。  
 喉を大きくさらして鳴いた。  
 その姿はただの発情したメス猫そのもので。  
 とても淫らで、とても卑猥で、とても浅ましく。  
 そして、とても美しかった。  
 ゆらり。  
 両手を、いや前足を地面に付けて、  
 ブラック羽川はこっちをにらみ付けた。  
 
「不味い、おい忍起きてるか」  
「なんじゃ、起きておるよ主様」  
 影の中から声が返ってくる。  
「なんじゃって、助けてくれないか」  
「何をじゃ?」  
「何をって……」  
「いや、こう言っちゃなんじゃがな、主様。  
 儂は正直今回はあ奴の言い分が正しいと思うぞ」  
「そんな……!」  
 一体何を言い出すんだ忍は!?  
 そんなこっちの会話をお構い無しに、ブラック羽川が突進してくる。  
「くっ……」  
 右へ左へ、下がりながらその被い被さるような突進をかわす。  
 最後に忍に血を吸ってもらったのは……、5日位前か。  
 フルパワーにはほど遠い、が何とかかわせてはいる。  
 さっきからブラック羽川は何度も飛びかかってはくるが、その跳躍は僕まで届かず、  
 その都度つんのめるように僕の目の前に着地していた。  
 正気を失っているからだろうか、  
 あるいは欲望ばかりが前に先行して、体がそれについていっていないのか。  
 それともさっき頭を抑えていたのが何か関係しているのかも知れない。  
「いや、お前様よ、少し冷静になってみないか?  
 ここは奴の言う事を聞いておいた方がいいのではないかと思うがの。  
 お前様がいったい何を嫌がっているのか、儂にはさっぱりわからんのじゃが」  
 再び影の中から声が響いた。  
「僕は戦場ヶ原を裏切れないっつってんだ。それくらいわかれっ!」  
「そんなもの、お前様が言わなければばれないじゃろ?」  
 何を言っているんだこの馬鹿は、という口調の忍。  
「そういう問題じゃない」  
「そういう問題じゃろうて、まあお前さんだけは辛いかもしれないが、それだけじゃ」  
 
「いやそんな――」  
「お前様ひとりが抱え込めば済む問題ではないか、今まで散々あの二人には甘えさせて貰ったんじゃろう?  
 それに今更この程度の行為を浮気だ何だ等と言える程、お前様のあの女以外に対する態度は、頑なじゃったか?」  
「忍……」  
「お前様がそんな秘密を一人で抱え込むのは嫌だと思うなら、あの女に打ち明けてもいいのではないかの。  
 最近あのツンデレ娘は何だかんだで丸くなりおったし、  
 しかもその猫の入れ物の人間を苦手としておったじゃろう?  
 案外怒ったりはしないと思うがの」  
 そうなのか?  
 今僕が悩んでいるのは、僕自身の我侭なのか?  
「それでもお前様がどうしても辛いというのなら、儂が出て終わらせてやってもいいがな。  
 しかしそれでは前回と同じ、それこそその場しのぎ、またこうして直ぐにこの色ボケ猫が現れる事になるじゃろうな。  
 儂が吸い出せるのは怪異であって、ストレスの原因ではないからの。  
 まあどちらにした所で、儂は主様の意思に従うまでよ」  
「……」  
「大義名分が無ければ女一人抱けんか、主様」  
「ぐっ……」  
 ここは羽川の為にやるしかないのか?  
 ……、いや違う。  
 そうやって人の為と偽って、他人を理由にして責任をなすりつけるのは駄目だ。  
 人の為なんて、そのフレーズこそが偽物そのものじゃないか。  
 ――他人に理由を押し付けて、それでどうやって責任を取るというんだ。  
 まったく、火憐ちゃんの事をとやかく言えないじゃないか阿良々木暦。  
 僕は覚悟を決めて近場の公園に駆け込む。  
 なるべく人通りの少なそうなところが他に思いつかなかったのだ。  
 ド田舎だからな、夜中に公園でたむろしているような若者も居ない。  
 いや、小学生の女の子が、もしかしたら居るかもしれないが。  
 あいつは何だかんだで心得ている奴だから、  
 事情を察してみて見ぬふりをしてくれるだろう。  
 
