城崎、化物マンション前。  
焼けたタイヤの焦げ臭い空気を肺に吸い込んで、ぼくは降り立つ。  
――戯言遣い、大地に立つ。  
「ありがとう、零崎」  
「貸し一つだ、戯言遣い。今度、返して貰いに来るぜ」  
ぼくの返答を待つ事も無く走り去る青いフェラーリ。  
「……ああ、待っているよ」  
遠ざかるスポーツカーを見送って、ぼくは前を向く。  
一人の男がそこには佇んでいた。  
眼を逸らせない不快感と、眼を離せない存在感を伴って。  
「思っていたよりも敵の侵攻は遅かった。いや、予想以上に君の到着が早かった、と。ここは素直にそう褒めるべきか。お互い、持つべきものは仲間だな」  
白のスーツに白のネクタイ。足元まで白の革靴の白一色。  
ここ七年で伸びた髪すら真白に染め上げて。  
背景に溶けるような白い彼。  
黒い青が好きな色で全身を固める男。  
その身に持つ緑という名前(アイデンティティ)さえ、焦がれる女の為に捨て去る事をまるで厭わない壊し屋。  
兎吊木垓輔――彼は玄関の壁に身を凭れさせて、左眼を閉じたままに、右眼だけをゆっくりと開いてぼくを見据えた。  
「玖渚友が部屋で君を待っている、戯言遣い」  
「へえ……敵は?」  
「気にしなくても良い。ここは俺が引き受けよう。何分、殺し名が相手では時間稼ぎしか出来ないが。しかし、妨害工作(ジカンカセギ)ならば俺ほど適した人間もそうは居ない。二度言わせるなよ、戯言遣い。死線の蒼が君を待っている」  
そう言って、用件は終わったと、右眼も閉じる。  
「……お前は」  
目を逸らすのには、若干の意思が必要だった。  
「お前は玖渚に会わなくても良いのかよ、兎吊木?」  
白は彼女の好きな色。  
玖渚友を信奉する、ソイツにとって真白のそれは礼装と。そう言えるのではないだろうか?  
着飾るのは、見せる為。  
コイツがその姿を見せたい相手は、決してぼくじゃない筈だ。  
「俺がどう思っていようがそんな事は瑣末な問題だろう。重要なのは玖渚友であって、そして彼女が望んだのは君だ。俺じゃない」  
兎吊木は恐らく彼にとっては屈辱極まるであろう、そんな言葉を口にする時ですら眉一つ動かさない。力み無く眼を閉じたままのその表情からは、何も読み取れない。  
人はここまで感情を殺す事が出来るのだという、その見本を見ているようだった。  
「彼女の望みは、俺たちの望みだ」  
俺たち――仲間(チーム)。  
彼らは、玖渚を至上とする彼らは、ただ玖渚を喜ばせる為だけに生きていると、そう言って憚らない。  
そう信じて覆らない。  
それはまるで誰かのようだ。  
――まるで鏡のようだと。ぼくは何を間違えたか、そんな事を思ってしまった。  
全壊の壊し屋と――塵芥(ジンカイ)の壊れ物。  
 
