『序章〜』  
 一つここで考えてみよう。ぼくが男ではなかったとしたら、ぼくはいったいどういう生活を送っていただろうか。  
 たとえば、女性のぼくはバリバリのキャリアウーマンになっているのかもしれない。あるいは結婚してごく普通の生活を送っているかもしれない。  
 もしかすると今のぼくと同じ生活をしているかもしれないし、はたまた最強の赤になっている可能性だって無いとは言えない。  
 ……いや、それはさすがに無いか。  
 まあそれはともかく、世の中には異性に生まれたかったという人がいるが、それは結局『今の自分より優れた自分』を求めているだけなのではないだろうか。  
 自分自身をまともに知っているならば、異性に生まれ変わりたいなどとバカバカしい考えなど持つわけがないのだ。それはただ単に現在の自分自身から逃げているだけに過ぎないし、それに本質的には逃げる行為にすらなっていない。  
 つまりぼくが何を言いたいかと言うと……  
 
「いっきーブツブツうるさいよ。ゆっくり本も読めやしない」  
「……それはすみませんでした。居候の春日井春日さん」  
 フルネームで呼んでみた。  
 居候なはずなのに、まるでこの家の主のように振る舞っている彼女の名前は春日井春日。とある事件で知りあった変態チックな生物学者さんである。  
「それにしてもセーラー服を目の前に広げてブツブツ呟いてるとまるで変質者みたいだね」  
 春日井さんがにっこりと笑って、そんなことを言ってくる。超一流の変質者に言われるあたり、ぼくはもう駄目なのかもしれなかった。  
「……さっきの説明、まさか聞いてなかったんですか」  
「うん?」と春日井さんは小首を傾げた。不思議と可愛いという感じはしない。むしろ食虫植物や肉食獣の様な印象を受ける。  
「それは誰に訊いているのかな? 私が人の話を聞かない人非人だとでも思ってるのかな? いっきーは?」  
 ……っていうことはヒトの言うことを認識して理解して分かった上で、ぼくをからかっているということになるのだろうか。なんて素敵な性格の人だろう。  
「……さっきも言いましたけど、これは学園祭のための衣装です。別に個人的な趣味で所持しているわけではないですよ」  
 
「まあ確かにいっきーはセーラー服なんか買わないと思うけどね」  
「分かっていただけましたか」  
「いっきーはメイドマニアだものね」  
 それに「そうですね」と頷けとでも言うのか。  
「それにしても学園祭か……。なんだか私も学生時代を思い出すよ」  
「春日井さんにも学生時代があったんですか?」  
 それはちょっと意外だった。  
「別に生まれてからずっとこの姿って訳じゃないからね」  
「そりゃそうですけど……。でも学園祭に思い出があるってことは、春日井さんも学生時代は普通の人だったんですね」  
「失礼しちゃうなあ。君は私のことを何だと思ってるのかな?」  
 珍しく春日井さんに非難され、ぼくは少しばかり反省した。確かに、少なくとも女性に対して言うような言葉ではなかった。  
 春日井さんだから表情の変化を読みとることはできないが、普通に考えれば聞いていてあまり気持ちの良い台詞ではないだろう。  
「すみません……。あ、でもじゃあ、春日井さんも学生時代は何か出し物とかしたんですね」  
「ううん。学園祭は全部病欠してたからね」  
 サラリと言われた。  
 ぼくが謝ったのはいったいなんだったのだろうか。  
 
「もういいです。ぼくは明日の用意があるんで黙っててください」  
「ひどい男だね。いっきーは。そうやって肌を重ねた相手を邪険にするんだね」  
「何もしてないのに、まるで何かしたかのように言わないでください」  
「じゃあすればいいのかな?」  
「しません」  
 ぼくはわざと不機嫌そうに言い捨てて、セーラー服にアイロンをかけ始めた。  
 このセーラー服が学園祭で女装喫茶という、ありそうで普通は無いイベントの重要な小道具であることを思いだし、ため息をつく。  
「邪魔者は先に寝かせてもらうよ」  
 もくもくと作業を続けるぼくを見ていることに飽きたのか、春日井さんは一つしか無い布団に潜り込んだ。  
 春日井さんが居候している間、ぼくは床と座布団と毛布で寝ることを強いられている。もう慣れたけど。  
「ああ。そう言えば」  
 春日井さんが布団を被ったまま、ふと思いついた様に語りかけてきた。  
「何です?」  
「確認しておくけどいっきーのクラスの出し物は女装喫茶でいっきーは明日八時半頃登校するんだね?」  
「そうですけど?」  
「分かった。覚えとくよ」  
「……?」  
 春日井さんの妙な念押しに、ぼくはうすら寒い感覚を覚えつつも、何故そんな事を尋ねたのか確認しなかった。この事をぼくは後悔することになる。  
 