 入り口を抜けて、僕は追いかけてきたブラック羽川を待ち構える。  
「ふーっ、ふーっ」  
 ブラック羽川は、僕よりもはるかに息を切らしていた。  
 おそらく体力によるものではなく、興奮によるものだろう。  
「おい色ボケ猫」  
 呼びかける、しかしブラック羽川は返事をしない。  
「お前が大人しくしているというのなら、僕はお前に協力しようと思う」  
「にゃんだと?」  
「とは言っても、お前のエナジードレインは危険だからな、  
 必要以上に僕に触れないと約束してくれるなら、という条件付きで協力してやるって意味だ」  
「わかったにゃ、わかったから早くするにゃ」  
 そういうと羽川は先ほどと同じように、自らのスカートをたくし上げる。  
 再びむき出しになった秘裂は、先ほどよりも遥かにドロドロに濡れていた。  
「いくぞ」  
 僕はおっかなびっくり、その柔肉に触れた。  
「にゃぁっ」  
 それだけで体を震わすブラック羽川。  
 くぷりくぷりと、入り口が何かを求めるように小さく開閉を繰り返している。  
 ゴクリ、と唾を飲み込みながら、浅く指をそこに差し込んでみた。  
「ふにゃぁぁぁん」  
 ぐちゅり、と大きく水音が耳に響いた。  
 人差し指の第一間接が入ったか入らないか位しか中に入れてないのに、  
 そのまま吸い込まれてしまいそうな感じがする。  
 いや、現に精気を吸い取られているのか。  
 そのままの深さを維持しながら、淵をなぞるように回転させる。  
 10週目に入った辺りで、既に拳が羽川の中から溢れた液体でびしょびしょになってしまった。  
「はあ、はあ、はあ……」  
 僕もさっきのブラック羽川と同じように息が荒くなってくる。  
「にゃぁぁ、にゃぁん」  
 ふと気付くと、ブラック羽川が自分で腰を回していた。  
 快感をむさぼる為に、刺激を強める為にだろうか、腰が僕の指とは逆回りに回転している。  
 
「うわっ」  
 いきなり僕の頭に羽川の手が載せられ、顔をそこに押し付けられる。  
「おいっ、手を離せ化け猫っ!」  
 急に触れている面積が増えて、持って行かれるエネルギーが一気に増す。  
「すまにゃい人間、でも舐めて欲しいにゃ」  
 そういうとブラック羽川は僕の頭から手を離してくれた。  
「わかった」  
 僕は羽川の腰を両脇から抑えて、ソコに口付けた。  
「にゃっ」  
 そして舌を秘裂の中に差込み、可能な限り中を舐る。  
 すると中から凄い量の体液があふれ出してきた。  
「にゃっ、にゃ、にゃぁぁっ」  
 それを思い切り吸いあげる。  
「にゅうううぅぅ」  
 ガクガクと抑えている腰が揺れる。  
 僕は目の前で震えていたクリトリスに、鼻を押し付けた。  
「っーー――」  
 音にならない叫び声をあげて、ブラック羽川が大きく体を反り返らせた。  
 
「おっと」  
 そのまま気を失ったように崩れ落ちたブラック羽川を抱きとめる。  
 うっ、気づかない内にかなりエネルギーを持っていかれてしまったようだ。  
 僕のほうも一瞬立ちくらみをおこしそうになる。  
 近くのベンチまで気を失った彼女を運ぼうとした所で、  
 ぱちり、とブラック羽川が目を開けた。  
 
