時間収斂、バックノズル。  
 それは、起こるべきことは避けようもなく確実不変に起こるという思考。  
 だが、そんなものは結局理想論であり想像論でしかない。完全無欠に結果論だ。これ以上ないくらいに戯言だ。  
 しかし、何故。  
 何故こんなにも、心が、揺れるのか。  
 ぼくは思考する。  
 仮にそれが真実だったとすれば、この世はどうしようもなく救えない、森羅万象全部が全部、予定調和の茶番劇でしかないという  
ことだ。幸福も不幸も努力も怠惰も成功も失敗も未来も現在も過去も生も死も、滑稽で自己満足な喜劇にすぎないということだ。  
 この世がおしなべて事もなし、ただあるがままにその時間を収斂させて行くだけのものだとすれば。  
 ただ単純に筋書きをなぞっているだけの、数式で表されるグラフのようなものなのだとすれば。  
 今ぼくが立っているこの状況──道端で突然現れた女の子に抱きつかれたところをみいこさんに見られた──も、やはり避けよう  
のないものなのだろうか。  
 
 
「…………」「…………」「…………」「…………」「…………」  
 沈黙が交錯する。どれが誰発言なのか、いや、誰が誰なのか、いや、自分が誰なのかわからない。  
 誰か、三つのボタンを押してくれ。  
「……まあ、別にいいけどね」  
 そう言って歩き出したのはやはりみいこさんだった。ぼくは咄嗟に追いすがろうとしたがしかし女の子が抱きついているために身動  
きもとれず、声をかけようとしたが口を開いた時点で何を言えばいいのかわからず、そしてそのままみいこさんは去って行った。  
 
 
 ひゅるー。  
 秋にはまだ早いというのに、落ち葉が風に舞ってかさかさと音を立てた。中途半端に(無意識のうちに)差し出した手がこの上なく  
哀しい。  
「…………」「…………」「…………」「…………」  
 そして依然として継続する沈黙。寒い。心が寒い。  
 悲鳴をあげる脳味噌をなんとか説得しながら、抱きついたまま電池が切れたように動かなくなった女の子に声をかけてみる。  
「…………えっと」  
「…………」  
「あのー……」  
「…………」  
「あの、ちょっと」  
「…………」  
 無反応。  
 ちょっとむかついてきた。  
「あのっ!」  
 ぼくは少し力を込めて女の子を押しのける。  
「ちょっと、すいませんけどっ…………?」  
「…………ぐー」  
「…………」  
「…………すぴー」  
「…………」  
「すやすや……」  
 
「……寝ている」  
 現状をわざわざ口で確認したのは、ぼくの脳味噌が事実を認めようとしないからだった。  
 ぼくの脳内の混乱値が遂に臨界点を越えた。  
 神様はぼくをいじめるのがそんなに楽しいのだろうか?  
 ……なんかもう、やめたくなってきた。人生。  
「…………」  
 多分にへこたれてもうどうすればいいのか途方に暮れるどころの騒ぎではなくいっそ半泣きになりながら、彼女の身元がわかるよ  
うなものを探す。このままここへ放置していくという案がこれ以上なく魅力的に思えたが、もしそんな所を誰かに見られでもしていた  
ら、それこそぼくは前科一犯だ。  
「ん……これは、定期入れかな」  
 ぼくは彼女のパーカーのポケットからそれらしいものを取り出し、  
「…………」  
 瞬間、無意識下において何か違和感を感じて手が止まる。  
 一瞬止まった手を、しかし結局ぼくは状況の打開を優先し、行動を再開した。  
 その迂闊さを、後でどれほど悔やむかも知らずに。  
「…………」  
 
 そしてその中には、零崎人識の写真が入っていた。  
 
 
 京都市内の某ホテル。  
 定期入れに入っていたルームキーに従って、彼女を背負ってその一室へやって来た。  
 ……さて。  
 これからぼくに取れる行動は、実際、多くはない。  
 彼女が零崎人識に関係のある人間であることはほぼ間違いないだろう。  
 問題は、どちら側なのか。  
 その言葉には幾つかの意味が混在している。  
「…………」  
 ぼくはベッドに横たわる少女の寝顔を見つめる。  
 無垢と言っても過言ではないくらいの、純粋な寝顔。  
 普通の女子高生のようなブリッツスカートから伸びる、白くて細い足。  
 しかし、そこに巻きつけてあるホルスターに収められているもの。  
「……やっぱあっち側なんだろうなあ」  
 あっち側。  
 殺し名。  
 死の、世界。  
 その足に装着されている無骨な刃物は、彼女が堅気の人間ではないことを声高に主張していた。  
 ……殺し名。  
 思い出すのは過去に出会った殺し名の異形たち。  
 零崎人識、匂宮出夢、匂宮理澄。この少女が、それと同類だというのか。  
「そして、二つ目の『どちら側』なのか」  
 敵なのか、味方なのか。  
 もっとも、そもそも零崎人識がぼくの味方でも敵でもない以上、その概念はあまり関係がないのかもしれない。  
 そしてどちらであっても、ぼくの目的にはあまり問題はない。  
 
 と、その時、ベッド上に横たわる少女が身じろぎをする。  
「ん……」  
「…………」  
 彼女はぼくが見守る中、ゆっくりと目を開き、天井を見て驚いたようにがばりと上体を起こし、次いで周りを見渡したところでぼくを  
確認して目を見開き、そして、  
 
 そして足のホルスターから抜き取った刃物をぼくにむかって投擲した。  
 
「なっ……?!」  
 事前に身構えていなかったら、確実にそれはぼくの肩を貫いていだろう。辛うじて、間一髪というところでそれを避け、それを確認  
したところで、既に二撃目は放たれていた。  
「──……っ」  
 回避動作どころか声も出せず、彼女が投げた二本目のナイフはぼくの耳の皮を一枚と数本の髪を散らしながら、背後の壁に突き  
刺さる。  
 戦慄するぼくを傍目に、しかし彼女はぼんやりと虚空を見つめており、そしてふっと、思い出したように言った。  
「あれっ、わたし、どうしてホテルにいるんだろ?」  
「…………」  
 …………。  
 遅。  
 そして今度はぼくを見て、再度驚いたように言った。  
「あれっ、あなたは?」  
「…………」  
「あ、すいません、わたし寝起き悪くって」  
「…………」  
 照れながら恥ずかしそうに言う彼女。  
 史上最強の寝起きの悪さだった。  
 
