迷うこともあるのだけれど。  
 結局それは、  
 絵の具を混ぜあわせた時のような、次の段階へむかうために必要な混沌にすぎず、  
 誰かに向かって口に出したところで、  
 他人のことなら俯瞰して見えるから、よくわかるから。  
 生々しい温度なんて感じないから、どうしたって、  
 当事者の戯言にしか聞こえない。  
 
 ……困ったものだ。  
 本当に、参る。  
 出夢君に会いにきた僕は、こうして彼の部屋で一泊することになって、だから心底やるせなくなっている。  
「あん? どーしたんだよお兄さん」  
 出夢君は布団に寝っ転がって不思議そうに言う。  
 全裸で、言う。  
「……」  
 ほっそりと華奢に見える体は、それでも付くべきところに肉がついている。電気代がもったいないと夏の長い夕暮れだけに灯りを任せているので、その体は茜色に染まって部屋に浮かぶ。出夢君は頓着無しに黙っている僕の目の前で、突如起き出してあぐらをかく。  
「どーしたっつってんだよ。早めに寝るかっつったのはお兄さんだぜ? 明日帰るんだろ? 十三階段に備えてさー」  
「いや……どうして脱いだのかと」  
 片目をつぶって彼は首を振る。  
「言ったろ、僕は裸じゃなきゃ寝れないんだよ」  
「やっぱり畳で寝るよ」  
 暑さが残っているのでベッドの端によせていた、余っている布団を掴む。と、横から出夢君の足が伸びてきて僕のわき腹に蹴りが入った。うぐ。そのままきっぱり断言有無も言わせず合否も取らず是非も求めない口調で僕に指導する出夢君。  
「ベッドで寝ろ」  
「……」  
 といったところで出夢君はベッドの上から動かない。これでは一緒に寝てしまう。寝るっていうか眠ってしまう。  
「だめだろ」  
 僕はツッコんでみる。展開からの反応は無い。  
 
「いーから寝ろよ。こっちはこっちで襲われたって全殺しで対処できるんだよ。お兄さん、立場が逆だぜ?」  
 そう言われてしまうと返す言葉が無い。確かに相手が堂々としているのに、こっちが気後れするのもどうだろうか。  
 心は少年といえ身体は女性、出夢君はそういう自覚がちゃんとあった上で言っているのだ。出夢君の視線がどんどん鋭くなっていく。  
 これでは僕が……ううん。仕方ない。いや、決して、このまま頷かなければ全殺しどころか十二割殺しの目にあいそうだなんて思ったわけではない。  
 かなり気を付けながら、僕は出夢君の隣に腰を下ろし、タオルケットや毛布を身体に引き寄せた。  
 窓の外も藍色になりかけ、なんて健康的。僕らは二人そろって横になってもう眠ってしまう。  
「おやすみ」  
「おー」  
 のんきそうな出夢君の声に、僕は軽く切なくなった。息子の迷いはいったい。  
 
 
 とはいえ。  
 僕は他人の気配があると寝つけないタイプだ。しかも今回の場合は強烈で、寝返りを打とうとかちょっと手を遊ばせてみようとかした瞬間に地獄直行である。  
 そのくせ覆うもののない肌が醸しだす熱は、直接布団や毛布、空気にうつっては僕に数cm分の距離をささやく。あまりに露骨で、感覚を刺す。  
 甘い誘惑というより劣悪な情動に、僕は首を動かして出夢君を見ることすらできなかった。  
 息も、止めがちに。  
「……お兄さん」  
「……うん」  
「昼さー、お兄さんが来たじゃん? 僕は直前まで寝てたんだよ」  
「うん」  
「寝れねーのな」  
 突、然、バサりと。  
 