「おい、大丈夫か?」  
「駄目にゃ」  
「えっ」  
「足らないにゃ」  
 そういうと、ブラック羽川は一瞬で、僕の上着を引きちぎってしまった。  
 かなり無理やりだったからか、少し肌も爪で引っかかれてしまい、出血する。  
「おい約束が違うぞっ」  
「もうちょっとだけ、もう少しだけにゃ」  
 そういってブラック羽川は僕にのしかかると、自分の上着も脱ぎ去ってしまった。  
 馬乗りになった羽川は、今度は僕の下半身の衣服を脱がしにかかる。  
「おい止めろっ! 何暴走してんだっこの馬鹿猫!」  
 声を荒げては見るものの、エナジードレインのせいで抵抗しようと動かそうとする体がめちゃくちゃ重い。  
 何も出来ないまま、ほぼ全裸にされる。  
「うっ……ぁぁ……」  
 やばい、服が無くなった事でエナジードレインの効率も跳ね上がった。  
 このままじゃ、死ぬ。  
「つめが甘いのう主様」  
 ぬめり、と忍が僕の影から姿を現し、  
 ブラック羽川に噛み付く、がしかしそれはすんでの所で羽川に回避されてしまった。  
 大きく僕達とブラック羽川との距離が開く。  
「くっ、面倒じゃのう」  
「忍、助けてくれるのか?」  
「当たり前じゃ、感情うんぬんを抜きにして、お前様を放っておいたら今のは死んでおったぞ?  
 もう少しお前様は警戒心を持つべきじゃな」  
「ありがとう、忍」  
「ふんっ、だから自分の心配をしておれ」  
 さて、忍が味方についてくれたはいいがまだ安心は出来ない。  
 前回と違って、今回ブラック羽川はあっさりとやられてはくれなかった。  
 つまり今回は忍に血を吸われる事による解決を、ブラック羽川は望んでいない。  
 そもそも今回のストレスは動物としての欲求から来るものだった。  
 今その場しのぎでストレスのみを解消しても、その原因を絶たなければ直ぐに再発する。  
 ブラック羽川の言葉を信じるなら、3日。  
 
 しかしそれよりも先ずは相手を無力化する事を考えなくてはならない。  
 互いの戦力を分析すると、今回はあまり勝算が高いとはいえないのだ。  
 完全な不意打ちでなかった事もあり、さっきの奇襲は失敗した。  
 そもそもエナジードレインを考慮しない、純粋な体術、身体能力では向こうの方が勝っているのだ。  
 本気で抵抗されたら、今のブラック羽川を取り押さえるのは、割と骨の折れる作業である。  
「少し本気を出すぞ、お前様」  
 そういうと忍はぴょん、と立っている僕に抱きつき傷口に牙を立てた。  
「ぐっ」  
 静止する暇も無かった。  
 まあついさっき結構エナジードレインをされてしまったため、  
 こうでもしないとただのお荷物なのは分かっているんだが。  
「んっ……」  
 不味い、唯でさえ弱っている所に血を吸われてしまったためか、何時もより立ちくらみが早い。  
 いや、というか血を吸う勢いが何時もより速いのか。  
 緊急時かつ時間が無いため荒っぽくなっているのかもしれない。  
「主様よ、儂の血を吸え」  
「は? いやそんな」  
「つべこべ言うとる場合か! あの色ボケが来る前に早くするんじゃ」  
「分かった」  
 春休みの時したように、僕は忍の首に歯を立て失った血を補うように忍から血を吸った。  
 その間も、忍は再び僕の首に牙を立て、血を吸い続けている。  
「……!?」  
 そうしているうちに忍の体が大きくなっていった。  
 どういう事だ?  
 ふとそうして血を吸いあっていると、忍の肩越しにブラック羽川が突進してくるのが見えた。  
 僕が忍にそれを伝えるより早く、忍自身が振り向き、その勢いを利用して羽川の体を投げ飛ばす。  
「ふぎゃっっ」  
 地面に叩きつけられためか、ブラック羽川の鳴き声があがった。  
「おい、あんまり無茶するな。羽川の体なんだぞ!」  
「本当に面倒な相手じゃのう、じゃあどうしろというんじゃ」  
「どうしろって……」  
 確かに、本気で抵抗している怪異、しかも触れるだけで相手の精力を奪う相手を  
 怪我をさせずに無力化するなんて、無茶な事かもしれない。  
 しかしだからといって羽川に大怪我をさせる訳にはいかない訳だが。  
 