塵芥(チリアクタ)の価値しか、ぼくにも兎吊木にも無い事なんて理解している。  
選ばれたか、選ばれなかったか。  
もしかしたら、彼もまた、水面の向こう側であったのかも知れない……などと。  
そんな世迷言を脳裏に浮かべたぼくを見透かしたような的確なタイミングで、ソイツは言った。  
「ああ、勘違いしないでくれよ。思い違いなんて止めてくれよ。シンパシーなど罷り間違っても抱かないでくれよ」  
共感(シンパシー)。それを抱く事すら、兎吊木を貶める事になる。  
選ばれた者が、選ばれなかった者に何を言っても、何を思っても。それは上からの目線でしかない。だから、彼は言う。  
「俺は君なんて嫌いなんだ」  
嫌いだと。本心を隠しもせずに。  
「本音を言えばこの場で壊してやりたいくらいに、憎く悪(ニク)く思っている」  
そう口にしながらも、彼がぼくと玖渚の逢瀬を止める事は無い。  
それは、玖渚の望みでは無いから。  
闇口のような滅私の境地に兎吊木は身を置いている。自己愛なんて言葉は欠片も持たず。自意識なんて端から存在を黙殺しているが如き。  
だけど、そんなものは愛じゃない。  
自己犠牲も自殺志願も、そんなものの価値は塵芥。  
それは愛じゃない。それは只のゴミだ。  
過去のぼくが後生大事に抱きかかえていたそれは、価値を見誤った子供だったからだと今なら言える。  
ぼくはもう、取り違えない。  
「……玖渚はぼくのものだ」  
「アレは所有出来るような生物では元来、無かった。アレは独占出来るような存在では本来、無かった。玖渚友の本質を知らない――哀れだな、君は」  
「哀れむ事は許さないよ、兎吊木。玖渚はぼくのもので、玖渚のものは一つ残らずぼくのものだ。害悪細菌、アンタが死線の蒼の持ち物を自称している限り、アンタもその例外じゃない」  
ぼくは歩く。歩いて、過ぎる。  
兎吊木が瞼を閉じて佇む、その横を通り過ぎる。  
壊れて壊して、更に壊された挙句、救い上げられたぼくがこんなものに怯える理由などは無い。  
皆無だ。  
ヒーローは一度挫折して――何度挫折しても、立ち上がる。  
そういうものを志すぼくが、壊し屋を恐れる道理なんて有るだろうか。  
けれど、ぼくは認めよう。その在り方を。  
「――いつか」  
ぼくの周りに「ぼくたち」で無いものが、無い事を知った日から。  
ぼくは何も、拒まない。  
そう、決めた。  
「いつか、皆で桜を見に行こう」  
マンションの壁から背を離した兎吊木は、ぼくに向き直る。ぼくは一瞥もしない。  
「それは、命令か? 蒼の名を喰い散らかした悪食悪口(フォウルトマウス)」  
「ああ、命令だ」  
死線の蒼の名を借りて、欠陥製品はその汚い口を開く。  
「害悪細菌。玖渚友の従僕。お前は命令無しには呼吸すら許されない。死ぬ時さえ了承を得て、死ね」  
「くっくっく……くっはははははははははははははははははっっっ!!」  
マンションの玄関でパスコードを打ち込むぼくの背後で、兎吊木が笑った。  
「くくくっ……そうかそうか。君が、そうか」  
一人納得する男を、ぼくは振り返らない。暗証番号を入力されてマンションの扉が大仰に開く。  
「くっくっ。七年前から漠然とではあるが空白を感じていたのは……死線の蒼の後釜は……そうか。こんなヤツか。くっくっ」  
 
コツリコツリと。ぼくから離れていく足音。背中から声が掛かった。  
「良いだろう。考えようによっては、それはそれで愉快と言えない事も無い。俺は君を受け入れよう。だが、果たして君に――戯言遣いに戯言以外が操れるかな? 壊す事しか出来ない俺を、御すなど出来るのかな?」  
「……害悪細菌(グリーングリーングリーン)」  
ぼくは振り返らない。振り返らずに背に居る男に意を下す。  
「ぼくから初めての命令だ。アンタの新しい主から初めての命令だ」  
ぼくは振り返らない。本来の主とは、臣下に礼を見せる必要など、無い。  
君臨とは、そういう意味。  
「玖渚友の笑顔を壊そうとする者を、壊せ」  
完膚なきまでに。容赦なく。際限なく。  
「壊したら、更に壊せ。壊して壊したら、壊れきったものを、更に壊せ」  
破壊という破壊を破壊しろ。  
「ここは死線の寝室だ。存分に乱れろ、ぼくが許す」  
「良い命令だ。簡潔で、良い命令だ。良いだろう。俺の持つ破壊の全てをもって、害悪細菌の二つ名の尊厳を賭けて破壊の限りを尽くすと、そう約束しよう」  
それ以上、ぼくから言う事は無かったし、彼から聞きたい事も無かった。それ以上何も言わずに、ぼくはマンションの扉を潜った。  
 