「お兄さんは?」  
 
 タオルケットも毛布も、出夢君が払ってしまう。彼は上体を起こしている。開けたカーテンからこぼれる薄い青っぽい光に、丸みを帯びた体を浮かび上がらせて僕を見ている。  
 輪郭と、かすかな陰影。それらがわかるギリギリの光量の中で、見下ろされる視線の意味を確かめようと僕は目をこらす。  
「君は――」  
 言おうか迷う。  
 口に出すのを躊躇う。  
 そして結局つぐんだ。  
 すると、ふと思いついたように出夢君がベッドから降りて、まとめてある新聞紙のあたりでごそごそしだした。気になって僕も上体を起こす。戻ってきた彼の手の中にはビニールテープがあり、その端を出してから、  
「お兄さん、手出しな」  
 言われたとおりにする僕の両手首を紐で巻いていく。絞られるとちょうど手錠のようになったのが見てわかる。端は切らずにそのままほっぽる。  
「出夢君?」  
 顔を上げる。  
 唇を噛まれた。  
 次に、舌で噛まれた部分を舐められる。それからついでのようなキス。  
「ぎゃは」  
 呆然とした顔が間抜けだったのか、顔を離した出夢君はかつてのように、笑った。  
「言った手前全殺しはしねぇけどさー。暇だし久しぶりだし一人じゃ詰まらないし僕の称号は《人食い》だし」  
 体を押される。支えられず僕は倒れ、そこにのしかかられる。  
 
「食ってやろう、って思ってさ」  
 
 取り払われたタオルケットは、ベッドから滑り落ちていた。  
 出夢君が僕のTシャツを捲り上げる。やばい、本気だ。焦って、縛られたままの両手を、腹筋を舐める出夢君を引き離すのに使う。  
 と言っても相手は元殺し屋、どれだけ力を振り絞っても出夢君は意にも介さず腹から胸に舌を遊ばせる。まるで無力、これでは抵抗たる反抗にもならない。  
「い、出夢君、そろそろ冗談は――」  
「ん、ん? なんだよお兄さん」  
 顔だけ上げて、目だけは僕を見て、出夢君は笑った。  
「もしかして犯されるの怖ぇの?」  
「……」  
僕は答えなかった。  
 わずかばかりの知識によれば、強姦は『性器同士が接触を持つこと』で罪として成り立つ。射精があったか相手が感じていたかどうかはひとまず脇に置かれる――そしてこの状況。  
 僕が……可能な状態になったとするならば、あくまで僕が交渉を拒否し続ける意思を見せる限り、その行為の名称は『犯される』になる。  
 それはちょっと。  
「知ってるだろう?僕は流される人間なんだよ。まして出夢君からなんて、その気にならないほうが――」  
 バシン、と頬が音を立てた。  
 目の前がちかちかする。  
 出夢君は返す手でもう一度反対側も打つ。それから前髪を掴まれた。そのまま枕に押しつけられる。  
 喉が反って苦しい。  
「わかってねーな。僕は、お、か、す、つったんだぜお兄さん?僕はあんたを殺さないさ、殺さないがそれでもわだかまりがある。ぎゃははっ。お兄さん、実は少しぐらい叩きのめされるのも仕方ねぇって思ってんじゃねぇの?」  
僕は出夢君の声音におされて黙り込む。彼はどこか寂しそうに、短く笑った。彼が止まっていたのはその一瞬だけだ。  
「そうそう、できるなら最高に僕が楽しくて、お兄さんには――」  
 ジッパーを引き下げる音がした。体勢を変え、空いているほうの手で僕のジーンズにおせっかいをかけてるのだ。  
 布越しに触られると、体に一瞬電気が走った気がした。  
 
「――最悪と似合いの屈辱ってやつを味わわせたいねぇ」  
「……っつぅ!」  
 ややきつめに握りこまれる。ひゅうっ、と茶化すような口笛が聞こえた。  
「イイ顔すんじゃん。楽しい限りじゃねーのー。ぎゃははっ」  
 なっ…出夢君、もしかしなくても夜目がきくのか…!?  
 僕のジーンズの前はすっかり晒されている。爪の先だけで、下着の布目にそって何度も撫でられる。余裕があるうちに逃げようと暴れた。  
 