「あ、あのー……何か言ってもらえないと、ちょっと不安なんですけど」  
「……ああ」  
 ぼくは慎重に言葉を選びながら言う。  
「ちょっとね、道端で君が突然寝ちゃったもんだから。持ち物からルームキーが出てきたから、運んできたんだよ」  
「ああー、なるほど」  
 激しい既視感に襲われながら説明する。納得するってことは心当たりがあるのだろうか。とりあえず信じてもらえたらしい。  
「それはどうも、ご迷惑をおかけしました」  
「いえいえ」  
 ぺこりと頭を下げる少女。軽薄そうな見た目に比べて、意外とよく出来た娘さんだった。  
「何かお礼をしたいですけど、何かわたしにできるようなことはありますでしょうか?」  
「うーん、そうだなあ」  
 どうしようか。ここで訊いてみようか。「零崎人識とはどういう間柄か教えて下さい」とか。  
「零崎人識とはどういう間柄か教えて下さい」  
「自慢のお兄ちゃんです」  
「なるほど」  
「はい」  
 
 そう言って、零崎舞織は嬉しそうに笑った。  
 
 
 あれから後。  
 目を覚ました伊織ちゃんはとりあえずニット帽(赤い冬っぽい感じ。やけに似合っている)をかぶり、伊織ちゃんがおなかがすいたと  
言ったのでぼくたちはルームサービスをとることにした。  
「ところで、どうしてあなたはお兄ちゃんを知ってんですか?」  
 伊織ちゃんが今更ながらぼくに尋ねる。  
 ていうか本当に今更だ。  
「あー、うん、まあ色々あってね」  
「ふーん?」  
 あからさまに話をはぐらかすぼくを、不審気に見つめる伊織ちゃん。なんだか品定めされているようだ。  
 ……見られるのは、あまり好きじゃない。  
「ぼくの顔に何かついてる?」  
「いや、別にそういうわけでは、ないですけど」  
 けど、なんだよ。  
 ぼくは肩を竦めて、ルームサービスのハンバーグ(あんまりおいしくない)を口に運んだ。  
「で。お兄ちゃんはなんなんですか?」  
「何って?別に普通の歯牙ない大学生だよ」  
「普通の大学生は零崎人識を知りません」  
「…………」  
 いや、流すのか流さないのかどっちなんだよ。  
 伊織ちゃん、どうやら相当マイペースな子らしかった。  
「うーん、その辺は、話すと長くなりそうなんだけど」  
「似てますよね」行儀悪くフォークをぼくに向けながら言う伊織ちゃん。「人識くんと、あなた。そっくりですよ」  
「…………」  
 その言葉に、思わず言葉に詰まる。  
 人間失格と人間失敗。  
 殺人鬼と戯言遣い。  
 鏡の向こう側。  
「やっぱりあなたが人識くんの言ってた『あいつ』なんですね」  
「…………」  
「髪の短い女性は好みじゃないんですよね?」  
 何情報だそれは。  
 ていうかフォークで人を指しながら笑顔で喋らないで欲しい。  
 
 ……どうやらぼくの知らないところで話が進んでいるようだった。  
 やがてフォークを下ろした伊織ちゃんは、「へぇー」とか「ほぉー」とか言いながらご飯を口に運んでいる。  
 …………。  
 訊いてみるなら、今なのかな。  
「伊織ちゃん」  
「ん?」  
「その人識のことなんだけどね。いや、本当はこれっぽっちも興味はないし全くもって関わりたくないしむしろ離れたいんだけど」  
「じゃあ訊かなきゃいいじゃないすか」  
 そう言ってサイコロステーキを口に運ぶ伊織ちゃん。  
 もっともだった。  
 弁解の余地もない。  
 …………。  
「……本当は最高に興味津々だし最上級に関わりたいし心の底から近付きたいんだけど」  
「なんですか?」  
「あいつってまだ生きてる?」  
「はい、恐らくは」事も無げに言う伊織ちゃん。「少なくとも先週までなら、生きてましたけど」  
 とりあえず少し安堵するぼく。続けて問う。  
「どこにいるのかはわかる?」  
「一週間前は、北極に。今は知りません」  
「そっか」  
 伊織ちゃんの言葉が本当だという保証はないけれど、ないけれども、しかしその言葉は大方においてぼくの予想通りだった。  
 死んでいるとは思っていなかったけど、それにしてもあいつ、どうやって哀川さんから逃げ切ったんだろう。少し気になったが、伊織  
ちゃんに訊いたところでわからないだろう。  
「にしても、なんで北極なんかにいたの?」  
「あなたは知ってるでしょう?おにいちゃん、あの哀川潤に追われてたんですよ。で、逃げてるうちにたどり着いたのが北極ってわけ  
で」  
「……そりゃまた随分大変だったね」  
「あなたのせいだって聞いてますけどね」  
 あはは、と屈託無く笑う伊織ちゃん。  
 まるで普通の女子高生のように笑う。  
 とても、殺人鬼には、見えない。  
「その時に私と人識君もはぐれちゃったんです。行く当てもなかった私は人識君の言葉を思い出して、それであなたに会いに来たん  
です」  
 
「……でもぼくの家なんて知らなかっただろ?」  
「人識君は、京都に行けば必ず会えるって。あなたには変質者牽引能力があるからって、そう言ってましたよ」  
「…………」  
 どんな評価だ。  
 でも、否定できないのが悲しい。  
「それに実際会えましたし、そんなことは今となってはどうでもいいんですよ」  
「……どうでもいい、か。そんなのはどっちでも同じこと……」  
 時間収斂。バックノズル。  
 起こることは、避けようもなく必ず起こってしまう。  
 だとしたら、これも?  
 伊織ちゃんとぼくが偶然に道端で出会うことも、必然的に起こった偶然だったというのか。  
「どうかしました?」  
「……いや、こっちの話だよ」  
 ぼくは箸を置いた。  
 さて、目的──零崎についての情報を得ること──は、もう済んだ。  
「それじゃ、そろそろぼくはおいとまさせてもらうよ」  
「えっ!」  
 しかし意外にも伊織ちゃんは、驚いたようにぼくを見た。  
「……え?」  
「いや、ていうか、私あなたのことを頼って来たんですよ」  
「え、そうなの?」  
「もうほとんどお金もないし、一人じゃ生きていけませんよ? そんな無力な女の子を見捨てて行くんですか?」  
「……えー、っと」  
「あなたそれでも男ですか! この軟弱者っ!」  
「…………」  
 ひどい言われようだった。  
 ていうか、セイラさん?  
「……いや、ていうかですね、そもそもぼくに伊織ちゃんの面倒を見なきゃいけないっていう義務はないんじゃないかと思うんですよ」  
 狼狽のあまり、思わず敬語になるぼく。  
「そんな……ひどいっ! ギムなんて、社会に生きる男性ならこんなうら若き少女を助けるのは当然の務めですっ!」  
「…………」  
 無茶苦茶なことを言われた。  
 伊織ちゃん、一度ごねると何を言っても無駄なタイプの子らしい。なんとなく、名前にみが付く子を思い出す。  
 ≪みんなで渡れば怖くない、但し丸太橋≫みたいなっ!  
「…………」  
 逃げ道を失って、ため息をつくぼく。  
 
