000
これは一つの物語である。
ひょっとしたら実ったかもしれない、恋の物語である。
こういうと、殺人鬼の少年と殺し屋の少女の悲惨な末路を思い浮かべる人も多いだろうが――
そうではない。これはただのニアミスで、成就する筈だったのにしなかった、そんな恋の物語。
だがしかし同時に、これはただのイフストーリーである。
つまり――もしも話。実現しなかった話。そんなものを語っても、所詮は非現実。
ただの夢想、夢物語さ。と言い捨てられれば何の反論も出来ないが――それでも、思うのだ。
この物語は。
阿良々木暦がもう少しだけ恩知らずで、羽川翼がもう少しだけ自分勝手だったならば、
きっと実現したであろう、一つの恋の物語だ。
001
やあ、阿良々木暦だよ。今日はちょっと趣向を変えた感じで話そうと思う。
皆は、意識している女の子にいきなり告白されてその場で返事を求められたら、どうする?
…いや、意識してるっていっても、いつ魔のホッチキスが迫ってくるか分からないから常に意識してる、
ていうか警戒してる、なんていう青春とは程遠い殺風景な意識なんだけど。
まあ、なんやかんやで、そこには、強引でゴーイングマイウェイな美少女と、意志薄弱な副委員長がいた。
ていうか、戦場ヶ原と僕だった。
結局いつも通りに締めてしまった。
002
僕は女の子の告白を断ったことがない。
ていうか告白されたことがまずない。
ていうか普通の高校三年生はそうだろう。…そうだよね?
なので戦場ヶ原にどう対応していいのかが分からない。
分からないので告白そのものを取り消していただこうと全力を尽くしたが、
所詮薄くて弱い僕の語彙と話術ではやるだけ無駄な話だった。誰かいーちゃん連れてこい。
「だから、阿良々木くん。色々言ったけれど」
「なんだよ」
「この申し出を、阿良々木くんがもしも断ったら、あなたを殺して私は逃げるわ」
「普通の殺人犯じゃん!お前も死ねよ!」
おいおいおいおいおいおい!どうすんのこれ!下手に交渉しようとしたばかりに僕の立ち位置が
「可憐な女の子の告白を断る罪な男」から「ヤンデレな女の子に命を狙われる不幸な男」になってる!
どうしよう!どうしよう!どうしよう!羽川助けて!…なんで僕はこの状況で羽川に助けを求めるんだ!
流石にいち男子として情けなくないかこれは!
「それくらい、普通に本気ということ」
「……はあ。そうっすか……」
仕方がない。今目の前にある選択肢は二つ。
受け入れるか、断るか。ていうか、断って殺されるか。後者は嫌だが、それでも僕は断りたいので。
「たとえお前に殺されても、僕はお前とは付き合えない」
僕は言う。かつてないほど真摯に、真剣に。何故なら―――
「僕には、好きな女がいるんだ。本当に叶う訳もない夢だけれども、それでも、
その娘とじゃあないなら、童貞のまま天寿を全うしてやるつもりだ」
「それが私というわけね」
「なんでそうなるのっ!?」
「え、いや、阿良々木くんってドMじゃない。だから自らこの大チャンスを棒に振って自分を苛めているのかと」
「なんでそうなるのっ!?第一僕はドMじゃない!軽度のMでもない!まっとうなNだ!ノーマルのNだ!
とにかく!付き合えない!それが僕の答えだ!嫌だってんなら煮るなり焼くなり好きにしやがれっ!
何をされても僕の答えは変わらないぞ!」
「煮るなり焼くなりって…やっぱり、Mなんじゃない」
「人の揚げ足を取るんじゃない!」
面倒くさい女だ……。でも、この面倒くさい会話を楽しんでいる僕もいるわけで。
ふっ…、春休みまでの僕ならあるいはお前に落とされたかもしれないな―――
「なら、キスをしましょう」
くい、と戦場ヶ原が顔を近づけてくる。…ていうか近い!近すぎだろこれ!
くっそなんなんだこの女顔赤い!ものすげー赤い!やけに可愛いじゃねえか!
らしくもないぞ!?夕焼けだよな!?夕焼けのせいだよなあおい!?
「なんでそうなるのっ!?お前の貞操観念はどこへいった!あとトラウマ!お前アレ嘘か!
あん時本気で心配していた僕の純粋な心を返せ!」
「キスは平気なの。それとも阿良々木くんはAじゃなくてBの方を考えていたのかしら。
流石にBともなると私も戸惑うわよ?
