ひたぎメモリー
001
私の大切な人。
いいえ、人間では――ない。
暦。阿良々木暦。
吸血鬼――
正確なところをいえば、半端な? 吸血鬼。
本当に詳しいことは、私も、訊かなかった。彼も、
教えてはくれなかった――
まったく、私との、あの約束はどうするつもり
だったの――
吸血鬼であるために、いえ、その原因となった
吸血鬼の搾りかす――だなんて、酷い表現をしている
けれど、その……忍ちゃんを生かし続けるために……
暦は、暦自身の血を吸わせ続けなければならない。
それは、すぐに教えてくれた――私には、近付くことの
できない、領域。たとえ、私が、私の、全てを捧げたと
しても。それでも、私は……あの、いけすかない吸血鬼
もどきの魅了にかかってしまったのだから――それでも、
私は……
だから、いえ、それだけではないのだけれど、私は
彼と別れた。それが私が、私と彼の思い、重みを戻す
ため、私ではなく、本来あるべきところ、元に戻す
ためだから。でも、何故だか涙が止まらなかった。
彼の前では、なんとか堪えることができた。昔の私に、
より深く知り合う前の私に戻って――
それからも私は、表面上、平静を装うことができた。
別に、それは昔から得意だった。でも、けれど、内面、
私の中身は、全て……そう、その覚悟をしたときは、
半身を削られるだろうと思っていた。それはきちんと
覚悟できていた。それは、初めてのデートの頃……
ウブなネンネだった頃から覚悟をしていたことだから。
でも、実際には私の全て。私は……抜け殻になって
しまった。
わからない。
何故――
そう、あの、怪異と出会ったときのように――
そして、あれだけ充実していた休日までもが……
暇、隙間、間、空隙――表現を変えたところで、何も
変わることはないのだけれど。学生の頃は勉強をして
いれば、それでよかった。とても、簡単なこと。でも、
それも高校の三年になるまで――そういえば、彼も、
同じようなことを言っていたことを思い出す。本人は
否定しながらだったけれど。そのときの私は、生き生きと
毒舌で彼を喜ばせていた、な――
私は少しだけ、お酒を覚えた。付き合いで飲むことは
あったのだけれど、自分から飲むことはなかった。
こんな、使い古された、よくある陳腐な話。まさか、
私がなんて、笑えるわ……でも、酔えなかったような
気がする。中身のない抜け殻には、アルコールも作用
しない。なんて思ったことを今でも覚えている。その割
には、飲んだ後に何度もトイレで戻してしまうことが
あったりしたから、体と心では作用の仕方が違うと、
自分の中で結論付けたりしていた。肉欲に溺れることが
できれば、きっと、楽だったのかもしれない。でも、
私には、出来なかった。あの……いけすかない吸血鬼
もどき以外に――でも、それは、いつか、覚悟を――
しなければならないことだと、思おうと、努力していた。
私は、本当に、あのトラウマ(あの頃はトラウマだなんて
認められなかったけれど、今は、認めている)を克服
できていたの? このときは正直わからなくなって
しまって……
それでも、時間は流れ続けてしまう。私は、ただ、
ぼんやりと、仕方なく、日々を消化していた。
002
彼と別れてから、怪異に出会うことは、一切――
なくなった。別に、彼と忍野さんに助けてもらう前から、
あの怪異以外、出会うことはなかったのだけれど、
わざわざ面倒ごとに首を突っ込む、お人よしと付き合って
いたときは――どうしても、ね。
そんなことを思いながら、休日を消化するため、
私は、散歩がてら、思い出の公園に行ってみることに
した。そのとき、なんとなく、何故か、そうしなければ
ならないと思ったから。夢? なんだか、ここのところ、
そうするよう、耳元で囁かれていたような……
――怪異、偶然、運命?
小さな怪異――八九寺、八九寺真宵ちゃん(出会った
頃は見えなかったけれど、浮遊霊になったとかで、
すぐに私にも見えるようになった)が、彼と公園に
入るのを見た。――私は、一瞬、いえ、しばらく心臓が
止まった。
私と彼が付き合うきっかけとなった事件。蝸牛の迷子。
そして、八九寺ちゃんは、こちらを見てから……消えて
しまった――
止まってしまった心臓が、その失態を取り戻すかの
ように激しく動き出す。おかげで、私は一瞬倒れそうに
なってしまったけれど、なんとか堪えることができた。
そして――
気付けば、私は久し振りに、彼に声を掛けていた。
頭が回転しすぎて考えがまとまらない。あの頃、私が、
彼に、初めて、告白したときと同じ。
いえ……あのときは、もっと、もう少し冷静だった。
と、思う――心臓が頑張りすぎて苦しい。阿良々木くん、
私と話をしてくれるかしら? 私、おかしな格好をして
いない? 阿良々木くん……阿良々木くん――暦!