 どうやらぼくは、また面倒ごとを抱え込んでしまったようだった。  
「……わかったよ」諦めて再び椅子に座る。「但し、ぼくの家は駄目だ。この部屋にいてくれるなら、いいよ」  
 そう、それは最低限のライン。  
 これでもしこの子を家に上げでもしたら、みいこさんがなんて言うか。  
「うう……わかりましたよう」しぶしぶといった感じで言う伊織ちゃん。「でもでも、夜はここに来て下さいね?」  
「なんで?」  
「私、夜一人ぼっちじゃ寝られないんです……」  
「…………」  
 小学生か。  
 お化けは殺人鬼より強かった。  
 ……すいません、戯言です。  
「えっと、それは真面目な話? 冗談とかじゃなくて?」  
「…………」  
 沈黙は時に肯定を示す。  
 ぼくの呆れた視線から逃げるように、伊織ちゃんは目を逸らして小さな声で言う。  
「その、実は、お兄さんに会った時も、この一週間くらい一人だったから夜寝れなくて、寝不足で、だから……」  
 先生に怒られた子供のようにこわごわと言う伊織ちゃん。  
 しかしその本質は、殺人鬼。  
 でも目の前にいるのは、か弱い少女で、心細そうにぼくを見ていて……。  
 ああ、もう。  
 わかったよ、流されてやるよ。  
「……いいよ。わかったよ、夜はここに泊まろう」  
「ほんとですかっ!」  
 途端に、ぱっと笑顔を咲かせる伊織ちゃん。  
「ありがとうございます!」  
「…………」  
 そんな伊織ちゃんを見て、ぼくは、少し。  
 ほんの少しだけど。  
 ……本当。  
 完膚無きまでに、戯言だ。  
「早く自分の行く当てを見つけて出て行ってくれよ?。 で、伊織ちゃんはこれからどうするつもりなの?」  
「え? え、えーっと」  
「…………」  
「や、やだなあ、そんな目で見ないで下さいよ。人識君を見つければいいんでしょう?」  
「伊織ちゃんは人識君なしじゃ駄目なの?」  
「えっ?」  
 驚いたように目を丸め、それからマジメに考え込む伊織ちゃん。  
 ……考えるなよ。  
「うーん……」  
「伊織ちゃんってさ、自活能力ゼロだよね」  
「ぐさっ! お、お兄さん、そんな的確な突っ込み入れられたら私死んじゃいますよう」  
「心配しなくても死なないよ」  
 ぼくは的確なアドバイスをかけつつ、再びため息をついた。  
 以前みいこさんがぼくを”人生万事天中殺”と評したけど、それは人生今までの所、正にその通り正鵠を射ている。  
 広がる前途は多難だった。  
 
  
夜。  
 伊織ちゃんと別れて家に戻ってからのことは思い出したくもない。  
 それでもあえてかいつまんで説明するなら、  
 
「あ……みいこさん」  
「……さっきの娘はどうした?」  
「ああ、ちゃんとホテ……家まで送って来ましたよ」  
「…………」  
「…………えっと、みいこさん?」  
「あれから二時間くらい経つな」  
「ああ、そうですね……」  
「…………」  
「…………」  
「別に。何でもないよ。それじゃ、私はこれからバイトだから」  
「あれ? 今日はお店は定休日じゃないんですか?」  
「いや、ちょっと新しいバイトでも始めよっかなって。風俗でもやろっかなーとか」  
「えっ……ちょ、みいこさ」  
「何だ? 私が何をしようと私の勝手だろう? だから心配するな。いの字が何をやってもいの字の自由だから」  
「…………」  
「出会い系でもやろっかなー」  
 
 …………。  
 どうしようもなかった。  
 みいこさんでも拗ねるんだ……。  
 しかし伊織ちゃんの説明をしようとすると、どうしても零崎の話になってしまう。嘘をついてもどうせ見破られるだろうし、そうなる  
と状況は悪化するだけだろう。ならば最初から説明しない方がまだましだ。  
 それにぼくは、どんな形であろうともみいこさんをそっちの世界には関わらせたくなかった。もっとも、零崎とは既に一度顔を合わせ  
たことがあるようだが……、ともかく、今回のことは全てぼくの問題でしかないのであってそれ以上でも以下でもない。  
 というわけで、結局ぼくは全ての当て付けを甘んじて受けたのである。  
 こんな時間に出かけているってことも、きっとみいこさんを怒らせるんだろうなあ……。  
 憂鬱な気持ちが晴れないまま、伊織ちゃんの部屋のドアを叩く。  
「伊織ちゃん? ぼくだけど」  
 
「はいはーい!」  
 滅茶苦茶元気な声が返ってくる。  
 しばらくして、ドアが開くと共に物凄い笑顔の伊織ちゃんが現れた。  
 …………。  
「もう、お兄さんったら遅いですよう!」  
「そう? まだ九時前だけど」  
「私お兄さんの連絡先も知らないし、このまますっぽかされたらどうしようって凄い不安だったんですから!」  
「……ああ、そっか」  
 ぼくはうなずいた。  
 …………。  
 いえいえ、別にそうすれば良かったなんて、思ってませんよ?  
「でも、ちゃんと来てくれてありがとうございます」  
「まあね。こう見えてもぼくは英国紳士なんだよ。だから約束はちゃんと守る」  
「凄い! 日本人なのに英国紳士だなんてっ!」  
「本当はイギリス人なんだよ。不法滞在だから、あんまり言わないでね」  
「へえー! へえーっ!」  
「伊織ちゃんのお願いならなんでも聞くよ」  
「ひゅーひゅー!」  
 なんだこの会話。  
 にしても伊織ちゃん、やけにテンションが高い。今まで寂しかった反動だろうか。  
 ……ということは、本当に一人がダメなのか。  
 部屋に通される。と、突然伊織ちゃんはきゃっほうと言いながらベッドに飛び込んだ。そしてそのまま「あ、どうぞご自由におくつろ  
ぎ下さいー」と笑う。やっぱり伊織ちゃんはお行儀が悪い子なのかもしれない。  
「お行儀が悪いよ」  
「えへへ、まあいいじゃないですか」  
 伊織ちゃんは寝転がったまま答える。スパッツを履いているとは言え、スカートの中がちらちらと覗くのは、なんというか、こう、視  
線のやり場に困ります。  
 ぼくは手近なソファに座りながら尋ねる。  
「伊織ちゃん、ぼくが来るまで何してたの?」  
「えっと、ずっと暇でした」  
 