…ただ、最後に思い残すことがないように…。これで、すっぱり諦めるから」
またやけに可愛い事言うな!本当なんなんだ!恋に落ちてしまいそうだ!
「そういう問題じゃねえよ!AでもBでもお断りだ!お前は僕のちょっと前の台詞を聞いていなかったのか!?
あと絶対お前諦める気ねえだろ!素直に言え、そうなんだろ!?」
「…ちっ。ええそうよ、諦めないわよ?だから心変わりを促そうとキスによる誘惑を考えていたのだけれど」
「人間もどきに魅了が通じると思うなよ!ていうか誘惑ならBでもあながち間違ってないじゃねえか!」
やばいやばいやばいやばいやばい!僕の!僕の初めてが!今まさに奪われようとしているっ!
助けて羽川…ってまたか!僕の脳内には羽川しかいないのか!走馬灯も羽川か!
…って、今本当に視界の端に羽川がいた気がするんだが。気のせい?だよな。そうだよな。
なんて悲しい脳内なんだよ、妄想ですら視界の端だけなのか!?
妄想の中で位颯爽と視界を独占して助けてくれよ!ていうか
「いい加減キスをしようとするのをやめやがれ!」
傍から見たら取っ組み合いの喧嘩をしているようにしか見えない、
哀れで愚かで意志薄弱で健全な男子高校生が、そこにいた。
ていうか、僕だった。
003
やあ、阿良々木暦だよ。この章でついに語り部を追い出されたんだ。
この章に僕が登場しないからなんだと。というわけであとは神の声に任せる。
最後に一言良いかな。…………僕からこの役取ったら何が残るんだよ!
少女は鉛筆を動かす手を止めた。思い浮かべるのは、散歩からの帰り道に見た、信じられない光景。
―――阿良々木くん、戦場ヶ原さんと付き合ってたのか―――。
付き合ってたどころか、あれはどう見てもキスしようとしてたよね…。
あーあ。なぜ私は、行動を起こさなかったのだろうか。
文化祭の準備のときでも、委員会の活動の帰りでも、いつでもチャンスはあったろうに…。
いや、でも。阿良々木くんには、彼女ができて。彼だって彼女という大切な存在が出来た事で、
精神的に大きく成長することだろう。もしかしたらすぐに更生するかもしれない。
戦場ヶ原さんも、最近病気の状態は良くなったみたいだし、この機にクラスの皆と仲良くなってくれるかも。
そうしたら、最後の文化祭は、もっと楽しくなるだろうな。
なんだ、良い事ばかりじゃない。
なんだ、何も問題なんてないじゃない。
なのに。なんで。なんでこんなに、悲しいんだろう。
なんで。なんで。私は何を考えているんだろう。
いつから、私は――こんなにも、阿良々木くんのことしか考えられなくなったんだろう。
いつから、私は――阿良々木くんのことを好きになっていたんだろう。
なんで、なんで、なんで…わたしは、こんなにバカなのかな。ちょっと考えたら、分かりそうなものなのに。
自分を食べようとした吸血鬼ですら救おうとする阿良々木くんが、
話したこともないクラスメイトを助けようとしないわけがないのに。
なんでわたしは、今まで何も、しなかったのだろうか。
無理矢理委員会に巻き込んで。二人っきりで文化祭の準備をして。
そんな事で満足をしていたの?わたしの望みはそんな事だったの?――違うよね。
わたしは、阿良々木くんを、私だけのものにしてしまいたかったんだ。
そう気づき、自分の中にあるドス黒い感情に気づき。
自分があの春から、阿良々木暦という存在に、どれだけ依存してきたかを思い出す。
自分がどれだけ阿良々木暦に溺れているかを自覚する。
自分がどれだけ阿良々木暦の事を愛しているのかを――
改めて、自覚する。自覚して、後悔する。後悔して―――抑えきれなくなる。
既に少女の精神は限界だった。品行方正を絵に描いたような少女でも。
心の奥に、秘めた願望が、欲望が、愛情が、欲情が。無い筈も、ないのだった。
「…ん、んんっ。 ぁあっ! あ、ああぁ…っ」
少女は乱れ、乱れ、乱れた。快感を求めて指を動かし、快楽を求めて喘いだ。
「…ぁ、あららぎくん…あららぎくぅんっ…」
少女は想い人の名をうわごとのように呼び続ける。それは、あまりに切なく、あまりに淫靡な慟哭だった。
「…ん、あぁあっ…ぁあああああああっ!」
猫に魅せられた少女、羽川翼。彼女の人生初の自慰行為は、激しい絶頂とともに終わりを迎えた。
あとに残ったのは、阿良々木暦を自らを慰める為に使ったという罪悪感、自らに対する絶望感、そして。
圧倒的で絶対的な、虚無感だった。
004
やあ、阿良々木暦だよ。…え、いい加減この導入うざい?や、でも、まだいけるんじゃないか?