――気付けば、私は阿良々木くん……暦に、痛いほど
強く抱き締められ、いえ、拘束された上で口を塞がれて
いた。久し振りのキスを……されていた。久し振りの、
全身から、力が、全て……抜けきってしまう感覚。
――優しいところ、可愛いところ。私が困っている
ときには、今回は、ちょっと遅かったけれど……いえ、
ちゃんと、いつでも助けに来てくれる、私の王子様――
そして、この日の私達は、自分の部屋へと戻ることは
なく――王子様は、優しく――なかった。私は、本当は、
少しだけ恐かったけれど、失なった中身を満たされる
感覚に陶酔していた。涙を流すくらい嬉しかった。
こよみも、子供のように……泣いていた。
お互いに満たされる心と体――
結局、こよみと私が、落ち着いて話ができるように
なったのは、朝になってからのことだった。
003
あららぎひたぎ。語呂は悪くないわね。なんて思った
のが、初めの印象。『ガハラさん』って呼び方は、
暦にしか呼ばれない――という意味では最高だった
けれど、暦は随分と前から『ひたぎ』と呼んでくれて
いた(というよりも、呼ばせていた)から、そんなに
長い間呼ばれていたわけではなかった――特に、二人きり
のときは、ね。
暦の家族とはお付き合いも長いし、とても良い関係
なのだけれど、ただ、あの元気な姉妹が、その……
羽川さんとの関係だとか、そのあたりの気を遣い過ぎ
だったのが、ちょっとだけ、こそばゆかったりして。
でも、それもすぐに。そこは女同士、そのあたりは、ね。
それよりも、むしろ暦が……いえ、それについては
色々とお仕置きを済ませたから別にいいのだけれど。
ただ、あの男、お仕置きをしたところで、『ご褒美です』
だなんて本気で思っているようなところがあるのが――
はあ、何故、こんな男に魅かれてしまったのかしら……
新婚生活。高校の頃、暦と付き合ってしまってから、
デレただの、ドロっただのなんて、周りから不愉快な
言われようをされてきたものだけれど、私としては、
そんなことはなかったつもり。元々、暦の前では甘えて
いたし……ただ、暦の前だけというのが面倒になった
だけ。『それをドロって言うんだ!』なんて、暦や
神原には(神原が、素で、本気で突っ込みを入れて
きたのは、このときが初めて)言われたりして、私は
納得できなかったりしていた――ええと、そうじゃ
なくて、新婚生活の話。そう、本当のドロドロ。いえ、
そんなものが本当にあるのだとすればの話だけれど、
それは、やっぱり、この新婚生活のこと。――ええと、
その、いろいろと……ね!
その、ドロドロとやらの結果? 私は、いえ、私と
暦は、赤ちゃんを授かった。
不安がないわけでは、なかった。
――もちろん、このことに関しては、結婚をするとき、
色々と相談をした。幸い、問題はない。とのことだった。
問題がある場合。それが、女として、悲しいこと……
だとしても――それは覚悟していた。彼も、それは、
色々と心配してくれていた……でも、大丈夫。
本当に――良かった――
私のお腹が大きくなってからの暦は、ちょっと引く
くらい私に甘えてくるようになって……前から、その、
深い関係になった頃から、二人のときは、ずーっと
甘えんぼうさん(本人に言うと、否定してスネるのが
可愛い!)ではあったのだけれど、あの……安定期に
なるまでの、その……できない期間の影響かしら?
とも思ったりして……けれども、結局はそうではなく、
暦の、おっぱい星人としての本能(私の場合、妊娠して
胸がかなり大きくなった!)や、彼なりの優しさが、
そうさせていたみたい。まったく、おかげで赤ちゃんが
生まれてしばらく経ったら、おっぱい小さくなって
しまうのよね……でも、元々そんなに小さくないわ!
男と別れたことのない……いえ、一度だけあるけれど、
わがままボディだったはずよ! だなんて、今から
考えたら妙な心配をさせられることになったりして……
でも、このことを暦に相談したら大笑いされたのは、
本当に恥ずかしかった。忍ちゃんなんて、ドーナツと
牛乳を吹き出す始末だったし……顔が真っ赤になって、
泣きそうになりながら暦を睨んでも後の祭。でも、
私、そこまで、そんなにおかしなことを言ったかしら……
赤ちゃんが生まれてからは、もう本当に大変。当たり前
だけれど初めての経験だったし、何から何までわからない
ことだらけ……それだけに忍ちゃんの協力は、本当に
嬉しかった。最初は忍ちゃんも、おっかなびっくり
だったけれど、すぐに慣れたみたいで、今では楽しみ
ながら色々と助けてくれる。ときどき、照れたような
顔をしながらドーナツを多めに注文するのは、彼女の
照れ隠し。
――私は決めていた。思い出の公園に行くって。
私の幸せの一歩目となった――あの、公園。
公園デビューだなんて、別に、そんなに、あまり
気にしたことなんてないのだけれど、昔ほど面倒じゃ
ないらしいし、暦も、なんだか、そんなに心配することは
ないよ。だなんて、妙に優しく言ってくれていたし、
色々と噂には聞いてはいたけれど、元々、そんなに、
緊張したり、変に気負うようなことも、本当、全然、
全くなかったし――ちょっと、下見をしたりとか、
色々と情報を調べたりしたくらい。昔の私なら、神原に
偵察させたり、念のためホッチキスを持っていったり
したかもしれないけれど!
――今の、私は、大丈夫……
今の私は、大丈夫。
みんなが居てくれる……今の私なら――
004
まだ、ちょっとだけ寒いけれど、いい天気の日曜日。
暖かい季節はもうすぐ。
柔らかになってきた日射しの中、ベビーカーを押し、
例の公園に向かう私達。
「……ねえ、暦。最初のデート、覚えてる?」
「も、もちろん。忘れるわけないだろ!」
本当、色々な意味で、一生忘れないわよね!
「今度は、この子も一緒に、ね」
「そうだね。もう少し暖かくなったら、みんなで行こう」
「少しずつ、みんなで、色々な所に行きたいわね」
「ああ、そうだね……」
――今日のところは、とりあえず。私が一歩目を
踏み出した、あの公園へ。
おしまい。