「暇だからってぼーっとしてたわけじゃないだろう?」  
「いえ、ぼーっとしてましたです。日が出てる間は窓際でひなたぼっこしてまして」  
「それはなんとも微笑ましいエピソードだね」  
「はい。……あ」  
 元気に答えていた伊織ちゃんの表情が微妙に変わる。  
「……そう言えばその言葉、前お兄ちゃんにも言われました」  
「お兄ちゃん? 零ざ……人識のこと?」  
「違いますよ」伊織ちゃんは何故か誇らしげに言う。「針金細工みたいなお兄ちゃんです」  
「……へえ」  
 針金細工みたいというのはあまり人間に対して使う比喩ではないような気がするが、なんとなく触れづらい話題なような気がした  
ので、ぼくは話題を変える。  
「でもさ、伊織ちゃん、人識と一緒だったってことは哀川さんと遭遇したってことだろ? よく無事だったね」  
「哀川潤ですか……あの人って人間なんですか?」  
「……さあ。わからない」  
 実は本当にわからなかった。  
「人識君より迅いし、普通のパンチで地面は割るし……。ジグザグまで効かないなんて反則ですよ」  
「え? ジグザグ?」  
「あ、はい。人識君の知り合いのくせに知らないんですか? 正しくは曲絃糸って言うんですけど、なぜか人識君がジグザグって呼んで  
たですよ。どうやら人識君に曲絃糸を教えた人のあだ名らしいんですけど」  
「…………」  
 さりげなく、くせにとか言われた。  
 ……いやいや、そうじゃなくて。  
 零崎がジグザグに師事した?  
 ジグザグって、姫ちゃんが?  
 ……いや、市井遊馬の方か。  
「……その顔は何か思い当たる節があるって顔ですか?」  
 伊織ちゃんの言葉に我に返るぼく。  
「いや? 全然知らないよ。ぼくは善良な一大学生だから、曲絃糸なんてそんな物騒な物見た事も聞いた事もないし」  
「……ふうん」  
 あれ。  
 なんでジト目で睨まれるんだろう。  
 
「……ところで、伊織ちゃんってかわいいね」  
「え」ぴたりと固まってしまう伊織ちゃん。「ちょ、お兄さんってば、いきなり何言いだすんですかっ」  
「いや、なんとなくね。ぼくのタイプだなーって。ニット帽も似合ってるし」  
「もうっ、おだてたって何も出ませんよう! あたし今すっからかんの素寒貧太郎ですからっ」  
 照れながら枕に顔をばふっと突っ伏す伊織ちゃん。  
 そんな予想以上のリアクションに、不覚にも面白くなってきてしまうぼく。  
「別に、思ったことを言ってるだけだよ。うん、確かにぼくは髪が長めの女の子がタイプだけど、伊織ちゃんなら全然オッケーかな」  
「うきゃ」  
「性格も、まあ少し行儀が悪い所以外は元気でかわいいし、それに少し欠点があるっていうのも保護欲をそそるっていうか」  
「はうあ」  
「こんな妹がいて、人識が羨ましいよ」  
「う、うぐぅぅう」  
 伊織ちゃんは遂に照れが限界を超えたらしく、例の無骨な刃物で枕をぶすぶす突き刺しながら身悶えている。  
 …………。  
 そろそろ、やめておこう、かな?  
 身の危険を感じる……。  
 しかし、話を逸らそうと適当に言っただけだったのだが、やっぱり伊織ちゃんは単純だった。なんというか、ますますみのつく子に似  
ている。  
 ……≪半ライス下さい、但し大盛りで≫みたいな?  
「でもでも、お兄さんも結構格好いいですよ?」  
「…………」  
 は、初めて格好いいって言われた……!  
 ちょっと感動。  
 死んだ魚の目だとか、そんなことばっかり言われてるしなあ、ぼく……。  
「そのなんとなく病んだ雰囲気とか、いい感じかもです」  
「…………」  
「影のある男の人って好きなんですよー」  
 何か引っかかるが、誉められてるようなので聞き流そう。  
 というか、今ぼく、誉められてますか?  
 こんな素直に、しかも外面を誉められるのって何年ぶりですか?  
「えへへー、なんつって」  
 照れたように笑う伊織ちゃん。  
 伊織ちゃんのように照れ笑いを浮かべるというスキルを持たないぼくは、反応に困って、困って、結局黙ってしまう。  
 結果、訪れる沈黙。  
 
「…………」  
 ベッドの上に座る伊織ちゃんは、ズタボロになった枕を胸に抱きながら、時折照れたようにぼくをちらちら見ている。  
 ぼくは気付かない振りをして窓の外を意味もなく眺める。  
 ……なんだ、この空気?  
 なんだなんだ?  
「……お兄さん」  
「うん?」  
 なるべく平静を装ったつもりだが、明らかに変な声が出てしまって恥ずかしい。  
「わたし、もう零崎らしいんですよ」  
「…………」  
「零崎って、殺人鬼のことです。自分以外の全ての人間を、殺すか殺さないかでしか判断できない……好きも嫌いも何も無く。一人の例  
外も、一片の容赦も、一瞬の迷いも、一点の濁りも無く、ただ人を殺す鬼の集団」  
 伊織ちゃんは、何故か自虐的な風に言う。ぼくは相槌すら打てず、黙って伊織ちゃんの言葉を聞く。  
「でもわたし、本当はそうじゃないんです。普通の高校生で、学校の友達とつまらない話で盛り上がって、適当に好きな人がいて、試験  
前には一生懸命勉強して、家に帰ったらお兄ちゃんとお姉ちゃんとお父さんとお母さんと一緒に野球中継を見ながらご飯を食べて」  
 懐かしそうに話す伊織ちゃん。  
「もう、ずっと昔のことみたいだけど……」  
 伏し目がちにため息をつく。  
「…………」  
 ぼくは思い出す。伊織ちゃんが名乗った時のこと。  
 
『はじめまして、あたしは零崎舞織と言います。あ、でもそれはペンネームみたいなもので、本当は無桐伊織です』  
 
 伊織ちゃんは、零崎舞織となってもまだ、無桐伊織の名を捨ててはいない。  
 零崎。  
 零崎とは、一体なんなのだろう。  
「お兄ちゃん……双識さんは、それがあたしの”性質”なんだって言ってました。”踏み外してしまった””もうどこにも辿り着けない  
”とも」  
 そして、切なげに笑う伊織ちゃん。  
「でも、あたし、よくかんがえたらまだ十七歳なんですよね。全然、まだ子供でいい筈なのに」  
「…………」  
 