 いや、余裕がある、というのは誇張表現かもしれない。  
 え、あれ、誇張って使い道あってたっけ。膨張は違うよな……それは今もっとも危険な状況の僕の股間のことだ。  
 出夢君の指は長く細く、するりと下着の中に入ってくると、硬さを確かめるように動いた。繊細かと思えば促すような荒っぽい上下運動。  
 問題はそれだけじゃなく、近すぎる他人の呼吸が耳から侵略してきて僕の理性を削る。獣みたいな、しんどそうな短い息に連動して、出夢君の肌、シャツをめくられた僕の肌が時々ぶつかる。実際、体勢的に出夢君は辛いのだろう。  
 徐々に僕の角度が変わってきたから、それに合わせて手首から肘、腕、上半身と、微調整しているのが分かる。  
 逃げるには――チャンス!  
「それで抵抗かよ」  
 今度はちゃんと全力を出して暴れた僕の視界の端で、長い手が動いた、ように、見えた。ここで一つ伏線が消えたことに僕は実感として気づく。  
 両手を縛ったビニールテープの端が彼の手に握られていたのだ。根元で切らなかったのは、なるほど……  
 僕は引っ張られて肩を掴まれ、上半身をなんとか起こしたまま出夢君と向き合う。  
「お兄さん――」  
「ぅ――」  
 悲しそうな声なのに、鼻先に近づいた顔は口の端をあげて笑っているのが分かる。怖い。僕はこういう種類の笑顔を、人類最強がよく浮かべているのを知っている。  
「なーんだ、そーかそーか。水臭いぜお兄さん、『僕に』されるのが嫌なら言ってくれよ。自分でしたかったんだなっ?」  
 え?  
 
 思ってる間に出夢君は僕の両膝にのり(完璧な固定)、持っていたテープの端を、上向きになっていた僕自身にくるりとまきつけた。僕の手がちょうど股にくることになる。  
「さー、どーぞお兄さん?」  
「どうぞって……」  
「だからマスターベーション?一人エッチ?自慰ってやつ!ぎゃはははっ。ちゃーぁんと僕が、一から十の隅から隅まで細部の深部の局部までしっかり見ててやるからさ!」  
 頭がくらくらした。意味がよくわからない。それは出夢君の言葉遣いのせいではなく。  
 ……この状況でしろ、というのか。一人で。  
「イクまで外さねーからごゆっくり」  
追い討ちがかかった。  
 僕はそっと指を這わせた。うわ。躊躇う。いやでも。  
 『隠遁』した出夢君に、さらに罪を――強姦なんて――かぶせたくはない。説得が無駄ならせめて形だけでも普通のセックスをと思う。たとえそれが一人よがりの戯言よりも馬鹿馬鹿しい行為であっても。  
「……っう…」  
 手のひらで包んで軽く擦ると、脳の感覚が鈍感になってくらくらしてくる。鋭い出夢君の視線があるおかげで、まだ自分を客観的に見れる。けどそれは、同時にひどく恥ずかしかった。やばい。変な高揚がある。僕はそんなにマゾなのか。  
 屹立は野蛮な影を太腿に落としていた。薄暗さの中で、それが充分大きいことが見て取れる。  
 早く終わらせてしまおうという思惑と裏腹に、最後の瞬間は遠かった。ビニールテープが根元に食いこんでるせいで痛いのだ。興奮しているのか萎えているのか、自分で刺激を与えながら分からなくなってくる。  
「出夢、く……こ…、はず、し…っ…」.  
「何言ってんの?もっとはっきり言えよ戯言遣いのお兄さん」  
「この、テープ、を、はず…し…」  
「ん、ん?テープを、誰のどこから外せって?」  
「だか……っく……」  
混沌と曖昧な脳の中で、快感だけは着実に溜まっていく。  
 ひどく衝動的に、僕はその瞬間を迎えてしまった。  
 浅い息を繰り返して、僕は自分の手に目を落とす。不思議な感覚だった。  
「イった?にしちゃ――萎えてないし出てないよな」  
「いや、……縛ってたから、じゃ、ないかな」  
 
それでも常態で言うところのイッた感じはある。軽い疲労交じりに息を吐くと、出夢君が冷静に言った。  
「じゃあ続行」  
「ぞ、続行!?」  
「今度は僕もやるよ」  
 出夢君がまたがったまま立ち膝になった。腕が動く。その先は、薄い毛に覆われた、両足の付け根――体の真ん中だ。指がゆっくりとそこに入る様を、僕は見てしまう。  
 ちく、と水の音がした。  
 