「友」  
「いーちゃん!」  
灰色のバスローブを身に纏う玖渚友は、豪華な天蓋付きの寝台で横になっていた。  
黒い髪をしたい放題遊ばせて。まるで嵐を収める目的で暗い海に投げ込まれた生贄の少女ように、自らの髪に溺れるその姿。  
少しばかり成長した彼女は、それでもぼくには少女の様に見えた。  
同い年にはどうしたって、見えないよな……ぼくも大概実年齢よりも下に見られるけどさ。  
玖渚は、そんなぼくであっても引くくらいに、幼い外見をしている。……まあ、昔に比べたら確かに少しは出る所が出て来ているのだけれど。  
背徳感を刺激される、エロい身体とそう、言えない事もない。  
……。  
……同い年。  
……同い年だからね?  
……ぼくは断じてロリコンじゃないよ?  
合法だし。何より夫婦だし。  
「遅かったね、いーちゃん! 先刻、さっちゃんから聞いたよ! いーちゃんがもう少ししたら来るって! さっちゃんには珍しくいーちゃんが来る時間までぴったりばっちり!」  
それはあのやり取りが全て兎吊木の手のひらの上だった、って意味だろうか。  
……うーん、偶然だと信じたいなあ……。  
「まあ、いいや。本当はね……もう少し早く来るつもりだったのだけれど。途中スクータで転んじゃってさ。遅くなって悪かったよ。ああ、これでもぼくにしてみれば全速力だった事は酌んで欲しいな」  
「うに? 分かってるよ?」  
玖渚は寝台の上で膝立ちになって、ぼくに向けて小さく細い両手を広げる。  
「いーちゃんが僕様ちゃんの所へ来るのに、躊躇う訳ねーじゃん?」  
「うん。……うん、そうだ。友の言う通り」  
友と会う事にを、憚る理由が今となっては何も無い。  
……たまに掛かってくる直さんの電話口での皮肉が身に突き刺さる、それくらいかな。  
 
「あ、そうそう。聞いてよ聞いてよ、いーちゃん!」  
友は朗らかに笑う。そうして広げていた両手をそのまま上に掲げた。  
自分を大きく見せるようなポーズ……なんでぼく、威嚇されてるんだろうか?  
「見て分かる? 分かる?」  
楽しそうに質問されても、ぼくには友が何を言いたいのか、分からない。  
両手を大きく広げて……お手上げ? いや、違うな。  
これはどんなシチュエーションなのだろう? 脳内データベースに最高速で検索を掛けてみる。  
胸の内から懐かしい、声が聞こえた。  
『むむーっ! ししょーにはデリカテッセンが足りねえです! 女の子がこんな事を訊く時は髪型を変えたとか、そういう事なんですよう! 全く細やかな気遣いの足りないししょーですう!』  
ふむふむ。持つべきものは有能な弟子だね。ありがと、姫ちゃん。けど、デリカテッセンは別に足りなくても生きていけると思う。  
ファストフード欠乏症とかホラー映画欠乏症とか、聞いた事無いし。  
デリカテッセンじゃなくてデリカシー、ね。  
一通りぼくの思い出の中に息づいている姫ちゃんを再確認した後で、さて、ぼくの奥さんに向き直る。  
矯めつ眇めつ。じろりじろり。じろじろり。  
髪型、変化無し。  
バスローブ、見覚え有り。  
どこからどう見てもいつも通りの玖渚友がベッドにちょこんと座っている。  
これは……これは難題だ。  
だが、侮って貰っては困る。このしがない戯言遣い、観察眼と愛にはちょっと自信が有る!  
「む……」  
「む?」  
「胸が大きくなった!!」  
……。  
……友からの視線が痛い。見るな……そんな目でぼくを見るな(戯言)!  
どうやら、ハズレらしい。  
あれ? おかしいな?  
そんな筈は……無いのだけれど。  
揉めば大きくなるってアレは、都市伝説だったのだろうか。  
「いーちゃん……残念だけど、そこはあんまり変わってないよ?」  
「いや、冗談だって! 冗談!」  
戯言遣い一流の戯言です。マジでマジで。  
もうさあ、本気で受け取らないでよ。本気に取られちゃったら、なんだかぼくの方が滑ったみたいじゃん?  
全く。会話の妙が分かってないって言うかさ。ホント勘弁して貰いたいね。  
滑る所まで計算尽くのジョークなんだから。  
時間稼ぎ……そう、時間稼ぎってヤツ。ぼくの十八番だよ? シリーズ終わって長いから忘れちゃった?  
困るなあ。こっからやり難くなって仕方無いじゃん。時間はあげるからさ、思い出してくれない?  
……。  
……おい、そこの弟子。胸の内から指差すんじゃねーよ。  
プギャー、でもねえし。  
……はあ、やれやれ。  
しかし……しかしだ。  
となると、友はぼくに何を訴えかけているのだろう。  
 