 その表情を見て、ぼくは確信する。  
 伊織ちゃんは、零崎舞織であると同時に、無桐伊織でもあるのだと。  
 無桐伊織はまだ零崎になりきっていない──。  
「伊織ちゃん」  
「……はい?」  
 ぼくはできるだけ普通の声を意識しながら言う。  
「零崎が行き詰まってしまっているというのは、間違いだよ」  
「…………え?」  
「よく考えてよ」  
 零崎が、人を殺すか殺さないでしか判断できない殺人鬼なのだとしたら。  
「人識……、あいつは零崎の近親相姦の子、零崎の中の零崎と呼ばれる奴だ。でも、そうである所の零崎人識を、伊織ちゃんは知ってる  
だろ?」  
「…………」  
 零崎人識。人間失格。  
 あいつを一言で表すなら……”自由奔放”。  
「あれが伊織ちゃんのの言うところの”零崎”? 随分イメージが違うけど」  
「…………でも」  
「伊織ちゃん、零崎が行き詰まりだって言うのは、結局の所自称でしかないんじゃないかな? そりゃあ確かに、人識は人を殺せる。そ  
れもなんの迷いも疑問も躊躇も理由もなくだ。そして伊織ちゃんもそうかもしれない。でもさ、」  
 ぼくはじっと伊織ちゃんの目を見つめる。  
「それをやるかやらないかは、あくまで自分の意思にすぎない。そして、今伊織ちゃんがそれを願っていない以上、その程度の自制はき  
くんじゃないか?」  
 びくり、と、伊織ちゃんの体が震える。  
「……あ」  
「…………」  
 ぼくは伊織ちゃんの言葉を待つ。  
「で、でも……」  
「うん」  
 ようやく、伊織ちゃんがぽつりぽつりと呟き始める。  
「でもですね、あたしは確かに零崎舞織でもあるのです」  
「伊織ちゃんのの認識している”零崎”そのものが間違いだって、言ってるんだよ」  
 ぼくの言葉に、怯えるように再び下を向く伊織ちゃん。  
「ついでに言うと、人識同様伊織ちゃんも随分零崎のイメージとは違う」  
「…………!」  
「行き詰まり、終わっていると言う零崎一賊……彼らは終わっているんじゃなくて、自分で終わらせているだけなんじゃないか?」  
 
 
「お兄さん」  
「何?」  
「トランプしましょう」  
「……は?」  
 これはまた唐突だった。  
 面食らうぼくをよそに、テキパキとトランプを配り始める伊織ちゃん。  
「七ならべは知ってますよね?」  
「知ってるけど二人でやっても面白くないと思うよ……」  
「それじゃ神経衰弱はどうすか?」  
「絶対ぼくが負けるだろうけど、いいよ」  
「……言っときますけどあたし、相当弱いっすよ?」  
「ぼくはお前は記憶力がないんじゃないかと言われたことがあるけど」  
「……それはさすがに言われたことはないですね」  
 言いながらせっせと準備をする伊織ちゃん。とても楽しそうだ。満面の笑みを浮かべている。  
 ……なんだかなあ。  
 無桐伊織。  
 零崎舞織。  
 まるで、普通の女子高生。  
「えーっと、最初は……とりあえずこれ、っと」  
 昼間の事。  
 目覚めた伊織ちゃんの動きは、間違いなく向こうの世界の物だった。  
 零崎だった。  
 ……だが、このぼくの前にいる少女は。  
「うおあっ! 凄いっ! 一回目から揃いましたよ!」  
「…………」  
 ぼんやりと考える。  
 零崎の異端児、零崎人識。  
 殺戮奇術の功罪の仔、匂宮兄妹。  
 そして元殺し名の闇口崩子と石凪萌太。  
 ぼくの知り合いって例外ばっかりじゃねぇか……。  
 なんの参考にもなりそうもない。  
 ……まあしかし、本当に清く正しい殺人鬼が知り合いにいれば、今頃ぼくは生きてはいない、か。  
 …………。  
 しかし、真剣にカードを選んでいる(一巡目なんだから考える意味も無い気がするが)伊織ちゃんを見て、ぼくにはどうしても彼女が  
零崎だとは思えない。  
 終わっているなんて、思えない。  
「ああっ、さすがに二連続は無理ですか……。 さあ、次はお兄さんの番ですよ」  
 一体どうするのが正解なのか、ぼくにはよくわからなかった。  
 
 
 
「20勝16敗! あー疲れたー!」  
「そりゃ3時間もぶっ通しで神経衰弱やってれば、本当に衰弱もするよ……」  
 二人が二人ともなかなか二枚揃えられないせいで余計に時間がかかった……。  
 しかしぼくに16敗もするなんて、伊織ちゃんも相当の弱さだった。  
「うなー」  
 ばふんと行儀悪く枕に突っ伏す伊織ちゃん。ぼくは散らばったトランプを片付ける。  
「もう遅いし、そろそろ寝ようか」  
「あ、はい。 そうですね」  
 そう言って布団の中に潜り込む伊織ちゃん。  
「……着替えないの?」  
「逃亡生活中にそんな物を買う余裕はないのです」  
「そっか」  
「ひもじいよう」  
「…………」  
「パジャマ、欲しいよう」  
「……ええと」  
「きれいなおべべが欲しいよう」  
「…………」  
「かわいいアクセサリーも欲しいよう。髪もそろそろ切りたいよう」  
 要求がエスカレートしてきた。  
「……そういうのを買うにしても、今日はもう夜だから、とりあえず寝よう」  
「はあい」  
 素直に返事をする伊織ちゃん。  
 うむ、えらいえらい。  
「あ、その前にお風呂入りたいです」  
「ああ、そっか」  
「んじゃ入って来ますねーん。たりらーん」  
 謎の効果音と共に風呂場へ向かう伊織ちゃん。  
 …………。  
 そう言えばぼく、どこで寝よう。  
 