「何してんねん、いっくん?」  
「あ……えーと……美奈山さん。おはよう」  
 割り当ての教室の前で後ろから美奈山さんに声をかけられた。美奈山さんは今日もジャージにハイヒール姿だった。女子は男装する事になっているのだが、この人はこれが衣装ということなのだろう。  
「あれ? いっくんなんやいつもより声高くない?」  
「あ、いや。ちょっと風邪気味みたいなんだ」  
「ふーん? 普通は風邪ひいたら声低くなるような気もするけど……まあ、いっくんなら何が起こっても不思議やないか」  
 いつもなら「ぼくってそんな評価なのか……」とつっこみを入れるところなのだが、今のぼくにはそんな余裕はまったく無い。  
 何故ならぼくは今、人類の神秘と言うか、科学の奇跡と言うか、変態な生物学者の気まぐれと言うか、そういうものと戦っているのだ。特に最後。  
「それより何で教室入らんの? もしやまたあの赤い人が来てるとか?」  
「い、いや、ちょっとまだ心の準備が」  
「心の準備て……たかが学園祭やん。いっくんて意外と舞い上がるタイプなんや」  
 そうじゃないんです、美奈山さん。ただ学園祭なだけなら、ぼくは別に概ね大丈夫なんですが。  
 
 そんなぼくの気もいざ知らず、美奈山さんは教室のドアを開けたままきょとんとぼくの方を見つめている。  
「……入らんの?」  
「あ、入ります……」  
 ぼくは覚悟を決めて教室に入った。  
 教室の中はすでに飾り付けがなされていた。飾り付け自体は喫茶店風なのだが、土台が教室というアンバランスな調和が、いかにも学園祭然とした感じを醸し出している。  
「おー! やっと来たかいっくん!」  
 看護婦さんの格好をした葦柾くんが、こちらへと声をかけてきた。金髪逆毛の看護婦さんというものは、何というか、なかなか味がある。絶対看病はしてもらいたくない類の。  
「まだ男子は葦柾くんといっくんしか来てないんだよ。それでなんだか葦柾くんが浮いちゃって」  
 説明してくれたメルヘンさんは学ランを着ている。右肩にはいつも通りハムスターがいるのだが、見慣れない様子に居心地悪そうにしている様にも見える。  
「こいつら、俺の格好見て『気持ち悪い』てうるさいねん。でも、これで俺だけやないからな」  
 葦柾くんがほっとした表情で言う。どうやら随分からかわれていたらしい。まあ、からかわれなかったらからかわれなかったで相当辛いものがあると思うが。  
 
「う〜ん。でも、いっくん本物の女の子みたいやし、葦柾が浮いてるのは変わってないと思うけどな?」  
「それはそうかも。いっくんかなり可愛いから。そこらの女の子よりも可愛いかもしれないね」  
 美奈山さんの言うことにメルヘンさんが同調する。  
「実はいっくん女の子だったりしてな」  
 葦柾くんがそう言って笑って見せた。  
「もし初めて会った時この格好だったら、私は信じてそうだよ」  
 メルヘンさんも微笑んだ。  
「いっくん見てると自信無くしてまうわー」  
 と、美奈山さんも笑った。  
 和気藹々とした雰囲気の中で、ぼくだけが笑わなかった。ぼくだけが全然笑えなかった。  
 
 
「はぁ……疲れた……」  
 ぼくは一人屋上でため息をついていた。交代時間になって休憩しようと思ったのだが、この体であまり人目につくのはぞっとしない。  
 休憩時間も宣伝を兼ねて着替えないことになっているし、人混みを避けているうちに屋上に行き着いたという訳だ。  
「おいおいいーたん。こんなところでサボリですか? 友達裏切っちゃっていーんですか? うん?」  
 不意に背後から赤い声が聞こえた。声に色がついている訳はないのだが、しかしおそらく百人に聞いたらほぼ百人全員から「赤い」という評価が返ってくるだろう。  
「友達じゃないから、別にいいんですよ。哀川さん」  
「名前で呼べっつってんだろーが」  
 後ろから蹴られた。  
「しっかし、何やってんだお前? もしかしてあれか? この前の女子校不法侵入の時に目覚めたとか」  
「何にですか何に。別にそんなんじゃありませんよ。学園祭の出し物なんです」  
「へえ……劇か何かか?」  
「女装喫茶です」  
 ぼくが即答すると、背後から聞こえる哀川さんの口調が、からかっているそれに変化した。  
「ほお……それはそれは」  
 
