ぼくたちはしあわせになった。  
誰かを不幸にして、誰かを不快にして、誰かを不和にして、誰かを不遇にして。  
それでも、ぼくたちはしあわせになった。  
そんな中で、ぼくは考えるんだ。  
ぼくたち。  
ぼくたちの「たち」とは一体誰の事を指すのだろう、と。  
ぼくは、今、しあわせだ。それは間違い無い。しあわせもふしあわせも、気の持ちよう。  
少なくとも、ぼくは昔よりも色んな事が巧く出来るようになった。  
少なからず、ぼくの周りでは人死にが減った。  
少なくない回数、ぼくは笑えるようになった。  
例えば、昔のぼくがそんなぼくを見たら、どう思うだろう。反吐を吐いて、戯言を遣い、後悔は無いのかと韜晦するだろうか。  
後悔は、有る。  
後悔ばかりだ。  
後悔しない日は無いと言っていい。  
後ろ向きな性格ばっかりは、どうにも変えようが無いみたい。けれど。  
後ろ向きでも、前には進める。  
人間の足は、前にしか歩き出せない訳じゃない。  
後ろを向いて、後ろ歩きをすれば、それはきっと前進なんじゃないだろうか。  
それはきっと前進なんだと、ぼくは思いたい。  
一寸先は闇だと、そんな事はよく知っているし、ぼく以上にその言葉に身を抓まされる人間も少ないと思うのだけれど。  
後ろを向いて、後ろに進めば、闇に向かって踏み出す事を躊躇しないで済む。  
だから、ぼくは、色んな絶望を知り抜いた今であっても歩いていけるみたいだ。  
それはきっと、希望とは違うのだろうけれど。  
けれど、立ち止まっている訳ではないのは確かなようで。  
それならそれで、別に構わないのかな、などと。そんな風に思ってしまう。  
きっと、過去のぼくならそんな事は思わなかっただろう。  
自分から立ち止まっている事を望んだだろう。  
自分から踏み止まっている事を選んだだろう。  
成長、と。それをそう呼ぶには些か問題が有るような気がするし、そんな言葉で美化するにはぼくの姿勢は余りに卑屈が過ぎる。  
だけどぼくは、色んな人を笑わせられるようになった。  
色んな人の、力になれるようになった――つもり。  
七年も請負稼業をやってきて、それでも「つもり」だなんて付けなければならないのは悔しいけれど。  
まだまだ、赤い彼女みたいには巧くいかない。  
それでも。  
ぼくは請負業を止めようとは、思わない。  
ぼくの手がどこまで届くのか。  
ぼくの手はどれだけの人の力になれるのか。  
罪滅ぼし――なのかも知れない。  
結局、ぼくは今も、あの頃の続きを歩いている。  
ぼくは、ぼくでしかないのだから。  
 
突然だった。部屋のドアから、黒板を爪で引っ掻いたような音がした。それも、爪は爪でも鉄爪とか鉤爪とか、そんな感じの。  
人を切り刻めそうな、そんなレベルの不協和音。  
次いで、喚き声。  
「うぉわっ!? マジでかよ! ナイフの方が悲鳴を上げるなんざ、どういう造りしてやがるんだ、コイツは」  
聞いた事の有る声。少年染みた声ではあるけれど、しかし、彼は少年と記載するには年が行き過ぎているはずだ。  
正確な年齢は知らない。でも、青年の域に達している事は間違いないだろう。  
そして、インターホン。連打。連打。  
人類最速の反射神経をもっての連打に、十秒と持たずにそれは壊れてしまう。  
このまま、居留守を続けると、恐らくぼくの住居も一時間掛からずそれと同様の顛末を辿るだろう。  
そう思ったから。  
「止めてくれ」  
扉の向こうに向かってぼくは言った。  
「住所不定無職が相手では損害請求も出せない」  
「だったらさっさと出ろってんだ」  
水面の向こう側からクレームが返ってきて。溜息を吐くぼく。  
「インターホンを押すよりも先にドアを解体しようとするようなヤツを部屋にあげたいと思うほど、ぼくは奇特じゃない」  
「なるほどな」  
さらりと。特に悪びれた風も無く納得する彼は、まるで変わらない。  
0=0。  
零は、裂いても割いても零。  
掛けても束ねても、零。  
彼は、どこにも行けない。  
ぼくはしかめっ面のままにドアをの鍵を外し、それを外側に開いた。  
「やあ。久し振りだね、人間失格」  
「よお。久し振りだな、人間失敗」  
懐かしい旧友の顔が、相変わらずの顔面刺青を伴って、そこには在った。  
零崎、人識。  
人を識らない、殺人鬼。  
「何の用かな。うん、まあ上がってよ。水で良いかい。と言うか、ぼくの部屋には飲み物の類が無いのだけれど」  
コーヒーの粉はおろか、紅茶のパックすら常備していない。必要性を感じないからだ。  
水の他にもう一種類だけ飲み物は無くもないけれど……あれは人に勧める類の飲み物では、無いだろう。  
「だと思ってな。飲み物は持参してきた」  
言って零崎は左手のコンビニ袋をぼくに差し出す。  
「気が利くね」  
「お前は気が利かないけどな。来客に水を勧めて悪びれないってのは、そりゃ頭が悪いのか?」  
「それは可笑しな話だろう、零崎。ぼくが気の利かない人間ならば、君も同様の筈だ」  
「かははは、戯言だな」  
「いやいや、傑作だろ」  
部屋の中にずんずんと入っていく零崎の背に向かって、家具を壊さないように言い含める事は忘れない。  
「家具なんて有んの?」  
「お気に入りの抱き枕なら」  
「それはアレか。抱き枕カバーが大事なんだな?」  
「プリントは水玉だよ。アニメ絵の少女じゃない」  
ビニール袋の中身を確認しながら、ぼくは零崎の後を追う。  
……チョコレート・スパークリングが二本。  
今年度、初の地雷飲料。  
「……良い物は決して無くならないよね」  
「逆説、ソイツは恐らく再生産されない。気が利くだろ」  
「ぼくは気を使って、奇を衒って貰う程に君とぎくしゃくした関係ではなかったつもりなのだけれど」  
「気を回したつもりは無えけど、気が置けないとはお世辞にも口に出せない程度にはびくびくした関係にはしておこうぜ」  
……なんだろう。  
気を許すなという意味も込めた、あてつけだろうか。  
 
「それにしたって、チョコレート・スパークリング、ねえ。バレンタインは過ぎたはずなんだけれど」  
一人ごちるぼくに、座布団の一枚も無いフローリングそのままの床に座り込む零崎。  
「気にするなよ、結構イケるぜ、それ」  
「知ってる。先月の十四日に春日井さんから送られてきたから」  
春日井春日。選ばない事を選んできて、これからも選んでいく彼女に有るまじきナイスチョイス。  
……期待を裏切って飲めちゃうからこそ、ぼくはどうかと思うんだけれども。  
黙って、二本有った内の一本を冷蔵庫に仕舞い込んだ。今度、崩子ちゃんにでもあげよう。  
ぼくは冷蔵庫というよりは、もうこれは「チョコ・スパ保存庫」の気がしないでもないそれを溜息と共に閉めた。  
「あ、零崎。君ってコップは使う人?」  
「要らね」  
「そう」  
零崎にペットボトルを渡して、ぼくはコップに水を汲んだ。  
この部屋に有る数少ない家具である所の卓袱台を挟んでぼくは零崎と対峙する。  
「で、殺人鬼が真人間のぼくに一体、何の用? ああ、話は変わるけれど、ぼくは知人とはまめに連絡を取り合う性格でね。唐突に。本当、唐突なんだけど、君の顔を見たらなぜか佐々さんの顔が見たくなってきた」  
斑鳩さんとは先日、仕事絡みで出会ったしね。  
次は彼女の番なんだろう、恐らく。  
「オイオイ。久々に会ったってのに、ご挨拶じゃあないのか、いーたん」  
「毎回思うんだけど。そして仲良しである事に異論を挟む気は無いのだけれど。けれどこう、毎度毎度、和気藹々と再会するのもどうだろうね、ぜろりん?」  
次に会う時は殺し合いだ。  
その言葉は未だにぼくと彼の慣例で、しかしてその言葉は一度として真実となった例が無い。  
緊張感が有るのか無いのか、分かったものじゃない。  
「まあ、良いけどね」  
今更、だしさ。  
戯言、だし?  
「用件は、無くも無いんだよ。なあ」  
胡坐を組んで座る零崎がペットボトルを傾けながら聞いてくる。  
「ここ最近、いーちゃんの周りで、なんっつったら良いか……変な事は起きなかったか?」  
……。  
……今、まさに殺人鬼とお茶をしているのだけれど。  
……それは言わぬが華。  
「訊く相手を間違えてないかな、零崎」  
「かははは。違いない。だな。傑作に愚問だぜ」  
零崎は哂った。少しだけ落ち込むぼく。  
「いーちゃん相手に『変な事は無かったか』なんて、そりゃ訊くまでもないな」  
訊くまでも、無かった。  
言うまでも、無い事だ。  
「ま、今更そんな事で悲観的になったりはしないさ。それがぼくの生活の糧でもあるし。無かったら商売あがったりだったりするからね」  
今も。ぼくは二つばかりの問題を請け負っている真っ最中だったし。  
請負業は右肩上がりだ。  
まるで旅行に出た先で必ず殺人事件を呼び寄せてしまう探偵みたいで、気分が良いとは言えないけれど。  
体質なんだから、仕方が無い。  
そういう星に生まれついたのならば、これはもう「そういうものだ」と納得する以外は首を吊るしか出来はしない。  
首は吊りたくないから、ぼくは納得する事にしている。  
そういう、ものなんだ。  
ぼくは、そういう「もの」なんだ。  
「とは言え、殺し名や呪い名絡みではないのが、まだ救いかな」  
「おう。それそれ。それなんだよ、いーちゃん」  
我が意を得たり、と。そう言いたげにニヤリと唇の端を上げる殺人鬼。  
「殺し名絡みで、俺は今日、お前に会いに来たんだ」  
 