 
 伊織ちゃんの後にぼくもお風呂を使わせてもらった。  
「……ふぅ」  
 お湯に浸かって一息つくと、自分がひどく疲れていたことに気付いた。  
 確かに、今日という日は急転直下の大展開だった。よく考えると伊織ちゃんと出会ってからまだ二十四時間も経っていない。昨日まで  
は、いや、出会ったその瞬間ですらこんなことになるとは思いもしなかった。降って湧いたようなというのは正にこのことだ。  
 ぼんやりとこの不思議な状況について考える。なんの因果でこんなことをしているのだろうか。自分のせいであるならまだしも、今回  
の件についてはぼくの過失はほとんど見当たらない。あえて言うなら、  
「変質者牽引能力……か」  
 零崎もうまく言うものだと、いっそ感心してしまう。  
 しかし、それを認めてしまうのはどうしても嫌だった。  
 それは、狐面の男の言う所の物語の肯定になってしまうから。  
 時間収斂、バックノズル。  
 代替可能、ジェイルオルタナティブ  
「…………」  
 ぼくがここまで過剰に否定してしまうというのは、心の中のどこかで、それを認めてしまっているからなのでは──  
 その葛藤がゆえに、激しく心が揺らされるのではないかと、時々思ってしまう。  
 ……戯言、だよな?  
 ぼくはお湯をざぶりと頭からかぶって、お風呂を出た。  
 
 
「伊織ちゃん、上がっ……」  
「あっ、ああっ!」  
「あ、おあがりなさいです」  
 絶句する。  
 ぐるりと首を回し、見事な敬礼と共に答える伊織ちゃん。  
 そして、その伊織ちゃんの奥のテレビに映るポルノビデオ。  
「ほーら、ここか? ここがええんやろ?」  
「やぁ……はっ…………ああっ!」  
「…………」  
 硬直。  
 硬直。  
 硬直硬直こうちょくっ!  
「……手に持っていたタオルがぱさりと音を立てて足元に落ちる」  
「? あの、何言ってるんでしょう?」  
「…………いや」  
 正気を失いかけたぼくに普通に突っ込む伊織ちゃん。  
 ていうか、普通だ。普通すぎる。さっきまでと全く変わらない。  
「……変なお兄さんですね」  
 部屋に充満するピンクオーラと伊織ちゃんの普通っぷりのギャップに激しい違和感を感じる。  
 ……はっ。  
 もしや、これは幻覚?  
 ぼくが日々崩子ちゃんとか玖渚とか巫女子ちゃんとかみいこさんとか三つ子メイドとかイリアさんとか、あまつさえ哀川さんのそうい  
う淫らな妄想をしていたばっかりに、ついに頭がおかしくなってしまったのだろうか?  
「お兄さん、こういうのどう思います?」  
 どうやって死のうかと考え始めていたぼくに、相変わらず呑気な口調で伊織ちゃんが訊く。  
「こういうのというのは、このテレビに映っているような淫らな行為についてなんですけれど」  
「…………え」  
 伊織ちゃんを見る。伊織ちゃんは既にぼくを向いておらず、ブラウン管に映されるそれに夢中な感じだった。  
「…………、えっと……。伊織ちゃん?」  
「うふふ。お兄さん、こういうことしたことあります?」  
 楽しげに笑う伊織ちゃん。その理由がぼくにはわからない。  
「…………」  
 返事を待っているのか、伊織ちゃんはそれきり黙ってしまう。仕方なしにぼくは答える。  
 
「ある、けど」  
「あれ、あるんですか!」  
 目を丸くして驚く伊織ちゃん。  
 ……なんでそこで驚く?  
「それより、伊織ちゃ……」  
「どうでした?」伊織ちゃんはぼくの言葉に上から質問を重ねる。「そういうことして、どうでした?」  
「……あのね」  
 テレビのスピーカからもれる喘ぎ声が一際大きくなる。ぼくは伊織ちゃんの手元にあるリモコンを手に取ってテレビを消した。  
 ……部屋に静寂が戻る。  
「伊織ちゃん、まだ十七歳でしょ? こんなもの見ちゃダメだよ」  
「お兄さん、やっぱりこういうのって気持ち良かったですか?」  
「…………」  
 いや、まあ、そういうのが気になる年頃なのはわかるけど。  
 いっそ無邪気に尋ねてくる伊織ちゃん。全く折れる様子がない。  
「どうでした?」  
「……最低だったよ」ぼくは正直に答えた。「最悪だった。二度と思い出したくもないけど、忘れられないだろうね」  
「…………」  
 ぼくの暗い調子に、伊織ちゃんも深刻な顔になる。  
「な、なんか、すいませんでした」  
「いや、別に気にしてないよ」  
「……月並みな励ましですけど、最初は誰だって下手ですよ」  
「…………え」  
「気にしない方がいいです、これから上手になっていけばいいんですから!」  
「ちょ、ちょっとまっ」  
「がんばってくださいね!」  
 握手までされてしまった。  
 なんだか盛大に勘違いされてるような……。  
 
「ちなみにあたしはしたころありません」  
「……あ、そう」  
 何気にカミングアウトする伊織ちゃん。  
「でも、お兄ちゃんがそういうビデオをいっぱい持っていたのをこっそり見ていました」  
「……へぇ」  
「兄は胸が大きい女性が好きだったようです」  
「…………」  
 妹って、こういうものなのか?  
 ぼくにも妹がいたが、もし一緒に暮らしていたら……。  
「…………」  
 ぼくがまだ見ぬ伊織ちゃんの兄に心から同情していると、その隙を突いて伊織ちゃんが再びテレビの電源を付けた。  
「あっああっ、いっ、いっちゃう! いっちゃうう!」  
「っも、いっ……あああああっ!」  
 タイミングがいいのか悪いのか、テレビがついたのは丁度ビデオの女優が果てる所だった。  
 ……思わずぼくも息を呑む。  
 息を切らせてくったりとベッドに倒れこむ女性、そしてそれをしげしげと眺める伊織ちゃん。  
 そして、ビデオが終わった。  
 ……静かになった部屋に二人分の沈黙がおりる。  
「…………」  
「…………」  
 伊織ちゃんはおもむろにテレビを消すと、そのまますたすたとベッドに向かう。  
 そしてごそごそと布団にもぐり、  
「それでは、おやすみなさいです」  
 と言って部屋の電気を消した。  
「…………」  
 …………。  
 なんだろう、この気持ちは……。  
 ぼくは、仕方なしに伊織ちゃんが今まで座っていたソファに横になる。少し小さいが、体を曲げればまあ、なんとか寝られそうだ。  
 …………。  
 そのまま一時間ほど黙ってぼんやり待ってみたが、何もイベントは進まなかった。  
 どこかで選択肢を間違えたのだろうか。あるいは何かフラグを立て忘れたか……。  
 ……よくわからない方向に思考が向き始めたので、ぼくは何も考えずに眠ることにした。  
 
 
 