「ぼくとしては参加しないでおきたかったんですけどね。クラスメイトの強引かつ強制的なやり方に為すすべもなく完敗しました」  
「おまえが本気で嫌がれば幾らでもやりようはあるだろうにさ。何だ? 家族サービスみたいなもんか?」  
「先日ぼくの知り合いで教室に乱入した方がいらっしゃいまして。教室の真ん中にどんと構えていられたせいで、迷惑かけたみたいですからね。少しばかり負い目を感じてるんですよ」  
「そーか。大変だな」  
 あっさり流しやがった。  
「ところでいーたん? お姉さんはちょっとばかり質問があるんだが」  
 哀川さんはそう言ってぼくの肩に手を回してきた。なんだろうこれは。予測してない展開だ。  
「なんです?」  
「おまえ、さっきからあたしと向き合わないようにしてるな」  
「…………」  
「日本じゃいつから女装ってのは、作りものじゃない胸とか持ってる奴のことになったんだ?」  
「…………」  
「なんだか妙だと思ってたんだけどな。気にしなきゃ分からないが触るとはっきり分かる。体も一回り小さくなってるし全体的にも体が丸みを帯びてる」  
「……潤さんの気のせいですよ。ぼくは天気によってわりと体格が変わりやすい体質なんです」  
 
「もしも今日『女装してなかったら』、今頃周りの奴らには気づかれてただろうな?」  
 もしも、変化の分かりやすい『いつも通りの格好だったら』。気づかれていただろうか。  
「そんなことありませんよ。何に気づくって言うんですか。ぼくはいつも通りの平々凡々とした戯言遣いです」  
「……ほおお。この後に及んでまだそんなこと言うのか。いーたんは」  
 そう言って哀川さんは、後ろから両腕でぼくの頭を抱え込むように挟んだ。後ろにいるので表情は分からないが、おそらくかなり凄い表情をしていることだろう。  
「それじゃあ、体の方に訊いてみよっかなあ?」  
 そう言って鎖骨のあたりを撫でてくる。  
「じょ、冗談ですよね、潤さん?」  
 上擦った口調でそう尋ねると、潤さんは  
「ん〜? さあ、どっちだろーな?」と言って、ぼくの耳たぶをペロリと舐めた。  
 鮮烈な感覚がぼくの背中を駆け巡る。  
「ストップ! 待ってください! ギブアップです!」  
 ぼくは慌てて叫びながら、哀川さんの腕をふりほどいた。  
「あはは。いーたん、相変わらずこーゆーの弱いな」  
 哀川さんが、いたずらが成功した子どもの様な笑顔で言う。  
 
「って言うか洒落になりませんよ……」  
 背筋を汗が伝う。きっとぼくはかなり悲愴な顔をしていることだろう。  
「それで? なんでいーたん、そんな美少女になってるわけ?」  
「いえ、ぼくにもよく分からないんですけどね。朝起きたら春日井さんがいなくなってて、代わりにぼくがこうなってました」  
「はあん? あの生物学者か……。性転換手術までやるのかあいつは」  
「どうでしょう? 正直なところ、手術かどうかも分からないんですよね」  
 ぼくが指を口に当て、考え込む様な仕草をしながら言うと、哀川さんは怪訝そうに眉をひそめた。  
「そりゃどういうことだ?」  
「いや、短期間に何の痕跡も残さず性転換手術するなんて、それこそ神様でも不可能でしょう? いくら春日井さんが図抜けた生物学者だからって、物理法則までねじ曲げるのは無理だと思うんです」  
「あたしは天井走れるけどな」  
「……哀川さんは色々規格外ですから」  
「名前で呼べってば。生物学者春日井春日も規格外なのかもしれないだろ? まあ確かに納得しにくいところではあるけどさ」  
「それに、それを認めてしまうと、ぼくは春日井さんの気まぐれを待たないと元の姿に戻れないってことになってしまいますからね」  
 
「う〜ん……」と、哀川さんはしばらく考え込んでから、ポンと手を叩いた。「よし。じゃあとりあえずおまえの体を調べよう」  
「調べる? ちょっと待ってください。調べるってどういうことです?」  
 哀川さんの提案に、ぼくはすかさず半畳を挟んだ。  
「手術痕か何かが無いか、あるいは何か手がかりになりそうなものを探すんだよ。あたしは別にいーたんが男だろうが女だろうがどうでもいいけど、おまえは気にしてるんだろ?」  
「いや、でも……」  
「あたしがまどろっこしいのは嫌いだって知ってるよな? 分かったのか? それとも分からなかったのか?」  
 哀川さんがぼくの肩をかなり強めに握りながら訊いてくる。ぼくは「分かりました」と答えながら、蛇に飲み込まれることを悟った蛙の気持ちというのは、おそらくこんなだろうと思っていた。  
 

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