人の手を離れるだけで、こんなにも急激に寂れてしまうものなのだろうか。
前に来たときは刑務所というイメージだったが、いまは誰もがここを廃墟と断言するだろう。
斜道卿一郎研究施設。――――《元》研究施設とより正確に言うべきか。
前の住人はとっくのとうで引き払ってはいるが、さすがに賃貸マンションの様にはいかず、まだ新しい住人は引越して来てない。
とはいえそれでも高価な施設。人員削減はされても一応は警備員はいるようだ。しかしどちらにしたところで。
すでに終わっている場所。外周はともかく内部はただの廃墟だ。
侵入は素人のぼくでも、ましてや《大泥棒》たる彼女ならば、目をつぶっても鼻歌まじりの朝飯前で容易く出来る。
その《大泥棒》石丸小唄さんは現在、第一棟の屋内、その扉の一つの前で、カチャカチャと鍵開けナイフを操ってるところだ。
ぼくはといえば、なにをするでもなく、ぼーーっと小唄さんの手元を眺めてるだけである。
そんなワトソンになれない役立たずの助手を尻目に、長くて綺麗な細い指先は、さっきから流れるように、そして忙しく動いていた。
めずらしく苦戦している。まぁそうはいっても。
“カチャッ”
彼女に掛かればカップラーメンが出来上がるくらいの時間でしかないが。
くるっと振り向くと微笑む。場違いなのはわかっているが、ぼくをドキリとさせるには、充分すぎるほどの蟲惑的な笑顔だった。
「お時間取らせましたね。さぁいきましょうかお友達。《堕落三昧》と嘗ては称された、淋しい老人の遺産を頂戴しに……」
小唄さんがこんなところにいるのは、まぁ概ねこんな理由である。
わからないのは、なぜぼくがここにいるかだが。《大泥棒》の説明によれば。
こんなスリルもサスペンスもない退屈な仕事、暇潰しの相手でもいなければとても出来ませんわ。
そんな感じで戯言遣いは、まだ朝も明け切ってない時間に、突然来訪してきた小唄さんに、半分拉致の様にして連れて来られたのだ。
しかし、言ったら小唄さんは怒るだろうが、やり口が哀川さんにそっくりである。
この二人。やっぱり気が合うんだなぁ。でもこれも言ったらお互い怒るんだろうけど。
と。
そんなことを考えて動かなくなったぼくに、小唄さんは一つ小首を傾げると、すたすたと暗い室内へと入っていく。
この施設には窓がないので、外から見つかる心配はない。
小唄さん自身はおそらく必要ないんだろうが、暗視の能力などないぼくの為だろう、照明のスイッチを入れてくれる。
「ふむ。これだけハイテクな施設で見るからでしょうか。書庫というのが随分と前時代的で古臭い、アナログなものに思えますね」
もっとも、わたくしはそちらの方が好みですが。そう言って小唄さんは、書棚から一冊の箱付きの本を手に取った。
「あら? これは……」
だが、いかにも価値がありそうな箱から出てきたのは、いかにも価値がありそうな本ではなく、どこにでも売ってそうなビデオテープ。
続けて小唄さんは隣りの箱も手に取って見るが、やはりそこから出てきたのもビデオテープだった。
「お友達。大変お手数ですが、そちらの本棚を見ていただけますか?」
言われてぼくは、傍にある本棚から箱を手に取るが、案の定というべきか、そこからもやっぱりビデオテープが出てくる。
よく見ればツメがしっかりと折ってあった。
中身がなんだかは判然とはしないが、重要だということだけは間違いないようである。
でもこれって………………いや……………まさかな。思春期の男の子が、よくこうしてカモフラージュするけど。…………まさかな。
このビデオテープの持ち主は、もうすでに見る影もないとはいえ、《堕落三昧》と呼ばれた狡猾な老人のものなのだ。
勝手に部屋に入って掃除をしてくれる、お節介な母親がいる子供の持ち物ではない。
想像するものとは違くあってくれ。なぜだかぼくは、願わずにはいられなかった。そうだとしたら、あの騒動がいかにも滑稽すぎる。
「デッキはそこにありますし。とりあえず見た方が早そうですね、これは」
ここで鑑賞する様に元から出来てるんだろう。でかいテレビの前には、二人が並んで座っても余裕のあるソファが置いてあった。
小唄さんは腰を降ろし、テープをデッキにセットすると、リモコンを手に取って、肩越しにぼくを振り向く。
ソファの左隣が空いているので、そこに座れということなんだろう。
断る理由などは勿論ない。ぼくは二、三本のテープを手に持つと、小唄さんの隣りに、微妙な距離を置いて腰を降ろした。
小唄さんはそんなぼくをチラッと見て、くつくつと笑いを噛み殺しながら、ビデオデッキのスイッチを入れる。
どうやら繊細な未成年の心は、あっさりと読まれたようだ。
「そんなに緊張なさらずともよろしいですよ、お友達。獲って食べたりはしませんから」
「始まりますよ……」
からかいを多分に含んだ声を無視して、どこかの部屋を映している画像を見る。
博士の書斎と比べれば、内装は大分質素ではあるが、この棟内のどこかだということは、雰囲気でなんとなくだがわかった。
そしてわかったのは部屋だけでなく映っている二人。抱き合って映っている二人が誰なのかは、一切の疑問も挟まずに良くわかる。
男、というより少年の方は博士の助手であり、ぼくの心の友、大垣志人くん。女性の方は博士の秘書、宇瀬美幸さんだ。
「あらあら。どうやらこのビデオテープは博士秘蔵の…………隠し撮りのようですね」