 ふと。  
 目が覚める。  
 落ちていくような、  
 或いは昇って行くような不思議な感覚。  
 重力を感じない  
 無重力のような。  
「…………」  
 虫の鳴き声が、どこからともなく聞こえてくる。  
 真っ暗な部屋。  
 静まり返った空気。  
 それが、わずかに震える。  
「…………っあ」  
 小さな小さな、空気の震え。  
「ん…………ふっ」  
 徐々に頭が覚醒する。  
 と共に、鼓動がどんどん早まっていく。  
「…………っ、………はぁっ……」  
 これは、  
       これって。  
   もしや、  
            あれですか?  
 顔が熱く火照ってくる。  
 いけないとは思いつつ、ついその姿を想像してしまう。  
 そしてそれだけで、昂ぶってくる自分。  
「うそだろおい……」  
 息を吐かずに口を動かすだけの発言。それだけですら、相手にまで声が届くのではないかと少し不安になる。  
 相変わらずベッドの方からは荒い息遣いが聞こえてくる。それは心なしか少しずつ大きさを増しているようにも感じる。  
 伊織ちゃん。  
 ……伊織ちゃん。  
 部屋中の空気が、全く違う質を帯びてきているような錯覚。  
 伊織ちゃんの密な吐息が、この部屋に充満しているような。  
「……ふぁあっ…………」  
 五分。  
 十分。  
 二十分。  
 伊織ちゃんの行為は終わらない。  
 ぼくはその空気に酔ってしまっているのか……おかしな方向へ思考が寄っていった。  
 ……伊織ちゃん、普通にかわいいよな……。  
 ぼくの鼓動が更に高鳴る。  
 ぼくの中の悪魔が、「行っちまえよ」と囁いている……  
 ぼくの中の天使、も「行っちまえよ」と囁いている……  
 
 
 …………結論は出た。  
 
 
 暗闇の中、ゆっくりと体を起こす。  
 衣擦れの音に、或いは気配に反応したのか、聞こえていた息遣いがぱたりと止んだ。  
「…………」  
 ぼくは黙って歩き出す。  
 トイレへ。  
「…………」  
 と見せかけて、くるりと方向を変えてベッドに向かう。  
 そして、そっと腰掛けた。  
「……伊織ちゃん」  
 声をかける。  
「…………」  
 しかし、沈黙を続ける伊織ちゃん。  
 ……今更眠ったふりか?  
「一瞬、安心したでしょ?」  
 悪戯っぽく言うと、  
「うにゅー……」  
 布団の中にずりずりと潜っていった。  
 ぼくは布団を少しめくって、伊織ちゃんの頭を撫でてあげる。  
「伊織ちゃん……」  
「…………」  
「してみたい?」  
「…………」  
 沈黙する伊織ちゃんの髪を手櫛で梳きながら、ぼくはもう一度問う。  
「そういうこと、してみたい?」  
「……う、うなー」  
 よくわからない唸り声をあげる伊織ちゃん。  
 ぼくは伊織ちゃんの手を取る。  
「……指先、ふやけてるね」  
「…………」  
「何、してたのかな……?」  
 言いながらぼくはその指をくわえる。  
 甘く噛んでみたり、舌で味わってみたり、しばらくそれで遊ぶ。  
「…………っ!」  
 ピクリと、伊織ちゃんの体が震える。  
 
 やがて指を離すと、今度は伊織ちゃんの耳に顔を寄せる。  
「……伊織ちゃん?」  
 再び、ビクリと体を震わせる。  
 耳たぶを唇で挟み、唾液をたっぷりとまぶすように舐める。息を吹きかけたり耳の裏側をぺろりと舐めたりするたびに、伊織ちゃんが  
一々小さく反応するのが可愛い。そのまま今度は首へ、うなじや鎖骨をついばむようにキスをする。  
「……はっ……あ……」  
 伊織ちゃんは最早隠しようもなく声を吐いていた。  
「伊織ちゃん?」  
「…………」  
「気持ちいい?」  
「…………」  
 しかし往生際悪く、まだ話しかけても答えはしない。  
 ぼくは手を胸に伸ばした。  
 服の中に手を入れると、下着はつけていたものの、ホックが外れたままだった。さっきの行為の途中で自ら外したのだろう。その手間  
が省けて、ぼくはそのまま伊織ちゃんの胸を揉む。  
「い、お、り、ちゃん?」  
「…………ふぁっ……!」  
 一層深いため息と共に小さく声が漏れた。  
「返事してくれないの?」  
 もみもみ。  
「っ…………! ……あ……っ……」  
 調子に乗って胸の頂をつまむ。  
「やあっ…………」  
 ぼくは伊織ちゃんの服をまくり上げ、胸を露出させるとそれを口に含んだ。  
「きゃうっ!」  
 反射的にだろうか、伊織ちゃんの両手がぼくの頭に添えられる。ぼくは構わずに舌でその小さなしこりをもてあそぶ。  
「……ああっ……」  
 吸ったり甘く噛んでみたりするたび、伊織ちゃんは切なげな吐息をついて身をよじらせる。  
 そしてぼくは、そっと下に手を伸ばした。  
 
 下着は膝の辺りまで下げられていた。  
「……下着、汚れるもんね」  
「……うにゅー……」  
 伊織ちゃんは恥ずかしそうに唸りながら顔を手で覆う。なんだか、その照れた仕草が可愛かった。  
「スパッツは?」  
「……お風呂上りに普通履きませんよう」  
 そりゃそうだ。ぼくは伊織ちゃんの頭を撫でる。  
 そして、その部分にそっと手を這わせる。  
「濡れてる……、ね」  
「…………っ」  
 伊織ちゃんは真っ赤になって顔を背ける。  
 ぬふふふ、愛い奴め。  
 伊織ちゃんの手をつかんでそっと下ろすと、伊織ちゃんと目が合った。  
「あ…………」  
「……伊織ちゃん」  
「やっ……その、だから……えっと……っ!」  
 しどろもどろにあたふたする伊織ちゃんの口を、口付けをして強引にふさぐ。最初は驚いたようだった伊織ちゃんも、そのうち大人し  
くなる。  
 唇を離すと、恍惚とした表情でぼけーっとしていた。  
「……どうしたの?」  
「きす…………」  
「……?」  
「きす、はじめてしました……」  
「…………そっか」  
「はい…………」  
 ここまでしておいて何を今更とも思ったが、女の子にとってファーストキスというのは大きな意味があるのだろう。  
 伊織ちゃんはすっかりとろけてしまったので、ぼくは黙って行為を再開する。  
 人差し指と中指を唾液で濡らし、そこを撫でる。  
「ふぁあっ!」  
 大きく体を反らせる伊織ちゃん。そのまま指でその辺りをこするように刺激を与える。指が陰核にこすれるたびに、伊織ちゃんはびく  
びくと体を震わせた。そしてぼくは、そこに指を挿れる。  
 つぷ……  
「ふぁ、あ、あっ……」  
 中の愛液をかき出したり、指を二本挿れてみたりする。伊織ちゃんの声が、どんどん高くなっていく。  
「伊織ちゃん……そろそろ挿れても、大丈夫?」  
「ぁ…………」  
 伊織ちゃんは不安気にぼくを見つめていたが、やがてこくりと頷いた。  
 