 ぎし、と音を立てたのはベッドのスプリングだ。  
 それよりもっと生々しい、生ぬるい温度までわかりそうな、水がかき混ざる音と、湿った肉が吸いつくように摩擦を起こして股と指が密やかに響く。  
 顔を俯むけても決定的な蠢きが見える。  
 声を上げようにも喉が乾く。出夢君が一際高く鳴いて、抜いた指がぬめって引く体液の糸を、口で受け止めたくなった。  
 喉より、もっと、重要なところが潤う気がする。  
「……エロい目」  
出夢君は立ち膝で、足を伸ばして座る僕を見下ろす。  
「やっと本気になったみてーじゃん。ぎゃははっ、こういうのそそられるんだ、お兄ーさんは」  
 そろそろ僕も麻痺している。縛られたままの手首も脳も。  
 出夢君は肩を押してシーツに横たわらせ、覆い被さってくる。最初の体勢だ。違うのは、性器への刺激は今度は手ではなく――出夢君のじっとり湿った、熱い粘膜だった。  
 声は堪えなかった。二人重なって、わざわざ自分の声を確認している余裕もない。喘ぎだけなら、どちらがどちらに追い詰められているのかわからない。実際は拘束されているぶん、追い詰められてるのは僕なんだが……  
「いず、む…っ…ん、………」  
「……ぁあ、だあっ、て…ろっ…」  
 僕はその文句を無視する。  
「……さぃ…っ…しょ」  
 そういえば昔は、羊を数える代わりの寝物語も、夜伽といったんじゃなかったろうか。  
 夜に語るお伽話は、いつも過剰に不思議で自分のいる世界とは遠い。  
 
「――迷っていただろう?」  
 
 出夢君は笑った。動きを止めず、絡んだ体液をビニールテープに伝わらせながら、理澄ちゃんのように笑った。  
 返事はなく、ただ、根元と手首から解かれた紐が、ぐしゃりと卑猥な音を立ててベッドの祖とに放り出されて、  
 一度イッたばかりの僕は抑えが外れたことで、抜くのもままならないまま、胸の上に倒れこんで震える出夢君の中に出した。多分、二度分一気に。  
 
 
 
 終わった後の出夢君はあっけらかんとしたものだった。  
「殺し屋もしくは匂宮は、全てが兄妹でチーム組んで生涯そういう繋がりだけのままっつーのが多いんだよな」  
 多い、という表現はすごく抑えた表現じゃないかと、横になりながら思う。  
「愛してるなんて言葉は家族にしか使わねーんだよ。そういう愛しか無い」  
 てっとり早くてわかりやすい他人への愛情のお返しはセックスだと、そういう、思考。  
 ……。  
 コメントは控えて質問を向ける。  
「布団に入ってしばらく迷ってたのは?」  
「お兄さんって余計に頭回るよな」  
「誉め言葉に頂く」  
 出夢君は僕の隣で面倒そうにつぶやいた。  
「迷うこともあるけどさ。  
 結局そんなもの、絵の具を混ぜあわせた時みてーな、次の段階へいくのに必要なだけの混沌ってだけで、  
 誰かに向かって言ってやっても、他人のことなら俯瞰して見えるから、よくわかるから。生々しい温度なんて感じねぇから。  
 どうしたって、  
 当事者の戯言にしか聞こえねえよ」  
 僕はその言葉の意味を言及するべきだろうか。それは出夢君から僕に引いた境界線かと。愛してると言葉だけでも言った僕に対する返事。  
 いや、麻痺したままの思考回路では難しいことは止めよう。きっと際限無く逸れていく。  
 ただ一つ、残したことをやって終いにしようじゃないか。  
「愛情のお返しはセックスだけじゃないよ」  
「あん?」  
「乾いた喉を潤してやるとか」  
 ぎゃははなんだそりゃ、と言った唇は、笑った形で僕のと合わさって愛液に似た唾液を送りこむ。  
 イくのは二度、キスも二度。  
 出夢君が、舌を絡めながら今はいない彼の妹の名前をなぞった気がした。  
   
 
 
店仕舞い。  
 

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