「ってか、忍。その姿はいったい……」  
「ん、これか?  
 言うまでも無い事じゃがな、儂はお前様の血を吸えば吸うほど元の吸血鬼に近づいていくのじゃぞ?  
 姿形とて、その例外ではないわい」  
 そうだった。  
 忍はやろうと思えば今すぐにでも、僕の血をそれこそ僕が立ちくらみどころか気を失う位に吸えば、  
 元の吸血鬼としての存在に戻る事ができるのだ。  
 今まで、例えば神原と戦う前に血を吸ってもらった時だって、かなり加減をさせていた。  
 故に外見の変化は無かったがこれくらいの勢い、量の血を吸えば、その限りでは無いのか。  
 15、6歳位、身長でいうなら月火ちゃんと同じくらいになった忍は、  
 再度向かってきたブラック羽川を再度受け流すように投げ飛ばした。  
 学習したのか今度は地面に叩きつけられる事無く、化け猫は綺麗に着地をきめる。  
 そもままもう一度向かってくるかと思ったが、  
 二度の攻撃をさばかれ、このままでは勝ち目が無いと判断したのか、  
 ブラック羽川は公園に多数ある遊具の中に身を隠した。  
「奇襲でも狙っておるのかの」  
 忍が辺りの気配を探りながら呟いた。  
 どうだろう、あの猫にそんな余裕はあっただろうか?  
 そもそもどうしてブラック羽川はいきなり暴走し初めたんだ?  
 性欲が溜まって、今回ブラック羽川は現れたのではなかったのか?   
 それなら多少とはいえ、その性欲を解消した直後に暴走するのはおかしいのでは無いだろうか? ――  
 
「おいっ、何をぼーっとしておるっ!!」  
「! しまっ!」  
 思考に気をとられていた僕に背後からブラック羽川が飛びかかってきた。  
 避けるまもなく、再び組み伏される。  
「馬鹿者っ!」  
 忍はそう叫ぶと、片方の手の爪をむき出しにして振り上げた。  
「止めろっ!」  
 今、忍は羽川ごと怪異を退治しようとしていた。  
「しかしお前様」  
「いいから、絶対に羽川を殺そうとするんじゃないっ!」  
 言い争いをしているうちに、せっかく回復したエネルギーを持っていかれた。  
 ブラック羽川は僕に体を密着させるように、こすり付けるように体を動かしている。  
 僕と羽川の、むき出しの肌同士がこすれ合った。  
 そしてさらにブラック羽川は自らの秘部に、僕のペニスを挿入しようとしてきたので、  
 すかさず片膝を立ててそれを阻止する。  
 そんな僕達の間に忍は手を入れて、とにかくブラック羽川の体を僕から引き剥がそうとしていた。  
 しかしそうする忍も少なからずエネルギーを吸い取られているはずである。  
 今、忍が無防備な羽川の血を吸ってエナジードレインを始めてしまうと、  
 一番先にエネルギーが枯渇するのは僕だろう。  
 忍にもそれは分かっているらしく、なんとか僕と羽川の間に体を割り込ませようとしている。  
 一か八か、僕は羽川の肩口に歯を立てた。  
「にゃあああっ」  
 たまらずといった感じでブラック羽川の体が一瞬僕から離れる。  
 その隙に忍が僕と羽川の体の間に割り込ませた。  
 忍のように怪異を吸い出すなんて事は出来ないけれど。  
 多少吸血鬼に近くなっているので、さっき忍に対してしたように血を吸うことはできる。  
 ギリギリ、エナジードレインの勢いではこちらが負けているだろうか? ほぼ拮抗している感じだ。  
 でもこの状態でなら、忍に加勢してもらえばあっさり均衡は覆る。  
 