そんなことより、さっき語り部を追い出されてた間に、情緒豊かな素晴らしい光景を
この僕の脳内に焼き付けておく機会を失った、そんな気がするんだけど、気のせいかな?
…え、うざい?さっさと始めろ?うん、ごめん。じゃあ、ある日の昼休みの風景だ。
「…阿良々木くん、一緒にお昼ご飯を食べましょうか」
「…友達がいない僕としてはそれは実に嬉しい申し出なんだが戦場ヶ原、お昼ご飯を食べるのに
お前はなんで男子をチョイスするんだ?お前も友達いないにせよ、羽川あたりなら相手してくれるだろうに」
「え?阿良々木くんをオトすために決まっているでしょう?あと、私より成績の良い人間はすべて敵よ」
「言い切った!つーかいい加減諦めて!」
「阿良々木くんは無条件に私専用の奴隷よ」
「なんでそうなるのっ!?」
「阿良々木君は驚いた時にはそれしか言えないのかしら。つまらない生物なのね。
これ以上追いかけ回す必要はないかもしれないわね」
「お前は僕の生態観察者か何かなのかっ!?」
「私が観察しているのは生態ではないわ…変態よ」
「せっかくのキメ顔のところ申し訳ないが、そんなにうまくないな!
一応言っておくと僕は変態ではない」
さぞ仲良く会話をしながら昼食どきの暇な時間を使っているように見えるだろうが、実際は
こそこそと教室の隅の方の席でしている陰気な会話だ。凄まじくイタイ。
…三年間友達を作っていない僕が、いまさら教室の中で堂々とツッコミキャラでいられるもんか。
三年間友達を作っていないくせに、堂々とクラスの皆の視線を浴びながら僕と昼食をとろうとする
戦場ヶ原の度胸には恐れ入るばかりだ。というより勘弁してくれ。僕もう早弁で昼食済ませちゃったんだよ。
お前は知ってるだろうが!僕の悲しいプライドを!
…まあ、まあね?戦場ヶ原のおかげで僕の高校生活も楽しくなったもんだよ?
でも、告白断ってから毎日のようにつきまとってくるのはどうかと思うんだ!もう僕のライフは0よ!?
というか、こいつを諦めさせようとするなら、腹くくって羽川に告って、見事成功するしかないのかな。
…でもなー。羽川はなー。なんていうか、そういう関係じゃねえしなあ。
ぶっちゃけ春休みの時点で嫌われた気がしなくもないし。ていうかアレで嫌われてなかったら逆にアレだし。
最早何言ってるか自分でも分からなくなったし。命の恩人に告白なんて、できるわけないよなあ。
まあ。なんにせよ、今まで友達の一人もいなかった僕だけれど、
昼食を一緒に食べようと誘ってくれる、親しい女友達が出来た。春休みの事を考えれば、
友達はやっぱりいいもんだと思う。人間強度?何それおいしいの?
……今度からは、早弁やめようっと。
005
やあ、あららボフゥ!ちょっとやめて戦場ヶ原!ホッチキスとアロンアルファの二刀流で睨まないで!
とれなくなるから!刺さった針にアロンアルファ塗ったらとれなくなるから!
ふざけ過ぎましたすみませんでしたっ!ですから!せめて状況説明だけでも!
…というわけで、時系列的に現在つばさキャット。間がすっ飛んでるのは気にするな。
単に、容量がシャレにならなくなってきただけだから。
…………はあ?今この色ボケ猫は何て言った?
羽川が僕のことを好きだなんてもうTPOさえ大丈夫なら、
ていうかTPOさえ無視して飛び跳ねて駆け回って全身で喜びを表現したいくらいの
凄まじい天国を僕を導いたその直後に…地獄だ。地獄にもほどがある。
僕が?女と?付き合っている…だと…
なぜなんだ、どこで間違ったんだ、なんでこんな形で羽川と僕とのフラグが折られたんだ責任者でてこいやぁあ!