ヒントは友の外見。これは間違いない。部屋の模様替えをしたなどの彼女本人以外の要因ならば、そもそも彼女が腕を広げているのが理解出来ない。  
……おっぱいではないらしい(強調)。  
……ふうむ。  
嬉しそうな楽しそうな笑顔はぼくが来訪した時のぼくの奥さんの常態だけれど。  
それが一際輝いているような気が、注意深く見ればしないでもない。  
奥さん……彼女はぼくの奥さんで、ぼくは彼女の旦那様。  
ぼくと友は夫婦だ。  
やるべき事は、やっている。  
「……うん……ああ、そっか」  
懸命に頭を回転させて行き当たる。一人頷いて、そして友の瞳を見つめた。  
「分かっていたんだよ、最初から。いつかこんな日が来るんじゃないかと、ぼくも思っていた」  
それの心構えはしていた。予想も予感も有って、なのにそれを突然と感じるのはきっと卑劣だからなんだろう。  
そもそも、ぼくがそれで慌てるのは筋違い。  
一番困惑しているのは、ぼくの奥さんの筈だから。  
彼女の一番頼るべき相手が――ぼくがどっしりと構えていなくて、どうするんだ。  
「うにっ!? いーちゃん、さっすがだね。さっすが僕様ちゃんの旦那様だぜ!」  
「止してくれよ。これでも少しばかり抵抗は無かったとは言えないんだ。でも、それは受け入れられないってそんな意味かと言えば、答えはノー」  
「器が広くて、僕様ちゃんは嬉しいよー」  
空元気、か。  
ハイテンションは不安の裏返し。  
だから、いつもよりも、彼女は――だったら、ぼくはどんな声を掛けるべきだろう。  
どんな事を言えば良いのだろう。戯言ばかりを口にしていたから、こんな時に何を言えば良いのか、分からない。  
「器が広い……か。いいや。本来そんな事は迷いすら許されないとぼくは思う。それを過去の事でぐちぐちと悩みこんでしまう。ぼくは卑小で矮小だ。だけど、腹心算は決まってる」  
彼か。彼女か。そんな事は分からないけれど。ぼくは、ぼくの所にやって来てくれるその子に、ぼくが出来る事を出来るだけしてやろうと決めていた。  
溺れるほどに愛してやろうと、そう、決めていた。  
「カッコイイぜ、いーちゃん!」  
「ぼくは格好良くなんて無いよ、友。そんな事はぼくが一番良く知っている。何しろ、自分自身の事だしね。けれど、格好の良い父親にはなりたいと思ってるんだ」  
なれたら良いなと。ここで希望的に語尾を濁すのは卑怯かも知れない。  
自信は……残念だけど、有りはしない。  
けど、友と一緒ならそんな風になれそうな気はしていたから。  
「そうだねえ。いーちゃんならきっとなれると僕様ちゃんは思うなー。僕様ちゃんの方がむしろ心配だよ?」  
「大丈夫」  
言葉を濁すのが常の戯言遣いは、断言する。  
「大丈夫だ、友」  
「……そっか。いーちゃんが言うなら、そうなんだろうね」  
「うん」  
今なら泣けそうな、そんな感覚。ぼくにそんな人らしい感情を思い出させてくれた、彼らと彼女達にはどれだけの感謝をしても足りない。  
「だから、そんな事は茶化して問題にするような事では無いんだよ、友。お前の口から、お前の言葉で、教えて欲しい。伝えて欲しい」  
ぼくの言葉に、神妙に頷く恋人。お嫁さん。  
一言一句、絵本を読み聞かせるように、彼女は言葉を紡ぐ。  
「僕様ちゃん、今日は、一人で、お風呂に、入ったんだ」  
「マジで!?」  
 