「あむ」  
 !?  
 いきなりブラック羽川に、耳を食まれた。  
 そのままちろちろと舌を這わされ、クチュクチュという音が脳内にこだまする。  
 そんなことをされたせいか、急に羽川も僕もほぼ全裸だという事実が脳によみがえってきた。  
 生死の境をさまよっているというのに、血を吸わないといけないのに、  
 僕の思考を被っているのは、羽川の体からする甘い香りだとか。  
 僕のふくらはぎにこすり付けられている、未だ体液を吐き出し続けている羽川の秘裂だとか。  
「欲情しとる場合かたわけっ!」  
 忍の叱責。  
 いやそりゃそうなんだけど。  
 てゆうか忍、お前のせいでもあるんだぞ。  
 なんだかたゆんたゆんしている二つの膨らみが、羽川のそれとぶつかり合って、  
 二人分の膨らみ同士が淫猥に形を変えて僕の視界の端で踊っているのがいけない。  
 なんか位置的にいい感じにかみ合って、羽川のブラと忍の服の描く境界線が、  
 山、谷、山、谷みたいになってるし!  
「馬鹿者がっ」  
 そう叫ぶとなんと忍は、羽川との体の隙間から手を伸ばし、乱暴に僕のペニスをしごきはじめた。  
「おい何をっ」  
 ぐにゅぐにゅと、さおの部分から先端にかけてを、かなり乱暴な手つきでいじられる。  
 痛みを感じるくらいの強さだったが、それすらも頭に血が上った僕には快感でしかない。  
「何考えてんだ忍っ!」  
「それはこっちの台詞じゃっ!」  
 言い争いの間も、忍の指は忙しなく動き続けていた。  
 人差し指が裏の筋を下から上になぞり、親指か円を描くように先端部分をなぶり、  
 ときたま他の指が全体をしごくように僕のペニスをねぶった。  
 加えてさっきから続いている桃源郷のような光景も相まって。  
 僕はあっけなく忍の手の中に性を吐き出してしまう。  
「はぁっ、はぁっ」  
 肩で息をする僕。  
「少しは頭が冷えたか!」  
 いや、まあ冷えたけれども。  
 冷えたけれどもっ。  
 僕はなんとなく泣きそうになるのを堪えて、思わず離してしまっていた羽川の肩口に、再び歯を立てると血を吸いはじめた。  
 忍も、反対側の肩に噛み付きそれに続く。  
 
「にゃああっ」  
 劣勢に気がついたのか、羽川は僕らを振りほどいて再び距離をとった。  
 正直、あの素早さでヒットアンドアウェイの戦法で戦われたらかなり面倒だ。  
 こっちには既に、そんなに長時間戦えるほどの体力は残っていない。  
 それとは別に、先ずは原因である。  
 距離の離れたブラック羽川に、僕はさっき感じた疑問を問いかけた。  
「おい猫! 一体どういうつもりだ。お前は性欲をもてあましていたんじゃないのか?」  
 なのにどうして、解消されるどころか、急に我を忘れたように僕に襲い掛かったりしたんだ。  
「やっぱり結局はお前なんだにゃ」  
 興奮を隠し切れないといったふうに、しかしどこか冷たさを感じさせる声でブラック羽川は続けた。  
「お前への想いが、不安が、つのりに募っていたのが原因だったにゃ。  
 俺が出てきたのはもちろん性欲が引き金ではあったけど、結局お前が原因である事にかわりはないにゃ」  
 僕を睨みつけるブラック羽川。  
「あの女と付き合いだしてからも、お前はご主人に対して、他の女に対して、態度を全然変えにゃかったにゃ。  
 お前がそういう奴だっていうのは、ご主人だって理解していたにゃん。  
 けれどここ最近特に目に見えて、お前はお前の彼女と仲良くなっていったにゃ。  
 この前ご主人がお前の身内を助けた時だって、結局最後お前が頼ったのは、あの女の方だったにゃん」  
「あの時は羽川を選ばずに戦場ヶ原を頼ったっていう訳じゃない、  
 あれは結局うちの妹と、戦場ヶ原の家族としての問題だったわけで――」  
「そんにゃ事はどうでもいい、関係無いにゃん。  
 ご主人としては、とにかくお前に頼られていたいんにゃ。  
 そうでないと、お前の近くに居る事が出来ないにゃん。  
 そんな風に悩んでいる時、偶然運悪く、俺の発情期と重なったにゃ」  
「そんな」  
 そんな事を考えていたのか、羽川は。  
 僕のそばに居る為に。  
 たとえ彼女でなくとも、友達として僕の近くに居る為に。  
 僕に頼ってもらわないと、僕のそばに居てはいけないなんて。  
 そんな悲しい事を考えていたのか、お前は。  
 全然人の事を言えないじゃないか羽川翼――!  
 