「お断りだよ」  
即答するぼく。  
「そんなのに関わっていられる程、ぼくは暇じゃない」  
これは本音。暇ではない。  
今だって、自室でのんびりしているように見えて、実は潜入調査をしている高海ちゃんと深空ちゃんの帰還報告待ちだったりするし。  
ただ寝転んでいた、ように見えるだけという話。  
そういう事に、しておいて貰いたい。  
「それとも君はぼくの事を君と同じく自由人だと思っていたりするの? もしもそうだったら、その認識を改めて貰う必要が有るな」  
ぼくはこれでも真っ当に真っ当な真人間のつもりだ。人非人である所の零崎みたいには、なりたくないし。  
なりたくないし、なれそうにもない。  
水面の向こう側。ぼくと彼とを別つ一線。  
踏み出せない、死線。  
踏み越えられない、紙一重。  
溜息を吐くぼくに、けれどせせら哂う零崎。  
「まあ、聞くだけ聞いとけって」  
彼はせせら哂う。チェシャ猫染みた三日月の眼をして。顔面刺青を、ぐにゃりと歪ませて。  
楽しそうに。  
愉しそうに。  
「どうせ、いーちゃんの事だからな。きっと、この件とは『縁が合う』さ」  
縁が合う。  
――縁。  
切っても、切れない。  
切りたくても、切り捨てられない。  
ぼくの体に纏わり付く、歪な赤い糸。  
「どうせ、いーちゃんの事だ。関わりたくないが故に、関わっちまうだろうさ」  
関わりたくないから、関わってしまう。  
なるようになど、なりはしない。  
その「縁」とも「体質」とも言うべきそれは。  
七年経った今も、変わらずぼくを縛り続けている。  
「止めろ、零崎」  
水面の向こう側に、ぼくは言う。  
「知れば、向こうからやって来る。知らなければ、知らないままで過ぎ去るかも知れない」  
「無えな」  
水面の向こう側は、ぼくに言う。  
「いーちゃんがいーちゃんである以上、それは無え。なあなあ、いーちゃん。お前はこちら側だぜ。勘違いすんなよ。筋違いだろ。人違いなんじゃないか? お門違いも甚だしいとはこの事だぜ」  
一気に飲み干して、中身を無くしたペットボトルを零崎は弄ぶ。  
まるで、ジャグリングでもしているみたいに、変幻自在の軌道できらきらと宙を舞う、ゴミ。  
中身を失った、パッケージはゴミだ。  
装いは、装いでしかない。  
「そちら側の振りをしている、そちら側の生活をしているように見える――だけでな。そんなのは殺し名でも呪い名でも大勢居る」  
一皮剥けば。人皮剥かれたら。  
突然、そのペットボトルが軌道を変えた。でも、それがそう動くであろう事がぼくには分かっていた。  
ぼくの顔の、その目の前で。文字通り眼と鼻の先で。それが解体されるであろう事も。そしてやはり予測通りに解体された事も。  
ぼくには零崎の動きの全てが「視え」た。  
ぼくと零崎の間に、本質的に「違い」なんて無い。  
双児の様に。同じぼくたち。  
逆児の様に。首に紐。  
「一寸先は暴力の世界。お前が俺と歓談してるのが良い証拠だろ。ようこそ、逝と死の世界へ、ってな」  
かははは、と。  
かははは、と。  
殺人鬼は哂う。失ったペットボトルの代わりに自前のナイフを中空で踊らせて、哂う。  
「ま、ようこそ、なんてーのは『七年遅い』けどな。傑作だぜ」  
「……戯言なんだよ」  
本当。  
心の底から。  
ぼくの存在こそ、傑作に戯言だった。  
 
瞬間、だった。  
唐突に、何の伏線も無く、屋根裏が、爆ぜた。  
「おにいちゃん!!」  
そこから逆さまに飛び出す、白いワンピース。引力に引き摺られて、捲れるスカート。  
……今日の下着は水玉。萌太くんの遺志はまだ生きている。  
ありがとう、萌太くん。ありがとう、崩子ちゃん。  
ぼくはこれで今日一日、生きていける。  
「たああああああああああっっっっっっ!!!!」  
天井裏から躍り出た崩子ちゃんは、天井の壁を蹴って跳躍。まるで弾丸の様な勢いで零崎に迫――れない。  
その小さな体躯が、零崎まで後四十センチといった所で、止まる。  
網に掛かった蝶のように。  
この喩えがここまでしっくり来る場面はぼくの人生で三度と無いだろうと思うほどに。  
崩子ちゃんは、バタフライナイフを零崎に向けて構えた侭に中空で、何かに捕らえられていた。  
見るのは、二度目。  
「う、動かないっ!?」  
「動かないで正解だぜ、お嬢ちゃん。無理に動こうとするとパンチラどころじゃすまねえからな。かははは!」  
哂う零崎と困惑する崩子ちゃん。そして一人、凝視するぼく。  
大人気無くもぼくは絡め取られた崩子ちゃんのあられもない姿に心を躍らせていた……なんてね。  
……いや、戯言だよ?  
「……おい、零崎。お前、いつの間にそんなえげつない技を身に付けたんだ」  
じたばたと。もがく事すら出来ずに固まった崩子ちゃんに近寄りながら、ぼくは言う。  
「曲弦糸(ジグザグ)、なんて」  
「いや、結構前からだ。七年前にはもう使えてたぜ」  
「初耳だ」  
「まあ、初出しだからな」  
「どうでも良いけど、彼女に傷一つでも付けたら哀川さん筆頭に黙っちゃいないぞ」  
ここで筆頭にぼくが出て来ない所がミソだ。  
鷹の威を借る戯言遣い。  
零崎哀川さんという言葉を聞いた瞬間に、びくりと。条件反射のように身体を跳ねさせた。  
どうやら、何かのトラウマに直撃したらしい。顔が見る見る青くなっていく所からも一機減ったのは間違いないようで。  
だけど負けるな、零崎人識。  
どうか頑張れ、零崎人識。  
哀川さんの影に怯える事無く、ぼくに少女のすらりとした生足を存分に堪能させてくれ。  
……。  
……いや、だから戯言だってば。  
思ってないよ、そんな事。  
「ちっ」  
舌打ちが聞こえた。  
「……コイツも哀川潤の身内かよ」  
なるようにならない最悪。  
イフナッシングイズバッド。  
もしくはサービスタイム終了。  
溜息と共に零崎が左手を振った。その途端、リモコンの再生ボタンを押したみたいにすとんと。崩子ちゃんが地面に落ちる。  
尻餅を着いたりはせず、猫染みた動きで両足から着地するのは、流石闇口、といった具合。  
ただし、その手に握っていたバタフライナイフは、捕らえられたままで。  
抜け目無く、武装解除させておくのは、流石プロのプレーヤー、といった所か。  
空になった少女の右手を、零崎は握り締めた。  
「女の子と手繋ぐのって、僕、初めて」  
「嘘吐け」  
「ヤだね。戯言はいーちゃんの専売勅許じゃねえんだよ」  
「…………ぼくのアイデンティティが……」  
殺し名を前にして悠長に。溜息を吐くぼくを見て、崩子ちゃんが目を丸くしていた。  
 