 ぼくのものが、ゆっくりと伊織ちゃんに入って行く。  
「あ、あああっ……!」  
「……んっ……」  
 十分濡れていたおかげか、初めてにも関わらず伊織ちゃんのそこはあっさりとぼくを受け入れた  
 何かを突き破った感触はあったが、伊織ちゃんもそんなに痛くはなさそうだった。  
 ……普通、こういうものなのかな。  
「でも、少しは痛いでしょ?」  
「……ちょっとだけ……」  
「痛みが引くまでちょっと待ってようか」  
「…………はい」  
 伊織ちゃんは涙目になりながら荒い息を吐いていた。それが収まってきた辺りで、ぽつりと言った。  
「その……」  
「ん?」  
「お兄さんは、成り行きで、したかもですけど……」  
「…………」  
 何かを言おうとしたが、しかし言葉にならなかった。  
 その通りでした……。  
「あたしは、その……別に、いいかなーなんて」  
「…………」  
 ごにょごにょと続ける伊織ちゃん。  
「そりゃあたしも、普通の女の子みたいにずっと好きだった人に思い切って告白して、半年くらい付き合ってからクリスマスに彼の部屋  
で『プレゼントはあたしよ』とか言いたかったですけど……」  
「そりゃまた随分と夢のある理想だね……」  
「でも、あたし、零崎ですから」  
 そう言ってあはは、と笑う伊織ちゃん。  
 その笑みは、何かを諦めた顔だった。  
 
「まあ、理想とは程遠いですけど……でも、お兄さんは知り合って間もないですけど、あたしが『この人ならいいや』って思えたし。こ  
ういうのって、感覚なんですよ?」  
「……伊織ちゃん」  
「そ、そんな顔しないで下さいよ。ほら、昨日の夜もあたし、めっちゃ誘ってたのにお兄さん乗って来なかったじゃないすか」  
「え?」  
 そうだったのか?  
「ベッド入ってから一時間は起きて待ってたですよ……」  
「そうだったのか……」  
 なんてわかりにくいサインだ。  
 できることなら直接言って欲しかった。  
「い、言えるはずないじゃないですか」  
 恥ずかしげに顔を下に向ける伊織ちゃん。  
 ……そりゃそうか。  
「だから、あたしはこうなっても、別に後悔してないのですよ」  
 そう言って、再びあははと笑う。  
 ……諦めた笑顔。  
 でも、それでいいじゃないか。  
 人生には、時には諦めだって必要だ。  
 むしろ諦める事の方が多いかもしれない。  
 でも、それは決して後ろ向きではなく、前を向いた感情でもあるのだ。  
 伊織ちゃんは、強い子だった。  
 
 問題は話しこんでいる間にぼくのものが萎えてしまったことだった。  
「どうしたものか……」  
「あ、それではあれをやってみましょう」  
 あれって何、と訊く間もなく、伊織ちゃんはあろうことかぼくの尻の穴に指を突っ込んだ。  
「い───っってぇ!」  
「あっ痛かったですか? 大丈夫すか?」  
「…………っ」  
 答えるどころじゃなかった。普通に裂けたかと思った。  
 肛門にいきなり指を突っ込まれるというのは初めてだ……。  
「えっと、じゃあ、とりあえず」  
 伊織ちゃんが肛門の中で指をくいっと曲げる。  
 なんとも奇妙な感覚。  
 ……と、急にぼくの物が元気を取り戻していった。  
「……?」  
「気持ちいいですか?」  
「いや、気持ちよくは……」  
 むしろヒリヒリする。  
 しかしぼくの物は、ぼくの意思とかとは無関係に膨張していく感じだった。  
「さあ、大丈夫です」  
「……どこで知ったの?」  
「はい、週刊誌を立ち読みしました」  
「そう……」  
 
 ムードも糞もどこへやら、だった。  
 
「よ、っと」  
「……っん……」  
 伊織ちゃんとつながったままぼくはベッドに腰掛け、伊織ちゃんをぼくの上に座らせる。いわゆる背面座位というやつだ。  
「伊織ちゃん、体こっち向けて」  
「んっ……はい…………っ」  
 これで対面座位。  
 ……いや、別に詳しすぎるだなんて、そんなことないですよ? 昔ヒューストンで……って、ま、まあいっか。  
 そしていよいよ行為を始める。  
「あっ……」  
 伊織ちゃんがぼくに抱きつくように腕を回してくる。ぼくも伊織ちゃんを強く抱きしめる。  
「はあっ……あぅ、…………はっ」  
「伊織ちゃん、気持ちいい?」  
「んっ……あっ、……ああっ……」  
 言葉にならず、こくこくと頷く伊織ちゃん。背中に回された指が、ぎゅっと肉に食い込む。  
 たまらなく愛おしくなって、伊織ちゃんの頭を撫でる。きつい締め付けがぼく自身を限界に追い込んでいく。  
「伊織ちゃん、そろそろ、いくよ?」  
「はぁっ、はあ……ああっ」  
 激しい息遣いが部屋を満たす。  
 ぼくは空いた手で伊織ちゃんの陰核を軽くつまむ。  
「ふあぁああっ?!」  
 途端に更に締め付けを増す伊織ちゃん。  
「くっ……」  
「あっ、ああっ! ふああああっ!」  
 どくん、と、精を吐き出す。伊織ちゃんはそのまま、くてっと、ぼくに倒れこむ。  
 
 
 
 
 一週間後。  
「人識くん、見つかりませんねえ……」  
「……そうだね」  
 ぼくは半分呆れながら言った。  
 というか、この広い日本の……いや、世界の中で、そんな簡単に探し人が見つかるわけもなく。  
 ましてや相手は零崎人識だ。僕達程度の力では見つかるはずがない。  
「……伊織ちゃん」  
 ぼくは重い口を開く。  
「前から色々考えてはいたんだけど……」  
 これは、なんというか、最終手段なのだ。  
 しかし、こうする他どうしようもないのである。どうしようもないものはどうしようもない。  
「はい、なんですか?」  
「鴉の濡れ羽島って知ってる?」  
 

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