驚いた。  
それは素直に驚きだった。  
風呂嫌いの友が。自分から率先して入浴を敢行するなんて。風呂場に突貫するなんて、前代未聞も良い所だ。  
だがしかし。言われてみれば、確かに彼女の髪は艶やかに鮮やかに光を照り返している。  
……え? 勘違いとかしてないよ?  
最初から入浴の話してたじゃない? 違った? あれ? 意思の疎通に齟齬が発生してるなあ。  
いや、妊娠報告とか、そんなん勘違いにも程が有るよ?  
……ええ、ええ。お得意の戯言ですよ。そろそろ、何を言っても誰にも信じて貰えなくなりそうで、ぼくはとても悲しい。  
「いーちゃんが来るって言うから、いーちゃんに頭を洗って貰おうと思ったんだけど、なんかそんな時間は無いっぽかったからさ! って事で、いーちゃん!」  
友は引き続き、彼女にしてみれば精一杯の神妙な顔付きをして、ぼくの顔を物色するみたいにまじまじと眺めた後、にっこりと笑った。  
「早速二人でいやらしー事しよーぜっ!」  
親指をぐいっと立ててそう叫ばれてもリアクションに困る。余りにも大声であっけらかんと言い放つものだから、誰か聞いていないだろうなと辺りを警戒してしまったチキンは……誰あろうぼくで違いない。  
「……え?」  
困惑するぼくを置き去りにしてにっこりと笑う玖渚は、しかしエロスイッチ入ってる顔には見えなかったので、ぼくは更に困惑の度合を深めてしまった。  
どんな時でも動揺しない、そんな強い心を持てるように子供には「凪」と名付ける事を本気で思案してしまうぼく。  
ぼくみたいな浅い人間には、なって貰いたくないからなあ。  
ちなみにぼくの名前は霧間誠一では無い。念の為。  
閑話休題。  
「いやいや、友。純粋無垢な顔で何言ってるんだよ、お前は」  
「うん? いーちゃんらしくないぜー? 奥様が『旦那様が来るから』って理由でお風呂に入ってたりしたら、そんなん意味する所は一つしか無くね?」  
無くね、じゃねえよ。  
エロエロかよ。  
……つか、衣装タンスがさり気に開いているのは自己主張か?  
覗く白い絹布は、恐らくウェディングドレス。  
表紙絵(ムカシバナシ)を汚す気満々だな、おい。  
「ちなみに、バスローブの下は体操服です! デス!」  
デス……いつの間に玖渚は石凪(殺し名第七位:死神)になったんだろう。ぼくはとんとそんなニュースを聞いた覚えが無い。  
「……そうかよ」  
曖昧に頷く。なんだろう……この場合、玖渚が殺そうと躍起になっているのは、ぼくの理性だろうか?  
だとすれば、実に的確な攻撃をしてくると褒めてやっても良い。  
こうか は ばつぐん だ。  
「勿論、ハーフパンツなんて夢の無い仕様じゃ無いんだよ!」  
自慢げに言う事では、それはきっと無い。半パン推進派に謝れ。  
…………。  
「どうでもいい事だけど。本当に意味の無い質問で申し訳無いんだけど。それこそ戯言なんだけれど」  
と、前置きをしておいて。  
「色は?」  
溢れる好奇心を戯言遣い、抑える事が出来なかった。  
いやいや、これは好奇心と言ってもその頭に「知的」って付く類だろう。うん。そういう事にして無理矢理納得しておく。  
自分を騙すのは、それこそ得意分野。  
「濃紺だよー」  
玖渚は濃紺ブルマらしい。思わずバスローブの裾に眼をやってしまうぼく。そうか。これを引っぺがしたら玖渚は濃紺ブルマの体操服か……。  
 