「闇口崩子と申します」  
僕の隣に座った崩子ちゃんは、やや憮然としていた。まあ、無理も無いけれど。  
殺し名を前にして、緊張するなと言う方が異質だし、殺し名を前にして、欠伸が出来るぼくの方こそ異常なのは理解してる。  
平然と、異常。平常(ノーマル)では、それは無い事くらい、嫌ってくらいに理解してる。  
「西園伸二だ」  
平気な顔で嘘を吐く零崎。ここまで当然と嘘を吐かれると、なんというか、訂正するのが難しい。  
難しい。訂正。馬鹿らしい。  
「西園さん、ですか」  
素直な良い子の崩子ちゃん。人を疑う事を知らない。  
萌太くんとぼくの教育の結果だった。ちょっと誇らしい。  
「聞かない苗字ですが、どこかの分家ですか? 殺し名の方ですよね?」  
「ああ。えっと……うーん……なんっつーか、やりにくいな、このガキ」  
首を捻るは顔面刺青。恐らくはどこの分家を騙ろうかと悩んだ末、少女の純粋な眼に困惑してしまったのだろう。  
……気持ちは分かる。  
ただ……後から困るんなら、無意味な嘘なんか吐かなきゃいいと思うのだけれど。  
ぼくが言っても「どの口が言うんだ」って返させるのは分かっているから口には出さないけど、さ。  
「それはともかく。ぼくのお気に入りの抱き枕をガキ扱いした事は訂正しろ、ぜろりん」  
「あ? ああ……そりゃ、悪かったな。崩子ちゃん、とでも呼べば良いか、いーたん?」  
「ちゃん付けはぼくの特権だ!」  
こればっかりは、譲れない。  
萌太くんの遺志は、ぼくが継ぐっ!  
「崩子?」  
「呼び捨てなんて許さない」  
「オイオイ。だったら俺はこのガキをなんて呼べば良いんだよ? 大体、まるで所有物みたいないーちゃんの言い草こそ問題有るんじゃないのか?」  
むう。確かに。零崎から崩子ちゃんへの呼称となるとぼくも頭を捻ってしまう訳だが。  
闇口さん?  
いやいや。意表を突いて「ほこたん」とか?  
「わんこちゃん」  
「『闇口崩子』のどこをどうしたらその呼称になるのかが分からないし、そもそもその呼称もぼく専用なんだよ、零崎!」  
なんだろう。彼女を見てこの人間失格は「犬っぽい」とでも思ったのだろうか。  
しかもちゃん付け。  
「……メス犬?」  
「人を呼ぶという括りではちょっと有り得ない暴言だよね!?」  
少し心惹かれなくも無い響きだけど。  
……今度、やってみようかとか、ちらっとでも考えてしまった自分に自己嫌悪。  
……嫌だ。しかも崩子ちゃんならもしかしたら喜んでしまうかも、などと考えてしまうのが更に嫌だ……。  
悩むぼくたちを尻目に、ぼくの隣で置物みたいにちょこんと座っていた少女が口を開いた。  
「崩子はおにいちゃんの所有物『みたい』ではありません。所有物『そのもの』です、西園さん」  
爆弾発言。  
零崎、ジト目。眼を泳がせるぼく、チキン。  
「……ロリコンで年下キラー……か。終わってる度じゃ零崎とどっちが上だろうな、いーちゃん」  
戯言遣いには返す言葉が無かった。  
 
チョコレート・スパークリングのペットボトルを両手で挟み、こくこくと喉を潤す崩子ちゃんは最早インテリアと言っても何の問題も無い愛らしさだと思う。  
まあ、インテリアじゃなくて抱き枕なんだけどね。  
それはさて置き。  
「爆弾魔」  
零崎の言葉にそう返したのは無論、ぼくじゃない。  
「闇口に居た時に、聞いた事は有ります」  
崩子ちゃんだ。  
「おう。話が通じるな。そう、それ。十字炉……だったか。そんな通り名の二人組だ」  
顔面刺青は崩子ちゃんから押収したバタフライナイフを手元で弄りながら応える。  
ちなみに先程から崩子ちゃん、三度取り返そうとして三度失敗している。ニヤニヤ笑いの零崎に、どこか落ち着かない崩子ちゃん。  
トムとジェリーみたい。  
仲良くなら、存分に喧嘩して貰いたいものだ。見てるぼくとしてはそっちの方が余程微笑ましい。  
血生臭いのは、ごめんだった。  
「匂宮の分家だったか、本家だったか忘れたが。そいつらが京都に来てんだとよ」  
「はあ」  
今一要領を得ないぼく。  
「空爆を遣う兄と、地雷を遣う弟のコンビだったかと記憶しています」  
「縦横無残(クロスファイア)。こっちが爆撃機の兄貴。で、地雷往来(マインストリート)」  
恐らく、そちらが地雷遣いの弟の二つ名だろう。  
「二人合わせて縦横往来――十字路。十字炉ってな。ま、そんなヤツらは実際問題どうだって良いんだが」  
言葉通りに、どうでも良さそうに伸びをする殺人鬼。  
……どうでも良いなら、そんな気分の悪い二人組の話なんてすんなよな。  
フラグ立っちゃったじゃん。  
あーあ。  
ぼくの体質上、この展開は仕方ないのかも知れないけどさ。  
ヤだなあ。  
関わりたくないなあ。  
関わりたくない、って思っちゃうって事は、関わっちゃうんだろうなあ。  
なんて……なんて戯言だ。  
「まあ、そう悲観的な顔をすんなよ、いーちゃん。コイツらは所詮、三下だ」  
疲れた顔を上げて、恨めしく零崎を睨み付けるぼく。  
「その根拠は?」  
「昔な。寸鉄殺人(ベリルポイント)っつー爆熱の殺人鬼が零崎に居たんだが」  
「はあ」  
「ソイツが居た頃は『爆弾魔』って言ったらいの一番にソイツの事を指した。つまり、その程度だって事だ。かはははは」  
……格下。  
……格下、ねえ……。  
「ぼく、直接戦闘能力なんて無いに等しいんだけど」  
「おうおう。ソイツはご愁傷様なこったな」  
他人事。  
どこまでも、他人事。  
薄情と書いて、ぜろざきひとしきと読ますのかも知れない。  
鏡写し。  
それは、つまり。  
薄情と書いて、ぼくの名前に読ます事もまた、出来るのだろう。  
期せずしてカウンターパンチだった。凹むぼく。  
 
「なあ、ぜろりん」  
「なんだ、いーたん」  
「ぼくたちって、友達だよな」  
「……ハァ?」  
意味が分からない、と。首を捻るぼくの友達。  
「友達? 俺と、お前が? 良いな。今年聞いた中じゃ最高に傑作の戯言だぜ、いーちゃん!」  
……。  
……一方通行なら友情なんて言わないんだよなあ。  
「おにいちゃんと、西園さんはお友達なのですか?」  
心底不思議そうな崩子ちゃんの問に、ぼくたちは口を揃えた。  
 
「なかよしさ」  
「なかよしさ」  
 
定型句にして、常套句。  
名台詞にして、代名詞。  
ぼくと零崎は七年経っても、こんな感じで。  
互いが互いに、成長していないみたいに。  
友達は友達でも、悪友だ。  
 
「今日、お前に会いに来たのは別にそんな、くっだらねえ兄弟の話にしに来たんじゃなくってさ」  
「なら、無闇にフラグを立てるんじゃねえよ」  
ぼくのフラグ回収率を舐めるなよ!  
この卑小なる戯言遣い。しかし、ここまでのCGは分岐を含めて全部回収してきた自負が有る!  
……あ、らぶみさんルートは例外。  
まるで攻略の糸口が見えないんだもん。やっぱりアレかな。お見舞いイベントとか踏んじゃいけないのかな。  
むう。難しい。  
「でしたら、西園さん。どうしてお兄ちゃんの所に殺し名である貴方がいらっしゃったのでしょうか?」  
……そろそろ、崩子ちゃんの間違いを正してあげるべきだろうか。  
でも、このままでも良い気もする。彼女は「零崎」なんかとは関わるべきじゃない。  
ぼくとしては極力「闇口」とも関わらせたくは無くって。  
結論。西園さんの侭でいいや。  
実害は無いし。  
「私としましては、お兄ちゃんには極力殺し名とは関わって頂きたくありません。出来るならば、早々に用件を告げて頂けないでしょうか」  
言いながら。四回目のバタフライナイフ回収、失敗。ぐるると唸る崩子ちゃんも、それはそれで良いものだ。  
「良い番犬飼ってんな、いーちゃん」  
「良いだろ。あげないけどな」  
三回廻ってわんと言わせた時の、あの苦渋に満ちた顔はぼくだけのものだ。  
ぼくがそんな事を考えている事を知ってか知らずか、零崎は柄にも無く苦々しい顔をした。  
そして漸く、本題を口にする。  
「あー、まあ、言い難いんだけどな……」  
「ごくり」  
「……妹と逸(ハグ)れたんだよ」  
 
ぼくが口を「は」の形にしたままに凍り付いた事は、書かずとも察して頂けると思う。  
察するに、余り有ると思う。  
零崎が おにいちゃんとか あるわけねえよ by戯言遣い  
混乱し過ぎて戯言遣い、二文字も余らせてしまった。  
 