それはそうだろう。二人には無機質の眼を、意識してる素振りすらない。
そして喩え博士の命令があったとしても、こんなことはあの二人であろうとも、いくらなんでも従わないんじゃないかと思う。
二人は究極のクールビズというか、要するに全裸で抱き合っていた。
「本当にご苦労なことですわ。ここまで律儀に《堕落三昧》だったとは。わたくし心底から、斜道卿一郎博士を尊敬致しますわ」
まったくそんな響きを感じさせず、悪意たっぷり、でも丁寧に小唄さんは言い放つと、一冊の本をパラパラとめくりだす。
「なんです、それ?」
「憐れな老人の日記で―――あらあら。おぼっちゃんも中々どうしてご立派じゃないですか」
手にしてる日記に視線を落としながらも、ちゃんと目の端では画面を見ていたようだ。
やはり視線が日記にいっていたぼくも、小唄さんに釣られて画面を見る。うん、まぁ……………なるほど。これは確かに立派だ。
アングル的にさっきまでは入らなかったのだが、いまはベストアングルで大映しになっている。――――志人くんの勃起が。
赤黒く膨張して逞しくそそり勃つそれは、エグいくらいに笠を広げていて、ひくひくと蠢く様はまるで威嚇でもしているみたいだ。
その太さは、絡める美幸さんの指が廻りきらない。
身長はぼくとあまり変わらないのに、志人くんてビッグな男だったんだなぁ。くそぅ。友達だと思ってたがもう絶交だ。
「どうやら博士はEDだったようですね。このビデオテープは、老人の暗い欝々とした情念の結晶といったところでしょうか」
小唄さんはそう言って、ぼくに日記を渡そうとするが、とても読む気にはならない。
ここでも《堕落三昧》を阻むのは若さというわけか。同情は出来ないし、同調するほどぼくは老いてないが、ただ憐れだとは思う。
自分よりも誰もが考える下位の相手に、自分しか知らないが、志人くんすら知らないが、男としてはもう勝つことは叶わない。
研究者としてだけでなく男としても、若さをまざまざと見せつけられ枯渇していく。
「………………………ん?」
でも考えたら、研究者としてはともかくとして、男としての方は自業自得か。
孫の様な歳の二人を隠し撮りして、勝手にじいさんがショック受けてるだけだもんな。なにか悲しいくらい、印象までもが落ちぶれた。
「それはともかく。顔に似合わずお嬢ちゃんは随分と激しいんですねぇ。おぼっちゃんが少々だらしないのもありますが」
志人くんをベッドに押し倒して美幸さんは身体に跨ると、迎え入れるときはさすがに苦しそうな顔をするが、凶悪な大きさの勃起にも
慣れているようで、すぐにリズミカルに腰を降り始める。
組み敷かれて喘いでいる志人くんの顔が、滅茶苦茶に物凄く情けない。
ぼくらの友情は復活した。
しかしなんだろう。そんなヘタレの志人くんにシンパシーを感じるからなのか、そういうのは抜きにして、ぼくも一応男だからなのか。
こんなのを見せられて、それも知り合いのものだと衝撃もでかい。もうすっかりと。
「大きくなっちゃいましたか? お友達」
ひょいっと、小唄さんがぼくの股間を覗き込んでくる。さりげなくもなんともない仕草で、ぼくは視線から逃げるように足を組んだ。
これでは『そうです』と言ってる様なものだが仕方がない。
ビッグな男を前にしては、ぼくのものなど、とてもではないが堂々と曝け出せておける勇気はない。
「男性の魅力は、あそこの大きさだけではキマリませんわ。そんなにお気を落とさず」
「……………………………」
あれ? あれれ? おっかしいなぁ。涙なんて上等なものはない、欠陥製品のはずなのに、なんだか目頭が熱くなってきた。
もしかして、ぼくは慰められてますか?
「そんなつもりはありませんよ」
しまった。《人類最強の請負人》哀川潤。その好敵手たる彼女が持っていたとしても、なんらの不思議はない。――――読心術。
「特に男性は大きいのを自慢したがりますが、大切なのは二人の相性ですわ」
ぼくの視線は小唄さんではなく、大きさを自慢できそうな志人くんの勃起を、見たくもないのに見ていたが、近づいてきた気配に、
首を右へと動かした。瞬間。
“チュッ”
「あ……」
温かくて甘い吐息が唇に吹きかけられる。身体をすり寄せてくる小唄さん。なんらの反応も出来ず、唇はあっさりと奪われた。
「ふふっ。どうしました? キスは初めてというわけではないのでしょ?」
「ええ……まぁ」
これで奪われたのは通算二度目です。
愉しそうに目を細める小唄さん。それは完全に捕食動物のそれだった。
しなだれかかるように身体を密着させ、上目づかいで見上げてくるのは、これがキャラに合わず中々に可愛いが、ぼくが逃げられぬよう
肩をがっちりと捕まえているのは、《大泥棒》石丸小唄さん、かなりの男前である。
「ところでわたくしとお友達。相性はとてもぴったりの気がするんですが?」
「どうで………しょう………か……………」
「確認する方法ならありますわ」
小唄さんはそう言いながら、ぼくの肩を引き寄せつつ、覆い被さるように体重を預けてきた。画面の二人の姿とダブる。
馬乗りにこそなられてはいないが、ぼくの身体の自由は、完全に小唄さんのものだった。
「ぼくは記憶力にあまり自信ないんですけど、獲って食べたりしないって、確か小唄さん、そんなこと言ってませんでしたっけ?」
「あれは嘘です」
「さてはあなた……………………泥棒ですね」
「お友達。残念ですがそれは間違いです。ふふっ。わたくしは大泥棒ですわ」