 僕の家庭教師をしてくれている戦場ヶ原と僕が仲良くなっていくのを一番近くで感じていたのは、  
 もちろん当然のように、僕のもう一人の家庭教師である羽川だった。  
 ――1から10まで、全てその女の仕事だにゃ。  
 そうブラック羽川は言った。  
 それが家庭教師としての意味合いだけでなく、もっと大きな意味での居場所としてのニュアンスを含んでいたとしたら。  
 羽川の悩みは、どこか怪異のそれを思わせるものであった。  
「ご主人がはっきりお前を諦めないのと同じように、お前もご主人に、現に今だって優しすぎるにゃ。  
 お前がはっきりとご主人と距離を置いてやれば、ご主人もこんなに中途半端な立ち位置に悩んだりはしなかったにゃ」  
「それは重々承知してる。ごめん。  
 けどな化け猫、いや羽川。僕はそれでもお前と友達でいたいんだ」  
「……本当に、お前は我侭な奴だにゃん。」  
「ああ、自分でもそう思うよ。  
 だから悪いけど、今回も荒っぽい方法で解決させてもらう」  
 
 僕がそう言うと遠くから僕を睨みつけていたブラック羽川は、ふいに再び手で目を覆うようにしてうつむいた。  
 泣いているのか? それとも、またさっきの頭痛か?  
 いや違う、さっきも頭痛とは言っていない。  
 目を押さえている……目?  
 ――そうか。  
「主様、このままでは不味いんではないか? 正直アレを無傷で抑えるのは少々無茶だぞ。  
 ここは多少あの女に怪我をさせてでも」  
 確かに僕も忍も、さっきの組み合いで精力は3割くらいといった所まで減らされていた。  
 対して向こうはその吸収分でほぼ全快である。  
 しかし。  
「大丈夫、何とか突破口は見えた。  
 僕が隙を作るから忍はあいつの体を抑えてくれ」  
 なんて不敵に笑う僕に対して、もう本日何度目かも分からないブラック羽川の突進。  
 その四つ足をまるで本物のケモノの様に駆使して駆け抜ける速度は、  
 とても人間や、多少ドーピングした程度の僕に対応できるようなものでは無い。  
 が、その攻撃に対して僕は、少し体を後ろに下げるだけ、  
 ただそれだけで完全にブラック羽川の覆いかぶさるような突進を避けた。  
「にゃっ!?」  
 すかさず忍が、飛び掛ったモーションのまま一瞬無防備になっていた羽川の体を馬乗りになって抑える。  
 そして僕がなるべく羽川の体に触らないようにしながらその首筋に噛み付いた。  
 ブラック羽川の悲鳴が上がる。  
「にゃあああ、にゃあああああっ」  
 
 こんな事が出来たのは僕に彼女の動きが完全に見えていたから、というわけではなく、  
 今のブラック羽川側の視力、遠近感の方に理由があった。  
 いめちぇん。  
 羽川が髪を切り、眼鏡を外したことは、ブラック羽川にも分かっていたんだろう。  
 しかし彼女は、眼鏡の代わりにコンタクトレンズが目に入れられている事に気付かなかった。  
 もしくは、分かってはいたがそれを外す事が出来なかったのだろう。  
 幼いころから図書館に通いつめていた羽川は、かなり近視が進でいたらしい。  
 その為眼鏡、コンタクト共に度の強いものを使っている。  
 度の強い近視用のコンタクトレンズ。  
 遠くの物に焦点が合わない症状を緩和する為、  
 目に入る光の屈折角を調節して、遠くにある物を近くにある物と同じように見るための道具。  
 それを正常な視力の持ち主がつけたらどうなるか。  
 前回前々回共に、ブラック羽川が現れた際、眼鏡は外されていた。  
 もちろん、ブラック羽川自身が外したのだろう。  
 視力が正常な人に対し、そんな物は視界を妨げるだけの邪魔物に過ぎない。  
 さっきから度々ブラック羽川が立ちくらみのように目を押さえていたのは、  
 決して邪気眼や頭痛なんかではなく、  
 合いもしないコンタクト着用による、目の疲れを訴えていたのだった。  
 