――抑えろ、抑えろぼく。頑張れ、理性。野性なんかに負けちゃダメだ!  
「……良く分かってるね、友」  
うんざり。嫌になるくらいぼくの奥さんはぼくの性癖を良く分かっている。  
もう、本当。  
止めて欲しいくらい。自暴自棄になるくらい薄い人間であるぼくは見抜かれている。  
嬉しくないと言い切れない、ぼくもぼくだ。  
あーあ。自己嫌悪。  
「という訳で、僕様ちゃんの方はお膳立てをしておいたんだよ、いーちゃん!」  
「頼んでないし、先刻までのシリアスな空気を見事に台無しにしてくれてどうもありがとう……」  
完膚なきまでに。  
兎吊木にすら出来ない鮮やかな破壊を見せて頂きました。  
空気破壊(アトモスフィアストライク)。wikiの玖渚友の二つ名に誰かこれを追加しておいてくれると後々のぼくが助かる。うん。  
「うに? 礼には及ばないんだぜい。これくらいは嫁必須スキル! キル!!」  
うわあ……ヤる気満々だあ……。  
「ちなみにぼくのベストはメイド服なんだけどね……」  
完膚なきまでに。  
それは……疑問の余地無く戯言だった。そんなさり気無いリクエストにも胸(零は裂いても束ねても零、って訳でも無いのかも知れないな)を張るぼくの奥さん。  
「だーいじょーぶ! いーちゃんの趣味は僕様ちゃん、網羅だぜっ! もち、メイド服も常備してアリマス! マス!」  
……。  
…………枡?  
デスとキルは分かるけど、マスって何だよ?  
鱒(マス)。  
サケ目サケ科に属し日本語名に「マス」がつく魚、または日本で一般にサケ類(ベニザケ、シロザケ、キングサーモン等)と呼ばれる魚以外のサケ科の魚をまとめた総称。  
タイヘイヨウサケ属、タイセイヨウサケ属、イワナ属、コクチマス属、イトウ属などの魚の事。  
豆知識。  
取り敢えず川を泳いでる魚は鱒と言っておけば間違いは無いかも。  
……じゃなくてえ…………。  
ぼくは玖渚の座っている寝台の端に腰掛けた。  
「友」  
「何かな、いーちゃん!?」  
「やらしー事をするのはぼくだって吝かじゃないし、それは別に異論は無いのだけれど……けどさ」  
手を伸ばして黒く長い髪に、指を通す。手触りは、絹。背中に回すと、友の眉がぴくりと跳ねた。くすぐったかったのだろうか?  
「えっちいのはまた今度にしない?」  
ぼくは彼女を抱き寄せて、頬に顔を近付ける。意に沿わない事態にぷくっと、少しだけ赤く膨らんだ、その頬に口付けた。  
苛立ちを溶かすように優しく。駄々っ子を優しくあやすように愛しさを込めて。  
「今日はちょっとまずいみたいだし」  
そう言って続け様、瞼にキスをする。彼女の身体がぶるぶると、震えたのを確認してぼくはキスを解く。  
玖渚はぼくの唇から解放された大きな瞳を――黒い瞳をしかし、ぼくに向けた。  
……睨まれていた。  
あれ?  
いつもなら、こんな感じで胡麻化せたりするんだけど?  
同じ手ばっかり使い過ぎた? 知らない間に友に魅了耐性が付いちゃってる?  
聖闘士に二度同じ技は通用しない、的な?  
 