瓦解誘発体質。  
ぼくの持つ第一のスタンド能力。  
そして、変態誘引体質。  
ぼくの持つ第二のスタンド能力だ。  
持ち主の意思に関係無く常時発動型なのが悩みの種。  
今回は後者が求められているらしい。  
「つまり、人識クンはそのいーちゃんの体質を見込んで話をしに来た、って事か。良いね良いね。頼るべきは友達だぜ、やっぱ」  
「頼られていると言うよりも、馬鹿にされてる気がしますよ……ところで、哀川さん」  
「潤」  
彼女が睨んで、怖気付かない対象は数少ない。ぼくはその、数少ない例外だ。  
「上の名で呼ぶな下で呼べ」  
このやり取りはお約束。  
赤髪危機一髪って感じ。楽しいけれど、遊び過ぎると首が飛ぶ。  
無論、ぼくのである事は言うまでも無いと思う。  
赤い彼女とぼくは駅前の喫茶店のテラスでランチと洒落込んでいた。  
ちなみに。店内ではなくテラスである事には理由が有って。  
曰く。赤い征裁が足を踏み入れた建物は一つの例外も無く崩壊する、から。  
案外、その昔、骨董アパートが崩壊したのは彼女の所為なのかも知れない。  
「アタシを苗字で呼ぶのは敵だけだ……って、そろそろいい加減にしておかないといーちゃんのかわいーかわいー崩子ちゃんを誘拐してオランダで結婚式あげちまうぜ?」  
飛ぶのはぼくじゃなくて崩子ちゃんだった。  
高飛び。  
「それだけは勘弁して下さい」  
ぼくは土下座した。  
水面の向こう側。人類最速にも負けず劣らずの土下座速度だったと後に哀川さんは語ったとか語らないとか。  
「いーちゃん。男なら簡単に頭を下げんじゃねえよ」  
「ぼくは友達の貞操を守る為なら、こんな軽い頭幾らでも地面に叩き付けてやる」  
戯言、なんかではなく。それは心からの言葉だったって……まあ、どっちにしろ戯言だ。  
「で? アタシを呼んだって事は何か用件が有るんだろ、いーちゃん?」  
「ええ。潤さんを人類最強の請負人と見込んで、お願いが有ります」  
ぼくは切り出した。  
「この件について、ぼく以外のぼくの周りの安全を、請け負って下さい」  
「ふうん」  
哀川潤は、死色の真紅は楽しそうに、笑った。  
「カードの切り方を心得てきたじゃねえか、いーちゃん」  
真赤なワインを真昼間だと言うのに豪快に飲み干して、そして愉快で堪らないと、真赤なスーツで固めた身を豪快に震わせて笑った。  
「『ぼく以外』ね。良いぜ。そういうのは嫌いじゃない。どころか、大好きだ。そうだよな。男の子ってのはそうじゃないといけないよな」  
「でしょうね」  
真赤な彼女の好きなもの。  
それは王道で構わない。  
それは奇を衒う必要なんてどこにもない。  
お約束の展開、王道のストーリー、どっかで聞いたことのある登場人物に、誰もが知ってる敵役。使い古された正義の味方にありふれた勧善懲悪、熱血馬鹿に理屈馬鹿。ライバル同士の友情にお涙頂戴のハッピーエンド。  
それは奇しくも、戯言遣いが好きなものと同じだ。  
「この街がですね。どうもぼくは好きになってしまったみたいなんですよ」  
七年前のぼくにはどうしても言えなかった、その言葉。  
「この街に生きる人達を、どうもぼくは好きになり過ぎてしまったみたいなんですよ」  
七年前のぼくに聞かせてやりたい、紛れも無くぼくの口から出たその言葉。  
「ぼくの住む街を荒らすようなら、それはぼくの敵なんじゃないかと、そう思い込むようになってしまったみたいなんですよ」  
 
世界を殺すことも。  
世界を壊すことも。  
世界を終わらせることもできっこない。  
でも。  
世界を救うことはできる。  
決めたよ。  
ぼくは――ぼくは正義の味方になってやる。  
 
七年前に決意した、その生き方。  
七年前から変わっていない、ぼくの生き様。  
「だから、潤さん。ぼくが戦えるように。ぼくがこの街を救えるように」  
「おっと。そこまでだ。その先は要らない。アタシを誰だと思っていやがる。心得てんよ、いーちゃん」  
彼女は皆まで、言わせない。  
そこで言う言葉を、彼女は知っているから。  
真赤な彼女の好きなもの。  
「背中は、任せとけ」  
それは王道で構わない。  
王道に、王の道に、敵うもの無し。  
人類最強の後ろ盾が有って、正義の味方に負ける道理など、どこを探しても、有るものか。  
「ハッピーエンドの続きはな。しあわせでなくちゃいけないんだよ」  
「同意します」  
「しあわせでいる為には、しあわせを、守らなくちゃな」  
「ええ」  
きっと、それで正道。  
ニヤリと、けれど気持ち良く朗らかに笑う彼女に、きっとぼくもニヤリと笑っていたのではないだろうか。  
鏡が無いから分からないけど、どんな顔でも、笑っていたのは間違いない。  
悪くない、晴天の正午だった。  
「この店の勘定はぼくが持ちます。そもそも、潤さんは店内に入れないでしょう?」  
というか。お気に入りの店を壊されたくないぼくだった。  
建物に入れないって、日常生活を送る上でかなり高難度の縛りな気がする。  
ぼくならとても無理だ。  
「ああ。なら、それが今回の依頼料って事にしとこうぜ、いーちゃん」  
言って、ウェイトレスを呼び付けワインのお代わりを注文する彼女。  
真姫さんじゃあるまいし……哀川さんってそんなにお酒好きなイメージ無いんだけどなあ。  
久方振りの再会だから、喜んでくれているのかも知れないと、そう考えているのはぼくの自意識過剰かな。  
剣呑、剣呑。  
「え? 依頼料?」  
「なんだよ。追加くらいさせろっての。案外ケチ臭いな」  
「いえ、そうではなくって、ですね」  
哀川潤。  
人類最強の請負人は。  
人類最強の請負人だけ有って、引く手数多だ。  
正直、彼女を動かすにはぼくの私財を切り崩す必要が有ると考えていた。  
肩透かしも良い所。  
 
「安過ぎませんか?」  
ぼくの問い掛けに、しかしどうしてだろう? 意味が分からないと赤い彼女はぼくを見据える。  
「高過ぎるくらいじゃねえの?」  
哀川潤はそう言って、とても彼女らしい言葉を、続けたのだった。  
「友達の友達を守るのに、本来なら金なんか受け取らねえよ、アタシは」  
それが当然と。  
それで平然と。  
やはり、彼女には敵わない。  
七年経ってもまだ、足元にも及べそうに無い。  
でも、それがとても、愉快だった。  
愉快で痛快で爽快な、それは京都の正午だった。  
「馬鹿とハサミは痛快YO!!」  
哀川さんによる姫ちゃんの物真似で、全ては台無しになったけれど。  
 
哀川さんと別れて、城咲の化物マンションへと向かうぼく。  
特に理由も無く、ぶらぶらと。  
だらだらと。  
気付けば城咲方面へとミココ号は向かっていた、というのが本音だった。  
「まあね」  
ベスパに跨ったまま、ぼくは一人ごちる。  
「そろそろ、アイツが出て来ないとタイトルに偽り有りに、なっちゃうだろうし」  
そんなメタ的な事を考えながら、ふらふらと。  
へらへらと。  
心ここに在らず的な、なんとなくうわのそらでスクータを運転をしていたからだろう。  
もしくはスタンド能力一つ目が発動したのかも分からない。  
いやいや。  
二つ目だろうか。  
いやいやいや。  
多分、両方。  
変態を呼び寄せて、物語はなるようにならなくなる。  
ぼくの常道だ。  
 
――その男は、決して出を外さない。  
出を外さないから、ソイツはソイツだという背理証明。  
まるで、出番を待っていたかのような。ここぞという時を狙い済ましたかのような。  
 
「……縁が『合』ったな。俺の敵…………ぐふっ……」  
ぼくは狐面のそのおっさんを問答無用で轢き倒していた。  
……お呼びじゃねえんだよ。  
出番でも無い。  
出を外したら、それは単なる異様なファッションのおっさんでしかないという話。  
 
哀川さんと別れて、城咲の化物マンションへと向かうぼく。  
特に理由も無く、ぶらぶらと。  
だらだらと。  
気付けば城咲方面へとミココ号は向かっていた、というのが本音だった。  
「まあね」  
ベスパに跨ったまま、ぼくは一人ごちる。  
「そろそろ、アイツが出て来ないとタイトルに偽り有りに、なっちゃうだろうし」  
そんなメタ的な事を考えながら、ふらふらと。  
へらへらと。  
心ここに在らず的な、なんとなくうわのそらでスクータを運転をしていたからだろう。  
もしくはスタンド能力一つ目が発動したのかも分からない。  
いやいや。  
二つ目だろうか。  
いやいやいや。  
多分、両方。  
変態を呼び寄せて、物語はなるようにならなくなる。  
ぼくの常道だ。  
 
――使い回しじゃないよ?  
 
彼女は、道端に居た。  
赤いニット帽がやけに印象的なビジネススーツを着込んだその女性。なぜだろう。理由も分からないままに、眼を奪われるぼく。  
なんか、どことなく針金細工、って感じ。そんな形容をする程細過ぎる訳じゃないのに。  
なぜだろう。そう思った。  
そう思った――その、数瞬。  
時間にして一秒も無い。正しく一瞬で。  
ミココ号の前輪が半分、無くなっていた。  
唐突にそんな事を言われても全くもって意味が分からないかも知れない。言葉足らずである事も理解している。けれど、それ以外にどう言えば良いのか?  
だって「無かった」のだから。  
これでも出来る限り、正確に記載してるつもりだ。  
がくん、と。  
前に向かって倒れ込むベスパのハンドルを慌てて握り直した時には、前輪が半円型になっていたのだから。  
それ以上にどうも言いようが無い。どう書きようも無い。  
戯言遣いであっても、そこまで無茶振りなアドリブは、利かない。  
ちなみに時速、四十キロ超。  
「あちょおぉっ!?」  
人間というものは面白いもので。予想外の事象には予想外の、柄でもない、キャラにも無い台詞を吐いてしまうようで。  
あちょー、じゃねえ。  
当然の帰結として、ぼくは為す術無く宙へと放り出された。  
どうやら、他の女の子に目移りしたのがミココ号の逆鱗に触れたのだろうと、ぼくは無重力遊泳をしながら考えて。  
ああ、それなら仕方ない。自業自得だ。  
だけどね、巫女子ちゃん。流石に走っている最中にスクータの前輪を半円にしちゃうのはちょおっとやり過ぎじゃないかな?  
智恵ちゃんにはちゃんと謝ったのかい? ねえ、思い返すまでも無くやり過ぎはよくないよ?  
いや、まあ、怒らせたぼくも悪いのかも知れないけどさ。  
その日、戯言遣いは空を飛んだ。  
どうしようもなく、どうする事も出来ず、空を飛んだ。  
ああ、太陽が眩しい。  
「分かってるって。愛してるのは君だけだよ、巫女子ちゃん。だから、機嫌を直して欲しいな」  
そんな戯言を言い終わると同時に、ぼくはアスファルトに叩きつけられた。  
――暗転。  
 