「ごほっ」  
 羽川の血を吸ってはいたが、口の中に血が溜まってむせてしまった。  
 やはり本物である忍のように、上手くは出来ない。  
「忍も、もういいよ」  
 僕と同じように血を吸っていた忍に止めるように言う。  
 さっきから羽川の血を吸いすぎたような気もするし、  
 見るともう殆ど元の羽川の髪色に戻っていたので、これくらいで十分だろう。  
 僕は羽川の首元から口を離すと、出血していたそこをハンカチで拭いてやる。  
「お前は」  
 もう、体を起こす気力は残っていないのか、  
 ブラック羽川は顔だけをこちらに向けて言葉を紡ぎ始めた。  
「お前はどうしてそんなに誰にでも優しいにゃ」  
「何だよ、またその話か?」  
「阿良々木君は無自覚に他人に優しくし過ぎるにゃ。  
 お前に本当に好きな人がいるのはこの前も聞いたけれど、ちゃんとその人を他の人と差別してる?」  
 口調がだんだんと羽川のそれに戻りつつある。  
「ちゃんとしてるよ」  
 僕はそんな猫耳の生えた羽川の頭を撫でながら答えた。  
「確かに僕は戦場ヶ原だけじゃなくて、お前の事も好きだし、近所の小学生や、戦場ヶ原の後輩、妹達やその友達、  
 いつも一緒に居る吸血鬼の事も好きだと思う。愛しているのかもしれない」  
「それの何処が差別してるっていうのよ?」  
「まあそうなんだけど、でも僕が愛を受け取るのは、受け取る事が出来るのは、  
 戦場ヶ原ひたぎだけなんだ」  
 僕は皆大好きで、周りからは誰にでも気があるように見えているのかも知れないけれど。  
 いざ戦場ヶ原以外の人から好意を向けられても、僕にはそれを受け取る事は出来ない。  
 精々、オタオタと戸惑う事ぐらいしか出来ないだろう。  
 どうしてなんて問われるまでも無い。  
 自分で認めるのは嫌だけれど、つまり僕という奴は、そんな都合のいい我侭な男だと、  
 ただそれだけの事だった。  
 
 
  後日談というか、今回のオチ。  
 あのまま気を失った羽川と自分の分の衣服を回収し、色々と事後処理をすませたのが金曜の深夜。  
 翌土曜日は羽川が僕の勉強を見てくれる当番だったのだが、彼女の体調不良という事でお休みだった。  
 まあ、あんな事があった後だし、前回と違い、  
 かなり体に無理のかかる運動を、羽川の体はしていた訳で当然と言えば当然。  
 ちなみに今回も羽川の記憶は失われていたようだったが、ただそれも内容が内容。  
 羽川の演技なのかもしれなかった。  
 しかし今は夏休み、曜日の概念なんてあって無い様なもの。  
 土曜日に勉強が無かった事実が戦場ヶ原に知れて、  
 今日、8月4日日曜日は彼女の家で急遽勉強することになった。  
 特にこれといった理由も無く、二日連続で勉強を休むこと等許されないらしい。  
 午前9時50分、何時もどおり僕は戦場ヶ原家のチャイムを押した。  
「開いているわ、阿良々木君」  
 中から戦場ヶ原の声がしたのでドアを開けると、見知らぬショートカットの少女が僕を待っていた。  
「…………」  
「どうしたの、阿良々木君? そんな所に突っ立って」  
 見知らぬ少女、いや戦場ヶ原はそんな僕の様子を気にする風でもなく、勉強道具を広げ始めた。  
「あ、ああ」  
 ギクシャクと、僕は戦場ヶ原の向かいに腰掛ける。  
 いや、めっちゃ可愛いんだよ?  
 シャギーの入った前髪は意外な程よく似合っていたし、  
 ロングだった髪がショートになった事により首及びうなじ周りが露出し、物凄く魅力的だった。  
 だったんだけどさ。  
 羽川とああいう事があった後、最初のコンタクトで彼女の髪がばっさりと切られていたというこの状況は、  
 何だか深読みさせるだけのインパクトがあった。  
 戦場ヶ原に金曜の事はまだ話していない。  
 正直、僕としてはどちらにしようかかなり迷った。むしろ今も迷っている。  
 今回の羽川のストレスの原因は、一度3人で話し合うべきものの様な気もするし、  
 今度三人の都合がつく日にでも打ち明けようかと思っていた。  
 だから、僕にやましい気持ちは無いんだけれど。  
 でも例えば、こんな複線あり得ないんだろうけれど、あの髪の長さが僕の寿命を示唆するものだったりしたら。  
 つい一昨日まで腰まであったそれが、今や首筋に届くかどうかである。  
 今僕の人生はどの辺りなんだろう。  
 もしかしたらもう盆の窪の辺りだったりするんだろうか――。  
 