「……いーちゃん」  
少しだけ怒気を孕んだ玖渚の声は小さくとも、ぼくを戦慄させるのには十分だ。  
抱き締められている友は眦(メジリ)を下げ、請うようにぼくを見上げる。腕の中の彼女を見下ろせば、視界に入り込むのはバスローブの隙間から覗く淡い膨らみ。  
間違い無い。コイツ、ノーブラだ!  
「いーちゃんは奥様のスイッチを入れておいて、そのまま放置するのかな?」  
ちゅーもなでなでも逆効果。  
どうやら、ぼくは自分からエロスイッチを押してしまったらしい。  
……やってしまった。  
いや、ヤるのはこれからだけど。  
……。  
……違う! ヤりません!  
戯言とか要らないっつの!  
「いや、ほら! 玖渚の命を今、殺し屋が狙ってるらしいんだよ!」  
「うに? 知ってるよ?」  
「知ってんなら、やらしー事強請るなや!!」  
緊張感とかそういう言葉は無視か? シカトか?  
「ぼくとしては、ソイツらの件が一段落してからゆっくりと、また……」  
シリアスシーンの余韻。  
エロパロだからって安易にエロにしてたまるかと。そんな反骨精神が無かったとは言わない。  
だけど。  
据え膳食わぬは何とやら。  
ぼくの中の言いようも無い部分は、最愛の女性の求めに何も感じていないかと言われればそれは……まあ、嘘になる訳で。  
ほら、紳士なのは間違いないけれど、性的に異常が有るって訳でもないし。以上、言い訳。  
つまり、ぼくとしては先刻から結構ギリギリの所で、理性の綱渡りを行っていたりした訳で。  
その、一線が。  
死線(デッドライン)は。  
ぷつり、と。  
切れて落ちる。  
玖渚の小さな手で。服の上から胸板を撫で上げられただけで。  
浅くて浅ましいぼくはびくりと隠しようも無く反応してしまう。  
「例えばさっちゃんは、僕様ちゃんの為なら、死ぬべきなんだよ。僕様ちゃんのしあわせの為なら、命を賭けられるんだよ」  
耳元で、囁かれる。ぞくりと。生暖かい吐息がぼくの耳を溶かす。  
理性ごと、ごっそりと。溶かし尽くす。  
青はたゆたう水の色。広大な空の色。沈み込む海の色。そして。  
――そして、凄惨な毒の色。  
「それとも、いーちゃんはさっちゃんみたいに僕様ちゃんに命はくれないの?」  
その名残を片眼に残す、蒼。  
その眼で見られたら――見られたなら。  
ぼくの中の陰惨な破壊衝動が、眼を覚ます。  
あの頃の名残が、牙を剥く。  
愛しい少女をこの手でぐちゃぐちゃにどろどろにばらばらにしてしまいたいと。  
ぼくの中のもっとも真芯に近い「ぼくらしいぼく」が、喚き立てる。  
 
壊してしまえ、と。  
汚してしまえ、と。  
狂ってしまえ、と。  
溺れてしまえ、と。  
愛されてしまえ――と。  
「ぼくの命は」  
――多分、出会ったときから。きっと、最初から。  
「ぼくの命は友のものだよ」  
「知ってるよん」  
楽しそうに。嬉しそうに。蒼の残滓が見え隠れするその笑顔は、ぼくの心を捕らえて放さない。ぼくの命を掴んで逃がさない。  
「僕様ちゃんの命は、いーちゃんのものだよ」  
共依存にして狂依存。  
果たしてどちらがどちらのものなのか。  
ぼくが玖渚のもので、玖渚がぼくのもので、玖渚のものはぼくのもので、ぼくのものは玖渚のもの。  
誰が誰に縛られて、誰が誰に繋がれて、誰が誰に狂わされているのか。  
溶け合ってしまえば。混ざり込んでしまえば。  
ぼくらの命は一つになって。その所有権は明確になる。  
他人であるから愛し合えるなんて、お為ごかしも良い所。  
一つであるなら、最初から愛し合う必要すら無い。  
……まあ、戯言だけどさ。  
「友が望む事は、ぼくが望む事だ」  
「いーちゃんが望むのなら、僕様ちゃんはなんでもしてあげる」  
だったら。ぼくの望みは、一つ。  
「友を……傷付けたい」  
「いいよ。傷付けられてあげる」  
「友を……滅茶苦茶にしたい」  
「なら、滅茶苦茶にしちゃえ」  
一つだけ、どうしても叶えたい、望みがぼくには有って。  
「友に――愛されたい」  
骨まで。骨ごと。丸ごと。残さず。  
愛に飢えたこの身を。血塗られたこの身を。血腥いこの身を。罪深いこの身を。  
瑕(キズ)も、染みも、痕(アト)も。過去も、現在も、未来も。  
――愛して貰えたら、なんて。  
子供みたいな事を、願って、止まない。  
友は、優しく笑った。ふんわりと笑って、バスローブの前を解く。ぱさりと。軽い音を立てて落ちる布。  
彼女は、何も着てはいなかった。所々骨の浮いた、美しい裸身をぼくに惜し気も無く晒す。  
まるで子供のような、矮躯を。  
「……嘘吐きだね、友」  
「体操服を着てるって、そう言えばいーちゃんが襲ってくるんじゃないかと期待してたんだよう。うに、やっぱり体操服着てくるー? 着てた方が良いー?」  
「いや、要らない。そのままで、ありのままで、十分、ぼくの奥さんは綺麗だから」  
「うにい……あんまり素直に褒められたら困っちゃうぜい」  
彼女はぼくの顔にその薄い胸を押し付ける。そして、ころんと。弱い力でぼくを押し倒した。  
「……いーちゃん」  
「何かな、友」  
折れそうな白い腕に、僅かばかりの力が篭る。  
「……いーちゃんこそ、嘘吐きじゃん。いーちゃんは、決して愛されたいんじゃないよ」  
首を、抱きかかえられる。囁かれる。愛される。  
「いーちゃんはね、愛したいんだよ」  
 