眼を覚ます。眼を開ける。目玉をぐるりと一回転。状況認識。現状確認。  
横になったままで速やかに、損害報告(ダメージリポート)。  
「第弐話。見知らぬ、天井」  
オーケー。意識は有るし戯言も吐ける。  
という事はぼくは大丈夫。  
意識さえ有るなら、ぼくは――大丈夫だ。  
それにしたって、ここはどこだろう?  
こういう場合は鴉の濡れ羽島と相場が決まっているものだけれど。  
……決まっているのが癪だけど。  
だけど、部屋が白一色じゃない時点で、その可能性は否定された。  
眼に映るのはチープな蛍光灯。これだけでもばっちりあの孤島でない事は証明できる。照明だけに。証明。  
正真正銘、今のは戯言。  
更に言うならどこにでも有りそうな壁紙の張られた天井。  
お世辞にも寝心地が良いとは言い難いベッド。  
まるで安モーテルだ。  
……っていうかさ。ここ、どこ?  
「あ、眼を覚ましましたかっ!? 眼を覚ましちゃいました!? 良かったあ――すいません、わたし、気付かずにしとめちゃったかと思って焦ってしまいました!」  
仰向けのままのぼくの視界の中に入ってくるのは、記憶に新しい赤いニット帽。  
黒いスーツ姿の可愛らしい女性だった。針金細工の様に、手足の長い印象を受ける。けれど、よくよく見たらそんなに長い訳でもなく。  
……はて?  
なんでぼくは彼女に針金細工なんて言葉を抱いたのだろう?  
どうも頭を打った所為で、認識能力が落ちているみたいだ。  
「あ、あの、どこか痛いところはありませんか!?」  
……いや、ね。  
……ぼくの状態を見ればその質問は有り得ないと思うのだけれども。  
このマイペースな感じはなんか久々な印象。  
巫女子ちゃん系。  
「うん、痛い所だらけなんだけれどね」  
「うわっ! やっぱり!? ワンバンでキャッチしたからセーフかと思ったんだけど、アウトでしたっ!?」  
落ちた物でも三秒以内なら食べても良しみたいな、そんな言い方をされてしまった……。  
人間を食べ物と同列に扱うとか、零崎かよ、この子は(悪口)。  
……大体、一度でもアスファルトでバウンドしてみたら、そんな台詞は吐けないだろうと思う。  
少なくともぼくならもう絶対に吐けない。  
ワンバンでキャッチしたからセーフかと思ってました。  
無理。  
そんな戯言、とても吐けない。  
戯言で戯言遣い、大敗北だった。  
恐らく歴史上初。  
そうでもない気がするけれど。  
「まあ、でも、多分、動けないほどじゃないよ」  
「あ、ちなみにおにーさんの左腕ぽっきり折れてます。すいません」  
「重体だ!!」  
本人が気付いてない所で重体だった。  
あ。でも、これでらぶみさんに会いに行く口実は出来たか。  
災い転じて福と為す。  
今度こそ、CGを回収しないとね。  
 
「じゃないよ! そうだよ、なんで病院じゃないの!? いや、病院じゃないよね、ここ!?」  
「えっと、事故現場の近くに有ったラブホテルです。きゃっ☆」  
「きゃっ☆」じゃねえよ。  
……可愛いけどさ。って、違う! 流されるな、ぼく!  
この手の手合は流されてそのペースに巻き込まれたら試合終了ですよ!?  
「安西先生、轢き逃げがしたいです」  
「ぼくは安西先生じゃねえよ」  
轢き逃げしたのは彼女じゃなくてぼくだし。  
轢き逃げ? んん? そんなのしたっけ?  
どうにも記憶が曖昧。  
記憶障害だろうか。どうやら思っていた以上に頭を強く打ち付けたらしい。  
「たんこぶとか、この年で作りたくはなかったのになあ」  
格好悪いじゃん。いい年した大人が。  
スクータで転倒とかさ。未だバイクなら有りかも、だけど。  
「大丈夫ですよ。おにーさん、童顔ですから。まだまだやんちゃしても良いと思いますよ」  
そんなフォローに見せ掛けた暴言は要らない……要らないんだ。  
「まだまだ、高校の制服とか着ていても違和感有りません!」  
「それは女子高の制服じゃないだろうな!?」  
トラウマ。  
心的外傷。  
七年も前の事くらい忘れさせて欲しい、いい加減に。  
「えっと……とりあえず、救急車呼んでくれる?」  
うんざりと言うぼくに向けて、首を振る彼女。  
「携帯電話を持っていません」  
「あー、えっと……ぼくの使って良いから」  
そう言ってぼくは、(比較的)無事な右手を使ってポケットから携帯電話を取り出す。  
パカリと開いて……そして更にうんざり。  
画面に映る着信報せ。「着信:256件」。  
……死にたい。  
……もう、本当に。こういう時で無ければ特に何も思わないのだけれど。  
泣きっ面に蜂。  
いっそ殺せ。  
殺さずに精神崩壊を狙ってくるのが、本当に、非常に性質が悪い。  
「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」「兎吊木垓輔」  
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玖渚とぼくが結婚した後の、アイツのライフワーク……らしい。  
イタ電。  
電話番号を変えようと。  
着信拒否に登録しても。  
手を変え品を変え。電話番号を変え、ぼくの携帯電話のプログラムまでも変えて。  
一日に256回のぼくへのイタズラ電話がライフワークの凄腕クラッカ。  
……正直、どうかと思う。色んな意味で。どうかと思う。  
「わあ、着信がいっぱい。お友達がたくさん居るんですね。羨ましいな、おにーさん」  
無邪気な彼女の発言が、とどめ。  
そんな気は無いだろうけれど、これ以上無いくらい、どどめ色。  
「……覚えておくと良いよ。友達とは選ぶものだ」  
ぼくはこんなヤツ、選んだ覚えは無い。細菌野郎め。死んでしまえ。  
 
「わたし、友達少ないんですよ。その少ない友達から更に選ぶなんて、とてもとても」  
悲しそうに言う彼女。アレ? ぼく、なんか地雷踏んだ?  
「わたしの場合は、選ぶまでもなく、色々と終わってますから」  
はにかむ。まるで姫ちゃんみたいに。  
はにかむ。まるで智恵ちゃんみたいに。  
切なく、笑う。  
見てるこっちが切なくなる、笑い方。  
「そんな笑顔は止めてくれない?」  
「え?」  
「うっかり惚れちゃったら、どうしてくれるの?」  
そう言って。ぼくは、戯言を弄する。  
泣いてるみたいな笑顔は、見たくない。  
そんな笑顔はぼくの周りでは、もう、要らない。  
「ぼく、不幸萌えなんだよ。不幸萌えで、薄幸萌えなんだ」  
それを聞いて彼女は困惑と羞恥の絶妙なブレンドを表情で披露する。  
そうだ。  
その方が良い。  
ミココ号にはまた振り落とされるかも知れないけれど。きっと振り落とされてしまうだろうけれど。  
それも、ぼくの生き方だ。  
そんなんで、ぼくは良い。そんなんが、ぼくにはお似合い。  
「えっと、納豆がお好きなんですか?」  
「醗酵じゃねえよ!!」  
どうも、ぼくの格好良い生き方は彼女には上手く伝わっていなかった。  
「えっと……おにーさん、救急って何番でしたっけ?」  
ああ、たまに度忘れするよね。あるある。117(時報)押しちゃったりさ。  
でも、結構忘れちゃいけないレベルでの常識では有ると思う。  
「119」  
多分、合ってる筈。  
携帯電話を操作する音。ぼくは彼女の背中を見ながら眼を瞑る。  
ちょっと眠くなってきた。  
「えっと……おにーさん、火事か救急かって聞かれたんですけど?」  
……。  
……消防車呼ばれてもなあ。  
……眠いのになあ。寝かせてくれないかなあ。  
「どこも燃えてないからね。救急で」  
「えっと……おにーさん、続けて住所を聞かれたんですけど?」  
「そんなこと意識が無い内に運び込まれたぼくが知るはずないじゃん!?」  
思わず声を荒げてしまった。  
なんて事がありつつも、連絡終了。日本ではどこから連絡しても十分以内には救急車が到着するようになっている筈だ。  
十分は寝るには少し短い。  
救急車は寝るには少し煩いし。  
 