「阿良々木君」  
 自分の世界に入ってしまっていた僕を戦場ヶ原が呼び戻した。  
「流石に反応待ちだったのだけれど」  
「あ、ああ」  
「さっきからそればっかりね。もしかしてあまりお気に召さなかった?」  
 そういって毛先をいじる戦場ヶ原。  
「いや、そんな事は無い。凄く似合ってるし、その……可愛いよ」  
 あれ、自分の彼女に可愛いって言ったの何時以来だっけ?  
「本当? どの辺りが似合ってる?」  
 そういうと、戦場ヶ原はテーブルを乗り越えて僕の前に顔を突き出してくる。  
「どの辺りって……」  
 髪型を変えてどの辺りって言われても。  
 おっかなびっくり、さっきまで戦場ヶ原が弄っていた前髪の先に触れる。  
 うわっ、すっげえドキドキする。  
 辺りの音がやたら五月蝿く感じられるし、視野もどんどん狭くなってきた。  
   
 戦場ヶ原の方も僕の手を避けるどころか、目を伏せて僕に髪を突き出すようにしてくる。  
「他には?」  
「あとは、うなじとか」  
 言いながら僕は戦場ヶ原のうなじに手を回す。  
 そうしても、戦場ヶ原は無防備に目を閉じたままだ。  
 ――、本当に最近の戦場ヶ原は丸くなったなぁ。  
 髪型はギザギザになったけれども。  
 僕はその目を閉じたままの戦場ヶ原の後頭部に手を回し、自分の顔を近づけ――  
「ちょっと、阿良々木君も戦場ヶ原さんも電話にも出ないし、チャイムにも出ないけど何かあっ……」  
 玄関の戸を開けた、羽川と目があった。  
 え、何々どういう事?  
「羽川さん、一体どうしたの?」  
 珍しく動揺している戦場ヶ原。  
「私が休んだ分の埋め合わせを、戦場ヶ原さんだけにさせるわけにはいかないと思って、  
 二人共に連絡したけど両方共から連絡が帰ってこないから」  
 そういえば、さっきから着信音やチャイムがなっていたような気がしたけど。  
「へえ、ふうん。  
 勉強と称して二人は普段そんな事をしてたんだ。これはちょっと、三人で相談する必要があるわね」  
「ちょっと待って羽川さん、これは違うの、今日は少し浮かれていただけで……」  
「全くそういう事をするなとは言わないけれど、今日は勉強をするはずだったんでしょう? 戦場ヶ原さん」  
 言い訳を許さないと言った風な羽川の雰囲気に負けて、  
 僕達は三人で机を囲むことになった。  
 
   
 ――この後、僕達三人は3時間にも渡る『相談』、話し合いを行い。  
 その協議の末、戦場ヶ原は暫くの間僕の家庭教師の資格を剥奪され、盆が終わるまでの間父方の田舎へ強制送還。  
 僕はその間、羽川一人に勉強を見てもらう事になった。  
 なんだか、今戦場ヶ原と長時間会えなくなるのはかなり寂しいんだけど、  
 羽川の言う事は本当に尤もだったので、反論する事は出来なかった。  
   
   
 こうする事によって、羽川のストレスは溜まりにくくなるのかもしれない。  
 それとも、僕と一緒の時間が増えて逆にストレスが溜まってしまうかもしれない。  
 でも今回は割りと羽川は自分の思いを抑えずに僕達にぶつけていたし、  
 羽川自身ストレスを溜め込まないように注意しているのかもしれなかった。  
 しかしだからと言って、以降ブラック羽川が現れない保障なんて全く無い。  
 また、もしブラック羽川がまた現れたとしても、僕が再び原因になるとも限らない。  
 それは家族の事かもしれないし、全く関係ない別の何かの可能性だって十分にあり得る。  
 まあつまり箱に入れられた猫の生死と同じように、  
 そんな事、蓋を開けてみないと分からないのだ。  
 でも、どんな理由で再びあの化け猫が現れたとしても、僕は可能な限りその解決を手助けしようと思っている。  
 僕は出来るだけ長く、羽川の友達で居続けたいから。  
 
 
 
 
 
 
 おしまい。  
 
 

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