「……知ってる」  
「愛してるよ、いーちゃん」  
「知ってるよ」  
「愛し続けるよ、いーちゃん」  
「ありがとう」  
欲しかった愛は、すぐそこに有ったっていう、そんなオチ。  
青い鳥は、結局どこにも行けないし、行かないのだろう。  
気付くか気付かないかは、雲泥の差。  
抵抗するのは、諦めた。  
「……友」  
「なにー?」  
「エロパートは一時間だ」  
「やいやいさー!」  
水を得た魚という表現がぴったりと。玖渚友は、そんな元気の良い返事と共に、ぼくの身体に襲い掛かった。  
 
ぎしりぎしり。  
寝台が、ぼくらの動きに合わせて揺れる。  
「いーちゃ、んっ……もっと……つよ……くっ…………し、ても……」  
ぼくの下で喘ぐ彼女。  
愛する女は身体を貫かれたままで気丈にも、笑う。  
「ぼくさまっ……ちゃ……ひぅぅぅ…………な、んぅぅ…………こわれ……ないよ……」  
身を振るぼくに、笑いかける。  
「いーちゃ……んぅっ…………いーちゃ……なら、ふあぅっ……」  
ぎしりぎしり。  
心が、彼女の無理矢理に作った笑顔に悲鳴と歓喜を叫ぶ。  
温かい、玖渚の中は狭く、ぼくを締め上げ、昂ぶらせる。  
彼女の苦しそうな顔とは裏腹に、ぼくにもっと動けと強要する、恥知らずな肉。  
まるで売女のように、ぼくを悦ばせる。  
まるで娼婦のように、されるがままで、受け入れる。  
「友っ……!!」  
ぼくは彼女を抱きながら、思い出していた。  
七年前を。  
 
「いーちゃんは変わらないよね」  
彼女の言葉。  
「いーちゃんは変わらないよ」  
彼女の言葉。  
「いーちゃんは変われないよ、絶対に」  
かつて、彼女の言葉は駆逐された。  
 
「いーちゃんは変わったね」  
ぼくは、変わった?  
「いーちゃんは、変わってないね」  
ぼくは、変わってはいない?  
「いーちゃんは、ずっといーちゃんだね」  
かつて、彼女の存在は駆逐された。  
 
――変わったのは、君も。  
――変えたのは、君と。  
 
「しあわせになろう」  
彼女の言葉。  
「ふしあわせになろう」  
彼女の言葉。  
「どんな時でも、ずっとずーっと一緒にいよう」  
彼女の言葉。  
「二人でしあわせになって、二人でふしあわせになろう」  
それは紛れも無い彼女の言葉。  
「結婚しようぜ、いーちゃん」  
とても不確かで不安定で、それゆえ不変で普遍の、魔法の言葉。  
 
「いーちゃんはしあわせになるんだよ。僕様ちゃんがしあわせなんだから、いーちゃんもしあわせじゃないと困る。すげー困る。  
だから、僕様ちゃんはいーちゃんばっかりふしあわせになるなんて許さない。そんなのはずるい。卑怯だ。  
いーちゃんが手を汚す時、僕様ちゃんは傍に居る。一緒に苦しんで、一緒に泣くんだよ?」  
喜びは倍に、悲しみは半分に。そんな都合の良い事は有りはしない。ぼくはそれを知っている。  
喜びは半分に、悲しみは倍に。そんな都合の悪い事ばかりまかり通る。ぼくはそれを嫌という程知っている。  
だから、ぼくには『ぼくたち』になる時に決意した事が有るんだ。  
 
「いーちゃん、すき」  
ぼくのとなりには玖渚友がいる。そうして僕らはならんで歩く。  
そんな言葉で締め括られた、物語。  
 
ハッピーエンドには、しあわせな後日談を。  
 
ふしあわせなんてスパイス程度で、十全だ。  
 

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