「えっと……おにーさん」  
「何?」  
ぼくは寝転んだままで首を回す。彼女は窓ガラスに体を預けていた。  
「わたし……実は国家権力とは相性が悪いのですよ」  
「はあ」  
……国家権力って。他に言い方は無かったのだろうか。  
「なので、非常に心苦しいのですが、わたしはここで退場とさせて頂きます」  
「……え?」  
退場?  
「……零崎に」  
彼女の脚が跳ねる。ちらりと見えた太腿にはホルスタ。ぼくの眼は彼女のすらりとした脚に釘付けに――ならない。  
ホルスタから飛び出した、跳ね出た、躍り出した……その凶器が視線を奪って離さなかった。  
鋏。  
鋏だ。  
いや、果たしてそれを「鋏」と呼んで良いものなのだろうか。  
その――人を殺す事を目的として造られたとしか思えないフォルムを認めながら。それでも尚それを「鋏」と呼ぶ事はぼくには出来ない。  
「零崎に出会ったのが、おにーさんの運の尽きだと思って、諦めて下さい。ごめんなさい」  
零崎。  
零崎一賊。  
それは、殺人鬼の集団。  
それは、最果ての更に果て。  
先も無く、戻り道も無い、終わっている人間の俗称。  
賊称にして蔑称。  
「ちょ、ちょっと!? 零崎って!?」  
「何か問われたらこう言って下さい。加害者は『零崎舞織』と名乗った、と」  
それだけで、治療費は全額免除になるはずですから。  
彼女はそう言って。  
窓ガラスを「切り裂いて」、針金細工の彼女はそこから跳び降りた。  
 
「今日のためのおはようと明日のためのおやすみを言いたくて、闇口崩子通算四十三度目の戯言遣いのお兄ちゃんのお見舞いにやって参りました」  
四十三という数字を告げる時に、少女の眉はへの字になったのをぼくは見逃さなかった。  
四十三度目。  
死んでないのが逆に奇跡な数字だ。  
どんだけぼくはこの病院にお世話になっているのだろうかという話。  
そして、それはそのままらぶみさんルートの攻略難易度の高さを示している。  
ルート分岐がまるで見当たらない。それっぽい選択肢を選び続けているつもりなんだけど……うーん……。  
攻略wikiの設立を今や遅しと待ち望んでいるぼくだった。  
地球の皆、オラに知識を分けてくれ、的な。  
「やあやあ、崩子ちゃん。態々足を運んで貰って悪かったね。でもお見舞いは必要なかったみたい。今回は入院は要らないってさ」  
左腕の骨折のみ。後の外傷は、どうという事もないらしい。  
流石、ワンバン。たんこぶ一つで済んでいる。  
記憶障害については、諦められたけれども。  
「いーいーの場合は記憶障害じゃなくて記憶崩壊だから、これはもうどうしようもないよね」  
記憶崩壊らしかった。あの看護婦め。怪我人相手でも容赦が無い。  
名探偵に甘さは要らない、とかかも。  
「ああ、それにしても。入院が要らなくなったのは、進歩かな?」  
「それは何のフォローにもなっていません」  
怒られた。  
「お兄ちゃんが傷付く事でどれだけの人が心を傷めているか、お兄ちゃんはまるで理解していないのですね」  
叱られた。  
「お兄ちゃんはもっとご自愛なされるべきです」  
終には諭されてしまった。保護者失格だ。  
負うた子に教えられ、ってヤツ?  
……金言だなあ。  
「うーん。だけどね、崩子ちゃん。今回ばっかりは天災というか、不慮の事故だよ」  
ぼくだって、まさか運転していたらベスパの前輪が半円になるなんて夢にも思わない。と言うか、思うようならぼくはかなりヤバい。人として。  
前代未聞。青天の霹靂。そんなのぶっちゃけありえない。  
「……スクータ」  
崩子ちゃんは無表情に言う。  
「前輪、切り裂かれていましたね」  
「うん」  
……そこまで知られていては、煙に巻く事は、出来ないか。  
戯言を遣う、隙も無い。  
「真っ二つでした。あれはアマチュアでは為しえません」  
「ミココ号、回収してくれたの?」  
「わたしではなく、みい姉様が。今は市中見回りに出ていらっしゃいます」  
きっと、今日のみい子さんのじんべえは浅葱色で背中の文字は「誠」だろう。  
士道不覚悟は切腹。  
「ので、お見舞いはわたしが仰せ付かりました」  
「そっか……そっか。それは、マズいな」  
今の京都は殺し名が闊歩している以上。  
みい子さんが、危ない。彼女はぼくの関係者である以上。ぼくほどではないにしろ、そういったものに行き当たる危険性は無視出来ない。  
ぼくの関係者。  
それだけで、行き合う理由としては十分だ。  
そして、行き合えばきっと彼女は、果たし合う。  
敵前逃亡は、士道不覚悟。つまりは切腹ものだ。  
だけどみい子さんは一般人。その枠を抜け出てはいない。以上、彼女を行き合わせる訳には、いかないだろう。  
 
「崩子ちゃん。みい子さんを探して部屋に戻るように説得してくれるかな」  
「嫌です。わたしはお兄ちゃんの身辺警護を言い付かっています。そして、わたしもそれを望んでいます」  
「……ふう。分かったよ。だったら、ね、崩子ちゃん」  
「はい、お兄ちゃん」  
「命令だ。みい子さんを、守れ」  
闇口にとって主の命は、絶対。  
ぼくの関係者の安全は潤さんに頼んでいるとは言え。  
出来る事は、しておくべきだろう。出来る手は、打っておくに越した事は、無い。  
闇口であった彼女は、口答えはしなかった。ただ、ぼくの命令に唇を噛み締めて頷いた。  
「どうか……ご自愛を」  
そう言い残して、少女は音も無く消える。まるで闇に溶けるように、影も無く。ぼくはそれを見届けると(ぼくの動体視力じゃまるで彼女の姿は見えてはいないけど)、病室の天井に向かって呟いた。  
「ああ、彼女に闇口はさせません。殺し名はさせません。今のはぼくからの純粋な『お願い』です。という事でどうか見逃してくれませんか、濡衣さん」  
元より期待はしていなかったけれど、返事は無かった。だけど、沈黙は何よりも雄弁な肯定といった所だろう。  
彼は、ぼくの戯言を恐れている以上。  
返事は無くて、それで、当然なのだから。  
濡衣さんが居ないのならば、それはそれで別に問題も無い。  
「さて、と」  
ぼくは左腕を固定している邪魔な三角巾を取り払った。  
これから戦いに行く人間が、こんなものはするべきじゃない。  
「立てば嘘吐き座れば詐欺師、歩く姿は詭道主義――」  
病室の扉を歩いて抜ける。足元はしっかりしていた。それで十分。十全に上等だ。  
「さあさ、皆様お立会い」  
口さえ開けば、それで完成。ペテン師に、暴力は要らない。  
必要なのは、口先三寸、二枚舌。  
「零崎も爆弾魔も。それじゃあ、いっちょうまとめて」  
戯言遣いの戯言三昧。  
「殺して解して並べて揃えて、晒しに行くか」  
 
そんなこんなで、はじまりはじまり。  
 
病院では携帯電話の電源を切っておきましょう。じゃないと、きっと電話が来る。  
それはこの日のぼくみたいに。  
それは悪戯電話というには深刻な。  
それは257回目の着信だった。  
それはつまり、一回多かった。  
「つまり玖渚友は特別変異なのだよ。特別に特別なのさ。特異の中の特異、変別の中の変別、それが彼女、玖渚友だ。  
それも冗談としか思えないくらいにとびっきりの、冗談とも思えないくらいにタチの悪い、そんな類型の特別特異だ」  
電話越しに兎吊木は言う。  
「昔の話だがね。だがしかし、それは過去の栄光に留まらない。それはつまり未だに俺達が玖渚友に心酔して心底から心中を望んでいる事からも分かるはずだ。  
けれど、だ。そこに返して見て君はどうだろう? 玖渚に死の危険を強要したあの七年前の行為は果たして好意と言えるのかな?」  
電話越しに害悪細菌(グリーングリーングリーン)は言う。  
「ああ、君にも反論はあるだろう。しかし俺にはそれが愛情だとはとてもじゃないが思えない。思えないんだよ。いや、俺には愛情なんてものがそもそも理解出来ないのだけれどね。  
愛情。陳腐な言葉だ。愛憎ならば未だ理解出来なくはないか。独占欲、結構な事だ。とてもとても、人らしい。そして、俺には君がとても気持ち悪い。端的に言えばね。俺は君が嫌いなんだ」  
喋るだけで人を壊す事が出来る、壊し屋(クラッカ)は続ける。  
「君はね、玖渚友に、釣り合っているとは俺には思えないんだよ。いや、違うな。本質的には誰も玖渚友に釣り合う事なんて出来ないのだから。だから、それなのに、彼女の隣に居ようとする君が酷く滑稽に見える。  
孤高とは、孤独なものだ。だが、それで正しい。頗(スコブ)る付きに正しいだろう。なぜ、なんて愚かな事を言い出さないでくれよ。それはそうであるように産まれてきただけなのだという事に、君だって異論は挟まないだろう?」  
だけど、ぼくは思う。  
それは、戯言でしかない。  
「君はそれがそうである事が宿命付けられているそれを、それの隣を望むが故にそれをその高みから引き摺り下ろしたのだよ。これが害悪でなくてなんだろうか。本当に。俺にすら出来ない破壊だったよ。  
ああ、見事だと、その手際に関してのみは喝采を送らないではない。だが。俺は許す事は出来ないし、死線の蒼は決して君を許さないだろう」  
だけど、ぼくは知っている。  
それは、真言の皮を被った、戯言でしかない。  
「戯言遣いは、戯言を以って、死線の蒼という生き物を殺したのだよ。さあ、振り返ってみよう。君のあの行為は果たして愛かな?」  
昔、ぼくは彼に言い返す術を持たなかった。けれどそれは昔の話。  
昔話。  
七年。七年だ。  
それは成長するに決して短くなく。  
それは老成するに決して長くない。  
 