「にゃ?ご主人が勘違いするなんて考えられにゃいにゃ…。お前、ひょっとして嘘ついてるにゃあ?」
「僕が何をしたというんだ!なぜ僕を信じない!」
終わった…僕の人生は、ここで終わったんだ…希望を失くしたまま生きるくらいなら!
太陽のもとに身を投げ出してやる!…駄目だ、今の僕にそこまでの吸血鬼性はない。
校舎の屋上から身を投げてやる!…駄目だ、即死しなかったら治っちゃう。物凄く痛いだけだ。
絶望したっ!僕には自殺すら許されていないのかっ!
「にゃ?本当に女はいないのかにゃ?」
「信じろ!お願いだから信じろ!僕の命がかかっているんだ!」
「お前が女と付き合っているかどうかがお前の命に関わる理由がわからにゃいにゃ…」
「だああああ!それはお前が馬鹿だからなんだ!さっさと引っこんで羽川を出せ!
そんな勘違いに僕は耐えられない!誤解を解かせてくれ!」
「それにはご主人のストレスの解消が必要だから苦労してるんにゃ。おまえどうにかするにゃ」
「それには原因が分からないと話にならないな。お前ら怪異には分からないかもしれないが
人間は些細な事でもストレスをすぐ溜める。どんな些細な事が原因かも分からない。だから。
出来る限り、詳細に、羽川の日常を描写するんだ」
「最後一行が目的にゃのがバレバレだにゃ…」
バレた。馬鹿にバレた!色ボケ猫にバレた!どんだけ嘘がつけないんだ僕!
素直ないい子(←必死のポジティブ)、嘘をつけない誠実な子(←無理矢理ポジティブ)、
自分の欲望を隠しきれない子(←遂にポジティブになれなくなった)!
「それにもうストレスの原因は伝えたにゃ。ごまかすにゃよ?逃げるにゃよ?あとは人間、お前次第なんにゃあ」
「くっ……」
どうすればいい…どうすればいいんだ!僕はどうすればこの場を切り抜けられる!?
「どうするにゃ?ご主人と付き合うのか、それとも…力づくで引っ込ませてみるにゃ?あの吸血鬼もいにゃいのに?」
「…ああ、それに関してなんだが」
僕はしゃべりながら、街灯の真下に歩いた。自然に…とはいかなかったけど。
ゆるり、ゆるりと。まるで解決編における探偵のように。
出来る限り格好つけて、忍野みたいに振る舞ってみたけど、締まらなかった。
「忍の居場所については、もう察しがついてるんだよ。
お前と交渉は出来そうにないからな…力技で、解決させてもらうぜ。出てきてくれ――助けてくれ、忍」
僕のその声を合図に、僕の影が揺らぐ。
ゆらゆら。ずぶ。とぷん――
僕の影の中から、非常にゆっくりと、とても不機嫌そうな雰囲気を全身に漂わせながら。
その凄惨な目つきと滾る殺気を、眼前の猫よりむしろ僕へ向けて。
かつての鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼、キスショット。
現在は僕に隷属することでしか生きられない吸血鬼の残滓。
忍野忍が、姿を現した。
「にゃっ!?」
その姿を視認した途端に動揺を見せるブラック羽川。
当然だ。忍は、ブラック羽川にとっての天敵なのだから。
「形勢逆転だな。さあどうする?忍に搾り尽くされるか、自分で引っ込むか」
「にゃ…にゃああああああああああっ!!!」
「…はは。本当お前は元気だよな。なんかいい事でも――あったのか?」
やっぱり――僕じゃあ、力不足だ。
場が締まらない。締められない。薄くて弱い。軽くて頼れない。
だから任せたよ――忍。
ブラック羽川は、観念したかのように、覚悟したかのように、僕に跳びかかってきた。
後になって考えると、ブラック羽川は、この時自ら倒されに来ていたのかもしれなかった。
あいつの唯一の行動理由である、『ご主人』のために。
数秒の後、そこに在ったのは倒れた羽川と、立ち尽くす僕だった。
忍は既に僕の影の中に戻っている。
そして僕は――羽川の傍へと歩み寄り、彼女の耳元で囁いた。
倒れていて意識があるかどうかも疑わしい彼女の耳元でこう囁いた。
「…言いたい事があるんだ。明日の放課後、あの公園に来てほしい――なみしろだか、ろうはくだか知らないけど」
こんな状態でしか女の子一人呼び出せないチキンっぷりが、自分でも悲しかった。