「君は玖渚友の事が本当は嫌いなんじゃないのかな?」  
 
ぼくは、その言葉への返答に、二度と詰まる事は無い。  
「兎吊木。ぼくはね、玖渚の事が」  
それはいつか、彼女の前で誓った言葉。  
 
「嫌ってほど好きで――憎たらしいほど愛してる」  
 
戯言なんて、真言の前では露と消え逝く。  
虚言なんて、真言の中では泡と溶け逝く。  
それで、正解。  
正しい、在り方。  
 
電話の向こうから、溜息が聞こえた。  
「……そうかい。残念だ。七年前の君はもっと素直な良い子だったよ。ああ、俺の問に対して返答に詰まる程度には、『知らない』などと強がる程度には、良い子だった」  
「戯言遣いに、戯言を以って、戯言を封じようとする、戯言殺しの手腕は、もう飽きたんだ。兎吊木。何の用だ、なんて言わない。言ってやらない」  
ぼくは不遜に、言い切る。  
壊す事しか出来ない人間に、正義の味方が怯える必要なんて、どこにもない。有る訳無い。  
正義は、決して負けない事を。ぼくは彼女から教わった。  
「ふむ。なぜ、そう思うのかな、戯言遣い。後学の為に聞かせてくれよ。俺が君に用が有るなど、筋違いも良い所だろう?」  
良いだろう。お前がそう言うんなら、だったら今度こそその鼻っ面に百点満点の回答を突き付けてやる。  
「257回目だ。一回多い。つまり、この電話はプログラムじゃなく、兎吊木。アンタが自分の手で掛けている、って事だろう。話せよ、壊し屋。壊すだけじゃどうにもならない事が有るから、ぼくに電話を掛けてきたんだろ?」  
兎吊木からのコールは毎日きっちり256回。二の八乗。スクリプトの関係か、そんな事は知らないが。  
そのルールを自ら壊したという事は。  
この男が、自分の手でイタ電をするなんて、そんな馬鹿げた事を、やるものか。  
腐っても、壊れても、最壊の壊し屋が。  
チームの一員が、そんなアナクロな事をするって、それは――。  
「今、京都に爆弾魔がやってきている事は知っているかな、戯言遣い?」  
……?  
爆弾魔? いや、それは知っているけれど。  
どうしてその単語が「兎吊木の口から出る」!?  
棲み分けが、なっちゃいない。  
そこは混ざらない場所だろう!? 混ざっちゃいけない……領域だろう!?  
「……」  
殺し名は。呪い名は。  
「違う世界の御伽噺」でなければならない――筈なのに!?  
「どうやら、知っているみたいだ。ああ、知っているものと思って離させて貰う。沈黙はこれ以上無い肯定だな」  
そう言って、兎吊木は一拍溜めて、そして漸く「用件」を吐き出した。  
 
「連中の狙いは玖渚友だ」  
 
「……なっ!?」  
「依頼人は――壊した。だが、殺し屋は依頼人が壊されようとどうやら関係ないようでね。依頼が出されてしまえば、取り消す術は無いらしい」  
――壊した。  
それは兎吊木にしてみれば赤子の首を捻るように簡単だっただろう。  
破壊工作の専門家。自分の持つスペックのその全てを全て「破壊する」ただそれだけに費やした男。  
兎吊木垓輔。  
死線の蒼に。その気になれば万能の最強にすら匹敵するその能力を全部《破壊する》ためだけに費やした、ごく専門の、ごくごく専門の、専門過ぎる極まった破壊屋。とまでかつて言わせたこの男ならば。  
それはコンセントを抜くように、容易いだろう。  
だが。  
兎吊木垓輔は……いや、兎吊木だけじゃなく。仲間(チーム)の連中は言ってしまえば所詮、プログラマだ。  
どれだけ暴力的であっても。  
どれだけ暴虐主義であっても。  
それはネットの中だけの話。  
純粋な暴力に対しては、赤子のように無力。  
「ネットにさえ繋がっていれば君の手を借りるまでもないが。だが……いや、これは素直に敵の手腕を褒めるべきだろうな。俺達の手の届かない手を使う、とはね」  
「仲間(チーム)は?」  
「言われるまでも無い。動いている。だが、ぶつけられる駒が無い。そこで、君の出番と相成った訳だ。光栄に思ってくれよ、戯言遣い」  
駒扱いは癪だったが。  
事情が、事情だ。  
玖渚の、危機だ。  
玖渚友の危機に際してまで、それでもプライドを優先する程、ぼくは誇り高くない。  
ぼくは、そんなものを誇りなんて、絶対に呼ばない。  
「兎吊木。知っている事を全て話せ」  
出番をみすみす見過ごして、後悔するなんてのは、もう、真っ平だから。  
――真っ平、御免だから。  
 
篝火戴空(かがりびたいくう)。爆撃機の兄。縦横無残(クロスファイア)。  
篝火泰地(かがりびたいち)。地雷師の弟。地雷往来(マインストリート)。  
二人合わせて縦横往来。十字炉(ブラムストリート)。  
灰燼塵芥(ラッシュトゥアッシュ)の篝火兄弟。  
「ソイツらの脅威は、まあぶっちゃけ火力だよな、火力」  
零崎が笑いながらそう言っていたのを思い出す。  
爆弾。  
大型の建物を解体する時に、何が使われるのかはご存知だろうか。  
大型の建物を破壊する際に、もっとも使われる手段をご存知だろうか。  
そして、この京都で。  
一番背の高い建物は?  
「気付くのが遅いだろ、ぼく!」  
引き篭もりがデフォルトである玖渚はきっと、今日も今日とてあのマンションに居る。  
城咲の化物マンションで、引き篭もっている。  
それは間違いない。そして、ぼくが今から避難を促したとしても。  
彼女は一人では段差を越える事が出来ない。  
蒼でなくなってしまった青は。  
ぼくや直さん無しではあのマンションから移動する事すら出来ない。  
「くそっ!」  
急ぎたいのに。駆けつけたいのに。そんな時に限ってベスパは無い。  
みい子さんがもう部屋に戻っているかどうかも分からない以上、フィアットを借りに行くのもダメだ。  
そもそも回り道。  
急がば回れ、なんて言ってられる場合じゃない。  
考えろ。考えろ、ぼく!  
 
「いや、そういう時は考えてもどうにもならないだろ、欠陥製品。『Don't think,feel.』ってな具合だ。考える前に動こうぜ、いーちゃん」  
「そんな戯言を言っている暇は無いんだよ、人間失格!!」  
「いやいや、戯言じゃねえし。現実を見ろって、いーたん」  
「現実を見てるからこうして困って…………病院の玄関口で何やってんの、零崎?」  
 
お約束の展開、王道のストーリー。  
ピンチにはライバルが駆け付ける。  
そんな――お約束。  
そんな――都合の良い事ばかりも、たまには有りって事で。  
不都合にだって、たまには休みが必要なのかも知れない。  
なるようにならない?  
違う。  
違う。  
赤い彼女風に言えば、それは。  
なるように、していないだけ。  
なら、なるようにするだけの話だろう?  
正義の味方っていうのは、そういうものだったはずだから。  
「ヒーロー見参、とかどうよ?」  
殺人鬼はそう言って哂う。どの口が、どの口で、言っているのか。  
全く、傑作に――傑作だった。  
 
「で……えっと、実際問題、なんでここに居るの?」  
「いや、怪我したって聞いてな」  
零崎のネットワークも、今一つ良く分からない。  
どこの誰から聞いたんだろう……ぼく、担ぎ込まれてから三時間くらいしか経ってないんだけど……。  
「こうして見舞いにエロ本持ってきてやったんだが……どうやら、出番みたいじゃねえか」  
人間失格は、ほくそ笑んだ。  
「俺、マリオカートなら自信有るんだぜ」  
「人類最速」は、チェシャ猫染みた三日月の眼で、哂う。  
「ちなみに、ショートカットとか超得意」  
「いや、ジャンプ出来る羽根とか落ちてないからな」  
というか、SFCと同じレベルで語るんじゃねえよ。  
「緑の甲羅ぶつけるのとか凄え上手い」  
「だから、そんなのは落ちてねえんだよ!」  
ぼくらは、なかよしだ。  
――なかよしか?  
 
スポーツカー(真っ赤なコブラではない。念の為)、接収。  
「緊急事態だしな」  
「緊急事態だからね」  
ぼくたちは顔を見合わせる。  
「大目に見てくれるよな」  
「大丈夫。今更、窃盗程度のちょろい罪が増えた所で、ぼくも君も罪悪塗れだ」  
ぼくたちは罰の方が追いつかないほどに、経歴は真っ黒だし。  
「罪悪塗れの、大悪党だ」  
運転席の零崎が違いないと哂う。  
本来、生きているべきですら無い事がぼくと彼の共通点。  
水面の向こう側。  
だけど、ぼくらは生きている。だから。  
例え、大悪党でも。  
「だけど、だからと言ってしあわせになっちゃいけないって法律(ルール)は無いよ」  
「だが、だからと言ってダチのピンチを見過ごさなきゃいけない道理(ルール)も無えだろうさ」  
助手席のぼくは違いないねと笑った。  
 
大悪党が改心して正義の味方に改宗する、そんな物語っていうのもさ。  
それはそれで、王道っていうか、アリじゃない?  
 
「シートベルトはしたか、いーたん?」  
「ああ。頼りにしてるよ、ぜろりん」  
「飛ばすぜ」  
「異論は無い。飛ばしてくれ」  
「今日こそは行くぜ、スピードの向こう側によッ!」  
車がエンジンを唸らせる。ぼくはシートから投げ出されないように深く、沈み込んだ。  
「ベストラップ更新を期待してる」  
「任せろ」  
人類最速が駆る、間違い無く今、この瞬間、最速の栄光を惜しみなく捧げられた、青いフェラーリF360(命名、青の六号)は走り出した。  
 
坂道でも無いのに揺れの酷い車内。横揺れはジグザグ走行を繰り返しているから仕方ないのだけれど。  
それにしたって、この殺人鬼、有り得ない運転技術だ。殺人鬼なんか廃業して、レーサになれば良いと思う。適材適所。  
半年でアイルトン超えるよ?  
そんな下らない戯言を頭の隅に追いやって、ぼくは舌を噛まないように注意深く言葉を紡いだ。  
「ああ、そう言えば。零崎、妹さん探しはどうなったんだ?」  
「んー? ああ、適当。こういうのは、出会う時にゃ出会っちまうもんで、出会えない時には何やっても無駄だ、無駄。探し物はなんですか。見つけにくいものですか、ってな。かははは」  
探すのを止めた時、見つかる事もよくある話らしい。  
ちなみに、探すつもりなんかさらさら無いのに、フラグが立っていたというだけで見つけてしまう事もまま有る話。こっちは実体験。  
「その妹さん、ってさ。赤いニット帽で……」  
「おー、それだそれ。赤いニット帽してていーちゃんが行き会っちまうなら、その女で間違いない」  
「名前は零崎舞織?」  
「ビンゴ」  
喋りながらも(ぼく以外が見れば)驚くくらいのハンドル捌きを披露し続けている零崎。  
余裕有るなあ。  
反射神経だけなら哀川さんを超えるらしいから、今更ぼくは驚かないけど。  
「ああ、つかぬ事を聞くけれど。零崎。君、免許は?」  
「警察に捕まった事無いから、必要に感じた事が無えな」  
……違う。捕まるから必要とかじゃないんだよ、零崎……。  
無免許の曲して無駄に運転技術が高いのは……いや、まあこっちは別に不思議でも何でも無いけどさ。  
無免で良いなら、ぼくも戦車の運転とか出来たりするし。  
どんぐりの背比べだろう。鏡の向こうの自分と張り合っても、空しいだけだ。  
「で? ウチの妹はどこで何してやがった?」  
「……ぼくのベスパの前輪を真っ二つにしていったよ」  
「へえ」  
零崎は頷く。  
「人じゃなくて乗り物狙うようになったのは、進歩だな」  
……ぼくには「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」に思えてならない。  
……そんなのは進歩じゃない。むしろ進化だ。  
順調にレベルアップしてるの間違いだろう。  
殺人鬼相手に、全くもって戯言だけれど。  
「なあ、いーちゃん。コレが終わったら、ウチの妹捕まえんの手伝ってくれよ」  
「依頼かい? ぼくは高いよ」  
「金取るのかよ?」  
零崎がじろりとぼくを睨む。余所見運転、ダメ、絶対。  
前を向いてないのにハンドルを右へ左へ廻すのを見て、それでもそんな事を言うほど、ぼくは律儀じゃないけどね。  
法律で縛れるような存在では、ぼくも零崎も無い。  
法律で縛れるようなら、とっくの昔に縛られているのは――首。  
縛り首。  
「本来ならね。こっちもそれが仕事だからさ。でも、事情が事情かな。うん。今回はぼくが世話になるっぽいし、君に借りを作るのも違う気がする」  
そう。ぼくはぼくがなりたい人間になる。だから。  
「舞織ちゃんは『危うい』んだろう?」  
「まあな。つか、零崎で危険じゃないヤツが居たら、ソイツは零崎じゃねえよ」  
彼女は、彼のたった一人の家族。  
零崎一賊は、七年前に全滅した。  
その生き残り。  
たった一人の兄と、たった一人の妹。  
二人きりの兄妹。  
「友達の家族のピンチなら、ロハで請け負うよ」  
そんなので、お金を取るようになるくらいなら、ぼくはこの仕事を辞めてやるつもり。  
 
「そうこなくっちゃな」  
「ま、ぼくで何の役に立つのか、って話だけどさ」  
「二人で京都市内観光でもしてりゃ、あっちから寄ってくるだろ」  
零崎がそっぽを向いたままで(前を向こうよ……)鼻を鳴らす。  
「男とデートなんて、ぞっとしないけどな」  
「奇遇だね。ぼくも君とのデートなんて真っ平ゴメンさ」  
「だが、事情が事情だからな」  
「事情が事情だしね」  
ぼくと零崎は揃って溜息を吐く。  
 
「最悪に傑作だよ」  
「最高に戯言だな」  
 
ぼくたちを乗せた青の六号は碁盤の目の京都市街を、疾走する。  
 
爆弾魔にして殺し屋。  
殺し屋という事は依頼人が居るという事で。  
つまり、依頼人が求めたのは爆弾魔であるという事に他ならない。  
爆弾魔が、必要だった。  
――爆弾が、必要だった。  
「ゴール地点はどこだよ?」  
「城咲。京都で一番高い建物だ」  
玖渚友を殺そうと画策した場合。彼女の居る建物ごと殺してしまうのが一番手っ取り早い。  
玖渚の所有するビル。そしてそこに居を構えるのはその玖渚のご令嬢。  
例え殺し名であっても、彼女を殺すなんて一筋縄では、行きはしない。  
真っ向からそんな事が出来るのは、赤い彼女くらい。  
だったら。  
――だったら、どうする?  
ビルに入れないのなら。  
その答えが、建造物解体。まるで模範解答みたいな、美しさ。  
なるほど。兎吊木じゃないけれど、その機転だけは賞賛しよう。  
「ああ、アレ」  
零崎にも記憶に有るらしい。  
いや、目立つしね、真白なあのビル。  
「そ。アレ」  
「高い塔に幽閉されたお姫様、ってか。かはは。傑作だぜ」  
「何が傑作かって、王子様役だよ。ミスキャストも良い所だ」  
配役ミスに関しては十年以上も前の話になるけれど。  
王子様、なんて柄じゃない。  
だけど。  
玖渚を狙う彼らはそこを間違えた。  
高い塔のお姫様には、それを守る騎士が居るって事。  
彼女の危機には、必ず立ち塞がる正義の味方が居るって事に、彼らは気付けなかった。  
「俺が殺ってやろうか、その兄弟」  
零崎の申し出を、ぼくは断る。  
「いいや。ぼくが殺る」  
零崎は、哀川さんとの取り決めで、殺せない。  
殺さない殺人鬼は、要らない。  
殺せない殺人鬼では、この場合はいけないのだろう。  
場違いだ。  
それこそ、致命的なミスキャスト。  
 
「玖渚に害を為すヤツは、正義の名において、殺す」  
所詮、ぼくの道は血塗られた道。生きながら真赤な道で、逝くまで真紅が続く道。  
どれだけ塗り直されても、塗り潰されても、赤は赤。  
何も、変わらない。  
何も、変わりはしない。  
一人殺した所で。  
二人殺した所で。  
例え百人殺したとしても――千分の一。  
増えるのは、たったそれだけ。  
0,1%。それは零に肉薄する。  
た っ た そ れ だ け の 数 だ。  
一人殺した所で。  
二人殺した所で。  
例え百人殺したとしても――玖渚はぼくを愛するだろう。  
た っ た そ れ だ け の 事 だ。  
 
たったの、それだけ。  
 
「……なあ、欠陥製品」  
「なんだい、人間失格」  
 
「お前が言う『正義』ってーのは、そりゃあ一体何の事だ?」  
 
零崎が聞いてくる。僕は答えた。何の躊躇も無く、答えた。  
「玖渚友という名前の女性の安寧」  
死屍累々を踏み越えて。  
「あるいはぼくみたいなのを好きだと言ってくれた人たちのしあわせ」  
奇々怪々を踏み抜いて。  
 
「手を汚すのは、ぼくだけでいい」  
 
ぼくは汚い大人になった。  
正義の理由を他者に擦り付ける、汚い大人に、ぼくはいつの間にかなってしまっていた。  
 
 
誰かを不幸にして。  
誰かを不快にして。  
誰かを不和にして。  
誰かを不遇にして。  
誰かを不生にして。  
 
――ぼく は しあわせ に なった。  
――しあわせ も ふしあわせ も 気 の 持ちよう で しか ない。  
 

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